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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

怪奇図書館 死神の名付け親

作者: K.T


 患者の容態を観察する。患者を手術する。治った患者を見送る。患者の最期を見届ける。

 私のいつもの日常には、ろうそくが溢れている。

 沢山の命のろうそくが、様々な形の炎を上げながら生きていることを訴えかけてくる。

 そう、私には見えるのだ。

 他人の寿命が手に取るようにして分かる。

 それは私が生まれた時から約束されたことだった。

 死神と呪いの契約を交わした私には、命の天秤を計ることが出来るのだから。


 私――丹原命たんばらみことは、生まれつき体が弱く、病院に駆け込むことも少なくなかった。

 幼い頃の私にとって、人生とは常に死と隣り合わせの世界だったのだ。

 医者になろうと思った切っ掛けは唐突で、あまりにも理不尽な祖父の死だった。

 私の病弱な体は遺伝性であり、祖父はそれでも奇跡的な長寿だったと言える。その死に顔はとても安らかで、化粧で整えられた顔立ちはむしろ若返ってみえた。しかし、そんな神聖な棺の上では死神が笑っていた。

 その姿は私にしか見えないと、幼心に私は察していた。

 それがこの世ならざるものだと、直感していた。

 医者になろうと思ったのは死神に声をかけられたのが切っ掛けだった。

「お前は医者になれ。さすれば我は数多の命を見届けられる」

 ならば助けられなかった命も救えるはずだ、と。


 血でぬめった手袋を取り外し、更にその下にある手を丹念に洗浄しながら私は昔のことを思い出していた。

 この腕一つで他人の命を左右する。しかし、処置のしようがない人間は死神の言う通りに見捨ててきた。

 それが契約だから。

 死神はこうも言っていた。

「我が足元に居たら、その患者は助からん。これは絶対だ」

 その言葉を私は律儀に守っていた。

 予想を遥かに超えて歯を食いしばるような思いだった。目の前で死んでいく患者を見届けることしか出来ない不甲斐なさ。やるせなさ。憤慨。悲嘆。後悔。

 死は全てを平等に持ち去っていく。

 しかし、私は今の職に就いたことを後悔していない。

 心臓移植手術の名医。それが私、丹原命の職務であり、使命だった。

「丹原さん、ボーっとしてないで次のオペの準備お願いします」

「ああ」

 ドナ―不足が深刻化している現在でも、ドナーを求める患者の数自体は減らない。

 私は自らの戦場へと足を踏み出した。


 患者の心臓を摘出するのは何度やっても気持ちのいいものではない。

 全身が緊張で熱を帯び、汗が一筋垂れていった。

 こういった時、私は一種のトランス状態に陥る。まるで催眠術にでもかかったかのように意識が遠のいていくのだ。

 再び意識が鮮明化した時、手術は何事も無かったかのように終わっている。

 そして患者の足元か顔に死神がいつものように立っているのだ。生死を分けるのは常に死神。もしかしたらその間、私は何もやっていないのかもしれない。

 巷では名医と謳われ、贔屓にされているが私は自身の才能を凡才と評価していた。と同時に、この力があることを誇りに思っていた。

 私は遠のいていく意識に神経を委ねた。


 戦場で思い起こされるのは小学生の頃の記憶。

「やめろよ!」

 私はいじめっ子たちの前に立ちはだかる。何故かはとても簡単な話で、私はいじめっ子達の間で苛められていたある女の子に恋をしていた。

 名前は村山梢むらやまこずえ

 とても可憐で、ともすればいじめっ子達が標的にしやすそうな女の子だった。

 男子グループはまだいい。女子グループのいじめは特に陰湿で、身を挺して村山さんを庇っていた私も何度も巻き込まれた。

 しかし、悲しくはなかった。私はその頃、村山さんに一筋で惚れこんでおり、彼女を守ることこそが生き甲斐だったのだから。

