第十七話 『刻呪』★
あとがきにイラストあります
――自由落下。
それは、基礎物理でも初めに教えられる単純な運動である。
落下の最中、物体は一定に加速し続ける。それだけの単純な法則が、理不尽で致命的な脅威となりうる。
高層ビルの屋上から突き落とされた少年――神之木ハルトが落下を初めて、約三秒。
生身の人間が着地できる速度は疾うに過ぎていた。
――ヤバイ……!
ヤバイヤバイヤバイヤバイ……!!!
落ち着け……!!!
落ち着きさえすれば…………!!!
しかし、少なくともその三秒において、彼は希望を捨て去り取り乱していたわけではない。
彼はその知識の全てを、逆境を打開する術を探るために使った。
ーーだめだ……早く減速! 減速しないと……!!
彼は必死の思いで、自分の体を浮かせようと試みた。
「やべっ――」
しかし思惑通りにはいかず、背を下にして落下していた彼の体が、ぐるぐると回転運動を始める。
茜色の空と遠く下の地面を交互に見ながら、彼の頭は絶望に染められていった。
――くそっ……。
魔力が足りない……!
コデックス!!!!
「そうだ……キューブを…………!!」
彼はその怜悧さ故に、キューブの電源を入れた時には結論に辿り着いていた。
――あ……。
これ……………………詰んでね?
刻一刻と、耳を劈く轟音がその大きさを増す。
「いやだ……」
いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ…………。
「――なんで僕が、こんな所で……!」
彼の不平はもっともであった。
彼はただ、災厄に巻き込まれたのである。
ごく普通の中学生に、死の恐怖を克服しろと叱咤する権利が誰にあろう。
彼のこの状況を名状すべくは、四面楚歌、八方塞がり、袋の鼠――いや、『水に落ちた鼠』である。
水の満たされたシリンダーに落とされた鼠は、はじめは何かに掴まろうと、助かろうとして藻掻く。幾度となく壁をよじ登り、その度に失敗し水に落ちる。その中で、鼠は次第に気力を失い動かなくなる。これが、強制水泳試験という名の実験である。
想像を絶する恐怖に晒された時、体力と共に持っていかれるのが『生きる意志』である。
落下開始から六秒、彼は死を覚悟した。
――い、息が…………!!
呼吸が……どんどん早くなっていく。
吸ってもく吸っても全然楽にはならず、むしろ水を飲んだように苦しくなる。
頭も回らない。もうどうでもいい。
悲嘆を通り越し――無気力。
死の直前は時間が引き伸ばされると聞いたことがある。
これが本物の絶望か……。
目を閉じると、暗闇の中に様々な光景が駆け巡った。
奇麗に整った庭。
眩しく輝く水面と水しぶき。
僕達を眺める優しい顔の女性――
これが、走馬灯?
いや、それより僕達って……。
ふと、靄がかかったように朧気な一つの顔が浮かんだ。
はっきりわからないけど、たぶん女の子の――
――…………さんっ!!
…………ん?
……ハル………………んっ――
誰…………?
