第十五話 『使者』
僕の妹より一回り幼い謎の幼女は、声を失っていた。
それが首の外傷によるものなのか、精神的なものなのかは分からないけど、声を出せないようだった。
ただ、箱を開けた時、その思考は完全に空腹に支配されていて、それは僕にも伝わった。
鋭い痛みを覚えるほど胃袋が縮んで、体が鉛のように重く感じる。頭がおかしくなりそうだった。
僕達は急いで食べ物を用意した。
彼女はローテーブルの上にちょこんと座り、自分を囲むご馳走の匂いを不思議そうに嗅いだ。
大きなピザやお洒落な籠入りのパン、鉄板の上でじゅうじゅうと音をたてるステーキ。なんと全て無料で、頼むと運ばれてくる。
彼女は恐る恐るパンの一つを手に取り、小さくかじったかと思うと、目を見開いて一気に食べてしまった。
それからはしばらく食べる手を止めなかった。そして、彼女は涙を流しながら笑っていた。そこまで喜んでくれると、見ているこっちが嬉しくなる。
しかし、誰がこんないたいけな子供をここまで追い込んだのだろうか……。
その後、先生に傷の手当をしてもらって三人で彼女を眺めているうちに一時間程たった。
突然、彼女の手が止まる。
いつの間にか、彼女が身に纏っていたボロ布のような服が白いワンピースに変わっていた。流れる水のような模様が綺麗だ。
いや、変わったというより元に戻ったのかもしれない。やせ細っていた四肢も健康的と言える程に回復している。
「――浮いた……!?」
僕達が見た目の変化に気を取られている中、少女はふいに音も無く宙に浮かび上がった。今まで気づかなかったけど、少女からかなり強い魔力を感じる。
彼女は三人を見回し、僕に向かって何かを言いたそうに口を動かすがやはり声はでない。
「落ち着いて。喋らなくても分かるから」
――私の心が……わかるのですか?
脳内に言葉が響いて、僕はゆっくり頷く。
――私はプレッタ。先程は申し訳ありません。あまりの空腹に我を忘れて……。
「え、ああ。気にしないでいいよ。えっと……プレッタ?」
――ほんとに……わかるのですね。
彼女は涙を拭い、あどけない笑顔を見せた。明らかに人ではないのに、それは、むしろ人には到達できない程の純真さ。汚れ一つない純白の心を感じさせる。
そう、癒やしだ。
心が洗われるってのはこういう事なんだろう。最近忙しくて忘れていた大切なものを思い出させてくれたと言っても過言ではない。かもしれない。
* * *
――い、いま、桜屋……ユキノ様と、おっしゃいましたか?
僕が通訳をして取り敢えず自己紹介をする事になったけど、ユキノの名前を聞いたプレッタは驚きを隠せないようだった。
――桜屋小雪様のお嬢様の、ユキノ様でございますか?
「え? 母さんを知ってるの?」
その名前を聞いて、今度はユキノが驚く。
――ええ、当然でございます。
彼女は満面の笑みで胸を張って答えた。
――私のような下級妖精を使い魔として認めて下さったのは他でもない、幼き日の小雪様なのですわ!
僕達は三人の間に重い空気が漂った。
――そして、私が眠りについたあの時までずっと……。ユキノ様。貴方様がお生まれになった瞬間にも、私はお供させていただきました。あの時のユキノ様と言ったらもう、玉のように可愛らしい……あら、どうなさったんですか? ……皆様?
