第十四話 『飢渇』
七月十一日。午後二時三十分。桜屋ユキノは、とあるホテルの最上階。白塗りの重厚な扉の前で、インターホンのボタンに手を伸ばしては引っ込める。という事を繰り返していた。
彼女は神之木ハルトに用があって来ていたのだが、どうしてもあと一歩を踏み出せずにいた。その理由は二つ。
一つは、彼女の性格上、借りを作る事に対して極端に抵抗があるからである。弱みを見せないことが彼女の生きる術だった。
そしてもう一つ。その相手がどうも気に入らず、わざわざ訪ねるのが嫌だという、あくまで感情的な要因だ。彼女は、その感覚が決して羞恥心のような俗物的なものでないと何度も自分に言い聞かせた。
――やっぱり、いいか。別に急ぐことじゃないし。
そう考え、結局彼女はその部屋を後にした。
だが、その足はすぐに止められた。
「ユキノ!」
急に開かれた扉の音と、背後から聞こえる声にユキノは振り返った。
「……何よ!!」
「何ってなんだよ。 用があるのはお前だろ?」
「そうだけど。なんで……」
「……ったく。魔力がダダ漏れなんだよ」
「あ……」
ユキノは「まただ……」という顔を浮かべる。身体能力に頼る戦闘を得意としてきたユキノは、魔術に関してはほとんど素人同然だった。
* * *
ユキノが部屋の前に来た時から気配を感じていた。正直その時は、何をされるか分からないという感じで怖かった。
でも、好奇心には勝てなかった。あのユキノが僕に何の用なのかと思ってしまった。
まあ、目立たない為にと学校も休まされて暇してたから丁度いい。
そんな訳で、僕とユキノ、コデックス。二人と一体が、豪華なリビングに一堂に会している。
彼女はいつも通り、Tシャツにショートパンツ姿だった。さぞかし動きやすそうな恰好だ。
「……ちょっと、聞きたいことがあるの」
「何を?」
「……あの箱の事なんだけど」
ユキノは珍しく、僕を睨んでいない。彼女の基準ではむしろ下手に出ていると言っても過言ではない。こんな事は初めてだ。
「あの銀の箱は父親から貰ったものだって言ってたよね?」
「ああ。元は母さんが持っていたらしいけど」
「あの箱はこの世界のものじゃないと思う。クロエでも傷一つ付かなかったから」
「え? それって……」
「そう、勘違いかもしれないんだけど、あの箱は私の、母親と何か関係していると思う」
「うーん……ちょっと飛躍し過ぎじゃないかな」
「それだけじゃないの! たぶんあの箱の模様……見覚えがあるの」
そう言って、ユキノは胸元からネックレスを引っ張り出した。
煌びやかに照明に照らされた十字架のペンダントには、確かにあの箱を思い起こさせる精巧な装飾がある。
「ちょっとストップ! じゃあなんで僕の母さんが持ってたんだ?」
「それは……それを確かめたくて来たの。箱を開ければ何か分かるかもって……」
「開けるって言っても、クロエでも壊せなかったんだろ?」
「たぶん、壊すのは不可能だけど、コデックスなら方法を知ってるかもしれないし」
借りは、必ず返すから……。
という、映画やアニメの頼れる見方のようなセリフで、ユキノは言葉を締めくくった。
なるほど。そういうわけで僕に頼みに来たわけか。あの箱は僕も開けたいわけだし、別に貸し借りとかはどうでもいいけど……。
「じゃあ、一つ貸しってことでいいな?」
「うん」
あのユキノが自ら頭を下げているんだ。流石に無下にはできないよなー。
* * *
箱を開けるなんてコデックスに聞けばいいだけの話だ。
僕はそう思っていたけど、何故かあいつは教えるのを渋った。「そう簡単に教えたら面白くないだろう?」などと宣っている。あの余裕のある口ぶりからすると、知っていて僕たちを試しているんだと思う。
「クロエが鍵に変身してくれたら楽なんだけどなー」
「クロエはそんな形状覚えてないはずよ、それより少しは手伝ってよ」
「手伝うったって、異世界の事なんて何も知らないからな」
そんな事を話しながら、初めはただ無意味に時間だけが過ぎていった。
一時間ほど経って、箱の模様を凝視していたユキノが「あっ」と小さな声を上げる。
「ほら、ここ。何か書いてある」
ユキノは箱の側面を指して僕に見せた。たしかに、蔓のような曲線的な装飾にそって、小さな文字が並んでいた。
「見たこともない文字だな。意味わかるか?」
「見覚えはあるけど。読み方は全く――」
その瞬間、ユキノは驚いたように目を見開き、僕の方を向いて言った。
「分かる……分かるわ! なぜか分からないけど、頭の中に意味が浮かんでくるの」
