第十一話 『術式』
あれから一週間がたった。
始めのうちは学校にも通っていたけど、特にこれといったイベントは起こらなかった。その上、もはや授業を真面目に聞いても無意味だと気づいてからは退屈だった。
時々テストもあったけど、以前より解ける問題が増えた気がする。社会の知識問題なんかは全てコデックス任せだけど、数学や理科に関しては、確実に理解が深まっている。僕の分からない部分を正確に理解し、質問には完璧に答えてくれるコデックスはどんな教師より有能だ。
しかし、僕は次第に学校を休むようになった。勉強以外にやるべき事があったからだ。
先生が診断書を取り繕ってくれて、学校には持病の治療療養の為に休むと嘘をついた。完全犯罪ってやつだ。
* * *
毎日先生が家に車で迎えに来てくれて、僕はホテルまで送って貰う。そしてあの地下室に集まるわけだ。
と言っても、あそこは一般的な地下のイメージとかけ離れている。一方の端に立つと向こう側がぼやけて見える程広く、にも関わらず、とても明るい。壁も床も白く、天井には四角い、埋込み式の照明が無数に並んでいる。
こんな所で何をするかと言うと、今の所、走らされただけだ。
先生は部屋の中央で浮遊するキーボードをカチャカチャやっていて、ユキノが壁際で安眠する中、僕はひたすら走っていた。
なんでも、最低限の体力をつけろと言うことらしい。
学校のグラウンド程ある空間を延々と走るのだけど――限界に挑戦しろってさ。僕は日頃の運動不足を呪った。
初日の記録はなんと、2周。
大体六百メートル。
正直、自分がここまで雑魚だとは思わなかった。
それも、一周した時点で肺と心臓は憔悴しきって、足の筋肉が悲鳴を上げた為、最後の方は殆ど歩いているようなものだった。
僕は運動が嫌いな訳ではなかった。ただ、部活に入らなかった時点でその世界への扉は閉ざされていて、それでも僕の生活はそれなりに上手くいっていた。
にも関わらず、部活生はこんな苦行に耐えてたいたというのかと思うと、彼らに微かな尊敬の念すら湧く。
そして、重要なのは走った後だ。
毎日、さんざん体を苛め抜き、白く硬い床に倒れ込んでいると、笑顔の先生がある飲み物をマグカップ一杯に入れて持ってくる。
見た目はココアっぽいけど、何でも先生が作った特性のエナジードリンクらしい。甘いけどもさっぱりしていて、味は悪くなかった。とにかく今までにない味だ。ただ、何が入っているかは教えてくれなかった。
飲むだけで体力が完全に回復したから、普通の飲み物ではないと思う。
二日目から、先生に指摘され、きちんとペースを考えて走るようになった。最初の一周を走り、次は歩く、それを交互に繰り返すことから始め、徐々に走る量を増やしていく。
そして、終わったらあの飲み物を飲む。
これを一日数回。毎日繰り返していると、異常な速さで体力が向上していった。
今は二十周くらいは軽く走れるようになった。まあ、これでクソザコから普通レベルくらいには到達したんじゃないかと思う。
なぜスポーツをするのか疑問だったけど、こんなに楽をしてもこれだけの達成感があるなら、自力で成し遂げた時は凄いんだろう。
まあ、僕は楽する方を選ぶ。というか、効率的な方法を取るけどね。
* * *
そんなこんなで、次第にホテルにいる時間が増えていったわけだけど、ユキノとの仲は相変わらずだった。
馬が合わないと言うのはこういう事なんだろう。彼女は自信家で、たしかに実力もある、こと戦闘に関しては文字通り人の域ではない。
ただ、自信家が過ぎて自分の非を認めようとしない。幼い頃に協会に保護されたらしいけど、今まで悠々自適な生活を送ってきたんだろう。
その上、初対面の相手にも敵意のこもった眼差しを向ける。街中を歩くと時折睨んでくる野良猫の目もこんな感じだった。
まあこれらは些細な事だけど、一番驚いたのは、そんな彼女が家出少女だったという事だ。
僕があの鏡の部屋で助けられる少し前、彼女は家出をし、先生は彼女を探していて、僕を助けたのは殆ど偶然だったらしい。
ただあの時は、彼女の人を殺す事への躊躇いの無さに、少し恐怖すら覚えた。
だから喧嘩と言っても、彼女は僕に手を出さない時点で、限りなく手加減してくれているというのも事実だ。
「――なによ? 何か文句ある?」
これは、昨日僕たちがささやかな諍いを起こした時の様子。
僕が父さんに貰った銀の箱を先生に見せ、二人で開けようとしていると、ユキノが意気揚々と名乗り出たわけだ。
一時間。彼女はクロエであの箱を切りつけ、殴り、潰そうとしていたけど、あの箱には傷一つ付かなかった。
「いや、クロエもその程度かぁって――」
「……これ以上、喋らない方が身のためよ」
余裕綽々と挑んだ彼女は、歯を食いしばり、絶望と慙愧の入り混じった表情を見せた。
「結構自信有りげだったから期待してたんだけどなぁ」
「へぇ……。そこまで言うなら試してみる? 人間の体なら2秒で壊せるけど」
「……すみませんでした」
という感じの口論で済んでしまうのは、僕にとって有り難い事かもしれない。
* * *
そして現在、六月三十日の夜。僕はルームサービスで絶品のパスタを食べた後、珍しくこんな遅い時間に、それも清潔にして来いという指示付きで地下室へ呼ばれた。
