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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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17/65

フェイズ15「護憲政治の傾きと満州革命」

 1930年代、日本の政党政治は急速な傾きを見せた。

 政治家と財界の癒着、腐敗が酷くなったこと、軍部の反発が表面化した事が表向きの原因だった。

 まずは、1930年代前半の総理を見てみよう。

 

 ・高橋是清(1929年4月〜)

 ・浜口雄幸(1931年12月〜)

 ・犬養毅(1932年5月〜)

 ・岡田啓介(1933年4月〜)


 このうち最後の人物が、退役とはいえ海軍出身だった。

 岡田啓介は優れた政治家ではあったが、政党政治の中に形式上退役しただけの軍人が深く入り、総理になることは当時の日本の政党政治の弱体化を物語るものだといえる。

 

 しかし政党政治の衰退は、国民の声も受けたものでもあった。

 

 当時日本では、政府の大規模な不況政策が財閥と都市部を肥え太らせたとして、一部農村地帯から反発が強まっていた。

 そしてその声を受けた、農村出身の若手将校の暴発が活発化しつつあった。

 1920年代の軍への民意の支持低下も、一部軍人達の不満の温床となっていた。

 しかも陸軍は、「満洲某重大事件」での政府、政治家、さらには「無知な国民」の対応と反応に強い恨みも持っている。

 また偏狭なナショナリスト(=国粋主義者)は、対中華外交での政府の弱腰(協調外交)にも強い反感を持っていた。

 さらに言い出せば、満州王国を半ばアメリカの経済植民地とされている事への不満は、年々高まりこそすれ低くなることはなかった。

 酷い者だと、普通選挙制度にすら強い憎しみに似た感情を抱いていた。

 要するに、「女に政治をさせるな」という江戸時代的、日本式儒教的な考えからくる女性への差別感情を原因としていた。

 

 そして当然と言うべきか、そうした視野狭窄な陸軍軍人達は、都市住民を中心とする国民の反感をさらに買うという悪循環に陥っていた。

 

 一方海軍は、特に大きな反感を持つことはなく、むしろ造船業界と共に政府の積極財政方針を擁護していた。

 ロンドン会議を蹴った事は、語りぐさとなっていたほどだ。

 しかし不満を募らせる陸軍との間に反目を深め、対立感情も強まっていくという悪循環も産み出していた。

 兵部省という軍を行政面から統括する文官組織がなければ、対立は非常に険しいものになっていただろう。

 

 そうした中で、「満洲某重大事件」から数年経ってから再び「統帥権干犯問題」が浮上。

 政府が軍人を厳しく処断するように言った事は、憲法で規定されている天皇の統帥権を侵す行為だと、強引に論陣を張ったのだ。

 この考えは曲解に近いのだが、これを発端として軍部、国粋主義者が勢いづき、軍国主義者、国粋主義者、さらには全体主義者の跋扈が始まる。

 しかもこの事件を政治家達も自らの権力闘争に利用したため、混乱はより大きくなった。

 

 この象徴が「血盟団事件」で、幸い明治時代から続く警護組織の活躍もあって、重要人物の死傷者は殆ど出なかったが、日本の政治に暗い影を落とした。

 

 「血盟団事件」とは、1930年11月の高橋是清首相暗殺未遂事件以後の一連のテロ、暗殺、クーデターを指す。

 高橋を含め多くの者は無事だったが、日本経済の発展に伴う一時的な貧富の差の拡大が、事件を起こした者への支持を産み出した。

 

 なお、この時テロの対象には坂本財閥も最優先ターゲットとされ、自らへの利益誘導が多いと犯人達から悪し様に非難された。

 そして創業一族の坂本一族に対するテロが起きるが、海援隊に代表される独自の情報収集組織や私費の護衛で切り抜け、暗殺犯を返り討ちにしている。

 この時は、流石幕末を生き抜いた人物が創業者だけあると、新聞がとり上げたりもした。

 

 そうした「血盟団事件」は、一種の熱病のように1930年代を覆う、日本の軍国化、全体主義化の第一歩に過ぎなかった。

 


 1931年12月の「満州革命」拡大を受けて、高橋是清内閣はついに総辞職。

 慣例に従う形で、民政党の浜口雄幸を内閣総理大臣とする内閣が成立。

 外相には幣原喜重郎、蔵相は井上淳之介がついて、外交の挽回と緊縮財政の実施を行う。

 浜口は満州革命不拡大を強く唱えて、軍部の一部や国粋派と対立。

 満州王国問題では、国際連盟の調査団を受け入れさせた。

 

