フェイズ02-2「太平洋の行く末(2)」
一方ハワイだが、ハワイと日本の関係は、1869年に最初の日本人(琉球人)移民が到達したことで始まる。
当時ハワイは親英の王が続き、アメリカが密かに併合を画策して、白人移民を送り込み経済を牛耳ろうとしていた。
しかし当時の日本にはあまり関係もなく、日本は現地のニーズに応えるべく、サトウキビプランテーションなどで働く移民を送り出すだけだった。
ほぼ名目とはいえ奴隷が否定されつつあるため、労働集約産業であるサトウキビ栽培には低賃金労働者が是非にも必要だったからだ。
その後、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝すると、王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位したことでハワイの混乱が始まる。
ルナリロ王は、現地白人移民の役人の言うがままにアメリカ出身の白人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を行ったからだ。
ルナリロ王は結核ですぐに没してデビッド・カラカウア王が即位したが、自立を目指したカラカウア王も議会や大臣の言うがままに親アメリカ、さらにはアメリカへの併合へと進む政策を実施せざるを得なかった。
このため日本では、主に坂本商会が現地日本人の権益を守るための活動を活発化させざえるを得なくなり、日本の軍艦という体裁を整えた坂本商会(海援隊)の武装商船が、半ば威圧を兼ねてハワイを訪問することが増えた。
とはいえ、1890年代に入るまでのアメリカは、ハワイをそれほど重視していなかった。
ハワイのアメリカ併合を画策していたのは、アメリカ人でも一部の人間だけであり、ごくごく限られた先見の明を持つ人々(※主に帝国主義的拡張論者)だけだった。
このため日本の行動も容認され、日本人の移民も増えた。
しかし日本人がハワイでの経済活動を活発化させると、ハワイに根を下ろしていた元宣教師のアメリカ系(白人)ビジネスマン達が、日本人への反発を強めるようになる。
低賃金労働者ではなく自作農、地主、さらに各種商店主となるような日本人が増えるに従って、アメリカ系白人の反発が強まっていった。
しかもそうした頃の1881年(明治14年)、カラカウア王は世界一周の旅に出て、最後の滞在国日本に立ち寄った。
カラカウア王は、日本とハワイの間に平等条約を結び、その裏で自分の監視役で付いてきていた白人の大臣達に内密で、日本との関係を深めようとした。
彼が画策したのは、自分の姪(カイウラニ姫)と日本の皇室の男性(山階宮定麿親王)を結婚させ、最終的には両者の間に生まれた子供にハワイ王の王位を継がせ、近代化を成し遂げた日本をバックボーンにしてハワイの独立を守ろうというものだった。
このハワイ王からの内密の申し出を、当初明治政府は断ろうとしていた。
日本はまだ弱小国であり、各国との不平等条約を無くすためにもアメリカとの関係を悪化させる要素は持ちたくなかったからだ。
しかし、既に太平洋各地に大きな利権を確保しつつある日本にとって、アメリカがハワイを橋頭堡として進出してくることは大きな脅威でもあった。
アメリカは既にアラスカを領有し、ハワイ近在のミッドウェー諸島も1867年に領有宣言を出している。
こうした事実の方を重く見た明治政府は、不平等条約の解消を数年遅らせる事になってでも、緩衝国家の可能性を持つハワイを後援することを決意する。
また日本がハワイを後押しした理由の一つに、イギリスがアメリカの膨張を嫌っているという面が作用していた。
かくしてカラカウア王が日本を離れる前日、カイウラニ姫と山階宮定麿親王の婚姻が日本政府から発表される。
これをイギリスが祝福し、ハワイを巡る日本とアメリカの第一ラウンドは日本の勝利に終わる。
そして日本の皇族と関係を結んだ国と言うことで、日本からハワイへの移民は大幅に膨れあがり、現地日本人が徐々にハワイ経済で重要な地位を占めていくようになる。
1883年には、坂本商会の手により日本とハワイの間に定期航路までが開かれ、「憧れのハワイ航路」として日本人の移民熱を煽った。
そしてハワイを巡る事件の背後には、坂本商会、特に坂本龍馬の姿があったと言われている。
坂本龍馬は、やはり動乱の人物だったのだろう。
日布関係の進展により、1875年に結ばれた「米布互恵条約」は延長されることなく廃止が決まり(元の期限は7年間)、アメリカのハワイに対する影響力は大きく低下する。
この事は、ごく一部のアメリカ人を怒らせ日本に対する警戒感を持たせることになったが、海外、特に太平洋に興味のない圧倒的多数のアメリカ人は見向きもしなかった。
逆に、米布互恵条約が不平等条約だと言うことで、正しい行いだとするリベラルなアメリカ人もいたりした。
そしてその後、ハワイ・オワフ島の真珠湾は1887年に国際港として改めて開かれ、日本だけでなくイギリスの船も立ち寄るようになる。
こうしてハワイで追いつめられたアメリカ系白人達は、日に日に増える日本人移民に対する脅威もあり徐々に態度を硬化。
1887年にハワイの王政を転覆するための秘密結社「ハワイアン・リーグ」が作られる。
ハワイの白人市民義勇軍も反発を強めた。
これに対して現地日本人、日系人も自警団を組織し、自ら資金を投じて海援隊を雇い入れた。
この結果、真珠湾には海援隊の武装商船が常駐するようになり、海援隊の雇用主はすぐにもハワイ王国の名義となっていた。
その後カラカウア王は、日系人の力を利用する形で白人勢力の影響力排除を図り、白人移民が作ったベイオネット憲法も廃止して新憲法を公布。
