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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ09-1「グレート・ウォー(2-1)」

 戦争が始まった年の秋、イギリスとフランスは、日本に海軍だけでなく陸軍の大規模な派兵も要請してきた。

 数は15個師団。

 平時の日本陸軍のほぼ全力だった。

 理由は単純で、塹壕戦により膠着状態に陥ったフランス北部の西部戦線には、一兵でも多くの兵力が必要となったからだ。

 


 当時日本陸軍は、近衛師団と16個歩兵師団、2個騎兵旅団、4個重砲兵旅団を擁していた。

 平時の兵員数は約20万人。

 列強の中では小規模な部類の陸軍だった。

 しかし日本の国家予算規模を考えるとこれでも多すぎるぐらいで、列強の椅子を維持するため無理をして抱えている兵隊達だった。

 

 その陸軍を根こそぎ派兵してくれと、英仏が言ってきた事になる。

 

 しかし日本政府は、海軍はともかく陸軍については当初派兵を謝絶した。

 しかも大戦初期の頃は、海軍ですら海援隊が主体で、海軍そのものは艦艇を派遣していない。

 陸軍自体も派兵には反対で、自らが使い潰されることを強く警戒していた。

 また日本政府自身も、際限ない派兵要求へと拡大することを恐れていた。

 

 それに日本単独でヨーロッパに陸軍を派兵した場合、その後の補給と補充を考えると1〜3個師団が精一杯だが、そんな小さな数字では戦局に何ら寄与できない事が分かっているので、政治という面でも陸軍の派兵はしたくなかった。

 

 この状況に変化が訪れるのは、やはり海援隊が引き金となった。

 

 海上戦闘組織である海援隊だが、海兵や傭兵としての陸上戦部門を持っていた。

 その傭兵部隊は、戦争に伴って「需要」を見越した規模拡大を足早に行い、早速ヨーロッパに向かう自らの船に海兵隊員として乗船していった。

 これだけなら大きな問題はなかったのだが、海援隊はそれまで中隊規模だった基本編成の部隊を戦時編制の大隊規模に拡大し、全体の規模も旅団規模に再編成していた。

 部隊の水増しの為に、それまでの隊士全員の階級を1つから2つ引き上げて対応された程だった。

 この頃までの海援隊は軍隊ではないので、階級で語ることは少し無理があるが、単純な例えだと少尉が大尉に、軍曹が少尉になっていることになる。

 この辺りは、突如肥大化した海援隊の船舶部門と大差はなかった。

 

 だが、海援隊の有する余剰戦力のほぼ全力となる1個旅団が電撃的にイギリスと雇用契約を行い、トルコのダーダネルス海峡東端にあたるガリポリへの上陸作戦に、「イギリス軍」の増援部隊として派遣されてしまう。

 開戦からまだ一年も経っていない、1915年4月頃の事だった。

 雇用と派兵は、イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルと海援隊の実質的オーナーである坂本龍馬の二人によって決められたと言われている。

 二人の関係は、南アフリカを巡る「ボーア戦争」から始まっていると言われており、日本政府は事が動き出すまで事実を掴めなかった。

 

 なお海援隊の扱いは、イギリス軍の傭兵のため日の丸ではなくユニオンジャックを背負っていたが、この事は日本の関係者に大きな衝撃を与えた。

 政府や軍の一部は、慌てて海援隊の契約を取りやめさせようとした程だった。

 しかし莫大な違約金を日本政府が払うことなどが海援隊の規定にも含まれているため、当時まだ金のない日本政府に止めることは出来なかった。

 


 なお海援隊は、イギリス軍が期待したように海からの上陸戦には慣れていたが、旅団規模での戦闘経験はなかった。

 創設以来今まで戦った相手も、本格的な軍隊はほとんど無かった。

 無論、今まで起きた戦争、特に「北清戦争」、「日露戦争」では軍隊として大規模な戦争も経験している。

 「ボーア戦争」など、アフリカでの戦争にも傭兵として出向いた事もあった。

 しかし今回の戦いは、全ての面で今までとは違っていた。

 