その様子を見た彼女は何かを察したようで、徐々に表情がこわばった。
僕達は瞬時に向かい合って小声で話し合った。
「どうしよう……言うべきかな?」
「私はそう思う。我々が隠し事をしているという印象を与えたくない」
「でも、元気になったばかりなのに……」
「大丈夫、いずれ知る事なんだ。私が伝えよう」
という感じだ。
「――プレッタ君、と言ったね? この話は、君にとって大事なことだと考えて敢えて伝えようと思う。ユキノの母親、桜屋小雪は十年前に敵との戦闘で死亡しているんだ。魔術協会を代表して、当時彼女と協定関係にありながら彼女を助けられなかった非力を詫びさせてほしい」
それを聞いたプレッタの目から光が消え、空中で体を丸め、両腕に顔を埋めた。
――そんな……十年なんて……。私は何をしていたのでしょう……。
「プレッタ!」
僕達の声も聞こえず、彼女はよろよろと部屋の隅に飛んでいく。
その後、手分けしてホテル中を数時間かけて探したが、全く見つかる気配がなかった。さっきあんなに強かった彼女の魔力が全く感じられないのである。
仕方なくコデックスに頼って、ホテルから出て近くの歩道の数メートル上空をふらふらと浮かんでいる所をようやく捕まえる。
「どこに行くんだ!? プレッタ!」
――ハルトさん……ですね? 何をしにいらっしゃったんですか?
「何をって、心配で……。誰かに見られたらどうするんだ?」
――お優しいですね。でも大丈夫。私の姿は一般人には認識できませんので。
確かに、何人か歩行者はいるのに、誰もプレッタに反応していない。
「とにかく、さっきはごめん……。もう少し配慮すべきだった」
――お気になさらないでください。貴方は何も悪くないんです。私は小雪様をお守りする為に存在しています。それなのに、小雪様が大変な時にご一緒出来なかったというのが、どうしても私は……。
プレッタは目を伏し、そんな彼女の悲壮を体現するかのようにワンピースの模様が暗く色褪せていった。
――昔からいつもそうなんです。いつも小雪様の足を引っ張ってばかりで……。きっと……私なんて初めからいなければ、小雪様一人ならこんな事にはならなかったのかもと思ってしまうんです。
「――プレッタ、それはちがうよ」
――違いませんよ。どうせ私なんて、取るに足らない芥以下の存在なんです。
「違うんだ、プレッタ。僕は二人が何を経験してきたのか知らないし、余計なお世話かもだけど、確実に言えるのは、ユキノのお母さんはプレッタを誰よりも信頼してた事だ」
彼女は僕の高さまで降りて、綺麗な黄金色の目でじっと僕を見た。
――なぜそんなに、自信を持って言えるんでしょうか?
圧力に少し気圧されそうだった。でも、僕とユキノの母親の事を知るには、プレッタの協力がどうしても必要だ。
大丈夫。焦らず、本心で話せばいい。
「まずはあの銀の箱、クロエが鍵になってた上に、何かしらの魔術でユキノしか開けないようになってた。他の協会の人じゃなく、ユキノにだ。つまり……ユキノの母親は、自分に何かあった時、君ならユキノを任せられると思ったんじゃないかな?」
まあ、本当にユキノだけなのかというと確かめることもできないけども、そこを疑う理由は無いだろう。
――私が……ユキノ様を…………?
「そう。小雪……様の亡き今、小雪様の御息女であるユキノに仕える。というのが自然なんじゃないかと思うんだけど……どうかな?」
――そう……ですね。なんでそんな単純な事に気付かなかったのでしょう。まだ惚けているのかもしれません。
そう言ったプレッタの目は少しづつ輝きを取り戻していった。
* * *
夕食の前に、僕はユキノに頼んで実戦的な戦い方を少し教えて貰うことにした。
実戦と言っても、僕は先生からもらった竹刀を持っているのに対しユキノは素手だ。ユキノに一度でも当てられたら合格らしい。
……それでも、彼女は武器など無くても僕を蹂躪するのには十分な強さだ。その上、何故かいつもより不機嫌で、容赦なく急所を狙ってきた。
先生の公認ということもあって僕を痛めつける事を楽しんでいるのかもしれない。
僕は必死に避けるが、気づけば転ばされて後頭部から床に叩きつけられる。何度か意識が飛びそうになり、先生に治して貰った。