私は当然ながら村山さんと同じ中学に進学した。

 そこでも、いじめは続き私はさながら、お姫様を守るナイトのように彼女を守り続けた。

 そんな記憶。

 今は村山さんとは時々しか会っていない。

 お互いに仕事が忙しい社会人の身。学生の頃よりかは遭遇する機会はぐんと減り、今更になって私はきちんと告白すべきだったと後悔している。

 きっと彼女は断らなかっただろう。それぐらいの自信があの頃の私にはあったし、今でもそう思う。


「丹原さん! 患者の容態が!」

 視界が明滅する。

 死神が足元に立っていた。

 手術は失敗に終わった。


 聞き慣れた糾弾の声を私は受け止め続ける。

 常にリスクを伴う手術は死を付き纏わせる。それを受け入れますと口頭では語っていても到底、遺族側にとってすれば受け入れられるものではないのだ。

 理不尽な声は何度も聞いてきた。しかし、受け止めるしかない。

 ここで遺族の言を否定しては医者として失格なのだから。

 そんな私を死神は笑って見ていた。じっとりとねめつく嫌な目つきだった。

 この死神には情けも容赦も無いのだろう。ただあるのは欲求だけ。

 他人様の死を喰らい貪る、言葉通りの死神。

私は生まれてこの方、死神が視えることを後悔したことは無かったが、これを呪いだと思うことは頻繁にあった。

 他人の死を否応にも受け入れなければいけない呪い。自分が実は無力なのではないかと猜疑心に駆られる呪い。

「はぁ……」

 思わず溜め息を吐いた。自分の思っている以上に、前回の手術が失敗したことに負い目と徒労を感じていたらしい。

 自販機で珈琲を買い、プルトップを開け、一気に内容物を喉の奥へと流し込む。

 珈琲を一息に飲み干すのが私の飲み方だった。

 助手からは勿体ないと非難を浴びる飲み方だったが気にしない。

 子供から老人まで分け隔てなく寛いでいるフリースペースで、空になった珈琲の缶を両手で握って顔を埋める。

 と、香水の匂いが鼻をついて私は地面を見ていた顔を上げた。

「あなたは……」

 そこに立っていたのは艶やかな髪の毛に品のある香水を漂わせる可憐な女性で、私はその顔に見覚えがあった。

「村山さんじゃないか」

「丹原……さん?」

 偶然の再会に喜びを露わにした私は握手を求めた。

 笑顔で応じる村山さんの顔色が思わしくないことに今になって気付いた私は、怪訝な表情で彼女の顔を窺った。

「どうされましたか?」

「ッ! いえ、何でもないです。ごめんなさい」

 すると、彼女は切羽詰った表情で私に背中を向け、駆け出した。何事かと周りから視線が集中し、居た堪れなくなって私もその場を後にした。

 背を向けた彼女の横顔は、何処か泣いているように見えて、私は心配でならなかった。

 そして――、彼女が心臓に重い疾患を患っていると知らされたのはすぐ後のことだった。


 目の前が真っ暗で何も見えない。

 その中を、ただ僕達はひた向きに走り続ける。

 後ろからはいつものいじめっ子達が僕達を追いかけてくる。

 ウザい。死ね。消えろ。

 口ではそう言うくせに、彼らは僕達を放っておいてはくれない。

 逃げる。逃げる。逃げる。とにかく逃げなければ生き残れなかった。常に心に刃を突き付けられてきた僕達に居場所は一つしか無く、お互いに縋りよるしか道は無かった。

 しかし、ふとした拍子に手が離れてしまった。

 彼女との距離が離れてゆく。

 僕は彼女の名を必死に叫ぶ。

 しかし、一度離れてしまった手は宙を掠めるばかりで――、


「村山さん!」

 私は飛び起きた。汗がびっしりと虫が群がるかのように背筋を冷やし、ぐらぐらと視界が明滅する。

 彼女の病名が発覚してから、既に一ヵ月という月日が過ぎようとしていた。

 視界の片隅には、僅かに死神のせせら笑う姿が見える。

「お前、見ていたな!」

 何のことだと死神がおどけてみせる。

「私の夢を見ていたなと言っている!」

 胸倉を掴めれば、きっと掴めていたことだろう。だが、それが出来ない手合いであることを知っていた私は、苦渋に舌を噛んだ。