 また現地での戦闘規模そのものが、1個旅団が加わった程度でどうにかなるものでもなかったため(※最終的な兵力総数は、敵味方合わせて100万人近くなる)、強襲上陸戦や個々の小規模戦闘での巧さ以外で海援隊が評価されることはなかった。

 

 あのケマル・アタチュルクも参加したトルコ軍との戦闘でも、海援隊は戦果と引き替えに相応の損害も受けており、高い練度を活かした夜間の浸透作戦で若干の活躍をした以外、特に優秀というわけでもなかった。

 そして他国の軍隊同様に、大きな犠牲も出していた。

 海援隊の陸戦部門は、グレート・ウォーで最初に大損害を受けた日本人部隊だったのだ。

 

 加えて、海援隊の船舶部門も多くが上陸作戦にかり出されており、イギリス軍よりも的確で効率的な揚陸機材と作戦行動が高く評価されていた。

 現地のイギリス軍、アンザック軍が、海援隊を「劣った有色人種の部隊」と考えずに、海援隊側から行われた意見具申や小規模な作戦行動に同調していれば、戦局が大きく変化したという説も根強い。

 

 なお、ガリポリ作戦後の海援隊1個旅団は、その後バルカン半島南部のサロニカと呼ばれる、セルビアの残り滓と言える地域(戦線)に派遣され、終戦まで同戦線で活動する事になる。

 海援隊がガリポリで大きな損害を受けたせいもあったが、現地に急ぎ派遣できる部隊が限られていた為だった。

 


 そしてイギリスは、日本人の部隊を作戦参加させた上で、その「活躍」を国内外に報道した。

 日本の海の傭兵達は、グルガ兵に匹敵する強兵である、と。

 イギリス軍や政府から勲章を授与される者も出て、中にはビクトリア勲章を授与された者もいた。

 

 そして日本では、日本人の陸での活躍に焦る者が増え始め、ヨーロッパに日本の旗を立てることの意義を唱えた人々の判断もあって、派兵に前向きになる風潮が出るようになる。

 

 この段階でイギリスは、再び日本に陸軍の本格的派兵を打診。

 派兵内容も1個軍団以上の最低限のまとまった兵力以上であるなら「出来る限り」で構わないとした。

 日本の内心を見透かした要請であることは明らかだった。

 

 この時期の日本陸軍は、各師団は動員体制を整え後備旅団も準出師(出撃)状態に置くために徴兵を強化して、約50万人の動員が進んでいた。

 多くは中華地域での戦闘と不測の事態に備えた予備的なものだった。

 ヨーロッパのような総力戦になれば、二倍の師団数と五倍の動員が可能だった。

 日露戦争の教訓から戦時将校制度(※1908年制定の短期現役士官制度)も既に作られていたため、準備期間さえあれば十分な大軍編成が可能となる戦時制度は作られていた。

 

 そしてこの時期ぐらいから、兵部省が中心となり自らの陸軍力の派遣について正確な研究と各種数字の割り出しを開始。

 同時に戦時動員の強化を開始し、徴兵も強化された。

 

 日本政府は、丼勘定の派兵時の予測数字が出てきた時点で、イギリス、フランスとの本格的交渉を開始。

 交渉において日本側は、日本とヨーロッパの距離の問題、自らの輸送力の不足、補給能力の不足、何より戦費の不足を理由にして自力での大軍派兵は不可能だと報告した。

 しかし一方では、一定額の戦費を英仏両国が負担した上で、英仏が輸送を手助けし、尚かつ現地で重装備、砲弾、主要食糧の供給を約束してくれるのなら、最大で1個軍(9個師団、ライフル兵約10万、前衛戦力約20万人、総数30万人)の派兵が可能だという数字を示した。

 無論日本側が示した条件、数字は交渉としての数字であり、実際の数字や求めていることは違っていた。

 

