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フェイズ01「始まり、そして変転」

 さて、最初のターニングポイントとなる死神の鎌を逃れて生き延びる人ですが、動乱期ですのでとても多くの人々が候補として挙げることができます。

 有名どころで、幾人かを生年月日、大まかな死因で取り上げると・・・


・大村益次郎(生年1824年5月30日〜)・死因:暗殺

・小栗忠順(生年1827年7月16日〜)・死因:斬首

・大久保利通(生年1830年9月26日〜)・死因:暗殺

・土方歳三(生年1835年5月31日〜)・死因:戦死(死体不明)

・坂本龍馬(生年1836年1月3日〜)・死因:暗殺


 だいたいこんなもんでしょうか。

 

 大久保利通は維新後も大いに活躍もしているし、明治十年の暗殺ですので除外してもいいかもしれませんし、他にも暗殺や不遇の死を迎えた人は有名人だけで幾人もいます。

 池田屋事件での犠牲者なども、候補としてあげてもいいでしょう。

 また幕府側に属したお陰で明治初期に不遇の人生を強いられた人々も、状況さえ変われば人生が変わる可能性は十分にあります。

 

 それはともかく、上記した大久保を除く4人が、やはり人気が高いのではと思います。

 上の二人は、どちらかというとマニア好み。

 下の二人は、一般にも良く知られた幕末のヒーローです。

 


 では、彼らの死因回避の方法についてですが、どうなるでしょうか。

 

 大村益次郎については、味方から反感を買った言動や行動、政策の事はともかく、もう少し護衛を付けるなり要人として注意していれば特に問題なかった筈です。

 何しろ長州及び官軍の軍事の頂点にいた人物です。

 

 小栗忠順は、隠遁などさせてもらえずに榎本や勝に無理矢理北海道にでも連れていかれていれば、生きながらえた可能性が高いでしょう。

 

 そして暗殺と言えばこの人坂本龍馬ですが、後藤象二郎が無理矢理にでも一緒に土佐に連れ帰っていれば簡単に惨劇は避けられたでしょう。

 ドラマチックな状況は特に必要ありません。

 

 土方歳三は、戦死ではなく中途半端な負傷程度で戦線離脱すれば、不名誉な生を甘受せざるをえなかったかもしれません。

 とはいえ、薩長が牛耳る新政府に彼の居場所があるとも思えませんので、今回は候補落ちとしたいと思います。

 

 また他の様々な人々にも波瀾万丈のドラマを用意してもいいかもしれませんが、彼らが死に至った原因や状況は、上記した程度で簡単に変わるものです。

 そして今回は、彼ら自身の活躍を語るのではなく、その後の日本の行く末まで見ていくので、あくまで副次的な事件、要素としたいと思います。

 なお、暗殺を免れた後の寿命については、史実の没年+30年〜40年ぐらいを目安にしたいと思います。

 

 でも彼らが天寿を全うしてしまうと、結局いつもの日本になりそうな気がしてならないなぁ(苦笑)


 それでは今回も虚構の世界に参りましょう。

 西暦1867年11月9日(慶応3年10月14日)に大政奉還が実現した後、土佐の後藤象二郎はいったん土佐に戻るとき、強引に坂本龍馬を連れて戻ることにした。

 後藤は、坂本の事を好きどころか嫌う、いや憎んでいた事もあると言われるほどの人物だったが、合理的判断ができる人物でもあった。

 

 そしてこの当時の坂本が、土佐藩内の上級武士から酷く嫌われていることは十分理解しており、それ以上に幕府側から命を狙われていることも十分知っていた。

 薩摩の一部から疎まれていることも知っていた。

 あの新撰組が追っているという噂もあった。

 

 このため後藤は、自分が土佐に戻って坂本が京か大坂に残ると、彼が孤立して暗殺の危険が高まると考えた。

 そして後藤は、坂本が土佐さらには日本にまだ必要だと考え、万が一を考えて彼を同伴させることとした。

 色々と考えたが、護衛を付ける事も難しかったからだ。

 

 後世残る人々の証言から、あまりにも熱心に土佐への帰国を勧める後藤に折れた坂本は、渋々土佐へと戻ることになったと言われる。

 


 そして坂本が土佐で次の施策のために行動しつつも、家族や婦人おりょうとしばしの休暇を楽しんでいるところに急報が飛び込む。

 

 慶応3年12月9日(西暦1868年1月3日)、「王政復古の大号令」が行われたのだ。

 

