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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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26/65

フェイズ24「日本の軍備計画(陸上戦力)」

 前節で海軍艦艇ばかり見たので、次は陸上、そしてさらに次の節で航空戦力の状況について見ていきたい。

 


 日本陸軍の基本は、日露戦争の頃に一応の完成を見て、先の世界大戦によってさらに編成が近代化され、英仏からの武器供与もあって列強標準の装備更新も行うことができた。

 しかし、1920年代は関東大震災と国内開発に予算を取られたため、陸軍の装備更新はあまり行われなかった。

 それどころか軍縮によって規模の縮小すら実施され、不遇の扱いを受けることになる。

 

 規模的には、日露戦争後に17個師団になり、世界大戦でその二倍以上の45個師団に増強して最終的に18個師団をヨーロッパへと派遣した。

 全戦争期間中の延べ師団数だと、全体の半数以上がヨーロッパもしくは地中海近辺へと派兵された事になる。

 そして世界大戦の間に、従来の2個旅団4個歩兵連隊を基本としたいわゆる「四単位」師団から、小隊から連隊に至るまで3を基本としてその分火力を増強する「三単位」への改変が実施された。

 

 そしてヨーロッパに赴いた師団は、イギリス、フランスの当時最新鋭の兵器の供与を受けており、戦後それを日本に持ち帰った。

 また持ち帰ったというのなら、戦時賠償としてのドイツ軍の装備もあった。

 日本陸軍単体で見ると、血塗られた濡れ手に粟の状態で、最新鋭の装備を多数手に入れた事になる。

 単純な数字でも、75mm以上の野戦重砲約800門という数字になるのだから、平時の日本陸軍を丸ごと新規装備に変えるほどの物量となる。

 大戦終了頃の戦車部隊の戦車も、のきなみフランス製戦車だった。

 

 このため日露戦争前後に作られた装備の多くは、先の世界大戦が終わって大量の動員解除が行われると、多くが倉庫送りとなった。

 一部は満州に供与されたり、外貨獲得のために輸出に回されたが、それでもかなりの旧式兵器が後備兵向けなどとして倉庫で眠ることになる。

 

 その後は、先の世界大戦の教訓を活かした兵器が次々に誕生したが、全軍に配備するほど大量生産される兵器は希だった。

 そして1930年代に入ると、満州革命などの実戦も経験してさらに兵器開発に拍車がかかり、国家予算の拡大に伴う軍事費の増大と、戦乱に伴う臨時予算もあって、組織そのものの規模拡大が行われるようになる。

 


 1922年のワシントン条約が締結されると、海軍と共に陸軍も大幅な削減を受け、17個師団体制となる。

 

 内訳は近衛師団1個、歩兵師団16個、騎兵連隊20個、重砲兵旅団4個だった。

 騎兵連隊は基本的に各師団に配備されるので、騎兵旅団と呼べる部隊は2つしかなかった。

 陸軍の総数も21万人程度に抑えられたが、「三単位制」の導入によって、平時の戦力維持は心がけられた。

 

 しかし日本の人口拡大もあって、徴兵制度は事実上の選抜徴兵制となり、兵士も志願者だけでほぼ充足できる状態となった。

 先の世界大戦で誕生した多くの予備士官(短期現役士官)、下士官は、終戦のご祝儀昇進の後に予備役という形でほとんどが除隊した。

 しかし満州の防衛を行うべく有事の備えが必要だとして、可能な限り将校、下士官を抱え続ける制度が作られ、後備旅団が復活してそこに「余った」将校を配置し、戦時動員に備える体制が作られた。

 これはワイマール・ドイツの国防軍と少し似ており、どこの軍隊も考えることは似ているという例と言える。

 しかし日本陸軍はドイツ軍ほど不遇ではなく、装備の更新や新兵器の開発、十分な数の将校を抱える予算を与えられていた。

 

 そうした中で満州革命が起き、軍の即応体制強化と大陸での軍備増強のため4個師団が復活して、動員数も増やしたため兵員数も30万人体制となる。

 この時復活した師団は、先の大戦で解体された形式上の後備旅団となっていた歩兵師団で、当初の装備の多くも倉庫から引っ張り出したものだった。

 だが、潤沢になった予算を使った新兵器の増産も進んだため、余った在来装備も多くが再び倉庫に戻るか輸出や供与に回されている。

 そしてほぼ同時期に、戦車を中心とした諸兵科統合部隊である「第一混成団」が編成されて次世代型部隊の実験任務に就いた。

 

