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錆と死体

 人の気配がして、青年は目を閉じたまま、意識を覚醒させる。

 あの娼婦ではない。そして、その細やかな足取りは、この店の人間でも、客のものでもない。それどころか、この国の人間の歩き方ですらない。

 一気に警戒指数が上昇する。

気配は部屋の前で止まった。この部屋に窓は無いので、出入口は塞がれてしまったことになる。

 困ったな。

 扉が開かれる音がした。勿論ノック等の気遣いは無い。

 近寄ってくる。廊下を歩いている時点から気がついていたが、この侵入者の足音はとても軽い。体重移動を最小限にしているらしい。

 特務警吏か、傭兵か、少なくとも素人ではないだろう。あくまでも眠ったふりをしながら、青年は分析する。

 火薬や鉄の匂いはない。銃器の類いは持っていないようだ。だが、刃物か小型の鈍器は所持している可能性があった。

 ベッドのそばに立った侵入者。

 だから彼は、いま動いた。

 目蓋を落としたまま後頭部にまわしていた手を引き抜いた。その手には、袖口に仕込んでおいた太い針が握られている。

 まるで寝返りをうっているだけかのように、男はごく自然に、その針を侵入者に突き刺した。

 「……!!」

 針が刺さったまま飛び退こうとする侵入者。目を閉じた状態で青年は勢いに乗って対象の動きを追う。

 彼の左手は柔らかい部位、恐らく首を掴んだようで。

 そして、追い討ちをかける。

 侵入者を掴みながら、倒れ込むようにベッドから落ちる。相手も体勢を崩し、片膝をついた。

 空いた手で右大腿に隠していた拳銃の安全装置を外しざま引き抜く。確実に敵の急所に弾丸を撃ち込むために、彼はようやく目を開いた。

 だが。

 「……」

 引き金は引かれなかった。

 まあ、なんだ。針を刺した時点で、なんとなく気がついてはいたことである。

 青年に首を絞められていたのは、床に膝をついていたのは、腹に針を生やして、苦痛に顔を歪めていたのは。

 年端もいかない、幼い女児だった。

 そして、この泥棒青年は、この幼女を見たことがある。

 血管が透けるような真っ白な肌。混ざりすぎて濁りない黒い瞳。黒い髪。しかしそれは右半分だけだ。のこりの左半分は、髪も瞳も眉も睫毛も、色素を失っていた。

 幼女が腰を落とす。黒と白の長い髪の毛先が床に広がった。

 身に纏うのは、大きな刺繍を誂えた赤い――炎と血を思わせる赤の――豪奢なドレス。腹部に針が刺さっているので、少し形が崩れている。

 大人びたドレス。しかし幼女はその衣装を、そして意匠を、よく着こなせていた。つまり、似合っている。

 美しい幼女だった。本当に生きているのか、疑わしいほどに。

 自分はあの時の恐怖で頭がおかしくなったのだろうか。

 幼女が口を開く。

 「いたい」

 容姿のわりには低い声音だった。例えるならば、そう、鐘を鳴らしたような声である。

 この幼女の声を聞くのは初めてではない。ただあの時は、恐怖に駆られていた故に正常な判断が出来なかったのだ。

 ならば、いまは正常なのか。自分の頭が正常ならば、この幼女はどう説明する。

 彼は、確実にこの幼女を焼いた。完全に焼き尽くしたかは定かではないが、彼が逃げ出して、それからすぐに建物は崩壊したのだ。

 それに、髪や肌が焼かれていく様子を、この青年は確認していた。それこそ、目に焼き付いて離れない。

 百歩譲って奇跡的に生存していたとする。しかし、この幼女の顏には傷ひとつ無い。白と黒の髪も艶やかで綺麗だ。

 幼女を解放して、青年はベッドに腰掛けた。銃を握っていない手で頭皮に爪を立てながら掻き毟る。錆の粉塵が白いシーツを汚していく。

 「すごいね」

 幼女が声をかけてきた。

 「かみのけ、すごいね。すごーい」

 無闇に、無遠慮に、錆頭青年の髪質に感想を述べる幼女。

 こういうのを何と呼ぶのだったか。ああ、そう、無邪気だ。

 無邪気。邪気が無い。

 悪気が無く、悪意が無い。

 相手にどう思われるかなんて一切考えない、ある意味で究極の利己主義である。

 「これなに? すな?」

 膝をついたままにじり寄ってきた幼女を、青年は容赦無く蹴り飛ばした。腹に刺さった針が更に抉り込む。小さな悲鳴を上げながら幼女の体は一瞬だけ浮いたが、すぐに床に転がった。