 このため急ぎ京に戻ろうとした坂本だったが、後藤に戦争の危険が大きいので土佐の軍勢と行動を共にすることを強要され、それができない坂本は単身海援隊が活動している長崎へと赴く。

 そこで坂本は、懇意だったグラバー商会などからも手助けを受けて船を一隻調達し、出来る限りの人を連れて急ぎ京・大坂へと赴いた。

 だが彼が大坂にたどり着いた時には「鳥羽・伏見の戦い」(※旧暦の慶応4年1月3日〜6日(西暦1868年1月27日〜30日))が既に終わり、徳川慶喜は海路江戸へと逃げた後の事だった。

 

 通説では、坂本らを乗せた船は、幕府艦隊と大坂湾口ですれ違ったとされる。

 

 そして大坂の木津川口(当時の大阪港の一部)で天下の大勢を知った坂本とその一行は、京には上らずそのまま海路江戸に向かう。

 この時の当人達の記録がほとんど残されてはいないが、江戸にいる旧知の勝海舟と何とか面談し、今後の破局つまり戦乱の拡大と江戸壊滅を回避するためだったと言われる。

 実際、坂本は、江戸で勝海舟と会っている。

 

 坂本との面談に応じた勝海舟は、江戸と旧幕府の事は自分たちに任せて、勝らが出来ないことを坂本に託したとされる。

 説得のための、勝が書いた文書も残されている。

 

 主な理由は、恐怖心や復讐心に駆られた官軍(薩長軍)が、既に下野したり地方に散っている旧幕府要人に対する私刑的な抹殺や殺害を謀る恐れがあるので、救えるだけ救い出して欲しいというものだった。

 

 ここで坂本は、幾人かの旧幕臣を江戸湾に浮かぶ自分たちの船に助け上げ、その中の最大級の人物こそが小栗上野介忠順だった。

 彼は最初は坂本の説得を断るも、坂本が「ワシは日本でするべき事に一区切り付いたきに、世界の海をぐるり回ろうと思ぉちょる。

 そこで小栗さんにはその案内をお頼み申したい」と切り返した事で首を縦に振ったと言われる。

 

 これはあくまで通説であり、真偽のほどは定かではない。

 だが、坂本らを乗せた船は、その後官軍が江戸湾に入る直前に小栗を乗せて出港している。

 その後坂本らは、太平洋を北上して東北地方を順に回って仙台沖に至り、途中様々な人々を乗せつつ仙台では榎本らとも面会している。

 ここで坂本は、仇敵とされる新撰組の副長(当時局長)の土方歳三とも話しを持ち、お互い過去のことは水に流したとされる。

 ここで一部通説や俗話では、新撰組隊士数名が後世に自分たちの事を正しく伝えるため船に乗り込んだとされる。

 

 そして船と共に多数押し掛けた形の坂本、小栗らに対して、榎本や大鳥らは自分たち(※時期的に北海道政府はまだ成立していない)への参加を請うが、坂本も小栗も旧幕府軍勢力に参加することはなかった。

 そして東北から離れたい少数の人々だけを乗せて仙台を離れ、官軍艦隊から逃れるように日本海周りで長崎へと赴いた。

 しかしこの時の榎本らの話を聞いた坂本は、蝦夷など日本人の新天地開拓についての思いを強くしたとされる。

 


 その後1868年の初夏頃(旧暦5月)に長崎にたどり着くと、グラバーらが手配していた「新いろは丸」と名付けられた大型汽帆船に乗り換え、ついに坂本らは海外への航海へと旅立つ。

 

 そして新政府で主要な地位を占めるものと考えられていた坂本が日本を離れるのならと、官軍となった薩摩もマイナス感情を棄てて坂本らに餞別すら寄越した。

 出発までには、土佐や長州から物好きともいえる数名が合流した。

 

 「新いろは丸」で日本を離れた坂本・小栗ら数十名を乗せた一行は、まずは当時アジア最大の国際都市となっていた清朝の上海へと至る。

 ここでヨーロッパ各国の公使や領事などと話しを付けて、諸外国を回るための手はずを整えようとしたからだ。

 本来なら日本で話しを付けるべきだが、色々と面倒があるのであえて上海を選んだと言われる。

 