「……めちゃくちゃな授業だな」
「これ以上手加減できないんだけど」
「もっと油断してくれないと困るんですが……」
ユキノが手加減しているのか僕の体がおかしいのか分からないけど、本来なら大怪我しているはずの攻撃が何度も直撃したし、体力も限界なはずだ。
なぜそれでも動けるのかと言うと、僕だけ回復アイテムが無限だからだ。
体力や軽い怪我なら飲むだけで治るまさに魔法のドリンク。名前はネクタルというらしい。
由来はギリシャ神話の神々の飲み物だとか。
* * *
散々殴られながら、自分に足りないものが何となく分かった。
起動力だ。
僕がユキノを攻撃すると、彼女は華麗に飛んで避け、天井近くの壁を蹴って一瞬で戻ってくる。
空間をうまく利用している。僕にはとても真似できない戦い方だけど、少しでも参考にしたい。
僕自身が飛べたら一番だけど、重すぎて浮かせるのは無理だった。
そんな事を考えている内に目の前にユキノが詰めてきた。
「――あ……」
咄嗟の事でガードもできず、みぞおちを殴打される。
「ぁ"あ"……痛ってぇ……」
一メートルくらい吹っ飛ばされ、あまりの痛みに武器を放してしまった。立つこともできず、呻きながら地面に倒れこむ。
「生きてるー?」
ユキノは地に蹲る僕を見下ろしている。
最悪な状況だ。
そして、相手が最も油断する瞬間でもある。
ユキノの背後に転がっていた竹刀を操り、死角からの攻撃を試みた。
流石のユキノも気づけない筈だ。
……いや、そんな事はなかった。
化け物じみた反応速度で躱したユキノの髪を掠り、竹刀が手に戻る。
すると、至近距離で赤い目が睨んでいた。
――やば……。
左足で踏み切って体を大きく捻り、白いスニーカーが振り上げられる。
今までとまるで違う速度だ。
避けられないと悟った僕は、竹刀と左腕で頭を守った。
バチンッという音と共に、世界か傾く。
全てやけにスローに見える。
へし折れた竹刀の先端が眼の前にあった。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。床と天井が何度も入れ替わって、
なんだか、左腕が痛ーー
数メートルの浮遊の末地面に叩きつけられ、僕の思考はそこで途切れた。
* * *
自分の部屋のベッドで目が覚めると、僕の左腕はギプスで首から提げられていた。
どうやら、折れたのは竹刀だけじゃないようだった。
ベッドの隣で本を読んでいた先生が言った。
「よかった! やっと起きたか!」
「あの、僕はどのくらい……」
「大丈夫、安心しなさい。気絶していたのはほんの数時間だ。命に別状はないよ。ギプスが外れるまで数日かかるが……。ユキノもかなり反省している。少し本気になってしまったようでね」
「そうですよね……。この程度は覚悟してたから、気にしてないですよ」
そもそも僕から頼んだ事だし。
でもユキノの事だから、責任を感じてるんだろうな。
「了解した。それと、君は彼女の本気を少しでも引き出せたんだ。誇りに思っていい」
「あ、ありがとうございます」
まだまだ発展途上ではあるけど、自分でもかなり惜しかった気がする。
「――そうだ、ハルト君。君に来客が来ているんだ。今は部屋の外に待たせている。君が早く起きてくれてよかったよ」
先生は「紫乃森くーん!」と大声で叫んだ。
寝室の巨大な扉を開いて入って来たのは、髪の長い一人の女性。スカートではない女性用スーツを着ている。役人ばりに畏まって表情は堅いけど、かなりの美人だ。
「――お初にお目にかかります。私、日本魔術協会厄災対策委員会の紫乃森綾芽と申します。委員会の決定により、今回の標である神之木ハルト様をお迎えに伺いました」
「え……?」
その女性は部屋に入るなり丁寧にお辞儀をし、縁起でもない言葉を発した。
「お迎え」って……。
まさか。
いやいや、それはないだろう。
「ええ、そのまさかです。ハルト様は今後、魔術協会第一本部エリアに匿わせて頂きます。正確な場所はお伝え出来ませんが、ここからはかなり遠い所です。ご家族や日常とのお別れを済ませて置くと良いでしょう」
はい……?
そんなの全く聞いてないんですけど!?