 しかし1916年に入りつつあるヨーロッパでは、とにかく一兵でも訓練された兵士、まとまった数の軍団が必要だと考えられるようになっていた。

 特にフランスの焦りは大きく、最大限の努力を行うという言葉を初期の段階で切りだしてしまう。

 しかしフランスも強かであり、いくらでも支援するのでより多くの兵力を出すように日本に求めた。

 イギリスはもっと慎重で、日本の本当の数字を調べ上げた上で交渉を行った。

 

 両者の交渉は基本的には日本軍派兵で動くも、出費と出血を少しでも減らしたい日本と、出来れば負担を減らしたいイギリス、フランスとの交渉が比較的長く続いた。

 

 その状況に変化が訪れるのは、1916年2月に「ヴェルダン攻防戦」が始まってからだった。

 本当の意味での総力戦、消耗戦の象徴である同戦闘の発生でフランスは色を失い、金で国が救えるのならと条件を大幅に譲歩。

 日本側から見れば破格と言える条件で、日本軍の大量派兵が決まる。

 日本側がついでとばかりに出した、日本への軍需物資などの発注を増やして欲しいという条件も、ほとんど即答で承諾が得られた。

 

 1916年2月末に決められた日本と英仏との協定では、イギリスとフランスが派兵費用(実質的な戦費)の半分、日本からの兵士、物資輸送の70%を費用共々負担する事になった。

 また日本軍の派兵に際しては、輸送量の軽減と補給の簡便化を図るため、重装備と砲弾の大部分がイギリス、フランス軍から多くを無償で供与されることになる。

 アームストロング、シュナイダーの野戦重砲、ヴィッカーズ、ホチキス社の機関銃などほぼ丸ごとが供与され、さらに最新兵器の戦車、航空機の供与も約束された。

 供与される兵器の殆どは、大戦が始まってから大量生産された最新兵器ばかりだった。

 日本が本土から独自に運び込んだ主な兵器は、三八式歩兵銃と、個人装備の拳銃や軍刀ぐらいだと言われるほどだった。

 

 全てを合わせると、戦費の6割以上を英仏が負担する計算になる。

 これでは、日本軍が丸ごと傭兵となったようなものだった。

 

 また、後の補給を考慮して、供与を受ける兵器の生産も日本で行われることになる。

 このため図面や工作機械が輸入され、同様の兵器を日本が一部生産、供給する事にもなる。



 最新兵器の大量供与にすっかり舞い上がった陸軍、兵部省に押された日本政府は、第一派として1個軍9個師団の現役師団の派兵をすぐにも決定。

 遣欧方面軍も新設した。

 その後、順次動員が完了した同数の9個師団を、交代用として派遣する事とした。

 無論だが重砲兵旅団、騎兵部隊、輸送部隊、戦車や飛行機を操る(予定の)兵士の派兵も含まれており、さらに後方で日本軍を支援する様々な部隊、医者と看護婦を始めとする軍属、あげくは芸者や日本人の職業娼婦まで派遣が行われることになる。

 そして国内では、巨大な数の人間の衛生環境を整えるため内務省内で厚生局が設立され、その後独立省庁として分離していく事になる。

 厚生部門の強化は、総力戦のために是非とも必要だったからだ。

 

 余談だが、日本人向け慰安所の通称「ゲイシャ・オーベルジュ」は、英仏軍兵士の間でも有名となったほどで、戦争中にヨーロッパに渡った芸者、娼婦などの数は延べ人数で数千人に達する事が、日本兵部省図書館に記録として残されている。

 

 そして日本兵のヨーロッパへの派兵のために、イギリスやフランスは、戦前大西洋航路で就航していた巨大客船を何隻も日本に向かわせ、武器の代わりに現地での調達が不可能な日本製の保存食を山のように抱えた日本兵を乗せて、次々とヨーロッパにとんぼ返りしていった。