 海外に出ると、坂本・小栗の名は大きな宣伝効果を発揮する。

 片や日本で政権転覆を実現した反乱軍をまとめ上げた第一人者、片や旧政府の重鎮。

 その二人が揃って海外を見て回るというのだから、それが日本政府のものでないとしても、何らかの意図や意味があると考えられたからだ。

 

 このためイギリス、フランスが中心となり、二人を各地で歓迎する事になる。

 二人に何かと世話を焼き、様々な便宜を図った。

 そして世界各地を見て回りたいという坂本らに対して、各国はこぞって自慢の場所や文物を披露し、要人が会いたがった。

 坂本が旅費が足りないと臆面もなく言うと、土産付きで全額出費したほどだった。

 そしてイギリス、フランスの動きに刺激された様々な国々も、東の果てからやって来た二人に興味を向け、詳しい事情が分からないまま二人を優遇・歓迎した。

 

 ヨーロッパ列強のエスコートで彼らが辿ったユーラシアの主な都市は、上海、香港、サイゴン、シンガポール、カルカッタ、ボンベイ、アレキサンドリア、カイロ、エルサレム、イスタンブール、ローマ、フィレンツェ、ベネツィア、ウィーン、フランクフルト、パリ、アムステルダム、ロンドンとなった。

 この旅の途中では、完成目前のスエズ運河の脇を陸路で通り、丁度視察に訪れていたレセップスとも会っている。

 なおボンベイ以後の新いろは丸は、一部の船員がそのまま乗ってイギリスのエスコートで喜望峰周りでロンドンに向かい、坂本らはその後イギリスの船でイスタンブールまで行っている。

 

 坂本、小栗らの一行は、行く先々で珍しい文物を見て、記念の写真を撮り、珍味に舌鼓を打ち、土産を貰い、そしてパーティーに出席して各地の要人と関係を持った。

 

 パーティーの席などでは、主に坂本が斬新で気宇壮大な夢と理想を語り、小栗が現実的な事、具体的な事を口にして、それぞれ人々の心を掴んでいった。

 旅を重ねるごとに二人に感化される人々も出て、中には心酔して彼らの旅路に同行する者まで現れた。

 

 彼らが会った当時の世界的要人も、順にオスマン朝皇帝、イタリア国王、オーストリア宰相と続き、遂にフランスのナポレオン三世とイギリスのビクトリア女王への謁見すら行ってしまう。

 

 この中でもナポレオン三世は、二人を特に歓迎した。

 これは小栗が以前フランスに来たことがあるのと、旧幕府とフランスとの関係が深いことが影響していた。

 ナポレオン三世としては、日本に新政府が出来た後も太いパイプを維持しておきたいという意図があったのは明白だった。

 そしてフランスへの対抗外交として、イギリスも二人を盛大に歓迎せざるを得なくなり、日本政府の代表でもないのに女王への謁見が叶ったという経緯がある。

 

 こうした状況を坂本龍馬は、旅の先々で故郷に向けて手紙を書き残し、「まるでわらしべ長者にて候」と揶揄している。

 


 そして坂本と小栗は、結局物見遊山で世界を巡るだけでは終わらなかった。

 

 小栗は、自分は既に政治から身を引いたと周りに何度説明してもまともに取られず、また世界を見て自身が感化されたこともあって、日本の行くべき道筋と新政府の青写真を語ってしまったりした。

 そして小栗のあまりにも明確で合理的な話しに感心した人々は、こぞって彼との関係を深めようとした。

 

 坂本は、パリで自らの新たな会社を立ち上げ、「坂本商会」という今で言うところの総合商社ゼネラル・カンパニーを作り出す。

 この会社は、坂本自身は自らを担保とした信用貸しを出会った人々に頼み、貸す側は日本政府もしくは日本政府の枢機としての坂本への信用貸しという形で、株式に換えた形で資金を提供した。

 そして当時フランスは世界有数の金融産業の国であったため、日本政府が新しい投資会社を立ち上げたという噂となって瞬く間に欧州全土に広がり、フランス、イギリスを中心に莫大な金が坂本らのもとに集まるに至る。

 かのロスチャイルド一族も、坂本と接触したほどだった。

 

 坂本の立ち上げた会社は、旅に同行した海援隊の隊士数名による会社に過ぎないのに、当時日本最大級の資本を抱える巨大企業となった。

 しかも立ち上げ当時の坂本商会には、フランス金融街がバックに付き、資金の管理運用まで行う姿勢を見せた。

 この中には、当時の有名なユダヤ資本家の名も連なり、以後坂本商会は欧米資本と深い繋がりを持つ日本では特異な企業として発展していくことになる。

 