 また浜口内閣は、列強との協調路線復帰も目指し、失敗した海軍軍縮会議の出席に前向きな姿勢を示した。

 

 上海で起きた日本人殺害事件とその後の混乱に対しても出兵(軍の増派)を頑として許さず、中華民国とは外交交渉で決着。

 浜口と幣原の名が海外で知られるようになる。

 世界も、日本の軍国化がこれで押し止められると期待を寄せた。

 

 このため満州王国軍部と現地日本陸軍(関東軍)が中心になって進めていた謀略が中途半端なものとなり、国際連盟のリットン調査団が満州入りする。

 

 しかしこうした浜口内閣の動きは、日本の権益拡大を図ろうとする人々、視野狭窄な人々にとっては許し難い行為であり、当然とばかりに大きな政治的事件が起きた。

 


 1932年に「五・一五事件」が発生し、陸海軍将校を含んだ首相暗殺を中心とした大規模暗殺テロ事件となった。

 首相官邸、公邸は一般の犯罪者、少数の襲撃者に対しては十分警護されていたのだが、多数の武装した人間には対応しきれなかった。

 

 それでも浜口雄幸は、公邸に押し入った十数名の人々を説得しようとしたが叶わず、その場で射殺されてしまう。

 

 しかし国民的人気の高かった浜口の暗殺は、多くの国民に大きな衝撃を与えた。

 そして民意を反映して、事件関係者が重大なテロリストとして、短期間の裁判によって死刑者多数を含む厳罰に処される事になる。

 しかし一方では、正しい行いだったという論調もあり、軍の一部、国粋主義者は一部の強硬世論の後押しを受けてさらに反発を強めた。

 

 事件の副産物としては、首都警察(=警視庁)の権限と武装強化、さらには国家警察が提言され、内務省の権限拡大だとして軍部などから反発を受けるも強引に実施された。

 以後小銃や短機関銃、さらには軽装甲を持つ車で武装した部隊が、交代で首相官邸、公邸、国会議事堂、警視庁など政府中枢施設を厳重に警護するようになり、それこそ軍隊でも攻め込んで来ない限り対処できるようにされた。

 この時設立されたのが「機動隊」で、以後帝都の守りとして国民にも知られていくようになる。

 傭兵組織である海援隊も、日本国内での武装を強化できる行政的措置を得ていた。

 なお、海援隊の強化が認められたのは、それだけ民間が警護組織としての海援隊を利用していた事を現している。

 

 また「五・一五事件」が基本的に個人の集団によるテロであったため、軍人、警官などの公職にある者の武器所持に関して規制が強化された。

 このため軍人は、任務中の警備兵、憲兵以外は、出動、式典以外での軍刀を含む武装が国内で原則禁止され、武器の管理もより厳しくされた。

 軍刀の携行すら出来なくなることに一部の将校から反発も出たが、テロの現実が反論を封じた。

 それでも反発して帯刀した者は、降格などの厳罰に処された。

 

 しかし兵営や駐屯地の実戦部隊にまでは及ぶ事はなく、この事が後の悲劇を産み出すことになる。

 

 なお、「五・一五事件」の事後処理自体は諸外国からも評価を受け、国内テロに屈しない日本政府の方針そのものは支持された。

 これは同時期のヨーロッパで、全体主義が覆いつつあったからでもあった。

 

 一方、事件を起こした者の中に海軍将校が参加したテロ事件は、海軍内に一大衝撃をもって迎え入れられ、海兵隊の海軍内部での衛兵、憲兵としての組織を強化する事になる。

 海兵隊が、海軍内では「海の憲兵」として嫌われ、一般大衆からは「正義の味方」と戦後揶揄されるようになるのは、そうした背景もあった。

 

 一方政治だが、事件後、政友会の犬養毅を首班とする内閣が成立。

 老齢(既に76才)を理由に最初は固持するも、周囲に説得されて立った犬養毅だが、結局は満州革命問題がこじれた1933年4月に健康を理由に自ら退陣。

 以後、元老になる事もなく、年齢を理由に鎌倉に隠居してしまう。

 さらに同時期、大正の元老、大正の妖怪として政治力を振るった原敬が没した。

 

 こうして実質的な政党政治は一時影を潜め、一部の勘違いした人々によって日本は迷走していくことになる。

 そしてその迷走の象徴こそが、「満州革命」とされている。

 


