10・モンスターは敵なのか
†前回までのお話†
図書館の保存庫から、見知らぬ空間へ飛んでしまったタイガ。そこには黒いウナギの姿をした生き物がいて、襲いかかってくる。滅んだはずのモンスターがなぜここに? そして、ぬいぐるみのブタもモンスター? 謎が深まる中、ウナギとの戦いが始まる。
まったくの役立たずと思われたブタの攻撃だが、そうでもなかった。
花吹雪を浴びた黒ウナギは、大きなくしゃみをした。おかげで、ドリル光線が逸れて後ろの木を貫いた。
タイガは落ちてきた枝を持って立ち上がった。黒ウナギの喉を狙い、走っていく。ところが寸前まで近づいた時、ウナギがまたくしゃみをした。タイガとブタは浮き上がり、反対方向へ吹き飛ばされてしまった。
「花粉症なんだよ」
黒ウナギは言った。再びドリル光線を撃とうと、腹を膨らませる。今度こそだめだと思った時、風の音がした。
暗い池の水面から、光の粒が跳ね上がる。タイガは尻もちをついたまま、吹き上げてくる風を見た。
水滴が飛び、渦を巻く。あっという間に頂上が見えないほどの高さになった。光と冷気を放つ、巨大な竜巻だ。
黒ウナギは背を向け、逃げようとした。しかし、尾の先が竜巻に触れた途端、全身が硬直する。水滴が凍り、ウナギを締め上げていく。開いた口から、白い息が苦しげに漏れた。
タイガは木の枝を握りしめた。とどめを刺すなら今しかない。
冷たい風が顔に吹きつける。ざわざわ揺れる木が、自分の心のように見える。
「モンスターは、敵なのか……?」
黒ウナギは答えなかった。息の音が風に飲まれていく。
タイガは木の枝を投げ捨てた。帽子をかぶり直し、自分も竜巻の中に飛び込む。こめかみを殴られたような衝撃の後、ふわっと体が軽くなった。
水流がタイガと黒ウナギを包み、宙へ舞い上がる。
「なんで殺さない?」
黒ウナギは言った。タイガは飛び交う水滴を見ていた。美しい宝石のようにも、まやかしの光のようにも見えた。
「俺、ウナギ食べないから」
「土用の丑の日はどうする」
「普通の飯」
光に包まれ、黒ウナギが透明になっていく。輪郭が歪み、ほどけて水に溶けていく。
時を超える。タイガはぼんやりとそう思った。
ここはどこだろう。百年後の世界。モンスターはどこへ行ったのだろう。木の影、空の隙間、雨のにおいの中。きっとどこかに隠れている。
タイガは目を閉じ、流れに乗った。長い時を、一瞬の時を、ただ全身で感じた。
ここはどこだろう。埃とインクの匂いがする。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
肩を揺さぶられ、目を開けた。固い床の上に、タイガは横たわっていた。鉄製の本棚が天井近くまでそびえ、中年の女性が心配そうに覗き込んでいる。
「ここは……」
「保存庫よ。点検に来たらあなたが倒れてたの。これは?」
ブタのぬいぐるみを差し出され、慌てて受け取る。気絶しているのか、動き出す様子はない。とりあえずリュックに押し込んだ。
「えーと、保存庫って、図書館の?」
女性は呆れた顔でタイガを見た。
「わかったなら、上のフロアに行ってちょうだい。ここは一般のお客さんは立ち入り禁止よ」
「す、すみません」
慌てて部屋から出る。念のため、今度はしっかりドアを閉めた。長い廊下の先に、階段の明かりが見える。タイガは胸に手を当て、深呼吸をした。まだ、頭の中が波打っている。宙を歩いているような、おぼつかない感覚だ。
ここは図書館。でも、自分は確かにあの池で黒ウナギに会った。時空がねじれ、重なり合う瞬間を見たのだ。
どうしてこんなことが起きたのだろう。考えながら歩いていくと、階段の下に誰かが立っていた。長いローブを着た、見覚えのある姿だ。タイガは走り寄った。
「水野さん」
その人は振り返る。瞳が水滴のように光った。
「水野さんじゃなくて、水の精霊」
「どっちでもいいけど、何でここにいるの?」
「公共図書館は誰でも利用できるから」
「そりゃそうだけど」
思い起こせば、腑に落ちないことばかりだ。タイガを導いた不思議な光。突然発動したトラップ。絶滅したはずのモンスター。そして、危機一髪で現れた竜巻。偶然の出来事なのか、それとも誰かが仕組んだことなのか。
「水野さんって、ひょっとしてモンスター?」
ぬいぐるみのブタがモンスターだというより、よほど納得できる。水野は笑い、違うよ、と言った。
「僕は精霊だよ」
「どう違うの?」
「精霊は精霊だよ」
「ハゲてても?」
「そう」
「アフロでも?」
「そうそう」
「一日履いた靴下裏返して次の日も履いてても?」
「それは微妙」
タイガは頭をひねった。ひねりすぎて一回転してしまいそうだ。
「全然わからない」
「僕もわからないよ。ゆとり世代の精霊だからね」
水野はタイガの帽子に触れた。柔らかい光が頭を包み、全身がほんわりと温かくなった。温泉に浸かったように、疲れが取れていく。
「どう、元気になった?」
「えっ。あ、うん」
「良かった。じゃあ一人で帰れるね」
水野は片足で床を蹴って跳んだ。体が透き通り、揺らぎ、細く伸びた。
「おい待て、ゆとり!」
水野は壁際の給水器に吸い込まれ、消えた。タイガは駆け寄り、覗き込んだが、そこには小さな水滴が一つ落ちているだけだった。
「何なんだ、あいつ……」
ここは図書館、地下五十五階だ。
ダンジョンにはエレベーターやエスカレーターがない。一流の会社でも、高級マンションでも、老人ホームであっても、移動手段は階段だけなのだ。
消えたはずの疲れが、再び肩にのしかかった。
「俺も精霊になりたいよ」
ついたため息から、黒ウナギの笑い声が逃げていったような気がした。