 男の顔は平静そのもの。だが、内心では焦燥と恐怖で溢れかえっていた。背筋を通った寒気に反応して、体が勝手に動いたほどに。

 それでも、手をついて、苦しげに呻きながら這い寄る幼女。青年は立ち上がり、その顔を蹴り上げる。

 「うっ……うう……あああ…………うあ……っ」

 幼女は床に手をつく。伏せた顔面から滴り落ちていく血は、ドレスより赤い。

 腕が震えている。頭を揺らしたのだろうか。

 「き」

 幼女の肩が、がくがくと揺れる。

 「き、きき、ききききき!!」

 彼の脳裏に過ったのは、誕生の産声とも、断末魔の絶叫とも思わせた叫び声。

 咄嗟に銃口を、白と黒の頭に向ける。

 それでもなお、幼女の声は、不協和音となって部屋に響く。

 「ききき、き、ききききき、!!」

 幼女は絶叫する。

 絶望して、渇望して。

 「き、ききききききききききききらいくならないで!!」

 と。

 「おおおおねがいっ、し、しま、す。おね、が……おねがっ、い、し、ます。……お、おねが……だから、き、きらいく、なっ、ないで、!!」

 そう、言ったのだ。

 その、あまりにも子どものような反応が返ってきたものだから、さしもの泥棒青年も呆然とした。

 拳銃を下ろし、一歩、一歩、近づいてみる。

 目の前には踞る幼女。それは軽く踏み潰せそうなほど、矮小な存在だった。

 しゃがみこみ、幼女の胸ぐらを掴む。

 「……ごめ、なさい」

 鼻血まみれの口が赤い唾液を溢す。ひしゃげた眉の下に並ぶ瞳は、水滴が零れ続けていた。傷ひとつ無い肌は雫を滞らせることがなく、顎まで伝っているうちに血で赤く染色され、滴り落ちる。

 醜態だ。だが、苦痛を堪えながらに許しを乞う子どもの姿は、どうしてこんなにも胸を締め付けられるのだろうか。

 鼻血を滴しながら泣き腫らす姿は、至極みっともない。そのはずなのに、この幼女には、さながら巡礼者のような清廉さがあった。

 清廉。清浄。そして正常。

 この幼女は害獣の類いでなく、きわめて無害な、少なくとも他人に害を為すことのできない人間なのだ。と、初めて確認できた瞬間だった。

 人間だって、ときには化け物になる。それでも。

 この幼女は、異質で、歪で、けれどそれだけなのだ。

 自分は、ただそれだけのことを、恐れただけ。

 例えば、精神病疾患者というだけで、同じ人間として扱えなくなるような。自分を産んだという理由で親を敬わなくてはならないような。子どもは何も知らないと思い込むような。そんな、普通の反応をしてしまっていたにすぎないのだ。