 満州王国の歴史は、戦乱と混乱の歴史だった。

 銃と札束が国を作ったと言われるほどだ。

 

 満州王国は、1911年の辛亥革命の影響で、列強の思惑により1912年に誕生した。

 しかし当時は、日本、アメリカ、イギリスなどが認めるも、世界の全ての国が認める国ではなかった。

 特に中華民国は、一度は独立を承認したくせに難癖を付け続けていた。

 それでも1919年のヴェルサイユ条約によって、国際的にも国家承認される事になる。

 

 そしてその後すぐに外満州、沿海州に出兵して、建国最中のソビエト連邦から満州族の父祖の地を「奪回」した。

 

 以後しばらくは、国境線が安定したこともあって満州国内も比較的安定し、日本、アメリカの好景気の影響もあり、経済力、国力、人口も大きく拡大した。

 国内には石炭と鉄鉱石が比較的豊富で、日本、中華という消費地もあったため、1920年代には日米資本による重工業すら建設されるようになった。

 日本、タイに次ぐアジアの優等生として、世界的にも見られた。

 日本への地下資源と農作物輸出で、国土開発も大きく進展した。

 国が富むに従い、奉天の宮殿も立派なものに建て替えられる事になった。

 

 しかし、満州王国そのものはモザイク国家だった。

 

 国王は清朝の皇帝一族で満州貴族がその下にいたが、国民の大多数は満州族、蒙古族ではなく、主にこの半世紀ほどの間に流れてきた華北地域に住んでいた漢族だった。

 何しろ満州族はもともと騎馬民族のため数が少なく、漢族は隣国からものすごい数の流民として流れ込み続けていた。

 このため、万里の長城を越える人について、数を制限していた程だった。

 

 また国内には日本人、アメリカ人、朝鮮民族、さらにはロシア人も多数居住していた。

 多数のロシア人亡命者も飲み込んだ沿海州地方、外満州(黒竜江)地方は、歴史的経緯もあって殆どロシア人の自治地域だった。

 ロシア人の数も200万人以上で、日本人、アメリカ人よりも多かった。

 主にシベリア出兵の頃に亡命したロシア系ユダヤ人の数も、10万人単位で住んでいた。

 このため公用語でも苦労し、国家公用語と地方公用語で分けられていた。

 

 経済面で見ると、影響力ではアメリカがダントツで大きな存在であり、日本の影響力も世界大戦以後大きく増していた。

 しかも経済全体を見た場合、日本などの経済植民地というのが実状だった。

 

 国防については、日本が初期の頃一手に担っていた事もあり、その後も日本の影響力は強いままだった。

 日本の満州王国駐留軍は、清朝時代に日本領となった遼東半島を中心に展開し、その数は2個師団あった。

 駐留軍の名称も、そのまま関東軍もしくは遼東駐留軍と呼ばれた。

 

 また満州王国独自の軍隊も順次整備されていったが、もともと「国民」と言える人々が少ないため、その規模が極端に拡大する事はなかった。

 満州族の騎兵や馬賊が近代武装を持っているだけ、という場所も多かった。

 このため満州王国政府は、日本政府から明治以来の資料を取り寄せ、自らの国家基盤の整備と教育を熱心に行うようになる。

 「国民」を作るためには、基礎教育の充実が必要だったからだ。

 また、移民国家アメリカの制度や文化も参考にされている。

 


 とはいえ、満州王国近隣では、近代的軍隊の必要性は比較的低かった。

 日本人、アメリカ人、ロシア人、さらにイギリス人が妥協し合っていたからだ。

 ロシア革命で変化が訪れるも、国境警備隊レベルながら相応の規模に拡大されていた満州王国軍が行った戦争により、その懸念の多くも消えていた。

 赤いロシア人は、地理的な問題からマンチュウリ(満州里)の向こう側にしかまともに展開できなかったからだ。

 

 また、満州族にとっての天敵となった漢族(中華民国)だが、長らく中華民国が内乱中のため特に注意するべき相手ではなかった。

 また漢族と満州族の間では、万里の長城が精神的、歴史的な境界線となっており、これを守る限り両者の間に対立は成立しない筈だった。

 