 このため兵士を満載したヨーロッパ行きの船には、常に味噌や醤油、漬け物、納豆の香りが充満していた。

 日本海軍が、慌てて大型の給糧艦を複数作ったのもこの頃だった。

 変わったところでは、料理人(板前)と調理材料を大量に乗せた客船がヨーロッパに送り込まれたりもしている。

 

 そして、地中海沿岸からヨーロッパの西部戦線へと入った現地日本軍が当初最も困ったのが、兵士達に供給する日々の食事だった。

 不衛生で単調な時間の続く塹壕でずっと籠もりっぱなしの兵士にとって、食事の占める精神的支えの割合は非常に大きかった。

 当時欧米に比べて貧しかった日本人とはいえ、その比重は日露戦争での安易な状況が許されなくなっていた。

 また陸軍は、基本的に炊事(食事の用意)は個々の兵士に委ねていたが、大規模な塹壕線では非効率的でもあった。

 食事の煙が、敵の標的となりやすいのも問題だったし、敵の側から日本軍が食事していることが一目瞭然で分かるのも問題だった。

 

 このため日本兵部省と日本陸軍は、陸軍の食事に関して大幅な改訂を実施。

 各部隊に専門の炊事班を作り、野戦炊事車(要するに、湯を沸かしたり米を炊く釜と鍋を載せたリヤカーや馬車)を大慌てで生産して前線に送り届ける事になる。

 この糧食形式の変更は兵士からも非常に好評で、戦後も日本陸軍の正式な編成として組み込まれて行くことになる。

 

 こうした食事の制度は、既に海援隊の陸戦部門が取り入れていた方式でもあったため、大きな混乱もなく戦争中に日本陸軍全てに取り入れられている。

 

 なお、食に関連して日本軍将兵達の間で問題となったのが、現地での酒の調達だった。

 現地に日本酒はなく、酒そのものの日本からの補給は常に二次的で量も限られていた。

 正規の休息などだけでは、酒を飲む機会が限られているためだ。

 このためフランス語(+日本語)の出来る者が重宝され、後方で酒やその他諸々の嗜好品を調達する事が、そうした「特別任務」を与えられた人々の役割となっていた。

 そして主にフランス東部の地酒といえるワインが将兵達の主な酒となり、酒のアテとなるチーズやハムなどと共に戦後日本本土に将兵達が伝えることになる。

 


 日本陸軍のヨーロッパ派兵が開始されたのは1916年4月、日本列島が桜色に染まる頃に最初の船団が日本を離れた。

 合計3回に分かれる第一派の船団で、1個軍団・3個師団・約6万の兵士が輸送され、同船団と部隊は先遣隊と試験を兼ねた進出を行った。

 そして夏の終わりまでに、9個師団と支援部隊合わせて約30万人の日本兵がヨーロッパへと赴き、南フランスの港から西部戦線へと鉄路送られた。

 

 この派兵において、日本側で最も問題となったのは言葉の問題だった。

 他国の兵と意志疎通が出来なければ、戦う以前に何も出来ないのも同じだからだ。

 しかし、当時フランス語を話せる日本人の数は極めて限られており、英語に関してもまともに話せる者は限られていた。

 敵国語となるドイツ語は、将校や医者の一部が限定的に話せるぐらいだ。

 一方イギリス、フランス側で日本語を話そうという者は、一部の外交関係者や専門の学者、物好きを除いて当初はほぼ皆無だった。

 

 このため派兵の間の僅かな時間(約一ヶ月間)、船の中に閉じこめられた将兵達には、とにかく最低限の英語、フランス語、出来れば敵性言語のドイツ語が叩き込まれた。

 また日本本土でも促成栽培の語学教育が強化され、日本中の高等教育機関が大慌てでそれを行った。

 それでも初期の頃は言葉に不自由したため、民間にも全面的な協力が要請された。

 日本本土では語学学校が数多く設立され、前線の少し後ろでも暇さえあれば語学教育が行われた。

 将兵の中には、まともに戦闘を経験せずに言葉だけ学んで帰ってきたという者までいたほどだった。

 