「助かる見込みはあるのか」

 私は死神に直球で訊ねた。再び、おどけた表情を取る相手に私は憤慨する。

「村山さんは助かるのかと聞いている!」

 私の言葉がさぞ面白いのか、死神は禍々しい顔を奇妙に歪めながらけらけら笑った。そして、言った。

 彼女が助かるかどうかは、お前次第だと。

「私次第? それはどういうことだ?」

 再びの問いに、しかし死神は答えなかった……。訳の分からない私はただ困窮するしかなく、その日は仕事にもあまり集中できなかった。

 脳裏に過ぎるのは、やはり村山さんのことだけで、今日に交通事故で死んだ人間のカルテなど頭の片隅にも残らなかった。


 次の日、また私は夢を見た。


 夢の中ではいじめっ子達が血だまりの中で倒れていた。

 立っているのは僕と、村山さんだけで、彼女はこわごわと辺りを見渡しては僕に視線を送って不安そうにしていた。

 僕は大丈夫だと彼女の体に触れる。

 何故か、触れているのは腕だったのに、ドクンドクンと大きな心臓の鳴る音が伝わってきた。

 鼓動は段々と速くなり、やがて爆音じみた加速度になってゆく。

 耳がきーんと遠くなったが、それでも尚、僕は彼女の手を離さなかった。

 震える彼女の手を半ば抑えつけるように握り締める。

 安心して。僕がついているから。その言葉に彼女は静かに頷いてくれた。

 しかし、心臓の鼓動は鳴り止まない。

 もはや、聞き取れない領域にまで達したそれは音ではなく衝撃として僕の体に伝わってきた。

 生の鼓動。

 必死に生きたいと主張する心臓の鐘。

 それが崩壊しかけている。

 止めなければならないのに手立てが分からない。

 僕達の周りには死体しかいない。生暖かい、まだ死んだばかりと思しきいじめっ子達の哀れな死体しか存在しない。

 そもそも、どうして彼らが死んでしまったのか僕には分からなかった。ただ、村山さんを助けようと考えることに必死だった。

 しかし、時は無情に僕達の間を引き裂く。

 しん、と心臓の鼓動が一瞬鳴り止んだ。

 違う。

 限界を突破してしまった心臓が爆発したのだ。

 音は無く、ただ視界が真っ赤に染まった。

 その後、一心不乱に僕は散り散りになってしまった彼女の肉片を掻き集めた。有り得ない方向に折れ曲がった骨を、散らばった脳漿を、張り裂けてしまった臓器の群れを。

 それら全てを、まるで人形を縫うように繋ぎ合わせ、僕は彼女を生き返らせることに成功した。

 彼女は生きている。

 静かに笑っている。

 その顔に僕も笑みを返す。しかし、彼女は笑い続けるだけで、何も答えてはくれない。何も喋ってくれない。それは人形でしか無く、それ以上の何者にもなり得なかったのだ。

 僕は発狂した。

 発狂して――


「うああああああああああああッ!」

 飛び起きる。

 あれは夢。あれは夢だ。夢なのだ。

 そう自分に何度も言い聞かせ、何とか平静を取り戻した私は台所に向かい、冷やしておいた麦茶をコップに移さずにそのまま飲んだ。味は一切感じなかった。

 ひとしきり落ち着いた後、私はついさっき見た夢について考えた。

 頭痛がする。

 自分の中で、まさか村山さんという存在がこれほどまでに大きな役割を果たしていたとは思いもしなかった。どうして彼女でなければいけないのか。他の人間なら、いつも通りに黙々と役目を全うし、無理なものは無理と断じることが出来た。

 そう、彼女の容態は芳しくない。すぐにでも新たな臓器を移植しなければ、それこそもって後半年。

 臓器提供者ドナーが、早期に見つからなければ彼女は助からない。

 どうしてなのか。

 私は村山さんの人生を深く語れるほど知っている訳ではない。だが、その裏に沢山の苦労があったことだけは知っている。

 人間の生死は残酷だ。

 対価を支払うことすら無く死んでゆく赤子が居る。今更になって、あれがしたかったこれがしたかったと後悔しながら死んでいく老人が居る。家族を遺して、自分でも知らぬ間に死んでいく若者が居る。