 しかし1929年に、「北伐」を成功させた国民党の蒋介石が、中華民国の一応の統一を成し遂げると、その矛先をすぐにも満州王国にも向けるようになる。

 事実上の独裁者に上り詰めた蒋介石が、清朝時代の領土こそが中華民国の正統な領土だと唱えるようになったためだ。

 このためソ連によって共産主義政権が成立したモンゴルと、その背後にいるソ連、満州王国、満州王国の後ろにいる国々が、対中華民国政策で連携した程だった。

 北東アジアでの民族自決が、中華民国に対抗するため強く言われるようになったのも、1920年代の末頃からだった。

 

 それまで国民党を支持していた列強も国民党から離れる傾向を強め、日本やアメリカは満州王国の軍備増強を熱心に支援するようになる。

 ここでは金はアメリカが出して、日本が主に兵器を供給した。

 その方が安上がりだし、当時のアメリカにはあまり有力な武器産業がなかったからだ。

 主に日本式の軍隊教育も、軍事顧問を大量に入れて熱心に行われるようになった。

 

 また列強が離れた事で国民党は資金不足に陥ったため、中華民国による統一運動は万里の長城の南側で止まることになる。

 

 一方で満州王国軍は急速に拡大され、大きな矛盾も同時に抱えるようになる。

 また、満州国内の軍需工場が俄に増えだした。

 中には、中華民国に大量の武器を供給(輸出)しているドイツ系の兵器を生産する工場までがあった。

 何しろ清朝の時代から、中華大陸でドイツ製武器は好まれている。

 騎馬民族の新たな携帯武器も、大柄なモーゼル(マウザー)拳銃を持つ事から始まると言われていた。

 また、亡命ロシア人技術者による兵器企業も存在したりした。

 イギリス、フランス企業も、かなり熱心に売り込んでいた。

 日米がらみは言うまでもない。

 満州は、世界の兵器見本市会場だった。

 

 しかし大恐慌の発生で、満州王国にも大きな変化が訪れる。

 

 アメリカからの資金の流れはほとんどなくなり、むしろ大規模で急速な引き上げが相次いだ。

 満州国内のアメリカ人の姿も大幅に減った。

 にも関わらず、アメリカ国内で余りまくっている商品だけが大量に流れ込んで、満州国民の反感を買った。

 一方で資本面では、比較的経済が好調なままだった日本の影響力が一気に増した。

 また軍備増強の中で、満州王国軍部と日本軍、特に関東軍(遼東駐留軍)との関係が深まり、彼らは協力して満州王国から欧米、特にアメリカの影響力排除を画策するようになる。

 時代が経済から軍事へと大きく舵を切った証だった。

 「張作霖爆殺事件」も、そうした時代の変化が影響していた。

 

 そして水面下で活動した人々は、時の満州王にして清朝最後の皇帝である溥儀に対して、彼を皇帝、満州王国を帝国として国家を作り直し、最終的には中華帝国の再建を行うとそそのかして、その気にさせてしまう。

 この中で、川島芳子とも呼ばれた愛新覺羅あいしんかくら けんし王女が活躍したと言われているが、満州の国家機密であるためその全貌はいまだ明らかになっていない。

 

 明らかなのは、軍事クーデターが起きたことだった。

 


 1931年9月、日本名「満州革命」として満州王国のクーデターが勃発。

 地方から首都奉天へと入っていた満州王国軍部隊が王都での実働部隊となり、その裏で日本の関東軍が暗躍した。

 その後クーデター派の満州国王の要請によって、日本軍そのものも満州王国各地へと出兵する事になる。

 そしてクーデターが拡大すると、各地で現状に反感を持つ人々が合流した。

 さらに満州王が皇帝となることが伝わることで、満州、内蒙古の伝統階級の人々が熱狂的な支持を表明。

 多くの部族が、クーデター軍に加わる。

 強引な共産化が進むモンゴル人民共和国からも、多くの人々が国境を越えてやって来た。

 

 この中でアメリカ人移民は、特に都市部に住む人々が民衆の反発の対象とされ、一部では殺傷事件も起き、アメリカの反発を一気に高めることになる。

 

 この中で日本人は、自分たち(=クーデター派)の協力者、同士であり、辺境(沿海州、外満州)のロシア人達は一部の貴族が満州王に忠誠を誓っているなどアメリカよりも満州に根ざしているため、それほど敵視はされなかった。

 

 そうした中で、一部漢族が弾圧の対象ともなったが、多くの民衆は「皇帝復活」を熱烈に支持した。

 中華系流民にとっては、まともな統治をしてくれるなら支配者など誰でも良いのだ。

 今までの満州王だって、蒋介石や他の軍閥に比べれば、ずっと善良な君主だった。

 支持するのは、むしろ当然だった。

 