 さらに1930年代前半には、近衛師団と第一〜第七師団が自動車化され、自動車捜索連隊と戦車連隊を有する事になった。

 各師団の捜索部隊も、単車や車が多数導入されていった。

 輸送、輜重関連も、日本経済の拡大に伴ってトラックや自動車が大幅に導入されていった。

 これに伴い各師団付属を中心に騎兵部隊が大幅に削減されたが、軍全体の機動力は大幅に増強されることになる。

 軍中央(主に内地)の将校でも、軍馬ではなく自動車を持つことが一般的となった。

 

 その後ソ連の軍事力が急速に拡大するのを受けて、満州帝国防衛のための軍備拡張が認められ、1935年に「第一混成団」を「第一機甲教導団」に改変し、さらに戦車第一、第二師団が新たに編成される事になる。

 日本陸軍全体も、平時で35万人体制となった。

 将校の数も、育成面から大幅に増やされた。

 

 そしてこの体制が完成する頃に「支那事変」が勃発し、緊急動員が行われ150万・43個師団体制へと移行する。

 この時第8〜第12師団が自動車化師団への改変中で、急ぎ改変を完了した上で他の部隊と共に投入され、戦場でその威力を発揮することになった。

 また戦争に際しては、今までにないほどの輸送車両が配備され、その効果を存分に発揮している。

 

 戦場に於いても、戦車と戦車に随伴可能な総合的な機械化部隊の効果が極めて高い事が立証され、実戦結果を踏まえた上で日本陸軍の近代化はさらに進められる事になる。

 

 もっとも、支那事変終了と共に、動員のかなりが解除された。

 兵員数でいえば、半年の間に150万から60万にまで減らされている。

 

 その代わりとばかりに戦車第三師団、戦車第四師団、第一空挺師団が相次いで新編され、近衛師団も戦時動員された第二、第三各師団が常設となり、平時師団数は28個師団、戦時48個師団に増やされた。

 さらに近衛の全てと第一〜第六の自動車化師団の装甲化も決まり、戦車連隊の増強と歩兵連隊、捜索連隊の装甲化による重武装師団への改変が行われようとしていた。

 また重砲兵旅団、工兵旅団などの支援部隊も拡充されており、軍全体の規模は拡大の一途を辿っていた。

 

 全ては、既に勃発した第二次世界大戦に対応するためであり、各部隊の機械化、重武装化も潤沢になった予算を用いて急速に進められた。

 

 なお各(歩兵)師団は、装備や編成によって甲〜丙の三種類に分類され、大きくは以下のような編成になる。

 


・戦車師団(T1〜T4):兵員1万8000人

戦車連隊:4、自動車化歩兵連隊:1、自動車野砲連隊:1、自動車捜索連隊:1 (※他、工兵、通信、輜重、野戦病院などの支援部隊が付く 以下同じ。)

機動野砲:48、重対戦車砲:18、高射砲:18


・甲師団(G1〜3、1〜6):兵員2万4000人

自動車化歩兵連隊:3、戦車連隊:1、自動車野砲連隊:1、自動車捜索連隊:1

機動野砲:48、重対戦車砲:18、高射砲:18


・乙師団(7〜21):兵員2万1000人

自動車化歩兵連隊:3、自動車野砲連隊:1、自動車捜索連隊:1

機動野砲:48、重対戦車砲:18、高射砲:18


・丙師団(101〜121):兵員1万8000人

歩兵連隊:3、野砲連隊:1、捜索大隊:1

野砲:48又は山砲:48、対戦車砲:18、高射砲:18


(※( )内は師団番号、※G=近衛、T=戦車)

※第一空挺師団は、編成が特殊なため割愛。

 


 戦車師団、甲師団が機械化率がもっとも高い重武装の師団で、乙師団が一般的な(自動車化)歩兵師団、丙師団は主に後方警備もしくは高機動を前提としない部隊だった。

 