 その中で存在感を示したのが、当時ヨーロッパに最も深く根を下ろしていた坂本財閥だった。

 大戦勃発当時、パリ、ロンドン、アムステルダムに支店を置いており、派遣されている日本人の数が100名を越えているのは坂本財閥だけだった。

 しかも坂本財閥傘下の海援隊は傭兵業務を行うので、多少なりとも英語、フランス語などへの対応が可能だったので、通訳や促成の語学教育者として本来の任務、業務以外で大量に動員された。

 

 もっとも主な受け入れ先となったフランスでは、名もない農村の多くが日本軍の後方駐屯地とされるも、場所を強制的に借り上げられた地元の人々は、日本軍が駐留しているとはほとんど考えもしなかった。

 多少知識のある者でも、フランス植民地のインドシナ兵だと思っていた者が殆どで、特に派兵初期の頃は些細な差別問題など大小の問題が多発した。

 

 当時のヨーロッパ世界一般での日本の認知度とは、つまるところその程度でしかなかったのだ。

 


 なお、大車輪の中でヨーロッパ派兵が進む中、一部で上がった日本本土の守りをどうするのかという国内の声に対しては、表面的には列強は誰も欧州で手一杯で全く問題無しと、時の政治家が説いて封殺した。

 この裏には財界の影響が強く、財界は国内外で発生する未曾有の戦争特需の恩恵がより大きいため、金や後の利権をばらまくことで、利に聡い人々を黙らしていった。

 

 (中華)大陸進出を謳う者は陸軍内に多かったが、あからさまにそうした声を挙げた者、以前から強引な大陸進出を唱えていた者は、陸軍内の勢力図や陸軍中央のエリートはほぼ中央勤務という「慣例」を日露戦争以来で無視して、ヨーロッパの最前線に送り込まれた。

 この措置により現実的考えを取り戻した将校もいれば、逆に酷く恨む者もおり、措置としては一長一短だったと言われる。

 

 ちなみに、次の世界大戦を大佐から将軍として軍を率いることになる陸軍の高級将校達は、この時の戦争を少尉から少佐程度で経験している。

 「大戦世代」とも呼ばれる促成栽培の将校は特に派兵頻度が高く、永田鉄山や東条英機も中堅将校としてヨーロッパの戦場を経験した将校の一人だった。

 最終的に一度でもヨーロッパ方面に赴いた陸軍将校の数は、全体の半数程度だった。

 


 日本陸軍の派兵数は、取りあえず1916年の秋までに30万人に達した。

 この数字は、ヨーロッパの冬は寒いと言う事で既存の冬季装備など、塹壕での冬営準備ができた人数分でもあった。

 おかげで、普段の年よりもかなり寒く、前線で多くの凍死者を出したその年のヨーロッパの冬を、無難に過ごすことには成功した。

 満州の冬に対応する装備を持っていた事が、功を奏した形だった。

 

 この事は日本軍将兵に多少なりとも自信を付けさせると共に、激戦に入る前の日本軍が各国から高い評価を受けた。

 取りあえずは、ロシアと戦ったことは無駄ではなかったのだ。

 

 そして日本陸軍の前線配備なのだが、当初は派兵数も少なかった事から、最初は数が揃うまで後方予備として置かれ、訓練と現地に馴染むことに重点が置かれた。

 そして数カ月経った夏頃に、日本軍が揃い始めた事とフランス軍の移動に伴い、あまり重要ではない西部戦線の一角が割り当てられるようになる。

 初期の頃の扱いは、連合軍の中でも最も弱小のポルトガル軍程度の役割しか期待されていなかった。

 それでも日本軍が派兵された分だけ、イギリス軍、フランス軍は重要戦線に戦力を投入できることを表しており、相応の歓迎を受けることができた。

 日本陸軍の一個軍が派遣される間、ちょうど「ヴェルダン攻防戦」と「ソンム会戦」が行われ、連合軍は一兵でも前線に置けるまともな兵隊が欲しかったからだ。


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