 1932年3月には国号を「満州帝国」に変更し、伝統的な式典を経て国王は皇帝とその称号を変えた。

 王都から帝都となる奉天の名も、昔使われた事のあった「盛京」と改名した。

 建設中だった新たな宮殿も、俄に増築される運びともなった。

 

 最後に誕生した皇帝であり、溥儀が「ラスト・エンペラー」とも言われる所以だ。

 そして清朝時代の玉爾、モンゴルのダイ・ハーンの称号も復活させ、満州国内のみならず中華世界全体に大きな衝撃を与えた。

 中には東トルキスタンの辺境から、砂漠を渡って帝都となって龍旗(=皇帝の旗)が各所に翻る盛京に駆けつけた部族の長もいた。

 

 この段階で中華民国が、「満州王国」に対して激しい抗議を実施し、さらには日本の満州国内での軍事干渉も強く非難した。

 これに対して日本は中華民国への反発を強め、軍の一部は中華民国への制裁すら求めた。

 これは中華民国軍が、上海の日本租界近辺の中立地帯に軍を展開したからであり、この場合国際法上で悪いのは中華民国側だった。

 

 既に満州王国は国際的に主権が認められている以上、満州が国号を変えようが、それは通常なら満州国内の問題でしかないからだ。

 しかも基本的に二国間の関係に他国が干渉することもおかしく、日本軍が本格的な軍事展開をする前に、上海から世界に向けて中華民国の違法行為が伝えられると、中華民国軍(国民党軍)も軍を引かざるを得なかった。

 

 そして満州情勢だが、諸外国も基本的に満州国内の事情と考えるべきなのだが、日本が軍を派遣している事が問題をややこしくしていた。

 クーデターを起こした満州王国軍にしてみれば、共謀したのだから当然だし、自らの力だけではクーデター達成が難しいし、さらには日本は彼らにとって近代的なものを教わる師匠でありスポンサーだった。

 しかも満州王国自体は、満州族が如何に努力しようとも、列強が折半した形での傀儡国家、経済植民地でしかなかった。

 満州国軍の将校の何割かも、実質的には日本人だったり、日本の士官学校で教育を受けた満州族、蒙古族が近年まで主軸をしめていた。

 ついでに言えば、奉天(盛京)の満州王国士官学校は、日本の軍教育機関のフルコピーのような存在だった。

 彼らにしてみれば、日本人に助力を求めるのは、むしろ自然な成り行きだったのだ。

 

 そして何より、中華世界においては、自分たちの敵を排除するため他の民族を使うのは常套手段だった。

 国政を乱してアメリカと繋がりを強めようとした張学良とその一派も、このクーデターの中で一斉に逮捕、投獄されている。

 

 こうした中途半端な情勢を、日本という余裕のない国を使うことで脱却しようとしてのクーデターでもあったのだが、この場合主に排除されるのが、それまで満州で大きな経済的影響を持っていたアメリカという点が問題となる。

 

 またイギリスも一定の利権を満州国内に持つため、この事も相応に問題だった。

 イギリスなどは早速国連に問題を提訴し、クーデターの正当性、日本の軍事干渉の是非を調査するべく、調査団の派遣を決めてしまう。

 

 こうしてイギリスのリットン卿を中心とする調査団が満州国入りしたが、この調査結果が日本の一部を不愉快にさせた。

 

 クーデター自体はもはや既成事実として認めざるを得ないが、日本軍の介入は内政干渉と軍事干渉であり、現状復帰が望ましいとしたからだ。

 

 しかもクーデター政権、いや満州帝国新政府が行おうとしている国家社会主義的政策に対して、それまで満州帝国に利権を持っていた人々が一斉に反発した。

 アメリカでは、議員、財界、新聞の一部が、満州帝国と日本を遺憾の意という言葉すら越えて悪し様に罵ったりもした。

 何しろ満州の新国家が行う政策により利権を失うのは、何よりもアメリカだったからだ。

 

 しかもクーデター後に最も多くの利益を得たのは日本であり、さらに新政府の閣僚には国籍を満州帝国とした日本人が何名か含まれていた。

 

 そしてその日本は、新国家成立に際して遼東半島の満州帝国への返還を約束。

 5年以内に完全復帰させることを、両政府との間に取り決める。

 そして新政府を日本政府が承認し、四半世紀間日本領だった遼東半島を新国家につなげることで、支配力を一気に増すことになる。

 