 そして古くから坂本の一番のブレーンとなっていた陸奥宗光(当時:陸奥陽之助)は、俄に番頭(=重役)となって新たな会社を切り盛りせねばならなくなり、結局以後数年間パリに滞在する事にもなってしまう。

 ここで陸奥宗光は辣腕を振るって存在感を示し、またこの時の経験と人脈が後に活かされる事になる。

 

 そして陸奥ら数名をパリに置いた一行は、当時世界中を飲み込もうとしていたイギリスの王都ロンドンへと入り、ビクトリア女王への謁見を実現して、そこで代表と名乗り出た坂本はナイト称号を受けるに至る。

 称号授与の理由は、イギリスと日本の友好を深めた事とされた。

 


 その後、イギリスで新いろは丸に合流し、さらに新たに(借金で)購入した自分たちの船で2隻の船団を作り、今度はアメリカ大陸を目指した。

 坂本らとしては、当初の目的通り世界一周旅行を実現するためでしかなかったが、アメリカに向かうことで、世界の目は二人を中心にした日本の新政府による世界視察の旅だという向きをさらに強めることになる。

 

 船が増えたのは、ヨーロッパでもらった土産物の積載、旅の同行者の増加に合わせたものだった。

 また、余裕のある船倉には商売のための荷物を積んだりもしたのだが、そうした些細なことは誰も気にしなかった。

 

 そしてニューヨークへとやって来た二人を、アメリカも盛大に歓迎した。

 ヨーロッパなど同様に、旅の同行者も現れた。

 しかもこの頃には、坂本が創案した日本の新国家体制の基本方針である「船中八策」がアメリカにも半ば偶然に伝わっており、坂本はアジアでの民主主義の体現者だとして絶賛されることになる。

 

 二人は、当時の大統領ジョンソンや北軍司令官だったグランドらとも会い、さらにはアメリカ経済界の要人達とも関係を深めた。

 坂本はその弁舌で斬新で気宇壮大な夢と理想を語り、その上で日本への投資、自分への投資がいかに有益で得であるかを訴えたと言われる。

 ここでもアメリカに移住していたユダヤ人資本家と接触を持っており、坂本らは新たな会社にさらに資金を注ぎ込むことに成功している。

 

 口先三寸で100万ポンド(600万フラン=ドル)ともいわれる大金を短期間のうちに集めたため、口さがない者などは坂本龍馬のことを日本のカリオストロ伯爵と言う事もあるほどだった。

 


 その後一行は、陸路(鉄路)でアメリカ東部各地を周った後に、ニューヨークに停泊していた自分たちの船に戻って大西洋を南下。

 カリブ海、南アメリカ各地の港を巡りつつ、マゼラン海峡を抜けて太平洋へと入った。

 そこで一行は、フランスの誘いがあった事もあり、アメリカから誘われていたサンフランシスコには向かわず、そのまま南太平洋へと進路を向ける。

 

 そこで坂本らは、太平洋の多くの島々がいまだ列強の手がついていない場所である事を知る。

 このため予定よりも長く太平洋各地を巡り、場所によっては簡単な測量も実施し、無人島には日本の領有を主張できる証拠を残したりもした。

 南洋の島々の一部に、坂本らの名前が残るのはこのためだ。

 

 この坂本らの行動は、領土欲ではなく時代の変革によって職を失う武士を中心とする人々の新天地を用意できないかという意図が強かった。

 ただし小栗ら一部の者は、さらに進んで日本の砂糖供給地(栽培地)とできないかと考えていた。

 無論、日本が植民地を得ることによる国際的な地位向上も考えられていた。

 そして、この事実を後に知った列強は、坂本らがやはり侮れない人物だと考えるようになる。

 

 そしてフランス領ニューカレドニア島に立ち寄った坂本らの船は、予定の数倍の時間を要して南太平洋、ニューギニア東部、中部太平洋を経て、遂に日本へと帰国する。

 最後の都市オーストラリアのシドニーに立ち寄った時には、中古の小型船ながらさらに1隻を購入して船団に加えている。

 つまり、合わせて3隻の船団となっていた事になる。

 

 旅の一行は、出発したときよりも大きく増え、様々な人種、民族が同行し、日本に帰国したとき日本人達を大いに驚かせた。

 

 時に、西暦1869年秋の事だった。

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