第六話 『救済』
気づくと、目の前は暗闇だった。どうやら手足が金属製の椅子に縛り付けられているようでひんやりする。足首を少し動かそうとすると、胡坐を長時間続けた時のような痺れが走った。
少なくとも、僕はまだ生きているみたいだ。最後の記憶は、あの大男から逃げようとして、あり得ない素早さで追いつかれ、後頭部を殴打されるという漫画みたいなものだった。
「――気がついたようだね」
男の声とともに照明が灯され、その眩しさに思わず目を細めた。
そこは、壁一面鏡張りの、正方形の大きな部屋だった。横の壁を見ると、銀色の椅子に縛り付けられた僕と、その前にある銀色の大きなテーブルが、合わせ鏡で何重にも重なって見える。床のフカフカの真っ白なカーペットが無限に続いているように見える。方向感覚が狂いそうな部屋だ。
壁一面と言っても、僕と背中合わせの後ろの壁だけは、ただの白い壁だ。その右端のドアから入って来たのは、短髪の黒髪にメガネ、左手には銀色のアタッシェケース。僕をここに閉じ込めた男だった。
* * *
「まずは、自己紹介が基本だね」
机の前まで歩いてきた男は、くるりと振り返り、優しい表情でそう言った。
「私は、高級地下レストラン『KAGAMI』のオーナー兼、超一流魔術師、賀上玖遠と申します。趣味はビジネス、特技もビジネスです。どうぞ宜しく」
そう言って賀上玖遠は右手を差し出すが、僕は動けなかった。なぜなら、縛られてたから。
「おっと、これは失礼。私は座らせておけと言っておいたんだが……」
そう言うと、奴はテレビかなんかでみた手品のように、何もない所からナイフを出現させ、僕の両手を縛るロープを切った。
「実は私、魔法具の開発にも少々明るくてね。このナイフも私が考案したんだ。使用者の意思で見えなくなるナイフだから、ミエナイフ――なんつってね」
満面の笑みで宣伝を終えると、また優しい表情で話し始めた。
「最初に、いくつか簡単な質問に答えてもらう。大丈夫、ちゃんと答えれば痛いようにはしないよ。まず、君は魔術師かい?」
「違……います」
カラカラに乾いた唇を動かし、なんとか答えた。奴はうーむと唸りながら顎に手をやる。
「――本当は?」
その瞬間、男の目から輝きが消えていた。首元に冷たいものが押し付けられ、冷や汗が流れる。
「私のように、魔術の才能のある人間はごく僅かだ。今では魔力なんて一切持っていない人間の方が圧倒的に多い。こうして君と対面しても魔力どころか、脅威になり得そうな要素が何も見当たらない。君は一体何者なんだい?」
「――っ……」
僕は魚のように口をぱくぱくさせる事しかできなかった。
とにかく下手を打ってはいけないと思った。
「ここまでされても使わない……いや使えないのか」
彼はそう呟くと、ゆっくりとナイフを閉まった。
「しかし君は……背水の陣にも関わらず冷静に対処し、私の弟を圧倒した。もし君が魔術師だったらと考えると、君を殺すのが惜しいとも思えるんだ」
気づくと、男の顔にはさっきと同じ満面の笑みが広がっていた。
「君が私達の元へ来た理由はわかっている。親友の敵討ちだろう。でも、君の友達は生き返らないのだから、割に合わないと思わないかい?」
僕は、何も答えられなかった。
いたって冷静なつもりだったけど、心の奥底では、二人を自分の手で殺したかったのかもしれない。でなければ、なんで一人で来てしまったんだろう。
僕は馬鹿だ。ここまで来て、心の底から後悔している。今はただ、死ぬのが怖い。
「……私は考えたんだ。君の生殺与奪をどうするか。でもね、私には決められないという結論が出たよ。――そこで、商談だ。私が君を正式にスカウトしよう。軽い条件を飲んでくれれば、君は死なずに済み、今後は我々と共に生きる事になる」
「条件……?」
微かな希望が見えたと思った。
奴は僕の敵意に気づき、その上で僕を引き入れようとしている。強者故の余裕というやつだ。ここは一旦、受け入れるふりをするしかない。
「まあ、条件と言ってもそんな大層なものじゃないよ。君が信用に値するか試させてもらう。…………しかしその前に、私が君の信用を得る必要があるな」