 こうした状況を前に、イギリスは半ば諦め、取りあえず自分たちの利権が保持されるなり正価で買い上げられるならばと、日本の行動は黙認する姿勢を強めた。

 満州王国や満州帝国と言っても、本来は日本の利権だからだ。

 そんなことぐらいは、帝国主義の最先端を常に走っていたイギリスは百も承知だった。

 むしろこれまで日本がよく他国アメリカを自分の利権に入れ続けていたと、半ば呆れていたほどだった。

 これでようやく正常な状態になったのだと、イギリスは考えた。

 無論イギリスは日本に対する認識を新たにし、対日本外交を組み直すようになっていく。

 

 一方のアメリカだが、クーデター当初は進出企業や資本が無事で利権も保護されるならと、むしろ事態を歓迎していた。

 これは賄賂ばかりを要求する支那出身の役人が消え、治安が向上して商売できる範囲が広がる可能性があると考えていたからだ。

 日本の支配が多少強まることも、一定範囲なら譲歩する予定もあった。

 大恐慌のリセッションでの反動もあって、時のフーバー政権は少しでもアメリカ経済の利益になることなら、何でも受け入れる姿勢を見せていた。

 アメリカの国内経済は、自由放任主義が悪い方向に流れを作り、政府が不景気を甘く見ていたため既に八方ふさがりだからだ。

 

 しかし、形ばかりでも存在した立憲君主体制が、皇帝となった溥儀を名目上の中心にして王権(帝権)が強まり、その下で全体主義、国家社会主義路線に染められていくと、次第に反発を強めていくようになる。

 このため新政府、新国家承認はアメリカ議会が許さず、既に大統領選挙態勢に入っていたフーバーは、支持率を落とすようなまねもできなかった。

 

 このためアメリカでの事態が進まないまま、満州帝国の全体主義化と日本の影響力拡大が進み、強圧的な支配を嫌ったアメリカ資本は次々に満州から立ち去っていった。

 

 そして1932年11月に民主党のフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領となると、アメリカは満州の現状に対してノーを突きつけ、旧体制の回復、アメリカ利権、アメリカ資本、アメリカ人の保護と状態復帰を強く要求するようになる。

 

 1933年1月以後、アメリカは満州帝国は日本の傀儡国家だとすら定義して新国家成立すら承認しないのに、アメリカ資本、在留邦人の保護、権利の保障を強く要求するのみとなる。

 

 これに対して日本側では、アメリカへの強い失望を感じ、独自路線選択を決意。

 ルーズベルト政権中に、日米関係はどんどん悪化していく事になる。

 

 1906年頃から四半世紀かけて満州に進出していたアメリカ資本も、急速に姿を消していった。

 これは満州政府が積極的に阻害したり追い出しり、無論差し押さえたのではなかった。

 満州帝国政府が国家政策として実施した、独裁的な国家社会主義的な政策、つまり政府による統制と重要産業の国有化、準国有化による国力増強政策を、アメリカ資本が徹底的に嫌った結果だった。

 また満州帝国の人々が、自分たちの手に国内資本を取り戻そうと様々な政策を付け加えた事も反発を強めさせた。

 さらに日本が満州帝国との取引に成功したことも、アメリカ人の反発を強めさせた。

 

 そしてアメリカ資本は、満州撤退に際して主に日本資本や満州政府への売却を実施し(他に買い手がなかった)、民間での買い取りは主に坂本財閥が行った。

 これは坂本財閥とアメリカ財界の繋がりの強さを物語るもので、日本の一部からは強い批判も出たが、満州政府、日本政府としても他に手段もないので容認された。

 こうして主要なアメリカ資本のほとんどは1935年頃にはほぼ姿を消し、アメリカ人の姿も極端に減った。

 しかし満州帝国政府は、特に人種差別したり阻害した事もなかったので、アメリカから移民した地方の開拓農民の多くはそのまま残り、重要都市のアメリカ人も全てが消えたわけではないため、満州帝国、日本、アメリカにとって微妙な問題として横たわり続けることになる。

 


 なお、この時の満州革命に際して、日本の軍人で主に活躍したのが、関東軍高級参謀だった石原完爾だった。

 彼は日本国内で英雄視されたため、犬養内閣は石原や満州で実行部隊を率いた板垣征四郎など現地の軍人達を処罰することができず、立憲政治家の権威をさらに失墜させることになる。

 


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