第三話 『戦慄』
昨日の六月二十日、月曜日。修学旅行初日の朝。僕の抱いていた淡い期待は、跡形もなく打ち砕かれる事となった。
僕は急な頭痛に襲われた。いや、ただの頭痛ではなく、今までで一番酷い、激痛だ。頭の中で爆竹でも鳴らしたみたいだった。ベッドから起きあがろうとすると、それは邪魔するかのようにさらに激しくなった。
恵理さんに病欠の電話を入れてもらった後、丸一日以上、僕はベッドから天井を眺める事しか出来ないでいる。今ではかなり軽くなってるけど、まだ疑われているのだろう。忘れた頃に微かな痛みがやってくる。
――まあ、いいんだけどね。こうなることは大体わかってたし。
別に修学旅行とかどうでもいいし。お前の魂胆は知れてんだよ、コデックス!
とは思うものの、今頃二人はよろしくやっているんだろうなぁと考えると、一抹の淋しさとやらが無いわけでもないのだった。
* * *
――ハルトが微睡み始めたのと同時刻。
夜久明理と京崎光人は、京都のとある自然公園の、閑散とした巨大な杉の森を二人、ゆっくりと歩いていた。
今朝、光人達修学旅行生の一行は京都での自由行動中であり、無論、彼らは基本的に班での行動が義務付けられている。光人の班は男女二人ずつの四人であったが、四人で清水寺を観光した後、光人がさりげなく別行動を切り出したのである。
「――ハルトにも見せたかったな、この景色」
「……そうね」
足元には一面の緑。垂直に聳える無数の褐色の幹。周囲の絶景を眺めて呟く光人に対して、明理は細い眉を僅かに顰めて言った。
「さっきから、神之木君の話ばかりしているわね」
「そうか……?」
「そうよ。ハルトならここへ行くだとか、ハルトならこう言うだとか、そんな話ばかり。神之木君の事、そんなに好きだったかしら」
「ははっ……まあな。それにあいつ、あんなに楽しみにしてたのに急に来れなくなったからさ……」
「私には、楽しみにしてたようには見えなかったけど……」
「そりゃあ、端から見ればそうかもしれなけど――お、アレ見ろよ」
光人は、唐突に目の前を指差した。木の手摺で区切られただけの細い道が途切れ、そこには少し開けた空間がある。その中央に、人が数人座れる程に巨大な黒い枯木が横たわっていた。
「ちょっと休憩しようぜ」
そう言って促す光人に従い、明理は制服のスカートを後ろ手で抑え、枯木の上に腰を下ろす。
心地よい薫風が、彼女の黒髪を靡かせながら吹き抜けていった。真っ白な肌が柔らかな木漏れ日に照らされ、眩いほど燦やかに輝いている。
寸秒、その様子に見とれていた光人だったが、すぐに明理の隣に座り、真面目な表情を浮かべる。
明理は、急に雰囲気の一変した光人を訝しげな顔で見た。
「――なぁ、俺ら三人、昔はよく一緒に遊んでただろ?」
明理の表情が微かに強張る。
「……よく覚えてるわね、そんな昔の事」
そうは言ったものの、彼女は光人のその言葉で、ハルトが彼らの学校に転校して来てからの一年間を思い出していた。
彼らは同じクラスで、光人も明理も転校生に話しかけずにはいられない性格をしていたため、彼らはすぐに仲良くなった。
さらに、座席が近いだけでなく家も近所同士で、いつしか、広い割に大人の邪魔が入らない神之木家に集まって遊ぶようになっていた。
しかし、彼女はある日突然、ハルトから一方的に拒絶されたのだった。
親には男の子なんてそういうものだと言われた。そして、時々ハルトと光人が話しているのを見て、やはりそうなのかと思うようになっていった。
それ以降、中学三年生になるまで、二人は互いの存在を意識から消していたのである。
「最初は三人で話す予定だったんだけど、あいつは納得しないだろうからな……」
「なんのこと……?」
「その……。お前、ハルトに嫌われてると思ってるだろ?」
「それは……」
「あの時は、ハルトが急に別人みたいになったからな。俺も最初はそう思ったよ。この話は、あいつ本人からは言えないから、かわりに俺が言えばいいと思った。お前も、少しは関わってるわけだしな」
ハルトには口止めされてるけどな。と光人は笑ったが、明理は一緒に笑う気にはなれなかった。
「……それで気がすむなら、好きにすればいいじゃない」
その後、明理は、長年彼女に隠されてきた秘密をようやく知ることになった。
四年前、彼らが小学校五年生の夏。神之木ハルトの身に発症した奇病。あるいは現象について。
光人は、自分がそれを知ったのは偶然であり、明理に敢えて隠していた訳ではないと説明したのである。
「神之木君が自分で誰かに伝えるのを邪魔する、か……。にわかには信じがたい話ね。だけど、もし本当だとして、光人君はどうやってその、コデックスの事を知ったの?」
「まあ、そう思うのが普通だよな。……あれは確か、最初の頭痛が起こってすぐ――」
光人は、突然その言葉を止めた。
彼は、急に話す気を無くしたわけではない。光人と明理のいる開けた場所の、彼らが来た方と反対側の入り口付近に、いつの間にか一人の男が立っていたのである。
細身で光人よりやや長身。白いシャツにベージュパンツという夏らしい格好。暗い赤紫色という奇抜な髪色だが、整った顔立ちの男である。