 それを死神を通して私は身を以って感じてきた。

 だが、理解はしていても到底認められるものではない。

 悔しかった。

 結局、自分は死神の手を持つ男であり、神の手を持つ名医にはなり得ない。

 私は憂鬱な面持ちで仕事場である病院へと向かった。これから、村山さんにどうやって顔を合わせればいいのだろうか。分からない。分からない――。


 彼女の疾患が判明したのが唐突であったなら、ドナーが見つかったのも唐突だった。

 私は喜びに咽び泣きそうになった。

 これは果たして現実だろうか? それとも、今までの全ての経過が何らかのドッキリだったのか。

 困惑し、戸惑い、嘘か真かの判断材料を探しながら、逸った心が喜ぶのを何とか抑え込む。

 そして、全てが真実であることを知った私は絶句した。

「これは……」

 ドナーに書かれていた名前。こんな偶然が有り得るのだろうか。私は神を呪った。素直に喜べない自分の不甲斐なさを憎んだ。運命がもし本当に存在するとしたなら、私はそれを一生許せない。

 早瀬慎はやせ まこと

 ついこの前、交通事故で意識不明――明確に言ってしまえば脳死した成人男性の名前。

 その名前に私は心当たりがあった。

 当時、私と村山さんを苛めていたグループの餓鬼大将だった男だ。


 ――足が擦り切れるのも構わず、僕達は走り続ける。後ろからは奴らがやってくる。逃げなくてはいけない。彼女は絶対傷付けさせない。

「さあ、早く!」

 校舎裏の鉄製のフェンスを乗り越えて、僕は下に居る彼女に手を差し伸ばした。

 手と手が繋がり合う。

 暖かい脈動が伝わり、僕は尚更守らねばという強い意思に心が動くのを感じた。

 両手で彼女を持ち上げて、僕らはフェンスの外側へと抜け出す。

「待ちやがれ!」

 いじめっ子達のボスである早瀬が憎々しげに僕を睨み付けた。僕も強気に睨み返した。本当は小便を漏らしそうなぐらい怖かったけれど、彼女の為なら勇気を振り絞ることが出来る。

 尚も追って来るいじめっ子達から僕達は逃げ続ける。

 まるで、いつもの下校する道が変質し、終わりのない迷路に迷い込んでしまったかのような気がして、急に心細くなった。

 彼女も同じ気持ちで居るのが、手の震えから感じられた。

 追っ手がやってくる。すぐそこまで迫ってきている。

 しかし、僕は身体が弱かった。それが彼女の足を引っ張った。ぜえぜえと息を切らす僕を見かねて、逃げきれないと悟った彼女は、大人が誰か居ないかと最後の希望にかけて近くにある公園へと逃げ込んだ。

 でも、神様は僕らを見放した。

 大人は居た。

 だが、誰も彼もが、僕達には興味を示さず、むしろ邪険なものを見るような目つきで見下ろすだけ。

 いじめっ子達が来てもそれは変わらず、僕達はすぐに彼らに取り囲まれてしまった。

 まだ幼い彼らに女性を尊重するという意思は無く、僕だけでなく彼女すら暴行の荒波に揉まれた。

 それでも僕は必死に彼女を守ろうと前に出る。

「きめえんだよ」

 顔を思い切り踏みつけられ、鼻血が出たが、そんなことどうだっていい。

「いい加減にしろよ」

 腹を殴られ、嗚咽する。黄色い吐瀉物がTシャツを汚したが、僕は敢えて殴ってきた相手にそのまま掴みかかった。

 早瀬。

 僕達を苦しめる元凶。

 彼にだけは一矢報いたかったのだ。

「うおおおおおおおおお」

 奇声を張り上げ、相手を頭で突き飛ばす。

 後ろにあった大木まで、早瀬を突き飛ばし、胸倉を掴んだ僕は更に頭を振り上げて相手の頭に打ち下ろす。

 身長だけなら、同い年の子には誰にも負けなかった。

 思わぬ反撃に苦鳴を漏らした早瀬は、しかし柔道を習っている。油断していただけであって、最初から僕に勝ち目なんて無かったのだ。

 至近距離に居たことが災いし、僕は思い切り背負い投げを決められて地面に倒れ込んだ。

「やめて! もうやめて!」

 他のいじめっ子達に引っ張られながらも、彼女が早瀬を止めようと必死に叫ぶ。

 僕は早瀬の顔を見た。

 彼の顔はとても憎々しげで、どうしてそこまで僕達が憎悪されなければいけないのか分からなかった。

 どうしてだろう?