「――ハルトさんっ!! 起きてください!!」
僕を呼ぶ叫び声。一気に霧が晴れたように、現実に引き戻される。
そこには、強い風に煽られながらも必死にシャツの後ろ襟を掴む幼女の顔が……。
「――プレッタ!?」
勿論、彼女の力で落下を止められる筈もない。おそらく時速数キロメートルは減速したかもしれない。その程度だ。
でも、お陰で回転は止まっていた。そして何より、僕は冷静さを取り戻せた。
「――ありがとう、プレッタ」
たしかに、まだ希望はある。
いままで忘れていた――いや、違う。気づかないふりをしてただけだ。失敗すれば、それはそのまま死を意味する。
一度も使ったことの無い謎の物体に命を預ける勇気がなかっただけだ。
僕は三つのクリスタルを取り出し、ただひたすらに願った。
――生きたい、と。
地面との距離は数メートル。
再び死を覚悟した、その瞬間。
突如僕の体は眩い光に包まれ、急激に減速した。
* * *
――落下開始から約八秒。
神之木ハルトは、道歩く人々の足を止める突風を巻き起こし、夕方の街に着地した。
その様子を目の当たりにした者は皆、後にこう語る。
――「頭上に急に人が現れ、ゆっくり着地した」と。
* * *
半ば呆けたように立っていた僕は、甲高い悲鳴に我に返った。
ふと辺りを見渡すと、何人かの女子生徒が謎の突風に煽られてスカートを手で抑えている。
漫画かよ……。
しかし、そんな光景を見ても何も感じないくらい僕は驚いていた。「生きている」という事に。
すると、近くにいたスーツの男性が僕に向かって言った。
「君……どこから来たんだ……?」
近づいては来ない。それどころか、数人逃げるように離れていった。まるで得体のしれない化け物に遭遇したみたいだ。
「い、いきなり現れたように見えたわ!」
とある女性の声に周囲がざわつく。自分の見間違いでなかった事に安堵したんだろう。たしかに、時速百キロは超えてただろうから目に映らないのも無理はない。
すると、とある女子生徒がスマホを取り出した。
「あ、写真は――」
とっさに顔を隠すと、背後に誰かの気配を感じる。
次の瞬間、僕は薄暗く人通りのない通りにいた。
「やるじゃん、ハルト!」
振り返ると案の定、僕を殺そうとした張本人、カルラが夕日に照らされて立っている。
「よく顔を合わせられるな……」
「え? 私が助けてあげたんじゃない」
「お前せいで死にかけた」
「でも、死ななかったでしょ? それに空が飛びたいっていう夢、かなってたよ!」
「そういう問題じゃない! もし失敗してたら――」
「そんときも私が助けるからだいじょーぶ☆」
「そんな――」
「それに、若いんだからちょっとは冒険しないとね!」
「黙れ! 完全に殺す気だっただろ!!」
僕はつい怒鳴ってしまって、すぐに後悔した。
でも、さすがの彼女も僕が真剣だと気づいたようだった。
「ごめんなさい……」
彼女は小さくそれだけ言って黙ってしまった。
もしかして、本当に悪気はなかったのか?
いや、だとしてもあんな事許されるはずがない。
彼女は僕より遥かに優秀な魔術師。一般人と考え方が違うのも確かだけど。
「いや、もういいんだ……」
そう言って僕は彼女のいない方向へ歩きだした。ここがどこかわからないけど、コデックスがいれば帰れるだろう。
いや、僕が死にそうな時にあいつは何してたんだ?
――はあ、無知とは罪なものだな。
どういう意味だよ。
――君が死なないと知っていたから何もしなかった。ただそれだけだ。
――彼女は本当に君を殺す気は無かった。それどころか善意だったんだ。それに怒るなんて浅はかだよ。
高層ビルから突き落とすのが善意だって? 正気か?
――ああ。それとも、僕まで信じられないっていうのかい?
はあ……分からなくなってきた。
もしかして、僕がおかしいのか?
魔術師の世界では普通の遊びだったとか?
……いや、そんなことあるか!
彼女は敵だとしか思えない。
――そう、彼女は敵だ。
…………お前、殺す気は無いっていったよな?
――敵だが、君を殺す気は無い。なぜなら彼女自身がその行為に疑問を抱いているからだ。
カルラは僕を殺したいわけではないと?
――そうだ。彼女の目的は別にあり、僕達の側に付いたほうがより達成しやすい。それを上手く気づかせれば、彼女を味方に取り込めるかもしれない。
たしかに味方だと心強いけど……。
――逆に、敵にすると厄介だ。現に今も、彼女から逃げられずにいるだろ?
……え?