奴は大袈裟に手を振り上げて指を鳴らすと、後ろのドアが音もなく開き、スーツを着た男が一人現れた。
賀上弟だった。その目は虚で、表情はかなり暗い。
彼は床を見つめながらテーブルの前まで歩いた。よく見ると微かに震えている。
「私は弟の優一郎を世界中の誰よりも愛している。私達は仕事柄、たびたび危険が伴う事も多いんだが、いつも二人で乗り越えて来た。でもごく稀に、優一郎は私を心から失望させることがあるんだ」
賀上兄はわざとらしく大きな溜息を吐いて、すぐに話を続けた。
「今回の仕事は簡単な筈だった。ターゲットは一般人の女子高校生、名は夜久明理。修学旅行中の彼女を攫い、クライアントに無傷のまま届ける。それだけだ。複数人で行動していると予想してたが、最悪なことに、彼らが二人だけの時に弟と遭遇してしまった。それを好機と考えた愚かな弟は単独で行動し、結果、彼女には逃げられるという始末だ」
身の毛もよだつような醜悪な話に吐き気が止まらなかった。
「この件は、君にも謝らないといけない。弟が上手くやっていれば光人君を殺す必要は無かったんだ。今までは弟の趣味……依頼対象外の殺害も黙認してたが、今回ばかりはそうはいかない」
そう言い終えると、兄は弟の方を向くと同時に、右脚を振り上げて弟の腹部を蹴ったのである。それも膝蹴りだ。硬い膝が鳩尾に食い込み、弟は嗚咽か悲鳴かわからない音を発した。
あまりの唐突さに言葉を失っていたが、奴はえづく弟を無理やり立たせ、今度は顔面に重い一撃。弟は衝撃でふらつくが、抵抗する様子はない。
「ユウ、早くハルト君に謝罪するんだ」
兄がそう言うと弟は懸命に土下座の体勢を取ろうとするが、兄に執拗に腹部を蹴られたり、頭を踏まれたりして、それどころではなさそうだった。まさにサンドバッグ状態だ。
「ハルト君っ! このままだと殺してしまうよ! いいのかい?」
「――え?」
数分後、弟がほぼ気絶しそうになって、ようやく奴は僕に聞いた。
「この愚弟の生殺与奪の権はハルト君、君に与えよう。君は彼をどうしたい? このまま殴り殺すか――」
「何を……言ってるんだ? 弟だろ?」
「ああ、そうだとも。私としても心が痛む。ただ、大人の世界とはそう言うもんだ。誰かがケジメをつけないといけない」
「……いかれてる」
奴の物言いは言語としては理解できたが、全くもって了解できなかった。
「一切止めようとしなかった君も大概じゃないか」
白いハンカチで拳の血を丁寧に拭き取りながら、兄は僕に言った。
「なんなら、少しはスカッとしたんじゃないかい? 人間というものは不思議でね、罪のない人間や大切な人間が苦しんでいると助けるのに、赤の他人の不幸には目もくれない。いや、無関心ならまだマシな方だ。苦しんでいる人間が凶悪な犯罪者だとわかると、そいつは苦しんで当然、死んで当たり前だと正当化し、一緒に石を投げ始める。何か一つでも最もらしい理由があれば、人間はどこまでも残酷になれる」
「……」
反論できない自分が憎かった。
「ただ、それが間違いと言いたいわけじゃないんだ。私は残虐性こそが人間の本質だと信じている。つまり、ハルト君は報復と言う、最も人間らしい行動を取ったわけだ。……そして、君はかなり上手くやった」
彼はその時、今までで一番明るい表情を浮かべていた。
「さて、私は冗談が好きなんだが、君が欲しいという言葉は大真面目だ。君は自分でも気づいていないようだから教えてあげよう。君は、素晴らしい才能を持っている。勉強? スポーツ? 色恋? そんなものはどれも穢俗な茶番だよ。犬の餌にもならない。君がその才能を磨けばもっと刺激的で有意義で輝かしい未来が待っている。どうだい? このまま腐らせるのは勿体無いと思わないかい?」
次第に声が大きく、早口になる兄の話を聞いていたが、何の事だか分からなかった。
「何のことだよ……」
僕は今まで才能があるなんて言われた事なんて無かったから、こんな犯罪者に言われて喜ぶとまではいかなくても、何の才能があるのか、それだけ気になったのは確かだ。
賀上兄は不敵な笑みと共にこう答えた。
「――殺しの才能だよ」
* * *
殺しの才能……?