 深く考えたことはない。

 ただ、子供ながらな感情で彼を憐れんだ。

 それがまた、早瀬の心を逆撫ですることを分かっていながらも、止め処なく溢れてくる憐みと対抗心の感情を止めることは出来なかった。

 その後、騒ぎを聞きつけた交番のお巡りさんがやってくるまで、僕達は早瀬達に暴行を受け続けた――。


 そんな昔のことを思い出し、私は吐き気を催した。

 早瀬慎。どうしてその名がドナーとして今ここにあるのか。

 彼は無免許運転で泥酔中に高速道路を突っ走り、事故を引き起こしたらしい。命を管理する職業であるにも関わらず、私は自業自得だと思った。ざまあみろと吐き捨てた。

 しかし、そんな彼がまさか臓器移植を受け入れる書類に印をしていたことが衝撃的だった。

 偶然にしては出来過ぎている。

 私はふと、いつも後ろに追従している死神を睨み付けた。

「お前は知っていたのか」

 さあ?と、やはりしらばっくれる死神に私は牙を突き付けるのを止めた。私が無駄な労力を割くだけ、相手は愉悦に喜ぶのだから。

 移植手術が行われるまでの猶予はあまり無い。

 困惑する心を抑えながら、私は村山さんに何と言えばいいのか考えた。

 考えた末に、何も思いつかなかった。


 しかし、ドナーが決まった以上、村山さんと面会を執り行うのは避けられない。

 私はここ数日で一気にやつれた表情を何とか押し隠しながら、彼女の病室へと入った。

 彼女もまた、やつれていた。

 そんな彼女に吉報とも凶報とも謂える情報を齎すのはとても気が引ける行いだった。

「村山さん」

「はい」

 感情の欠落した声。

 そこには、自分が助かるかもしれないという希望があるにも関わらず生気が感じられない彼女の横顔があった。

 視線はこちらを見ておらず、カーテン越しに外の世界を見ていた。まるで、籠の中に閉じ込められたお姫様のような儚さを連想させる姿に、悔しい気持ちが立ち込める。

「話は一部始終、聞いています。早瀬君が、私のドナーだって……」

「……」

 言葉が出てこない。

 喉が詰まったかのように、呼吸が上手く出来ず、私は苦い顔をして彼女を見つめた。

「私ね。生きるって何なのか、この病気に罹ってからずっと考えてきました」

 繊細なガラス細工のような指をシーツに這わせながら、続ける。

「それで思いつきました。生きるって自分の足で踏み出すことだって。誰かの足を借りて歩くなら、それはあくまでも他人の足であって私は動かされているに過ぎないんだって、そう思うんです」

 言い切った後、ゆっくりとこちらに背けていた視線を向けて彼女は私の言葉を待った。

 何と言えばいいのか、言葉に濁り、煩悶する。そんな私を見かねてか、彼女はくすっと笑って付け加えた。

「ごめんなさい。私の我儘で丹原さんを困らせてしまって。手術は日程通りに受けます。私、生きます」

 そう言う彼女の頬からは一筋の涙が零れていた。

 私は煩悶する。

 本当にこれでいいのか。そもそも答えなどこの世の何処に存在するのか。論理的でない、医者らしくもない思考が渦を巻いて私を苛む。


 生きるとは、何なのか。

 彼女の言葉は、この時既に私を孤独な一本道へと誘っていたのだ。まるで、何かの呪いのように、それは無自覚に脳内を浸透し、何処か甘い誘惑を含んだ思考だった。

 一度、動き出した歯車はもう止まらない。

ふと、死神の笑い声が聞こえた気がした。


 手術当日、私は静かにオペ室へと足を運んだ。

 今日ですべてが終わる。

 そんな直感が、私を突き動かしていた。

 拘ることは何もない。

 彼女の臓器を摘出し、そこに新たな器を運べばそれで終わり。完璧だ。奇跡的なまでにタイミングが良かったといえる。そう、論理的に自分を偽り、私は進む。

 私が着いた頃には既に、村山さんは麻酔で眠らされていた。

「大丈夫ですか?」

 オペナースが、こちらを見て不思議そうに首を傾げた。

 何故だろう?

