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フェイズ02-1「太平洋の行く末(1)」

 西暦1869年秋、1年以上の旅路の果てに坂本らが日本へと帰国した時、日本は大きくそして急速に変化しつつあった。

 帰国した年の春には、明治天皇が東京と改名された江戸に行幸していた。

 その5月には函館の「五稜郭の戦い」が終わり、革命戦争もしくは統合戦争である「戊辰戦争」が終了していた。

 

 そして戊辰戦争が終わっていた事が、坂本らに有利と不利をもたらした。

 不利な点は、日本での革命と戦争、政治的混乱が終息したことで、もはや革命の風雲児である坂本龍馬が政治に関わる必然性が無くなった事。

 有利な点は、戊辰戦争の終了で薩長の旧幕府に対する復讐と粛正に一区切りがつき、帰国した小栗ら旧幕臣を厳しく処罰しようという向きが低下していた事だ。

 そして不利な点に付いては、既に坂本が政治への関心をなくして、移民や商売に関心が傾いていた事と、坂本らが手みやげのように持って帰ってきた巨大資本を抱えた会社の存在が、少なくとも坂本の当面の将来の道筋を作り上げていた。

 

 大量の空約束と莫大な資本金(事実上の借金)を抱えた坂本の会社は、日本で初めての国際企業であるのだが、諸外国の人々は日本という国家に対して出資しているため、日本政府として全面的に後押しせざるを得なかった。

 逆に日本政府としても、新国家建設のために莫大な資金と、資金や人脈を持つ国際企業の必要性は感じていたため、坂本らが勝手に外国で立ち上げた会社の存在は、渡りに船という感覚も一部にあった。

 

 そしてその会社の運営を実質を担っているのが「あの」小栗とあっては、当時の日本人として無視するわけにもいかなかった。

 

 しかし小栗が帰国したことで、一部の新政府の人々は警戒を露わにする。

 戊辰戦争初期の頃に幕府内で強硬論を唱えた小栗であれば、その知謀を活かして新政府に対するカウンターを仕掛けてくるかもしれないと想像したのだ。

 実際、帰国した小栗と接触した、反体制派や不満を持つ武士もいた。

 

 このため、俄に政府要人の警護が強化される事になる。

 

 そして、要人警護が強化されてすぐにも大村益次郎が襲撃を受け、断る大村を無視して付けられた数名の護衛のお陰で、大村自身は軽傷で済むという事件が起きた。

 大村を襲撃したのは、大村の軍の改革方針に反発する長州藩の武士だったが、以後の明治新政府では要人警護が強化され、政府要人には可能な限り護衛が付けられるようになっていく。

 この結果、幾人かの政府要人が暗殺やテロから逃れることができ、また要人警護の存在が不穏分子の活動を一定レベルで抑止する事になる。

 もしこの時の警護体制の強化がなければ、明治政府内にも敵の多かったと言われる大久保利通や大村益次郎が、生きながらえる事は難しかっただろうとも言われている。

 


 明治新政府の事はともかく、帰国後の坂本達は新たな日本において活動を開始する。

 

 坂本商会の初期の基本事業は、海運事業と日本政府が行うことに対する投資事業だった。

 何しろ彼らには僅かな数の同士(社員)と、口先だけで集めた金と見せかけの信用以外何もなかった。

 しかし坂本らがアメリカ、太平洋を巡っている間に、パリに滞在する陸奥宗光らが活発に活動して、ヨーロッパで買い付けた最新鋭から中古の船を何隻も日本に送り届けていた。

 少なくとも北東アジア海域の海運を日本人の手に取り戻し、さらには莫大な利益が見込める海運業を行おうという腹だ。

 この行動には、東アジア航路を持つイギリスなどの国々はあまり良い顔をしなかったが、アジアに利権のない商人や企業を使うことでカバーされた。

 

 そしてその船を得た坂本らが始めたのは、海運業と日本人の移民事業だった。

 先にも挙げたように、大きな変革で今までの職や暮らしを失う人々に新天地を提供し、そこでの物産を日本のために活用するのが主な目的だった。

 また日本という国家が、移民の推進を行う事で領土を拡張する事も大きな目標とされた。

 これは単なる領土拡張ではなく、いざとなれば借金の抵当として売り払うための担保を確保しておくという側面すらあった。

 近代国家として日本列島には何もない以上、その代わりのものを確保しておこうという、いささか乱暴な判断があった。

 

