15・マアト最強説
†前回までのお話†
タイガと水野は目玉型トラップの妨害を切り抜け、ごみ捨て場のダンジョンを脱出する。大勢の失業者たちも一緒だ。移動ダンジョンを通じてタイガの家の押し入れに出ると思われたが……。
白い光のアーチをくぐり、地下道を脱出する。てっきり自分の家の押し入れに出るものと思っていたら、そこは吹きさらしの道だった。
「あれ?」
タイガは目を見開いた。小さな店や民家が立ち並び、人々が行き交っている。来たことはないが、知っている場所だ。商店街の近くにこんな横丁があると聞いていた。
少し遅れて、足下のマンホールから水野が飛び出してきた。花びらのような水滴が散って集まり、タイガの横に立った時にはいつもの姿になっていた。
しかし着ているローブはぼろぼろだ。何でそんなに、と言いかけ、自分がやったのだったと思い出す。
水野は気にしていない様子で、タイガをつついて下を指差した。
マンホールの口が少しずつ薄れていく。しゃがんで見ようとすると、道の向こうへ滑って行ってしまった。
間違いない。移動ダンジョンだ。
「なんだ、いつの間に」
タイガが出かけた隙に、家からいなくなっていたようだ。名残惜しい気もしたが、移動生活に戻ってもらうのが一番だ。遠ざかっていくダンジョンの入り口を、タイガは見送った。
さて帰ろう、と思った時、聞き覚えのある叫び声がした。すぐそばにあるカントリー風の店先で、ピンクのバンダナをした女性が複数の男に囲まれている。
「放してってば。あたしは針と糸を買いにきただけよ! 」
タイガは駆け寄った。叫んでいる女性は、仕事仲間のマアトだ。骸骨のような男がその腕をつかみ、こわばった笑顔で何か誘いかけている。
無職の人だ、と水野が言った。
「もう無職じゃないぞ。この手芸屋で雇ってもらったんだ」
男はぼろ布のような服の上に、『ダンジョン・ステッチ』という店名のついたエプロンを着ている。一緒に群がっている人たちも同じ格好だ。ごみ捨て場を逃れた求職者たちが、一斉にこの店に押しかけたらしい。そして雇われてしまったらしい。
タイガは男の手をマアトから引きはがそうとした。しかし、指が腕に食い込んで離れない。痛い、とマアトが叫んだ。
「まだ私の階で買い物をしてもらってないんだ。五十五階のナメクジ毛糸のコーナーなんだが」
「だから、それは買わないって言ってるでしょ!」
いや俺の階で、私の階が先だ、と痩せた店員たちが押しのけ合う。タイガが割って入ろうとすると、水野に腕を引かれた。
「気をつけて」
突然、足下のコンクリートに亀裂が現れた。光をちらつかせながら波打っている。水脈だ。
水野が地面に指を当てると、亀裂が広がった。そして店員たちの周りに張り巡らされる。
「また無職から頑張ってね」
亀裂が広がって繋がり、大きな穴になる。店員たちは足を取られ、がくんと沈む。まるでダンジョンの口に噛み付かれたようだ。
巻き込まれそうになったマアトを、タイガが間一髪で引き上げた。
店員たちは水脈に半身を浸し、必死で立ち泳ぎをしている。その間にタイガはマアトの手を引き、角を曲がって商店街へ、さらに走ってベンチのある広場へ飛び込んだ。
「嫌になっちゃう! あの店、新人教育がまるでできてないわ。誰でも彼でも雇うからこうなるのよ。うちのギルドでもそんなことがあったわよね。新人のせいでめちゃくちゃに……あら」
マアトはそこまで一気に喋り、ようやく水野の存在に気づいた。顔ではなく、破れたローブの裾に視線を向けている。
水野はマアトを覚えているのかいないのか、にっこり笑って首をかしげる。マアトは笑っていなかった。
「ずいぶんひどい格好ね」
「え?」
「ちょっと直してもいい?」
マアトは『ダンジョン・ステッチ』の紙袋の中から新品の針と糸を取り出した。水野のローブの裾をぐいとつかみ、色を比べる。
「あ、あの」
これだわ、とマアトは言い、紫がかった紺の糸をローブに合わせた。
「僕、このままで……」
「遠慮しないで。助けてもらったお礼よ」
マアトが持っている歪んだ巾着と、ぶら下がっている綿の飛び出たぬいぐるみを見て、水野の顔が急速に青ざめた。
「あっ、あの、僕は」
ざくりと音がした。
水野は震えながら自分の服を見下ろす。マアトが採寸用のまち針で、脇腹のあたりを留めたのだった。
「動いちゃだめよ、刺さるから。あ、もう刺さってるわね」
マアトは水野の腕をつかみ、さらに大きなまち針を突きつけた。すっかり怯えきっている水野を、タイガは笑いをこらえながら見ていた。少しは困ればいいと思ったが、放っておくわけにもいかない。
「あのさ、もうそのあたりで……」
マアトはタイガのほうを振り返った。しまった、と思った時には遅い。夕日に照らされたマアトの目は、もう新たなターゲットを見つけていた。
タイガは頭に手を当てた。払い切れていなかった煤が、顔の上に落ちてくる。
「その帽子、ぼろぼろね」
「い、いや、これは」
タイガが話し出す前に、マアトはさっと手を伸ばして帽子を取った。ターバン状に巻いてあるのをほどき、焦げたところが内側になるように折り込む。赤茶色の糸を出してきて、ぴったりだわ、と言う。
「ローブより簡単だし、ちょっとアレンジしてみるね」
「そ、それは水野さんが作ってくれた帽子だから」
ねえ、と隣を見ると、水野はもういなかった。助けてあげたというのに、自分はさっさと帰ってしまったらしい。これだからゆとりって奴は、と苦々しく思う。
マアトは聞いていなかった。時々手を止めて考え、反対色の糸に変えてみたり、複雑な刺繍を始めてしまったりした。
日が暮れて、空の端から星が散らばり始める。タイガはピザ屋のダンジョンへ行き、シーフードと野菜ピザを買ってきて食べた。マアトはずっと縫い続けていた。
縫って縫って、ようやく出来上がったのは、帽子のような袋のような、やっぱり帽子だった。
暗くてもわかるほど、マアトの顔は紅潮していた。やり遂げた、という満足感が伝わってきて、タイガは大人しく帽子を受け取った。
「あ、ありがとう」
シンプルなキャスケット型の帽子に、うまくリメイクされていた。
と思いたかった。
分厚い生地を折り返し、力ずくで縫い、所狭しとボタンが飾られている。接ぎのような丸い模様と、後ろには顔のような刺繍があり、牙のように尖った飾りがアクセントになっていた。
「このほうが似合うと思ったから」
残っていたピザを食べながら、マアトは夢中で語った。飾りを七個にしようか八個にしようか迷ったこと、縫い間違えたところは刺繍をしてごまかしたこと。
タイガは帽子をかぶってみた。
初めてかぶった時に感じた、力がみなぎるような感覚。今までずっと続いていたあの感覚が、なくなってしまうのではないかと不安だった。
最初はおぼろげに、それから徐々に強く、温かさが頭から流れ込んでくる。自分の中に自分が綺麗に収まる。
焦げても、形が変わっても、この帽子は特別だ。
タイガはほっとして微笑んだ。マアトも嬉しそうに笑い、やっぱり八個にして良かった、と言った。
帽子の飾りよりまばらな星が、返事ともつかないきらめきを返していた。