ちなみに、ホテルに来た翌日には僕のサイズの着替えが何着か用意されていて、むしろここに住みたいくらいだ。今もその中から適当に選んだ白Tシャツにジーンズというカジュアルな格好。
「――おめでとうハルト君! ようやく準備が完了した!」
地下室に着くと、先生は嬉しそうにしていて、ユキノはいつも通り不機嫌そうだった。
いや、普段は先生の話なんか聞かずに部屋の隅にいるのに、今日は初めから中央に立っている。そして、むしろいつもよりも嫌そうな顔で睨んでくる。
「――なんだよ?」
「別に……」
彼女は顔を反らした。愛用の武器を貶された事をまだ根に持っているのだろうか。
「ハルト君、君は今まで何のために走らされてきたかわかるかい?」
「いえ……なにも」
「君をここに連れてきたのはそもそも、魔術を教えるためだ」
魔術。
その言葉を口した先生はいつになく真剣に見えて、僕もなぜか身構えてしまう。
「これから行うのは、ちょっと特殊な魔術なんだ。限られた場でしかできない制約の多いものだが、幸いなことに今、全てが揃っている」
すると、先生はポケットから一枚の紙きれと黒色のマーカーを取り出し、小さな白い机の上に置く。
手品でもするのだろうか。とか馬鹿げた事を考えていると、矢庭に先生は右手をさっと振り上げ、背後に浮遊していたキューブを呼び寄せた。
キューブは僕たち三人の頭上でスクリーンに変形した。緑色に光るデジタル時計が映し出されている。
【10:15:18】
「この時計が零時丁度になったら始める。しばらく時間があるが、その間、君にやってほしいのはこれだ――」
先生は机上の紙切れを取って僕に渡した。
「これは……呪文?」
「ああ。この術式は術者全員で詠唱しなければならないから、君にも覚えてもらう必要があるんだ。まあ、そんなに長いものではないよ」
その後、先生はマーカーを使って、僕たちと机を囲むように、床に仰々しい幾何学模様――いわゆる魔法陣を手際よく書いていった。
かなり大きく細部まで正確に書いていて、呪文と段取りを覚えるのには十分な時間だった。先生曰く、魔力を持たない僕の詠唱は殆ど飾りみたいなものらしいけど、念には念をって事らしい。
* * *
「よし、時間だ」
午前零時。僕は魔法陣の中央に立っていて、目の前に机。机の上には小さなガラスのコップ。その机を挟むようにしてユキノが僕と向かい合って、先生は魔法陣の外に重々しい表情で立っている。
ユキノは先生の言葉に顔を強張らせた。緊張がひしひしと伝わってくる。僕もこんな事初めてだから、強がろうにも限界があった。
こうして、何かが始まった。
僕の差し出した掌を、ユキノが刃物で――クロエが変形した黒いナイフで軽く切る。
切れ味が良すぎたためか、その瞬間は何も感じなかった。次第に傷口から血が溢れ出し、コップの中に滴り落ちる、堪えられない程ではないけど、傷口が痛いというより、熱い。火傷をしたみたいだ。
そして、三人は一斉に、ゆっくりと口にする。
『血は呪い。死の理。創生の歪み。
血は救い。生の継承。万物の導。
神なる力を宿す者、この身を縛る不朽の枷を断じ給へ。
我は真理の淵に溺れ、真理の底を希求する者。傀儡子の世の理を破却し、今宵、真実の所在を求むる。
血の盃が満たされ、己の傷に従ふ時、我が望みは一に非ず。
時に悪――
時に善。時に死。時に闇。時に光。我が求むるはすなわち全なり。
神の戯れに惑ふ者よ、須らく汝の血に抗へ』
僕も意味すら理解していない呪文だ。ただ、なんとか間違えず唱えることができた。
と安堵したのも束の間である。
「――ぅぐっ……!」
僕は突如襲われたあまりの激痛に声にならない叫びを上げる。体が急に熱くなり、全身から栓を抜いたように汗が吹き出した。呼吸が次第に速くなっていく。
いつの間に、僕の差し出した手にユキノの掌が上から重ねられていた。
「……あ゛あ゛あ゛…………痛てぇ゛………………はぁ……はぁ……」
傷口から何かを無理やりねじ込まれているような感覚に、僕は膝をついて悶えていた。
その後、五分くらい経った時、痛みが急速に引き始めた。
僕が苦しんでいる間、先生とユキノはただ見守っているだけだった。魔術で多少痛みは軽減されると聞かされていたけど、それでこの痛さなのだろうか。言葉で表すのは難しいけど、体の内側からメスで切り刻まれているような、とにかく最悪の激痛だった。
先生曰く魔術は成功したらしいけど、残念ながら特に変わった様子は見られない。体にも変化はないし、いきなり魔術を使えるようになるわけではなかった。
本当に成功したのだろうか。気になって眠気が吹き飛んでしまって、今は自室の巨大なベッドで眠ろうと頑張っている。
……ところだったけど、ベッドの寝心地が良すぎて既に眠気が増してきた。
ここで寝るのも三度目だけど、快適すぎて帰りたくなくなっている自分に気づいた。
この生活が続くと思えば、あんな苦行も少しは楽に思える。
【用語解説】〈ネクタル〉
飲むと体内の魔力を循環させ、人の自然治癒能力を向上させる。コップ一杯で三日間安静にした程度の回復効果がある。