 また坂本商会は、手に入れた船の一部に武装を施す許可を日本政府から得て、そこに志願で集めた失業武士を乗せた一種の海上警備会社を立ち上げた。

 組織名には「海援隊」の名が引き継がれ、半民半官の会社、日本政府の名目上は補助海軍もしくは沿岸警備隊として立ち上げられた。

 直訳で名付けられた英語名だと「SSFシー・サポート・フォース」となる。

 もっとも海援隊の漢字の頭文字を取って、「KET」と言われることの方が多かった。

 

 海援隊には、イギリス屈指(つまり世界屈指)の海運保険会社ロイズも出資していた。

 主に東アジアの海の治安を向上させることは、ロイズの利益となるからだ。

 後に辣腕外交官となる陸奥宗光に抜かりはなかった。

 

 そして日本政府のお声掛かりもあって、日本中から多くの失業武士が集められ、過酷な移民事業、実質的には傭兵である海上警備事業へと参画していく事になる。

 移民の流れは、すぐにも琉球など既に人口が飽和しつくしていた島嶼部でも始まり、多くの船員を必要とする坂本商会と海援隊は、そのうち漁民達の多くを船員として雇い入れた。

 そして小さな島でもサトウキビや場合によっては米の栽培ができるという報告が舞い込むと、それが宣伝の形で日本中に知らされ、日本各地の貧農、都市部の貧民も移民に参加するようになる。

 

 ハワイ王国を発端とするアメリカへの移民事業もほぼ同時に開始され、イギリス、フランス、そしてアメリカから移民のニーズを知ることの出来る坂本商会は、移民事業による海運、日本人が住むようになった遠隔地での航路設定などにより、日本本土の改革と発展にあまり関連しない形で事業を拡大していく事になる。

 


 日本人による移民事業の拡大だが、少なくともイギリス、フランスはそれなりに好意的に見ていた。

 弱小な日本人が、ドイツやアメリカに代わって太平洋の多くの土地を得ることは、既に自らの膨張が限界に達しつつあったイギリス、フランスにとって利益だったからだ。

 特に1871年にドイツに戦争で負けて国威が落ちたフランスは、日本への援助や支援を熱心に行い、とにかくドイツの足を引っ張ることになるなら出来る限り日本人に協力した。

 

 そうした中で、多少なりとも問題が起きた場所もある。

 

 順に、朝鮮、琉球、樺太島、東部ニューギニア、太平洋諸地域、そしてハワイだ。

 

 朝鮮での問題は、領土問題ではなく鎖国中の同国を日本がどうするか、であった。

 強引に開国させようと言う「征韓論争」がこれに当たる。

 日本中央でのある種の政治的争いとなるが、ここで坂本商会の活動が大きな影響を与えた。

 

 坂本商会は、日本本土とは関係の薄いところで、太平洋各地に進出して商売と移民、航路の開拓などを熱心に押し進めていた。

 諸外国から金を集めたので、その動きは急速で当時の日本としては非常に大規模だった。

 このため日本人の目も、近在の大陸よりは広い太平洋に目を向ける向きが強く、特に新政府内で薩長から疎外されがちな土佐では、坂本らの動きを支持する動きが強かった。

 これは土佐を藩ごと征韓論から引き離すことになり、征韓派と内治派に加えて「洋上派」という派閥を形成させ、日本はかなりの期間朝鮮王国を無視する流れを作り出してしまう。

 最初の頃征韓論を唱えていた板垣退助も気が付いたら考えを転向し、一時期は坂本商会の代弁者となっていた。

 

 琉球については今更説明をするまでもないと思うので割愛するが、清朝が領有権を主張したため台湾出兵を経て日本領へと正式に編入された。

 同時に、琉球王朝という存在も、ここに幕を閉じることになる。

 しかし琉球が日本に含まれることで、同地域に飽和していた人々が日本の船を使って、いち早く各地へと移民していく事になる。

 琉球王朝にとっては悲劇だったが、琉球住民にとっては悲劇だけではなかったのだ。

 

 樺太島は、幕末の頃に江戸幕府とロシアの間に、日本とロシアの雑居地とされていた。

 そこに坂本商会は、旧幕府士族を中心にした移民団を多数送り込み、樺太の厳しい気候でも何とか可能なヨーロッパでノウハウを仕入れた北欧風の農業(各種麦、ジャガイモ栽培、酪農、牧畜業)を実験という形で実施させていた。

 