 普通で、一般的で、なんとも愚かしい。ひとまず、そう思い込むことに決めた。

 それにしてもこの幼女は、こんな愚かな男の所業で苦しんでいるのか。

 「……」

 青年は胸ぐらを掴んだまま、幼女をベッドの上に放り投げた。その拍子に、先刻娼婦が撒き散らした羽毛が反動で舞い上がる。

 幼女は驚いたのか、目を白黒させていた。青年はそれを見て、「最初から白黒だろ」と呟いた。

 「なあ」

 「……」

 「痛むか」

 「……っ」

 顔を伏せた幼女。また泣くのかと思ったが、口をキュッと結んで口元がにやけるのを堪えていた。

 「だいじょうぶ……」

 その声音は喜色に染まっている。

 刺したのも、蹴ったのも、拒絶したのも、この男で。つまり、その痛みの元凶はこの青年である。

 なのに、幼女は心配されて、嬉しがっていた。

 「あ、ありがと」

 「……アンタには聞きたいことが山程あるんだ。とりあえず針は抜いてやるから」

 青年は幼女に背を向けて浴室に向かう。薄いカーテンを開き、床に畳まれたタオルを数枚つかみ取る。水道の蛇口を捻り、桶に湯を張った。

 そう時間はかからなかった筈だ。彼はそれらを持ってすぐに幼女の元へ戻った。

 の、だが。

 幼女は腹の針を握って、捻っていた。

 ぐりぐりと。

 掌を傷めないよう考慮したのか、ドレスの袖口を手袋代わりにしている。

 「おいっ!!」

 投げ捨てた桶から湯がぶちまけられ、遅れて落ちてきたタオルに染みる。

 青年は幼女の動きを制そうと手首を掴もうとした。

 遅かった。きっと幼女は、彼が背中を見せた時点で行動していたのだろう。

 幼女の腹から針が抜かれた。 ピュッと、少し濡れた。

 「……服を脱げ」

 「だいじょうぶだよ?」

 「いいから!」

 彼は踵を返し、床に広がったタオルを拾った。

 指示されたように動こうとしない幼女に痺れをきらして、焦った青年は真っ赤なドレスを乱雑に脱がせた。

 「……」

 青年の動きが止まる。

 幼女の白い腹に傷口などなかった。

 腹を刺したので当たり前だが、針先には血がぬらぬらと付着している。しかし、この幼女の肌には傷どころか痣一つない。

 半裸の幼女は小首を傾げ「ね、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」と畳み掛ける。

 「……なるほどね」

 なんとなく、この幼女がまだ生命活動を続けている理由が付きそうだった。

 青年は腹から目を外し、別の部位を注視する。

 傷の消失(治癒?)には勿論驚いた。が、それ以上に。

 それは、幼女の肩から指先にかけて。


 幼女の腕は、濁りなく、真っ黒に変色していたのだ。


 「なあ、これはどうした」

 「んと、んー……なにが?」

 何を訊かれたのかわからないらしい。青年は黒い腕を指差し示す。が、幼女は首を捻らせるばかり。

 「……もしかしてなんかへんなの?」

 「動きに支障はあるか」

 「ししょー?」

 「感覚は」

 「んんぅ、わかんない。やって」

 手のひらを見せるように腕を持ち上げた。少し長い爪の先は白く透けている。

 青年は幼女の左手首を順手で、自分の目線まで引っ張り上げた。

 「いっ」

 ちゃんと痛覚はあるようだ。手のを弛めてやる。

 黒腕は、意外なことに柔らかだった。体毛も生えているし、幼女の反応から見て焼かれたときの影響というわけではなさそうだ。少しだけ罪悪感が解消された。

 博物館の初見ではどうだっただろう、黒かっただろうか。実はよく覚えていない。

 「ねー、なにがへん?」

 やたら馴れ馴れしい。子どもというのはそういうものなのだろうか、自分はもっと落ち着いていたと思う。可愛いげは皆無だったが。

 幼女がいつまでも煩いので、泥棒は正直に「色が変だ」と答えてやった。

 「生まれつきか?」

 「おきたら、こうだった」

 「……なら、黒くなかったときもあるのか?」

 「わかんない」

 幼女は困ったように眉を下げる。

 「おきるより、まえは、おぼえてない」

 「……覚えていない、なにも?」

 「…………わかんない」

 つまり、記憶に欠落がある、ということか。

 さて、「おきる」というのは、どの状況を指しているのだろう。まさか、本当に起床のことを言っているわけではあるまい。

 「でもね、でもね!」

 「なに」

 「あなたがおうじさまなのはね、わかる!」

 呼吸が停止するかと思った。

 この幼女は、やはりあの幼女だったのだ。だってそれは、幼女を火中に投じるきっかけとなった呼び方だったから。

 「おうじさまはね、やさしくてね、あったかかったの。だからね、だいすきになったの。うふふ、だいすきなの」

 優しくした覚えなんか皆無だし、火事だったんだから暖かいに決まっている。

 それでも、この幼女なりに、あんな仕打ちから優しさとか、温かさを見出だしたのか。その末に、追ってきたというのか。

 まったく、ご苦労なことである。

 「あのね、あのねおうじさま」

 「それさ、やめてくれない」

 「んう?」

 「その、……あー、王子様っての。そういうガラじゃないんだ」

 「ガラじゃないのは、だめ?」

 「だめだな」

 「んうー、じゃあ、どうする?」

 「呼ばなければいい」

 「おうじさまって?」

 手首は離さないままに隣に座った青年を見上げ、幼女は納得がいかないらしく不満げに唇を突き出している。

 「じゃあなんてよぶの?」

 「だからさ、わざわざ名前を呼ぶ必要がないじゃないか」

 「やだの」

 食い気味に断言して、むくれ面でそっぽを向いてしまった。

 面倒な。

 青年は髪を掻き、嘆息する。また錆が落ちた。

 「あー、その……王子様以外なら、何でも良い」

 また泣かれても困るので、妥協するしかなかった。

 幼女は青年に向き直り、じぃっと見つめてくる。黒と白の虹彩は、よくよく観察してみるとそれぞれ複雑な色合いをしていた。その目玉は、彼女にどんな世界を見せているのだろう。少しだけ、気になった。