 捜索部隊は偵察部隊の事で、戦車師団、甲師団、乙師団では軽戦車、装甲車を有する機械化部隊となり、丙師団でも初期はともかく戦争が進むと最低でも自動車化されている。

 また、同部隊は騎兵連隊に代わる部隊でもあった。

 

 また甲師団では、歩兵用車両を単なるトラックではなく、支那事変でデビューした軽装甲が施された半軌式の車両(=九八式兵員輸送車)として量産配備され、自動車化師団からさらに進んだ機械化師団化しつつあった。

 

 各野砲連隊は、車両牽引の105mm砲18門、75mm砲36門が基本となる。

 自動車化師団以上になると、全て105mm砲以上になって実質火力は大幅に向上し、一部師団は破壊力が大きく長射程の96式155mm砲を装備する。

 丙師団は、口径が小さく旧式砲が多い。

 また大阪造兵工廠などでは、機動性を増した96式155mm砲かその改良型が大増産されつつあり、運搬用の車両と共に順次更新予定だった。

 

 また野砲の更新と機械化、そして大口径化によって、旧来の重砲の一部が牽引式の機動砲に誂え直して連隊砲として配備されつつあり、師団全体の火力は大幅に向上しつつあった。

 

 開戦頃の重対戦車砲の主力は、九〇式野砲かその改良型(九〇式改機動砲)で、高射砲も75mm口径が主力。

 ドイツからのライセンス生産の88mm砲(※主にFrak18で当時はFrak38が生産特許交渉中)が急ぎ量産配備中だった。

 他国に比べて口径が大きいのは、常に赤いロシアを想定していたからだった。

 

 重砲兵旅団は、基本は105mm以上の長距離野戦重砲やカノン砲を装備。

 この当時は、優先して155mm級の装備数増加に努めていた。

 大型の203mm砲以上になると1個中隊4門以下になり装備砲門数は減る事になるが、火力そのものは向上する。

 しかし先の大戦を他国からの供与で過ごした日本軍において、大型重砲の近代化は遅れていた。

 未だに日露戦争で使われた28cm砲すら編成表には所属しており、開戦に際して近代化が急がれていた。

 

 上記のように、日本陸軍は先の大戦の教訓と発展した日本の産業を背景にして重武装化が進んでおり、師団数を増やしたくても簡単には増やせない状況になっていた。

 歩兵連隊ですら、各大隊に重機関銃中隊、重火器中隊が属し、連隊ともなると直轄の砲兵部隊に重迫撃砲と共に機械化(自走化)もしくは機動化された旧式野砲の38式155mm砲や、前大戦で大量に得たフランス製のシ式75mm野砲を持ってるほどだった。

 機動化された旧式山砲も、軽量のため連隊レベルとして重宝された。

 


 では、ここで少し日本陸軍の基本編成を見ておこう。

 

 通常の最小単位となる歩兵分隊は、分隊長1名、小銃歩兵9名の10名で編成される。

 分隊長は短機関銃又は小銃、他の兵は小銃を主装備とする。

 この基本編成は、1930年代に確立されたものだった。

 

 当時の小銃は、第一線部隊は「八九式小銃」だった。

 この小銃は、満州王国(当時)経由で流れてきたロシア帝国時代末期の小銃「フェデロフ・アヴァトマットM1916」を坂本商事が入手して系列会社に新たに開発されたもので、当初は海援隊で使う予定だった。

 しかしその性能の高さが認められ、海援隊での採用から遅れること3年後に、陸軍の主力小銃として採用されている。

 

 同小銃は、口径こそ6.5mmだが半自動発射と自動発射の出来るいわゆる「自動小銃」で、当時は「突撃銃」とも呼ばれていた。

 何も知らない将兵は、この銃を機関銃の一種と勘違いしたほどだった。

 そして同小銃の量産配備により、1930年代以後の日本軍の歩兵火力は大幅に向上していた。

 ただし、従来に比べて少し重い為、将兵からの評価は二分していた。

 

 話しが逸れたが、小銃を主装備とする歩兵分隊3個と日本軍独自の擲弾筒(小型の榴弾発射筒)を4基持つ擲弾筒分隊、軽機関銃を4丁持つ軽機関銃分隊、これに伝令と衛生兵からなる小隊本部を加え、小隊一つで55名という事になる。

 