 そして日本政府も、北海道よりもさらに先にある樺太に勢力圏を作ってしまえば領土交渉が有利になるとして、北辺での移民事業を肯定して資金と人材も提供した。

 農業指導のために、北欧やドイツからお雇い外国人もやって来た。

 ロシア人の膨張を阻止するためだと説明すると、北欧の人々は非常に積極的だった。

 

 このため1875年(明治8年)にロシアとの間で成立した国境設定では、樺太島を北緯50度で分けて北部をロシア領、南部を日本領とすることになった。

 また北部が、雑居地から完全にロシア領となる代わりに、千島列島が正式に日本領に組み込まれることになる。

 ロシアにとっては多少不満の残る決定だったが、これは既成事実を積み上げた日本側の外交勝利だった。

 

 そしてこの領土交渉を行う頃には、陸奥宗光は日本に戻って明治政府へと合流しており、ロシアとの交渉が最初の大仕事となって、以後しばらくは外交で実績を作り上げていく事になる。

 


 ニューギニア島の東部は、イギリスなどが開発は不可能な熱帯地帯だと判断して放置していたため、入植はともかく旗を立てたりする事は容易だった。

 近在の東部島嶼群(※後の新奄美島、新八重山諸島など)では、サトウキビプランテーションを目的として、一部平地に対する入植も開始されていた。

 

 しかし数年遅れてドイツが調査船を派遣し、商館を設置しようと言う動きがあった。

 このため話は外交へと流れ、現時点でのドイツの過度の膨張を望まないドイツ宰相ビスマルクの判断と、日本政府の特使として交渉に出かけていった小栗の尽力によって、日本が開発権を得ることになる。

 また、ニューギニア島西部は、かなり昔からオランダが進出していた。

 オランダは今以上進出するのは様々な理由で難しいが、東部が日本に牛耳られる事を警戒した。

 既成事実の積み上げで、自分たちがニューギニア島から追い出されることを警戒したためだ。

 このため日本政府との間に交渉が持たれて、東経140度を両者の境界線とすることで話し合いは決定する。

 これにより日本は、日本列島の約二倍の面積がある世界有数の巨島の六割の権利を獲得する事に成功する。

 

 ただし、ドイツでビスマルクが失脚させられ皇帝ヴィルヘルム二世が膨張主義を取るようになると、再び日本との間に問題を起こすようになる。

 このため日本は、ドイツとの間に何度も交渉を持たざるを得ず、結局スペインが中部太平洋のうち領有権を主張していた地域を売却したのを契機として、日本が領有権を主張していた中部太平洋の一部の島々をドイツ側に譲ることで手打ちとされている。

 


 ニューギニア東部と並んで坂本商会から日本人の移民予定地とされた太平洋諸地域だが、当時は列強はほとんど手を付けていなかった。

 そして坂本商会は、手当たり次第に日章旗を立て、測量を実施し、有望な場所に拠点を設け、そして植民事業を行った。

 

 この中で、西太平洋のグァム島を中心とする地域はスペインが領有権を持っていたため、スペインとの交渉を重ねてパラオ諸島、マリアナ諸島の一部を獲得。

 マーシャル諸島では、ドイツが食指を伸ばしていたため、衝突を避けるべくドイツに優先権が譲られた。

 また西太平洋地域は、その後スペインがドイツに多くを売却したため、ドイツの勢力はさらに大きくなり、その先に勢力圏が広がる形の日本にとっての脅威となった。

 

 そしてニューギニアから連なる形の南太平洋地域だが、イギリス、フランスと調整を行いつつ正式に日章旗が次々に立っていった。

 フランス人は、ドイツ人が隣に来るよりはと好意的で、イギリス人も後で自分たちが分捕ることも可能な日本が領有権を主張する事を認める場合が多かった。

 イギリスの場合はオーストラリアの住民が有色人種が近隣を領有する事にかなり口汚く文句を言ったが、イギリス本国政府が、ならば自らが南太平洋に自力で進出しろと伝えると、渋々オーストラリアが引き下がる一幕もあった。

 

 日本の領有権は1880年頃にはほぼ固まり、太平洋の分割が終わる19世紀が終わるまでに諸外国からも認められるようになる。

 その領域は、主に南緯20度以北の南太平洋地域で、日本列島との間に若干ドイツの領域を挟むやや不安定なものに落ち着かざるを得なかった。

 また南太平洋地域も、サモア諸島はアメリカとドイツが分割し、日本とイギリスの境界が入り組む場所も見られるなど、安定しているとは言い難い場所だった。

 しかし、初期の頃の日本の海外進出そのものに、多少の無理があったと言わざるを得ないだろう。

 


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