 「おなまえ、おしえて」

 笑みでもなく、泣き顔でもなく。真摯に、真っ直ぐに、彼の目を見ていた。

 「……」

 胸中、青年は己の敗北を認める。

 「アクシオ」

 舌に馴染みない、しかし懐かしい単語。自分の名を口にするのは、実は久方ぶりだった。

 職業柄、実名を使うことはまず無く、仕事と関係無くとも偽名を使っている。

 というか、本名を口にする日が再び訪れるとは思っていなかった。

 最後に自分の名前を聞いたのは、果たしていつだったか。

 「……」

 幼女は、アクシオから目を離さなかった。だからアクシオも、視線を逸らしづらい。

 幼女の血で濡れた唇が、朝露を湛えた花弁のように開く。

 「アクシオ」

 言われて、ごく微細ながら、嬉しいという感情を思い出す。

 「……えっと」

 自分が何をすればいいのかわからなくなったアクシオは、とりあえず、ベッドに放ったままだったタオルで幼女の口元を拭ってやる。

 鼻の下の血は固まりかけていたので、強めに擦る。

 「アクシオって、よぶね」

 おとなしく拭かれながら、幼女はそう宣言した。

 「せめて、二人きりのときだけにしてくれ」

 「わかった。やくそくね」

 小指。ふっくらとした黒い指を立てる。

 その意図が、アクシオにはわからない。

 「アクシオも、やって」

 「……」

 タオルを持っている手の小指を、幼女と同じように立ててみる。

 幼女は、アクシオの無骨な小指に、自分のそれを絡ませた。

 「うふふ」

 ほころんで、小指が拙く絡み合った手を上下に揺らす。アクシオは為されるがままだ。

 なんなんだこれは。

 「ねーねーアクシオー」

 上半身裸の幼女が、膝でドレスのスカートを暴れさせる。

 「めくってー」

 「……脱がすの?」

 普通なら着せて貰いたがるものなのでは。子どもとはそういうものなのか。

 「ちがうー。あのね、たぶんね、あしもへんだとおもう。みて」

 「……」

 少々戸惑ったが、言われた通りにスカートを持ち上げてみる。

 案の定である。幼女の脚部は、真っ黒に塗り潰されていた。

 「下着くらい穿け」

 「んう?」

 「……いや、素足なんだな」

 「んうー。くつはなかったの」

 「ふぅん……」

 道理で足音が小さかったわけだ、と納得する。

 「ちょっと、裾を持っていてくれないかな」

 「はーい!」

 元気な返事だ。

 幼女にペチコートごとスカートを捲らせて、アクシオは正面に座り込む。ペチコートは下着に含まれるのだろうか、だとしたら心許なくはないだろうか。なんて、とりとめもなく考える。

 幼女は、今まで裸足だったにしては、傷ひとつない綺麗な足をしていた。腹の傷と同じ現象が起こったのかもしれない。

 ふかふかの大腿から指の腹を滑らせる。子ども特有の敏感な神経が反応して、幼女が身を捩りながらきゃっきゃと笑う。

 「くすぐったいー」

 「……わかった。もう」

 スカートを下ろしても良いよ。そう言ってから、幼女の着替えを手伝うつもりだった。

 が、言葉を発することは敵わなかった。それは、頭部に直撃した酒瓶によって。

 ぐわんぐわんと頭蓋骨が響く。

 眼前の幼女が、息を詰まらせたような顔をしている。このままほっとけば泣くかもしれない。

 見てられないので、アクシオは首を捻って、質量のある投擲をしてきた人物に目をやった。 「……」

 わなわなと、肩を猛らせ、こちらを睨む美しい娼婦がいた。

 なるほど。鼻血の痕跡がある半裸の幼女と、その幼女にスカートをたくし上げさせる男の図というのは、対象が誰であろうと取り敢えず、持っていたものを投げつける必要はあるだろう。