政府内にも、ハワイ人と日系人を多く採用していった。
そして多数の日系人の前に、数ばかりか政治的、経済的にも劣勢に立たされた現地白人移民とその子孫は、リリウオカラニ女王の治世となってすぐに遂に激発。
1893年にクーデターを実施する。
しかし王宮を守る少数の近衛隊とハワイ王国に雇われていた海援隊の陸戦部隊、さらには日系人自警団がカウンターを実施。
テロ又はデモに毛が生えた程度の稚拙なクーデターは失敗して、多くの白人が逮捕されることになる。
この事件はアメリカ、日本も巻き込んだ国際問題となり、日本自身も日本人保護を理由に海援隊だけでなく日本海軍から正規の軍艦を派遣して自らの存在を誇示した。
だが基本的に太平洋への興味が薄かった当時のアメリカは、アメリカ系移民の現地での横暴を非難する声明を行った事もあり、アメリカ人がちゃんと保護されるのが分かると、大きな問題に発展する事もなかった。
こうしてハワイ王国の独立は維持され、リリウオカラニ女王が1917年に没するとカイウラニ姫と山階宮定麿親王の第一王子がカメハメハ6世として王位に就き、日本との協商関係を結ぶという流れにつながっていく事になる。
もっとも、アメリカと日本の衝突は、ハワイだけではなかった。
アメリカはマッキンリー大統領の時代(1896〜1901)になると、俄然帝国主義路線を強めた。
自らが定めた「マニフェスト・ディスティニー」に従い、次なる西進の対象を太平洋、そしてアジアに定める。
しかし太平洋は、日本の妙な膨張主義によって殆ど染め上げられていた。
アメリカ人の一部が画策したハワイ併合はとん挫し、日本とイギリスの影響を受けながらもハワイ王国は独立を保っていた。
アメリカ人が手にした太平洋の島嶼は、アラスカの先にあるアリューシャン列島の過半を例外とすると、ハワイ諸島近在の小さな珊瑚礁の島でしかないミッドウェー島だけだった。
このためアメリカは、難癖を付けてハワイでの失地回復を図ろうとしたが、既に現地のアメリカ人は多くが既にいなくなり、残った者もほとんど無害な存在になっていた。
一部の強硬論者がハワイ王によって国外追放とされ、有色人種の勢力が強まったことを嫌った白人達の多くがアメリカなどへ移民してしまっていたからだ。
残っているアメリカ人は、有色人種の国で暮らすことを受け入れた者、一部の開明的考えの持ち主、または移民する金もない者だけだった。
これに対してハワイの日本人、日系人は大幅に増加し、ハワイと日本の間にはそれこそ毎月のように船が行き交い、ハワイから日本には砂糖を中心に煙草やパイナップル、コーヒーなどが輸出されるようになっていた。
缶詰などを中心に工業の萌芽も始まっており、日本の海援隊が常駐していることを考えると簡単に手出しできる場所ではなかった。
しかも外交面でも、日本が王室外交を行って支援し、古くからのライバルであるイギリスが力の影を投げかけているため動きづらかった。
このためアメリカは、太平洋への進出を阻止されたも同然だった。
そうした中で大きな機会が訪れる。
スペインとの間に、帝国主義的な戦争である「米西戦争」が起きたのだ。
1898年に起きた米西戦争の主戦場はカリブ海のキューバで、港に籠もったスペイン艦隊をアメリカ艦隊が包囲する形が作られた。
しかしアメリカの目的はキューバだけではなく、一気にスペインの植民地全てを奪い取る事だった。
白人国家同士の戦争で、これほど帝国主義的な戦争も珍しいだろう。
しかしアメリカにとって、スペイン領のフィリピン、グァム島に侵攻する為には大きな問題があった。
アメリカ西海岸からの中継点を、アメリカがほとんど有していない事だった。
仕方なくハワイ王国に寄港許可を求めるが、ハワイは戦争に際して局外中立を宣言。
アメリカ、スペイン双方に対する協力と、軍艦の寄港を拒絶する。
拒絶したのは太平洋上に領土を持つ列強各国も同様で、アメリカの白人国家に対する無体な帝国主義的戦争に対する言葉無き非難となった。
ただし、別にアメリカの行動を非難するのでなく、取りたければ勝手に取ればいいが自力で行えという事だった。
このためアメリカは、フィリピンに攻め込みたければ長期間の手間をかけて太平洋の真ん中を押し渡る事を余儀なくされるかに見えた。
しかしこれを、当時の世界情勢が覆してしまう。
既にロシア帝国と対立状態に陥っていた日本が、アメリカの歓心を買うために自国領内への寄港と有償補給を認めたのだ。
それでもハワイの局外中立は支持すると声明しているので、当時の日本の窮状を知ることができる。
そしてアメリカは、日本の申し出を諸手をあげて喜んだ。
ハワイほど好位置にはないが、日本が有する太平洋各地の拠点や島嶼が使用できることは、出来ないことに比べると雲泥の差が出るからだ。
当時の船(蒸気船)は石炭を燃料として稼働しているが、船には長距離航海に必要なほどの石炭を積載出来ないため頻繁な補給が必要で、世界最大の海洋である太平洋を押し渡りたければ、是非とも補給拠点が必要だったからだ。
故にアメリカ政府は、日本の行動を賞賛した。
一方で日本は、自国の利益のためにフィリピンを売り渡したと見られ、植民地とされた地域を啓蒙する向きは若干後退した。
またスペインからは当然恨みを買い、国際政治上のマキャベリズムとしてイギリスなどは日本の行動を評価した。
これ以後のアメリカの親日姿勢も、米西戦争での日本の行動がなければ生まれなかっただろうと言われているほどだ。
そして20世紀を迎えようとしていた世界において、日本には一人、一国でも多くの味方が必要な状況が訪れようとしていた。