閑話 『Abyss』- 1
京崎アキトはこれまで、完璧な人生を歩んでいた。
見た目、人望、クールな友人達。欲しいものは全て持っていた。特段裕福ではないが美容師の父が無料でカットをしてくれて、自頭の良さ故に勉強には困らない。部活の大会という高校生らしい目標もある。
アキトが攫われたあの事件の前後で、彼の生活は特に変わってない。
ただ彼は、自身では上手く表現できないものの、何かが変わってしまったという気がしていた。
最初の違和感は部活だった。県内随一の強豪校の絶対的エースであり、類稀なる身体感覚を持った彼がそれに気づくのにさして時間は掛からなかった。
――普段より、体がよく動くのである。
どれだけ走っても疲れず、どれだけ体勢が崩れようと完璧なシュートを打てた。結果、その日の試合では十個の三ポイントを含む四十得点を決めた。
チームメイトは「バスケ星人にでも改造されたか?」と揶揄い、監督は「いつも凄いが、今日は本当に無敵だな」と感慨した。
しかし、いつものように極限まで身体を追い込む中、アキト本人だけは気づいていた。ただ今日は調子が良いだとか、そういうレベルでは無い。まるで別人に生まれ変わったような気分だった――
そんな中、一ヶ月が経った。
彼はいつも通り部活から帰り、シャワーを浴びようとしていた。
ふと、鏡に映った自分の体が目に入った。
その時、なぜ今まで気づかなかったのかと思えるくらい決定的な変化に気づく。
右肩にあったはずの傷が跡形もなく消えているのである。小さいものの一生消えることは無いと医者に言われた幼少期の傷である。
その日以降、彼の行動が少しづつ変わっていった。
何かの病気かと思ってネットで調べていると、UFOだとかドッペルゲンガーだとか、オカルトに少し詳しくなった。
今まで一切読まなかったホラーやSFがどうしても気になって読むようになった。
非科学的な空想に耽り、友達に「またぼーっとしてんなーw」と笑われるようになった。
どれも、以前の彼には考えられない事だった。
明理に相談しようかとも考えたが、どうしてもできなかった。少しでも危険な可能性があるなら、彼女を巻き込む訳にはいかないからだ。
自分に一体なにがあったのか知りたい。それだけの、些細な好奇心くらい許されるはず――と、思っていたのである。
しかし、それは少しばかり甘かった。
学校が夏休みに入って数日後のある時、アキトはいつもの友達グループと駅地下の商店街を談笑しながら歩いていた。
彼らは特に目的があるわけではない。ただ持て余した時間を青春に捧げていたというだけであった。
その内の1人が突然「これいいな」と服屋の前で足を止めると、残りも続いて店内に入った。そのまま、今日は服でも買おうという流れが出来上がる。
しかし、アキトはすかさず隣にいた友人にトイレに行くと言い、踵を返し別の店へと入ったのである。それは、先程彼らが通り過ぎた本屋だった。
彼は初めて目にする本屋に好奇心を抑えられなかったのである。
* * *
「――あれ、アキト君……?」
本を物色し始めた直後、アキトは背後からの声に驚いて振り返る。
「あ、明理?!?!」
アキトはとある雑誌――表紙に意味深な記号や宇宙人らしき生命体の写真、真っ赤なタイトルが印刷されている、いかにもな雑誌を慌てて棚に戻す。
「なんでここに?」
「なんでって、本を買う以外の目的がある?」
「いや……それはそうなんだけど」
「アキト君こそ、そういうのに興味あったのね」
「えーっと、そういうのっていうのは……?」
「オカルト。だって見てたでしょ、そこの『月刊キュー』の最新号」
「まあ、見てたというかなんというか、ほんの出来心っていうか……」
アキトは一瞬迷った後、観念しましたと言わんばかりに軽く肩を竦めた。
「ちょっと訳あって……最近妙に気になるんだよね」
アキトは、明理の事を最も聡明な人間の一人だと認めていた為、彼女を欺くことを即座に断念した。
そして、どう話題を変えようかと必死に思考を巡らせていた。
「もしかして、アキト君もあの噂が気になるの?」
「噂……? なんの話だ?」
「アビスのことよ。知らないの?」
「アビス? ごめん、なんの話だ……?」
「知らないのね。その雑誌の表紙にもあったからてっきり――」
明理はアキトの言葉を遮り、彼が戻した雑誌を再び取り出すと、表紙の片隅にある文字を指し示した。
【ネットを騒がせる謎の動画『Abyss』の真実……隠蔽された地球外生命体との関連が――】
「これよ。自分のスマホなんかに勝手に『Abyss』って名前の動画が保存されてて、見たら呪われる……っていう噂」
「聞いたことないな。アカリは……信じるのか?」
「ふっ。なわけないでしょ」
今度は、明理が肩を竦める番だった。
「こんなの、誰かのいたずらに決まってるじゃない。信じるとか以前に全く興味ないわ。ただ……」
「ただ?」
「少し前に私の妹が、その動画を見たって言ってきてね。もう怖がって仕方ないのよ。私も馬鹿らしいと思ってすぐに消させたわ。普段の私ならそれ以上何もしないんだけど、その、私達、もっと信じられないことも目にしたわけじゃない?」
「ああ、そうだな……」
明理は、妹があまりに怖がる為、ネットで少し調べてみたらしいが、わかったことはほぼ無い。
朝起きると『Abyss』というタイトルの動画が勝手に保存されていて、普通に再生できて、共有したり削除も可能。
ネット上で初めてそういう投稿があったのが一ヶ月ほど前。アキトが攫われた事件の少し前である。
動画は薄暗いコンクリートの部屋の中央に木製の椅子が置かれているシーンで始まり、直後、床が崩れて椅子が落ちる。そしてカメラが椅子を追って穴に落ちる。
4分程度の映像の内、ほどんどは落ち続ける様子、すなわち真っ暗な視界が続くという。
ここまで内容が判明しているのも、そのデータ自体がネットで拡散されているためである。
「けっこう有名な噂なんだけど、知らなかったのね」
「ああ、聞いたこともなかったな」
「最近ちょっと忙しすぎるんじゃない? あんまり無理は良くないよ」
「そうなのかな……。ありがとう」
話題が自然に世間話へと移り、その後二人は別れた。噂の真偽がどうであれ、これ以上深入りする理由がなかったのである。
しかし、彼らは知らなかった。後に「アビス事件」として有名になる惨劇にすでに巻き込まれつつあるという事を。