少し上ずった声と紅潮した頬。彼女の興奮がかなり伝わってきた。
「――我が王に奉るは永遠の証。アステアに栄光あれ」
ユキノは呪文を唱えるように小さく呟いた。すると、ユキノの掌の上で銀の箱が鮮やかな青い光に包まれる。光は徐々に大きくなり、そして、すっと一気に消滅した。
「……」
周囲が静まり返っただけで、箱は開かない。
「だめか……」
暫くの間二人で絶望の空気を味わっていたものの、それは突然だった。
ユキノのペンダントがひとりでに浮かぶび上がり、淡い光を放ちながら鍵のような形状に変形したのである。
僕は思わず唾を飲んだ。
「ユキノ……君が正しかったみたいだ。君の母親は、ユキノにだけ開けられるように鍵をかけたんだと思う」
それを聞いたユキノは目を輝かせて鍵を手に取った。古臭い形状の鍵だ。
呼応するかのように、銀の箱は輝き始めた。僕たちは高鳴る心臓を抑えながら、小さな鍵穴に鍵を差し込み、回す。
箱の周りに金色に輝く文字が浮かび上がり、ぐるぐる回ったかと思うと、箱が徐々に巨大化していき、ガチャリという音と共に蓋が開かれた。大量の白い霧が噴き出し、床一面に広がる。
その中で、一つの影が動くのが見える。
「……これって、あれよね」
「ああ、あれだ」
「ええ……」
霧の中から、か細い影がゆらりと姿を現した。
「幼女だ」
「幼女ね」
僕たちは、その正体を言い表すことのできるただ一つのの言葉を同時に発した。
* * *
ようやく開けた箱から出てきたボロ布一枚を纏った幼女の様子は、凄惨たるものだった。
長い黒髪は手入れ等がされている様子は無くはねまくり。蛇のような鮮やかな黄金色の瞳に、大きくはっきりした目。健康的とは言えない青白い肌色、やせ細った四肢までよく見えた。怯えるように僕たちを睨み、体を震わせている。
そして体中に、鳥肌が立つ程痛々しい傷跡があった。
赤や紫のまだら模様で、皮膚が固くなり光沢を持っている。引っ掻かれたような鋭い形状のものが多い。単なる事故や殺す為の行為ではこうはならない。より激しく、容赦のない暴力に晒された事を物語っていた。
息が詰まる。
「……ゥ゛ア゛ア゛…………」
彼女は、口を広げてギザギザの歯を見せ、何かを話そうとしていたけど、洩れるのは呻き声だけ。そこで僕たちは気づいた。切り裂かれたような傷跡が、彼女の喉元まで達している。
「ひどい……」
「大丈夫。怖くないよ……?」
反射的に手を伸ばし、即座に後悔した。
「――痛っ!!!」
「ハルト君!」
「クソッ、引っ掻かれた……!」
かなり深く切られた。右腕の傷から溢れた雫が手の先まで伝い、ポタリと床に落ちる。
「こいつ……!」
ユキノは少し警戒した様子で少女を睨む。
「…ァ゛ア゛……」
少女は、自分の手を震えながら見つめ、体を伏せる。その様子は、謝っているようにも見えた。
しかし僕の血を見るなり、獲物を前にした猫のようにその瞳孔が開き、立ち上がろうとして盛大にコケた。そのまま、地面に手をついて吸い込まれるように近づいてくる。
「ハルト!」
「大丈夫……」
僕の頭の中には、彼女の思考が絶え間なく流れていた。
――イタイ、クルシイ…………タベル…ナニカ…………ミズ……。イタイ……シヌ……クルシイ………………ミズ…………
シニタクナイ…………………………。
この繰り返しだ。敵意は無い。僕への恐怖もあるけど、空腹が勝っている。それも、死を実感するほどの圧倒的な飢渇。
「なあ、お前、空腹なだけなんだろ?」
彼女は僕の足元へ近づくと、僕の脚に手をついて体を支えながら立ち上がり、小さな舌を伸ばして指に滴る血を丹念に舐め取る。
その舌は次第に僕の腕を登り、前腕の真ん中にある、平行な二つの傷にたどり着く。傷を舐める時、明らかに加減が優しくなった。
少女は数年ぶりに食事をしたとでも言うように、恍惚の表情を浮かべている。
「ぁ゛っ…………あ゛ぁぁ……!!」
しかし、突如ユキノが少女を引き離した。彼女は名残惜しげに声を上げる。
「食べるものなら他にあるでしょ!!」
「――ア゛ゥ……ア゛ア……! ゥア゛ア……!!」
少女は、涙をぽろぽろと零していた。口を限界まで開いているけど、声にはならない。必死に懇願しているようだ。
そして、突如自分の手首に噛り付いたのだった。
鋭い歯が食い込み、口の端から血が溢れる。それをもったいないと言わんばかりに舐め取り、僕達の声も届かないその様子は、必死に何かを訴えているのか、僕への謝罪か、単に空腹を紛らわせる為なのか、僕には分からなかった。