――あまり怒らせるなよ。
「――はーるとっ!」
その時、何を思ったのかカルラが子供みたいに僕の腕に飛びついてきたのである。
「おまえ……情緒どうなってるんだ?」
「え、普通でしょ?」
「なんで急に呼び捨てなんだよ」
「私のこともカルラでいいよ!」
「はあ……」
もう呆れて怒る気もない。
「色々あって疲れたでしょ?」
主にお前のせいでな。
「ちょっと休憩でもしない……?」
「休憩?」
「私ちょうどいいとこ知ってるんだー」
* * *
また僕はジャンプしていた。
パチリという音とともに、暗闇から高級な雰囲気の部屋が現れる。協会のホテルほどじゃないけど中々お洒落だと思った。
「ふぅぅ……!」
カルラは早速ミルク色のソファに座り、気持ちよさそうに伸びをしている。
「私の好きな場所よ!」
「それは夜景が奇麗な森で言うセリフであって、ホテルに不法侵入して言うことじゃない」
「……なによ、ちょっと借りるくらいいいじゃない」
「バレたらどうするつもりなんだ?」
「逃げる!」
彼女は立ち上がり、親指を立てて自慢げなポーズまでとって言った。
「それに、私は少し話したかっただけなんだけどなぁ。あ、もしかして……」
ゆっくり僕に近づき、眉を寄せて悪魔的な笑みで問い詰める。
「私と一晩過ごすつもりだった……?」
「なわけあるか!」
「ふぅん」
「それより何を話すんだよ!」
「あ、そうだった! でもその前に――」
するとカルラは一瞬で姿を消し、数秒後にまた現れた。両手いっぱいにお菓子を抱えて。
「まずこれがなくっちゃね!」
「……」
「あれ? ……怒らないの?」
「もう怒るのにも疲れた。僕を巻き込んだわけでもないしね……」
「なるほどー。じゃあ腹を割って話そうか!」
彼女はご機嫌な様子で僕にソファを勧める。
「まずは、ごめんなさい……。私、君のことは色々と知ってるの」
僕達が座って向かい合うと、彼女は粛々と話し始めた。
「色々?」
「まあ、名前は神之木ハルト、15才、義母を含めた四人家族、今回の標で魔術協会に保護される。交友関係が狭い。身長は157センチで私より一センチ小さいって事くらいだけどね」
「最後の二つは必要なのか?」
「まあまあ……別にこの情報で何をしようってわけじゃないの」
「カルラは野良の魔術師じゃないのか?」
「ん? ……ふっ、本当に何も教わって無いのね」
「なんだよ」
「私はICGRと呼ばれる組織から来たの。International Commission for Gift and Regularity。日本語だと『魔法と秩序の為の国際委員会』ってとこかな。私達は魔法とかその他の超常現象をギフトって呼んでるの。神様からの贈り物。いいと思わない?」
有名なのだろうか。僕は存在すら知らなかった。
「それで、僕になんの用なんだ?」
「ICGRの目的は……君を殺すことよ」
「……」
「だから、私が逃してあげる!」
「はぁ!?」
あまりの突拍子の無さに僕は声を上げた。
「君はICGRなんだろ?」
「都合がいいから入っただけで、あんなカルト集団に興味無いわ」
カルラは本当に不快そうな顔をした。
「でもなんで? わざわざ危険を冒してまで僕を?」
「私の目的は一つ。魔術協会からあるものを取り戻すこと。でも……私は全く知らない場所にはジャンプできないの」
彼女の真意を読めずに困惑していると、彼女はすっと立ち上がった。今までにない自慢げな笑みを浮かべている。
そして彼女は徐にシャツに手をかけ、そのボタンを外し始めたのである。
「――ちょっと! 何して……」
僕は慌てて目を逸した。
「ふふ、恥ずかしがらなくていいわよ。ちょっと見てほしいものがあるの」
恐る恐る目を開け、ゆっくりと前向く。
そこには、脱ぎ終えたシャツを床に落とすカルラの姿が――
つまり、ようするに、当然の事ながら上はブラしか身に着けてないわけである。
しかし、彼女が続いてスカートを取り外そうとした時に初めて気づいた。彼女が何を見てほしいと言ったのか。
彼女の腹、肩、腕にまで黒いインクのような質感の模様――全身に彫られたタトゥーが、嫌でも目に入った。
タトゥーといっても、体に絵を描く類いのものではない。ほぼ円と直線による幾何学図形がいくつか現れ、互いに線で繋がり、大きな一つの図形が構成される。
そう、彼女はその躰に魔法陣を刺繍しているのである。
「これが、人の理を超えるICGRの技術――刻呪よ」