整った顔と言っても、光人程ではないと明理は思った。光人も明るい茶髪に爽やかな顔をしているのだが、この男は、何処か影が薄いというか、光人のような存在感が感じられない。
「――あのー、ちょっとお聞きしたいんですが……」
すると、不意に男はそう言い、微笑みながら二人に近づいて来た。
「はい。なんですか?」
「いやぁ、実は犬の散歩中だったんですけどー。うっかりリード放したらどっか行っちゃたんですよねー。……こんくらいのー、ちっこい柴犬、見ませんでしたー?」
「いえ、見てませんが……」
爽やかな笑顔のまま、しゃがんで手でサイズを表現しようと試みる男を、明理は暫し呆気に取られて見ていたが、すぐに我に返り否定する。
しかし、男は気にする様子も無く、二人が何かを言う前に立ち上がり彼らを交互に見た。
「そっかぁ。ここら辺だと思うんですけどねー。あの、もし良ければ一緒に探して頂けないかなーなんて、虫が良すぎですよね……」
「……あの、俺たち修学旅行で来てるので、時間もあまり無いんですよね、すみません」
「ああー。やっぱり修学旅行生かー。懐かしいなぁー。てことは、君たち二人は逢い引き中ってとこかー」
「いえ、そういうわけでは……」
「え、違うの?」
「俺達はまぁ……友達ですよ」
ふーん。と、つまらなそうに言う男を見て、明理はやや混乱していた。
彼女は、外を歩けばかなりの確率でナンパをされるという生活をしているため、それに断るのにも慣れていた筈だった。
しかしその男の、ナンパにしてはあまりにも怪しく、大胆とも言える所作に戸惑いを覚えたのである。
しかし、それが猜疑心へと変わった時には、既に遅かった。
「……はぁ、やっぱ君たち見るからにカップルだし、諦めるかぁ。あ、それと最後にちょっと聞きたいんだけど――」
――これ、なーんだ。
「っ………!!」
その声と同時に、男は流れるような所作で、背後に隠されていたシースナイフを光人の喉元へ突きつけたのである。
男は、ただ驚くばかりの光人の背後に回り込むと、にこやかな笑みを浮かべて言った。
「わーお、最近の高校生はチョロいなぁー」
光人の反応が鈍い訳ではなかった。男が動いたと思った次の瞬間には、既に冷たい鉄の感触が首元に触れていたのである。
「……あー、えーと。動いたり声を出したら、こいつを殺しちゃうよ?」
男は恐怖に顔をひきつらせる明理に追い打ちをかける。
「ねえ、何故俺が彼氏くんを先に狙ったか分かるかなー?」
男は、恍惚の表情で明理を見下ろす。
仕留めた獲物を弄ぶ猫のように、彼は殺人を楽しんでいた。
「それはねえ! 万が一君が逃げようとしても、こいつを殺して追いかければ良いからでーす!」
その光景は、人間の狂気というものを体現したようだった。
あまりの恐怖に明理は思わずへたり込んでしまう。
「あー。いいねぇー。その顔マジ最っ高……!」
明理の恐怖に歪む顔を見て、男がそう言った時である。
「――くっ……! あ゛あああ! 痛てぇぇぇぇぇ!!」
突如、苦痛の混じった声と共に男はナイフを手放した。
その右腕には、金属製のシャープペンが深々と刺さっている。
「簡単に余所見してくれちゃって。ちょろいのはどっちだよ」
そう言いながは光人は、屈んで落ちたナイフを拾う。
これは、光人が誰よりも優秀にもかかわらず、四六時中シャープペンを持ち歩く程真面目であり、さらに敵の油断した一瞬の隙を無駄にしない度胸を持ち合わせていなければ成立しなかった奇跡である。また、身体能力に関しては男は光人を完全に見くびっていた。
張り詰めた空気の中、光人はふと微笑み、背後にいる明理にこういった。
「明理、先に逃げろ。俺は大丈夫だ……」
――その言葉で、明理はようやく状況を理解した。
そう、光人は自らの命を危険に晒し、明理が確実に救われる可能性に賭けたのだった。この状況で彼女がすべき事は、一刻も早く助けを呼ぶ事である。
「……ごめん、すぐ戻るから」
明理はそう言いながら踵を返し、拳を固く握って地面を蹴った。
そして、死に物狂いで走った。人喰いの怪物に紙一重で追われるかのように。
掌に爪が食い込む痛みだけを意識し、前だけを見て走ったのである。
――彼女が木々の隙間に見えなくなると、男は不快を露にして言う。
「チッ、おまえの目の前であの女を犯してやろうと思ってたのによー。計画がパーじゃねえか。どうしてくれんだよ、あぁ?」
「一人で二人を襲うのが計画か? 随分と優しいな」
光人は、荒れ狂う心臓をどうにか宥めようと、左手に持ったナイフを強く握りしめる。
こっちが圧倒的に有利な筈だ。
自身にそう言い聞かせていた。
「――あー? 誰が一人だって?」
男が不気味な笑みを浮かべて、こう言うまでは。
その瞬間、光人は後頭部に激痛を覚える。
「クソッ……」
藁に縋るように伸ばす手もむなしく、光人の意識は急速に薄れ、膝がすとんと地面に落ちる。
――数時間後、戻ってきた明理と警官が目にしたのは、一面に広がる緑草の中、ぽつんと一箇所だけ赤く染まっている光景だった。