まさか、本物の殺人鬼から認められるとは思わなかった。
しかし、僕は賀上兄が本当に僕を認めているんだろうと思えた。これをなんとか利用して生き延びるしかない。
「さてと、君に提示する条件についてだが……」
男はテーブルの上にアタッシュケースを置き、パチンと留め具を外す。中に入っていたのは、銀色の大皿と、その上の銀色の丸い蓋――クローシュだった。いや正確には、入っていたのではなく、ケースを開けると出現したように見えた。
男はその皿をテーブルの上に置き、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
白い湯気が消え、見たこともないような豪華なご馳走が現れた。柔らかそうな厚切りのステーキだ。
「――ところでハルト君。君くらいの男の子の商品的価値がどれくらいか知っているかい?」
僕はその言葉を聞いて、ようやくそのご馳走が何なのかを理解した。
心拍数がありえない速さにまで跳ね上がって、口から心臓が飛び出るんじゃないかと思った。
「はは、気づいたようだね。未成年の少女は君には想像もつかないほどの値打ちが付くんだが、残念ながら男だとそうはいかない、全部バラして売っても、高級な牛一頭とか一般的な新車一台と同程度だ。度し難いほどに差別的。時代錯誤もいいところだよな――」
目の前が真っ暗になった。
あまりの衝撃に頭が痺れ、男の声が遠くなる。足元が崩れ落ちたような絶望だった。
いや、元々、希望なんて無かったんだ。僕は馬鹿だった。こいつは、僕を生かす気なんて、一切無かった。
「条件はただ一つ、君が絶対に裏切らない事を証明してほしい。これを食べて陣門に下るか、食べずに死ぬかだ」
そう、食べられる筈が無い。
「しかし、アキト君とは仲が良かったんだろう? 彼は明理ちゃんを助けるために自分を犠牲にしたんだ。君に食べられる事で君を助けられるなら、天国の彼も本望だと思うんだがなぁ」
僕にできるのは、憎たらしい男の笑顔を睨むだけだった。
* * *
僕は絶望のどん底にいて、男の右手に握られたナイフが、ゆっくりと僕の喉元に近づくのを、他人事のように見ていた。
その時、男の背後の鏡に罅が入った。
それは、一瞬の出来事だった。
この世界に奇跡というものがあるとすれば、それは、今この瞬間のことだと思った。
宙を舞う無数の赤い硝子片が僕の顔を掠める。
気づくと、数秒前まで僕を殺そうとしていた大男が首から上を失い、噴水のように血を吹き出しながら倒れ込もうとしていた。
――ごとっ。という重い音が背後から聞こえた。あまり振り返りたくはない。
そして、静かに床に舞い降りる少女。
最後に目に映ったのが、彼女だった。
その瞬間の彼女は誰よりも輝いて見えた。
* * *
少女の右手には、赤い血の滴る、三日月のように湾曲した黒い刀が握られていた。
子柄で、背はたぶん僕より少し低いぐらい。ダボッとした真っ白なパーカーを着ている。
パーカーの裾に殆ど隠される程短いショートパンツ。雪のように白く細い脚。フードを目深に被っていて、顔はよく見えない。
彼女が黒刀を数回振って血を払うと、それは自ら縮小していって、液体のように変形し、彼女の首にネックレスみたいに巻き付いた。ここまで、彼女の白いパーカーは一切汚れていない。
「あ、あの……」
僕は声をかけた。
なぜなら、椅子に縛り付けられている人の近くに、刃物をもっている人が居合わせていたら、大抵の場合はロープを切ってくれるものだと思ったから。
でも、刃物を持っている人は大抵の人とは違い、僕を軽く一瞥し、くるりと背を向けて自分で作った入口へと歩き始めた。
その態度は少し癪だったけど、そんなことより、少女の瞳が緋色に鈍く輝いている事に気を取られて、何も言えなかった。
「――ユキノォオオオオオ!!」
その時、割れたガラスの方から大声とともに別の人がやってきた。今度は男だ。
どこか見覚えがある声だと思っていると、男は一瞬部屋を見回し、険悪な顔で歩いてくる。どうやら、ユキノと呼ばれた少女にご立腹みたいだ。
しかし、彼女は男の横を素通りし、「じぁあ、先に帰ってます」と言い捨てて消えて行った。
それから、ようやく僕の体が椅子から開放されることになったんだけど、男が誰なのか、やっと思い出した。
佐元脳神経医院の院長、佐元先生だ。
「……やっぱり、君だったのか」
先生は僕を見て少し表情を曇らせたけど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
そして、ロープを綺麗に切ってくれて、もう大丈夫だと、僕の頭をポンポンと叩いた。
「歩けるかい? ハルト君。さっさとここを出よう」
* * *
その後、先生と一緒に近くの警察署へ行き、スーツを来た優しそうな警官にいろんな事を聞かれた。
先生曰く、「あの部屋は警察には見つけられないよ。後はこちらで処理するから心配しなくていい」らしい。警官には家出したと言えば大丈夫だと言われたから、そうした。
雑居ビルの地下で違法レストランが経営されているとか、夜な夜な一部の優良会員向けの尋問ショーが行われているとか、割れたガラスの外には、その中でもVIP向けの特等席があったとか、そんなことは一切話さなかった。