 中隊は、小隊が3つに軽迫撃砲と対戦車ライフルを持つ重火器小隊、本部分隊を加えて編成し、これで約230名の規模になる。

 装備数的には、擲弾筒、軽機関銃を12丁ずつ、軽迫撃砲と対戦車ライフルを4つずつ装備する。

 

 そして戦闘単位の基本とされる大隊になると、歩兵中隊3個、重機関銃12丁を持つ重機関銃中隊、各種軽砲4門〜8門装備の大隊砲中隊を各1個編成に組み込んで、直轄に工兵小隊、伝令と通信を中心とした大隊本部を加えて編成される。

 野砲と大隊砲の違いは主に射程距離で、大隊砲の方が口径では勝っている場合もある。

 また大隊砲は砲身が短い分だけ輸送も楽となるし、砲弾の重量も軽くなる。

 重機関銃と軽機関銃の違いは、基本的には二脚か三脚の銃架の違いとなるが、アメリカのブローニング社の開発した「M2」の日本でのライセンス生産型、通称「ブ式(重機関銃)」は通常の7.7mmに対して12.7mmと大口径で、重機関銃専用でしかも車載の場合に限られていた。

 

 なお大隊になると、一部補給や支援のための部隊も師団からの貸し出しという形で編成表に組み込まれるようになる。

 自動車化師団になると、小隊単位で全員が各種車両に乗るばかりでなく、専用の物資輸送車両が組み込まれることになっていた。

 兵員数は、大隊は基本的には1000名程度とされるが、重装備化にともない約1500名程度となる。

 小銃はほぼ人数分あったが、実際小銃で戦う兵士の数は半数程度である。

 

 多少余談ではあるが、戦闘糧食についても基本的に部隊(大隊)単位で給食班(糧食班)が存在し、彼らがご飯やおかずを炊いて全員に支給する。

 どの部隊にも、野外用の台所を載せた野戦炊事車が損耗していない限り数両配備され、将兵は余計な荷物を多少なりとも減らして行軍または戦闘する事が出来るようになっていた。

 また糧食班は、いかなる状況にあろうとも全力で部隊の食事を用意することが、戦う事よりも重要な任務とされた。

 

 温かい野戦食の基本は、米飯と肉と野菜をたっぷり入れた豚汁になる。

 これに梅干しや漬け物、場合によっては肉や鯨などの缶詰が付く。

 他にもお茶やお菓子が付く場合もあり、1930年代には内容も大幅に充実するようになっていた。

 陸軍将兵の間でも、カレーライスや肉じゃがは絶大な人気だった。

 ただし、行軍中の野外での温かい食事は1日一回が基本で、他は握り飯や乾パン、その他保存食とされている。

 将兵達は、これらの保存食を支給され飯ごうに入れて持ち歩いた。

 また飲み物では、温かい紅茶に飽きるほどの砂糖を入れて支給されたりもした。

 加えて支那事変以後は、将兵への慰撫を目的として、さらに品目や支給品を増やすようになる。

 

 こうした糧食制度は、先の世界大戦の最中に導入されたもので、この頃の糧食班は自動車化が最も進んだ組織になっていた。

 何しろ、戦場の軍隊が最も多く消費するのは清潔な水と食料だから、食料と飲み水の煮沸用の燃料を運ぶだけでも大変だった。

 また兵士達は、窮地の際でも糧食班を優先的に守って戦ったと言われる。

 


 そして先の世界大戦を経て経済発展も経験した日本陸軍は、ヨーロッパ標準以上に軍隊の補給と重武装化に力を入れるようになっており、師団の戦闘力維持のための後方部隊も非常に大規模化していた。

 上記した兵員数も、あくまで準戦時編制の数字で、完全動員が行われると甲師団で総数3万人以上の兵士が必要だった。

 しかも地上部隊は師団だけではないので、戦時の日本陸軍は全ての地上戦力の維持に150万人以上の将兵を必要としていることになる。

 この数字は、日本が動員できる兵員数の25%近くに当たる。

 

 そして陸上の兵だけでなく兵部省の軍官僚、海軍、陸海軍の航空隊などの組織の兵も加え、その上で日本全体の戦争経済を維持する労働人口を維持しようとすると、これ以上の安易な動員は避けるべきと言うのが当時の判断だった。

