32・勇者マアト
†前回までのお話†
タイガと水野、おにぎりモンスター、そして着ぐるみの子どもたちも加勢し、一気に形勢は逆転。コットン大魔王から栄養を絞り出すことに成功する。しかし、流れ出た栄養分が地下水に混じり、大魔王はまたしてもそれを吸い込もうとする。各地のダンジョンへ栄養を返すため、タイガたちも最後の力を振り絞るのだった。
この綱引きは不利だ。
始めてすぐにタイガは思った。何しろコットン大魔王にとっては、自分の命がかかっているのだ。水分と栄養分を失えば、ただのボロ布に成り下がってしまう。真剣さが違うのだ。
「ねー、いつまでやればいいの」
「つかれたー。いつアイス買ってくれるの?」
対する子どもたちは、早くもこの遊びに飽きてしまっている。水を吸った着ぐるみは不格好で動きも悪く、今や何の魅力もないのだ。水面をころころ転がりながら、少しずつ大魔王のほうに引き寄せられていく。
「行くな、食われたらおしまいだぞ!」
タイガは必死で子どもたちをつかんで引き戻すが、助けるそばから別の子どもが転がっていってしまう。水野は子どもの背中を踏んだり針で刺したりして押さえつけている。助けたとしても、親からクレームが殺到するに違いない。
「食われる……食われるニギーッ!」
おにぎりたちが叫んだ。声が壁にこだまし、ぱらぱらと砂が落ちてくる。タイガは天井を見上げた。ぽっかりあいているのは、子どもたちが落ちてきた時にできた穴だ。その向こうで、何かが光っている。
「あれは……!」
光が高速で回転し、近づいてくる。流れ星だ、お星様だ、と子どもたちが騒ぐ。タイガは立ち上がった。違う、あれはガラスのヒトデだ。
「タイガさーん! やっと抜け出せましたよー!」
タイガは素早く身をかわし、地面に転がった。そうしなければ、頭を直撃されているところだった。
「この穴の中も案内しようかと思って……あっ、そこにいるのがコットン大魔王です! おとなしくて可愛いモンスターですよ」
「どこがだよ」
案内好きのヒトデは、ほこらの中を解説したくてうずうずしているようだ。タイガの周りを飛びながら、いっそう強く光る。
すると、その光に誘われたように、天井の穴からまた何かが現れた。黒く長い影に、誰かがまたがっている。声を聞く前に、タイガにはわかった。
「マアト! 黒ウナギ!」
長い影が身をくねらせ、穴を抜けて急降下してくる。黒ウナギの姿は、広いほこらの中でも大きくて迫力がある。その背中に乗ったマアトは、伝説の勇者になったような表情だ。
「二人とも無事だったのか!」
「当たり前だろ。ちょっとどいてろ」
黒ウナギが角を光らせてにやりと笑い、その背中からマアトが滑り降りる。ブタは、とタイガが言いかけたのと同時に、マアトのリュックから小さな体がポンと飛び出した。
「退屈だったわよ」
ブタはリュックの縁を蹴り、タイガの頭の上に飛び移った。そこでほこら全体を見渡し、子どもたちを吸い込もうとするコットン大魔王、赤く染まった地下水、そして水野にちらりと目をやった。
「行けそうね」
ブタが目配せをすると、黒ウナギは溜めていた力を全て吐き出すように、体を膨らませて口から一気に光線を放った。同時にブタも、鼻の穴から赤い花びらを吹き出す。
光線と花びらが絡み合いながらコットン大魔王の胸を貫き、そこへマアトが飛び込んでいく。
「待て! だめだ、それは……!」
タイガは自分が閉じこめられた時のことを思い出し、マアトを止めようとした。しかしマアトは大魔王の胸の穴に転がり込み、針と糸で端を縫い始めた。
「見なさい! あたしの裁縫の腕を」
「俺の光線もしっかり目に焼きつけろ。マジで目を焼くからな、良い子のみんなは直視するなよ」
驚いたことに、黒ウナギのドリル光線は大魔王の体を破り続け、修復する隙を与えない。破れた縁をマアトが素早く縫っていくので、元の形に戻れないのだ。
大魔王が身をよじって苦しむのを、タイガは複雑な気分で見ていた。赤カバも、マアトに縫われるのを嫌がっていた。大魔王に吸収された挙げ句、結局縫われることになるとは、なんという不運だろう。
その時、水野が走っていった。そこにある全てを蹴散らす勢いで走っていき、マアトの腕をつかんだ。
「そうじゃない。かがり縫いは布の織り糸をすくって」
「うるさいわね!」
マアトは水野の手を振り払い、言った。
「いい加減空気読みなさいよ。そんなだから就職できないのよ」
「でもこの縫い目、人としてあり得ないんだけど」
タイガは鼻から地下水を吹き出しそうになった。
黒ウナギもブタも、子どもたちに遊ばれていたヒトデも、コットン大魔王さえも、手を止めて事の成り行きを見守っている。
マアトが水野に飛びかかり、ずたずたに引き裂く。倒れた水野の上に、尖った鍾乳石が落ちてくる。それでもマアトの怒りはおさまらない。壁に天井に、亀裂が走っていく。
ほこらが壊れる。町が壊れる。町なんて初めからなかった。ダンジョンもなかった。モンスターも人間もいなかった。何もない世界に、水だけが溢れていた。
と、タイガが想像したようなことは全く起こらず、実際には子どもの手からヒトデがぽろっと落ちただけだった。
顔を上げてみると、何事もなかったように、水野がマアトにかがり縫いの仕方を教えていた。
「玉留めが見えないようにするんだよ。そうすれば大魔王は自分でほどけないから」
「ふうん。ここはどうやって縫えばいいの?」
「逆立ち歩きで布地を蹴り殺す勢いで、せつなく」
「わかったわ」
タイガは拍子抜けし、傍らのブタに目をやった。ブタは地下水に鼻を近づけてかぎ回り、色や香りのついたところを吸い込んでいる。
黒ウナギが水面を照らし、浮き出した養分をヒトデが解説する。子どもたちはそれを見て面白がり、やる気を取り戻したようだ。
「俺も頑張らないと」
タイガは水面にかがみ込み、すいすいと泳いでいるアメンボのようなものを帽子のくぼみですくい取った。図書館のダンジョンから抜け出した、古い本の文字たちだ。
精霊というのは
とにかく精霊なので
ハゲていても腹が出ていても精霊です
煮ても焼いても構いませんがとにかく精霊です