 私は至って正常だ。

「大丈夫だ」

 そう機械的に答えて、私は手術に取り掛かることにした。

 彼女の裸体が否が応にも視界に入り、その肌白さに私は思わず見惚れてしまった。これが同じ人間なのか。

 人間とは異なる一つの生物なのではないかとさえ、思った。

 無駄な思考を首を振ると同時に振り払い、私はその腹部にメスを入れる。

 何も難しく考える必要は無い。

 心は自然と痛まなかったといえば、嘘になる。だが、私の心境とは裏腹にメスはすうっと、あまりにも軽い感触と共に彼女の身体に溶け込むようにして刺しこまれた。

 ゆっくりと、しかし着実に予め引いておいた線を辿ってメスを通す。

 やがて、臓器が見え隠れしたその時、ぞくっと私は背筋を鷲掴みにされるような感覚に陥った。

 落ち着け。

 落ち着くのだ。

 私は脂汗をじっとりと額に滲ませながら、脈動する臓器に手を当てる。

 これが、彼女の核。

 今、それをこの手で触っている。

 冒涜的行為だと思った。恥ずべき行為だと。

 しかし、為さねばならない。

 私はゆっくりと臓器を引き抜き、摘出した。未だ、ドク……ドク……と鼓動しているそれを横のトレイに置き、そして本題の――早瀬の臓器が眼前に差し出された。

「丹原さん?」

 オペナースに名前を呼ばれ、我に返った私は「ああ……」と一つ頷き、差し出された臓器を手に取った。

 まだ仄かに暖かい。

 臓器の鼓動が私の心を叩く。

 思い起こされるのは、やはり早瀬との因縁。村山さんの辛い顔。そして、憎悪と憐憫の入り混じった感情を早瀬に向けていた過去の私。

 生きるとは、何か。

 再び同じ問いが私の脳裏に浮かぶ。

 それはおまじないのようで、何度も反芻された。

 やがて――答えが出た時、私は人間の顔をしていたのだろうか。それとも死神の顔をしていたのだろうか。

 最早、そういったことを考える余裕はその時の私には無かった。

 ぐちゅ。

 熟れたトマトを潰した時のような、夕陽の生暖かさを感じる感触が私の腕を伝って心臓に木霊した。

「……認めない」

 握り締めた臓器を、信じられないぐらい強い力で握り締めながら、私はもう片方の手にメスを取った。

「お前が、彼女の中で生きるなんて認めない!」

 そしてメスが、断罪の鎌のように振り下ろされた。


 ――その後、村山さんは還らぬ人となり、私は逮捕された。後悔はしていない。何せ私は間違ったことなどしていないのだから。

 死神が私の運命をせせら笑う声が聞こえた。

 どうでもいい。

 何せ、幻聴なのだから。

 奴はもうここには居ない。用済みと言わんばかりに私の前から姿を消した。二度と会うことは無いだろう。

 私は遺された余生を、この牢獄の中で生きようと思う。


「2010年、玉田市聖印病院のこの事件は後世に色濃く残る事件です」

 本棚に収まりきらなくなった本が山積みにされ、何時の曲とも知れぬクラシックがレコーダーから流れる客間で、部屋の主は静かに一冊の新聞を読んでいた。

「犯人、丹原命は35歳と若手のベテランだったが、彼は自身の犯行を供述した時、このように述べた。“私は医者ではなく、死神だ”と」

 主の助手と思しき女性が静かに茶を淹れ、それを主はゆっくりと啜り満足気に続けた。

「これは死神の名付け親の呪いです。彼には一種の怪奇(才能)が備わっていた。童話で知るところの死神の名付け親は、最終的に死神を騙してお姫様を助けた男が、死神の琴線に触れ、自身の命を刈り取られ終わりを告げます。

 ですが、あのお話の中心点はそこではない。

 彼らは定められた運命を自分で決める権利があったのです。他人の命に理由をつけ、生死を分かつ最終的な権利を得られた。そして、丹原命は彼なりに生の在り処に気付いたのでしょう。

 これもまた何とも怪奇な事件でした」

 楽しげな主に対し、助手は密かに一つしかない眼を瞑り、二つある口を閉じた。

「おや、どうされましたか?」

「いえ、被害者の女性の真意は何処にあったのかと考えていました」

 助手の言葉に、ほほうと主は頷いた。

「それはまた、良い着眼点をされていらっしゃる。ですが、彼女の真意など誰にも知り得ないのではないでしょうか。知り得るものがいるとすれば、それは“死神”になるのではないでしょうか」

「…………」

 その後、彼らは一言も口を聞かず、また一つの物語に幕を閉じた。


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