 これ以上動員されるときは、後先考えない総力戦を行うときだった。

 

 その証拠に、主に後方任務がほとんどながら、かなりの女性が兵士・下士官として組み込まれており、戦争中は兵部省職員の15%、全将兵の約5%が婦人兵だった。

 しかも軍隊の動員が進むにつれて下級将校が足りなくなったため、一般大学卒の婦人予備将校、下士官上がりの婦人特務将校が出現し始める事になる。

 約5%、28万人という数字は、かつての平時の総軍人数に匹敵するのだから、いかに大きな規模だったかが分かるだろう。

 

 また、後方配置の兵士が増えたことでも分かるとおり、実際最前線で戦う将兵の比率は年々低下している。

 大戦末期になると、武器を取って戦う将兵よりも支援に当たる将兵の比率の方が高くなっていた。

 比率で言えば、戦う将兵は大戦初期で6割、大戦末期だと4割程度になる。

 


 一方、日本軍には、陸軍以外の陸戦部隊(組織)が二つあった。

 いちおうは陸軍にも所属している「海援隊」と、海軍の「海兵隊」だ。

 

 「海援隊」は、グレート・ウォー以後の改変で海上部門が海軍と合流して陸上組織となった。

 形態としては半民半官の「傭兵組織」であり、1920年代から30年代初頭にかけての隊士数は約1万名で、定数4000名ほどの旅団二つを基本戦闘単位としていた。

 

 隊士は全て一般から応募されていたが、日本陸海軍のOBがほとんどを占めていた。

 一方では、全体の15%程度が主に日本近隣の地域からの志願者から構成されていた。

 つまりは、日本の組織にあって珍しく多国籍部隊であり、フランスのように「外人部隊」と呼ぶ事もある。

 

 主な業務(任務ではない)は、各国から請け負った仕事となるが、主なところは平時の警備や警護となる。

 長期的に雇用しているハワイ王国のような例もあるが、基本的には短期契約で雇用側が不足する軍事力、兵力を提供する。

 1920年代からの主な顧客は日本政府で、日本が軍隊(正規軍)を派遣したくない場合などに活用されていた。

 

 任務の性格上、大規模な軍事戦闘は想定せず、対人戦闘任務に応じた装備が多い。

 装備も重迫撃砲、重機関銃程度までで、野砲は持たない。

 ただし、要人警護や対人戦闘では充実した装備を有し、車両も充実しており一定数の装甲車も保有する。

 

 日本軍としての全面的戦闘に於いては、小規模な場合の先遣部隊や戦場での偵察、後方警備などで活躍する事となる。

 

 しかし第二次世界大戦では、当面は日本勢力圏の志願者(兵)の受け皿とされ、隊士数の大幅な増加と戦闘部隊としての装備も陸軍並かそれ以上に充実された。

 ただし装備については、所属する企業の関係から、系列会社の装備が多くなりがちだった。

 

 開戦時の隊士数は1万5000名にまで拡大され、一部に重装備も保有するようになっていた。

 

 そして戦争中に規模と装備の拡充は続けられ、最終的には5万人以上の大所帯となっている。

 


 「海兵隊」は、各国海軍同様に海軍内部の陸戦部隊である。

 

 主な任務は、海軍施設、海外居留地(租界含む)の警備又は守備、軍艦内の治安維持や臨検を行う。

 海軍志願者の中から選抜した兵士によって構成されるため、兵士としての個々の資質は陸軍よりも高くなり、装備も優れている。

 平時の兵員数は、海軍5万人の中の10%程度しかないので、陸上戦力としては取るに足らない規模でしかない。

 

 ただし上海租界には2000名、天津には500名の海軍特別海兵隊が駐留しており、こうした「特別海兵隊」は通常の員数外として数えられ、平時の海兵隊総数は4000名程度になる。

 そして戦争体制の拡充、海軍の兵員数の大幅な増大に伴い、海兵隊も規模を著しく拡大していく。

 

 戦争の規模が大きくなれば、占領地の海軍施設、特に航空基地の守備なども海兵隊の領分となる場合が多く、また小さな島の守備を海軍が嫌がるので、「海援隊」の手当が付かない場合は、こちらも海兵隊が守備を行わねばならなかった。

 

