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錆と死体

 鼻につく香が煩わしいので、男は身を起こした。

 ガリガリと頭を掻く。傷みすぎた髪は、毛先がすっかり錆び付いている。

 けばけばしく、常に煙たいこの娼館の一室は、ベッドが柔らかいことだけが取り柄だろう。一週間ほど寝泊まりをして、それが男の感想だった。

 枕元に置かれた、水差しに入った桃色の液体を、グラスに注ぐ。酒と香水を水で割ったような香りが、青年の鼻腔を攻撃してくる。

 グラスを煽り、とろりとした温い液体を喉に流し込んだ。

 「あー……」

 胃に溜まる液体が、じわじわと体内を侵食する感じ。まるで、この娼館の独特の空気に同化していくようだった。

 「……」

 「あらぁ、起きたのぉ」

 と、無遠慮に扉を開いて顔を覗かせた、芳紀な娼婦。その拍子に、さらりと肩に流れた髪は、この青年のそれと同じ質感を持っていた。

 金属のような、光沢のある髪。青年の毛髪は錆び付いているが、この娼婦の髪は手入れが行き届いていて、鏡面のように眩しい。この男と娼婦は故郷が同じであり、そこの人間は、皆この髪質だった。

 けれど、他の国からすれば、この髪はとても珍しいようで。彼も、彼女も、他の仲間も、希少性という曖昧な価値観を理由にして乱獲され、そして売り飛ばされた。

 ある者は、故郷を植民地にした国の軍事施設で働かされたり、ある者は、髪色珍しさに遠い国の娼館に密輸入されたり、である。剥製にされた者もいるらしいし、生きているだけ自分達はマシだろう。

 「具合どぉ?」

 「別に普通」

 「ふぅん」

 ベッドに腰掛けた娼婦は、おもむろに寝転がり青年の太ももに頭を乗せた。

 上目遣いで見つめる瞳は潤んでいて、甘ったれた声は誘うように囁く。

 「どうするぅ。暇だし、私を買っちゃう?」

 「無理」

 「えぇー、安くするよぉ」

 「無理でしょ。アンタの一存で商品の値下げは」

 「まぁねぇ。ちぇー、出世するしかないなぁ」

 それこそ無理である。ほぼ奴隷として扱われている身で、出世など。

 こうして専用の個室を与えて貰えるだけでも、それは驚くべきことなのだ。どうやら、この娼婦はとても優秀らしい。

 この国で呼ぶところの『有能』ではないだろうが。

 「ま、別にいいや。好きなだけ居座ってねぇ同郷のお兄さん」

 「……」

 「んふふぅ」

 娼婦は紅を引いた唇を、青年の深いシワが刻まれた頬に落とした。甘い香りのなかで、油のような感触は異質だった。

 「さーびすぅ」

 「いらないから」

 辟易としながら、掠れ声で吐き捨ててやる。

 娼婦はわざとらしい舌打ちをして、青年の髪に触れた。ぱらぱらと落ちる錆。

 「なんなの」

 「もったいないなぁって。折角のイイオトコなのにぃ」

 「余計な御世話」

 娼婦の手を払って、ベッドのそばのキャビネットの上に無造作に置かれた帽子を取った。

 彼の頭より少しだけサイズの大きい、使い込まれた感のあるそれ。を、被る。

 落ち着く。

 「ねぇ、その古臭い帽子やめたらぁ。老けて見えるよぉ」

 「アンタに関係ない」

 「……もぉ」

 胸に垂れ掛かってくる娼婦は、男のシャツのボタンをひとつ外し、白い指をそのなかに侵入させた。

 筋肉の凹凸を撫でながら、娼婦は青年の上にのし掛かる。お互いの腰の位置を合わせ、擦り付けるように動かす。

 男は、ただ黙ってその様子を観察している。

 瞳を官能に染めた娼婦は、シャツ越しに彼の肌を舐める。湿った感触が布を通して伝わってきた。

 「お兄さん……ね、お兄さん……」

 「……」

「退屈なのよ。ほら、お兄さんも……触っていいよ」

 「……」

 「……ん」

 「……」

 「んっ……もぉ……もおぉっ!! 反応してよばかああぁっ!!」

 青年の素肌をまさぐっていた手が引き抜かれ、枕を掴み、それを彼の澄ました鼻っ面に投げつけた。

 「っざけんじゃねーわよぉ! 一週間も同じ部屋で寝て、アタシに誘われて、それで勃たないってなんなのよぉ!!」

 枕を引き裂き、詰まっていた羽毛を掻き出し始めた娼婦。

 白い羽が、埃のように宙を舞っている。

 「あたしはっ……あたしはねぇっ! 本来ならあんたみたいな野郎の手なんか届かない、高嶺の花なんだからぁっ!! ば、ばーかばーかっ!!」

 あんたなんて窒息死しちゃえ!と泣き叫んだ娼婦は、わし掴んだ羽毛を、鉄面皮を貫く男の口にぶちこんだ。

 「ばっかばっかばあああか!!」

 娼婦は跳ねるようにベッドを飛び降り、ドアへ走っていく。

 女がドアノブを握ったあたりで、青年は思い出したように娼婦を「待って」と呼び止めた。

 「……なによぉ」

 「検問とか、調べてきて」

 「……」

 ばか。と、捨て台詞を吐いて。

 ついさっきまでの勢いを無くした娼婦は、男の顔を見ずに部屋を出た。

 見られなくて良かった。口から大量の羽毛を吐き出している様は、なんとも間抜けだったから。

唾液で紙縒のような貧相な姿になった白い羽。

 白髪。死んだ髪。

 嫌な既視感があった。

 ぞわりと悪寒が背筋を走る。

 襲い掛かる人間の干物。すがり付く子どもの死体。

 請うように自分を抱き締めてきた幼女。

 それを自分は、ただただ恐怖のままに、焼き殺した。

 あのミイラは、幼女は、何だったのだろう。

 今でも残る唇の感触。固くて冷たくて、ざらりとしていて不快で。

 けれどそれは突然、柔らかく温かく。気持ち良いものになっていた。

 迫ってきた死の香りが、生き物の匂いになっていたのだ。

 死を目の当たりにし、生を見せ付けられ、自分は恐慌状態にあった。

 だからまともな判断力を失っていて、悔やまれることに、大事な依頼品を捨ててしまった。

 悔やむ?

 「いや、もう関わりたくない」

 今となっては、恐怖よりも嫌悪のほうが強い。

 忘れよう。嫌な夢だったのだ。

 娼婦が情報収集を終えて帰ってくるまで、頭を休ませなければ。

 排他的なこの国は、基本的に他国から人が入ることを許さない。 だから、自分は手続きを取らずに侵入した。つまるところ不法入国をしたのだ。

 今でこそ空襲のせいで厳戒体制がしかれているが、基本的に国境警備はザルなのだ。本格的に戦争が始まる前に、とんずらしておきたい。依頼を失敗したのだ、もうこの国に用はない。

 その為に、娼婦には検問検閲の一切を調べて貰っていた。

 この部屋に窓は無いが、娼婦が起きている位だから、きっと夜間だろう。

 眠ろう。嫌なことを忘れるためにも、脳を程よく腐らせようじゃないか。

 青年は目蓋を落とし、帽子を顔に乗せた。

 両の手を後頭部と生き残った枕の間で組んで、そして、意識を手放す。

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