 「変態」

 「違う」

 「うるさい。出てけ」

 口調が変わっている。こんな喋り方もできたのか。

 「弁解をさせてくれ」

 「知らん。さっさと出ていって警吏に捕まってしまえ」

 「わかった、すぐに出ていく。その前に検問の様子を」

 「さて、なんのことだか。ほら、早く出ろ。そして、二度とこの店の敷居に立つな」

 こうなると女は面倒だ、すごく。

 娼婦は、アクシオを極力視界に入れずに、幼女のそばに寄る。そして、怯える幼女に甲斐甲斐しく服を着せ始めた。

 その際、手足の色にも気がついたようだが、何も言わない。

 さて、アクシオは考える。

 この様子では、娼婦は説得出来そうにない。それどころか、いたずらに騒いで人を呼んでしまう可能性がある。

 それならば、気は進まないが大人しく出ていき、新たな潜伏先を作ったほうがいいのかもしれない。

 仕方ない。アクシオは腰をあげ、椅子に掛けておいたコートに袖を通した。

 「世話になったよ」

 尚もアクシオへの拒絶を示す背中に、彼は独特の埃っぽい渇いた声で礼を言う。

 無論、返事などあるはずもなく。

 長布を首に巻き、帽子を被り直す。

 そうして、開け放たれたままのドアにブーツのつま先を向けた。

 「まって」

 カランと、例えるならそんな声。グラスのなかで氷が溶けゆくような、そんな声だった。

 娼婦の腕を振りほどき、幼女が駆け寄ってくる。

 丁寧に血を拭われて、汚れも、傷みもない、綺麗な笑顔を浮かべる幼女。

 「おまたせ。いこ!」

 アクシオの手を、幼女の黒くて、温かくて、小さな掌が握る。

 娼婦が目を丸くしている。どうやらこの幼女の行為によって、あらぬ勘違いには気づいてもらえたようだ。

 しかし、この幼女。

 「離してくれ」

 「やーだーいっしょにいくー!」

 地団駄を踏み、アクシオの腕に抱きついてくる。あまりに鬱陶しいので娼婦に視線を送ってみるが、彼女はケラケラと笑いこけていた。

 どこが面白いというのか。

 「なあんだぁ。お兄さん、そのクラゲ頭ちゃんの知り合いなのぉ」

 「……クラゲ頭?」

 たしかに、この幼女の髪型は海月に見えないこともない。ふわふわの巻き毛が、肩の辺りから柔らかな直毛になっている。

 実に、なるほど。

 しかしなんだろう、海月という単語に聞き覚えがある。はて、どこだったか。

 ああ、そうだ。あの幼女に出逢った時に、彼女を海月のようだと思ったのだ。

 「見たところ傷もないしぃ。お兄さんに乱暴されていたわけじゃないみたいぃ……なぁに、お兄さん、この子も事情持ちぃ?」

 「そんな感じ」

 顔面を蹴りあげた時の鼻の傷も治っているらしい。助かった。

 幼女を腕から引き剥がし、先までコートを掛けていたイスに腰を据える。

 「で、外はどうなってるの」

 「ちゃんと教えるわよぉ。それよりぃ……」

 娼婦は幼女を抱き上げ、トントンと背中を叩きながら、小さく上下運動を繰り返す。

 身を預けた幼女の形よい頬が、娼婦の肩でふにゃりと崩れる。

 「お嬢ちゃんは、もうおねむなのよねぇー」

 「……んぅ」

 「かーわいぃ」

 うっとりと目を細めて、娼婦は幼女をベッドに降ろした。

 幼女はまだ寝たくないらしく、しきりに弱々しい瞬きをしている。娼婦はそんな幼女に毛布を掛けてやり、ぽんぽんと幼女の肩を叩く。

 「ねえ、この子も連れていく気なのぉ?」

 「……」

 それはあり得ない。

 アクシオは幼女に同情した。それは確かである。だがしかし、同情した『だけ』なのだ。

 それ以前に、もう係わりたくない。と思っているのも事実。

 娼婦もこの幼女を気に入ったようだし、ここに捨て置くつもりだ。

 「そういえばぁ」

 娼婦が問うてきた。

 「このクラゲ頭ちゃんのお名前は、なんていうのぉ?」

 知るか。

 と答えようかと思ったが、それでまた変に勘繰られるのも億劫だ。ここは無言を貫くことにする。

 「んぅ」

 まだ寝ついていない幼女が、アクシオを見詰めてきた。

 白い瞳。涙で充血して、ほのかな薄紅に染まっている。

 幼女は微笑む。そして、弧を描いた小さな唇が動く。

 「ミイラ」

 アクシオは瞠目する。その単語は、容易く、あまりに容易に、アクシオの表情も、今後の予定も、優先順位も、ぐしゃりと崩していった。

 ただ、その情報は、とても腑に落ちた。納得が出来てしまった。

 「なまえ、ミイラっていうの。たぶん」

 幼女、ミイラは、そう言った。

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