 加えて、小規模な上陸作戦も海兵隊が行うため、着上陸専門の部隊編成までが進められた。

 

 全ての組織は、平時から小規模ながら存在していたのだが、未曾有の戦争に際して係数的な規模の拡大と、装備の充実が行われるようになる。

 

 戦争の進展と共に旅団規模の部隊がいくつも作られたが、最後までアメリカのような師団編成を取ることはなく、また独自の軍隊となる事もなかった。

 

 戦争中は、海軍の規模拡大に平行する形で規模と装備の拡充が行われ、最終的には20万人以上の大所帯となっている。

 部隊編成も、「特別海兵隊」という枠内で旅団編成となり、幾つもの旅団が編成されていく事になる。

 

 なお、旧艦砲など海兵隊独自の装備も多いのだが、黒い制服を着用するなど服飾に大きな特徴があるため、陸軍との見分けは非常につきやすい。

 


 次に、近代戦に不可欠とされる戦車だが、上記の編成である程度分かると思うが、1940年夏頃の日本陸軍には25個連隊以上の戦車連隊が編成されていた。

 以上というのは、各師団に属する戦車隊以外にも機甲教導団や独立戦車連隊などが存在しているからで、実数はちょうど30個だった。

 

 なお、日本の戦車部隊は騎兵からの発展の為、中隊が基本編成で、大隊は無くいきなり連隊となる。

 そして戦車師団、近衛師団の戦車連隊が6個中隊編成なのに対して、他は4個中隊が基本となる。

 1個中隊は基本的に12両の中戦車又は重戦車から編成され、軽戦車は基本的に各捜索連隊所属とされていた。

 その捜索連隊には、それぞれ1個中隊の軽戦車が属しており、この数は28個中隊あった。

 158+28=186中隊、合計2232両が、当時の日本陸軍の編成上での戦車定数となる。

 

 しかし1個中隊12両というのは支那事変までの事で、実戦では指揮を行うための車両が別に必要と判断され、1個中隊は本部用として各2両増えて14両に改変された。

 また連隊本部にも、本部小隊を設置して機能を強化した。

 本部小隊の規模はそれぞれのため簡単に数字を出すことは出来ないが、これらの措置により、連隊数がそのままながら戦車定数は約2800両となる。

 


 開戦当時の主力戦車は、「九七式中戦車」と「九五式軽戦車」、そして最新の「百式中戦車」だった。

 これ以外に古参の、「八九式中戦車」、「九二式重戦車」、小型の「九四式軽戦車」などがあったが、1940年末には既にほとんどが練習戦車以下に格下げされている。

 前大戦でフランス、イギリスから供与された最古参の旧式戦車は、何とか動く若干数が訓練用として残されているに過ぎなかった。

 また旧式戦車は、砲塔を外して牽引用で用いるにしても、既にもっと馬力があって使いやすい専用の牽引車両が出ていた。

 また新たな重戦車、中戦車が数種類開発中だったり評価試験の最中だったが、この頃はまだ正式採用には至っていなかった。

 

 捜索(偵察)部隊に配備される軽戦車は基本的に「九五式軽戦車」で、当時としては標準的な性能を有していた。

 ただ、支那事変で場合によっては機関銃弾や小銃弾に装甲が打ち抜かれる事態が起きた為、エンジンと足回り、そして装甲を可能な限り強化した「九五式改軽戦車」が生産されつつあった。

 この時のの改良では砲塔や砲そのものの改良なども計画されたが、完成度の高さが徒となって叶わなかった。

 辛うじて、制圧能力の高い12.7mm機銃を載せ換えただけに終わっている。

 そして非力さが明らかになるに連れて、徐々に前線から消えていく事になる。

 

 「九七式中戦車」は、兵部省が陸軍に合理性を求めた長期的視野に立った戦車をという要望を出す形で開発された。

 また産業が発展しつつある日本に相応しい車両として、装甲や火砲については順次開発すると想定して、車体だけはかなり大型で発達余裕を見越した設計が行われた。

 同車両は、歩兵戦車、対装甲戦車、砲戦車、自走砲、さらには兵員輸送車までを視野に入れており、キャタピラ幅をかなり太くして不整地走行性能を引き上げ、エンジンには300hp(馬力)のガソリンエンジンを搭載した。

 被弾の際に燃えにくいディーゼルエンジンを求める声もあったが、当時の技術力では馬力に対して容積を取りすぎるため、試作段階で採用が見送られている。

 

 最初に完成したのは当時の陸軍が最も求めた歩兵戦車で、これを「甲型」とした。

 

 重量18トンで、短砲身ながら連射性能を高めた57mm榴弾砲と制圧能力の高い武式12.7mm機関銃を搭載した2人用の小振りな砲塔を乗せた。

 一般的にこれを「九七式甲」と呼ぶ。

 「乙型」は対装甲戦車で、新たに開発された42口径50mm速射砲が搭載され、砲に合わせて砲塔も大型で前面を中心に装甲も強化されたため、重量は20トンとなった。

 

 「丙型」は必要性がまだ低いため開発が遅れたが、可能な限り低姿勢のオープントップ式の固定砲座に75mmカノン砲を取り付けた自走砲タイプとして、支那事変の最中に実戦配備が開始される。

 その後の改良で、戦闘室は閉鎖式ともされている。

 「丁型」は大型の野戦重砲を搭載した自走野砲で、オープントップ式で155mm榴弾砲又は105mm野戦重砲を搭載し、弾薬輸送型とセットで運用される。

 同車両は、各種形式が終戦まで生産されることになる。

 

 しかし初期構想にあった兵員輸送型は、贅沢すぎると判断されてついに構想だけで終わる。

 その代わり支那事変の戦訓や他国の情報を収集したうえで、半軌式の「九八式兵員輸送車」が大量生産される事になった。

 また、改良型の「百式兵員輸送車」の開発も行われた。

 

 なお「甲型」以外は1937年以外に正式化されているので、本来なら「九八式」や「九九式」とされるべきだが、結局甲乙丙丁をつけて呼ばれている。

 

 そして「九七式」のファミリー化と大量生産によって、効率的で少しでも多い装甲戦闘車両群を整備しようとしたのだが、各国から入ってくる情報から、早晩「九七式」の改良だけでは限界が訪れることが予測された。

 

 そこで、早くも1938年には新たな開発計画が持ち上がり、「百式中戦車」と呼ばれる車両が登場する。

 

 「九七式」を少し大型化して車体前面装甲を60mmとし、脚周りを強化した無限軌道に、エンジンには480hp(馬力)の大馬力ガソリンエンジンを搭載した。

 主目的はソ連軍への対抗のため歩兵戦車は作られず、「甲型」が対装甲戦闘車両とされた。

 

 野砲から改造された75mm砲はバスケット型の大作りな旋回砲塔に乗せられ、戦訓に沿って全ての車両に無線機が搭載されることになった。

 砲塔前面の装甲厚も初期型で60mmとされた。

 乗員は従来の4名から5名となり、砲弾も対装甲用の砲弾を開発した事も重なって、当時としては列強最高クラスの戦闘力を有していた事になる。

 何しろ、ソ連の最新鋭戦車(KV-1と謎の新戦車)を目標として開発されていたからだ。

 また、他国から出来る限りの情報を収集し、支那事変での戦訓が十分に反映もされていたため、先進的な機能が盛り込まれてもいた。

 バスケット型の砲塔を持ち乗員が5名になったのも、このためだ。

 重量も25トンとなり、後の改良で31トンまで大型化した。

 

 しかし世界大戦が始まってから開発と量産が開始されたばかりで、開戦時は教導団などを中心にして、まだ100両程度しか実戦配備されていなかった。

 

 なお支那事変以後は、各工場のライン変更など量産体制の確立を急いではいたし、一年以内に3000両生産するという計画はあったが、急の開戦にはほとんど間に合わなかったと言えるだろう。

 

 なお同車両は満州帝国での大規模採用も決まっており、満州帝国内に建設された戦車工場での量産もほぼ同時に開始されている。

 

 その後も戦車開発は精力的に続けられ、「二式中戦車」など多くの車両が生産されていく事になる。

 


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― 新着の感想 ―
[気になる点] SKSやMP43より先に日本が持ったのか、突撃銃。 でも、フェドロフや十一年式軽機関銃は銃身長に装薬量が過大で不具合あったけど、弾薬を改良したのか、銃身伸ばしたのか、ちょっと知りたい…
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