錆と死体
木乃伊に触れていた右手を離す。途端に、脳裏に写っていたイメージが消えた。
ほう、とため息を吐いて、エリオという名を持つ青年は、一歩二歩と後退する。ガラスの箱に納まる棺桶の直径は、エリオの歩幅程度。中の木乃伊も、相応に小さい。干からびた姿ではあるが、服を着ているし、毛髪も残っている。恐らくは、人間の女児の木乃伊だろう。揺りかごで眠る赤子の如く、丸まっている。
ガラスの蓋を閉じて、エリオは箱のすぐ側の机に置いていた小冊子に手を伸ばした。頁いっぱいに書き込まれた文章は、先程のように、木乃伊から読み取れたイメージを、彼なりに解釈して纏めたものだ。観察日誌といったところか。
新しい頁に書く内容を頭のなかで整理しながら、机の引き出しを漁って筆記具を探す。
毎日欠かさず記録をとっているのだから、あらかじめ用意をしておくべきだと思っているけれど、どうしてもその手間が惜しくなる。この研究室に入ると、この木乃伊が目に入る。早く触れたくて、仕方がなくなるのだ。職業病であると言ってもいい。
なるべく物は持たない主義なのだが、しょうがないだろう、今度からペンくらいは持ち歩くようにしたい。
手探り当てた筆記具を掴みながら、どうせ忘れてしまう心動かないイメージに、頭の一部を侵される。どうやらインクは充分入っているらしい。それ以外、筆記具から流れ込む情報は無視だ。気にしない。
この研究室内で、エリオに割り当てられた席に座り、今日の記録を書き留める。
エリオが住まう〈この国〉では、個人が持つ人物像によって将来が決定する。
『相手を思いやる』人物。『場を盛り上げる』人物。『周りを引っ張っていく』人物。人が多種多様である分、人物像――人間性能も千差万別である。
エリオは、歴史風俗調査課の研究室員に就いた。彼の性能の内容からすれば、当たり前であるかもしれない。けれども、エリオ自身にとってこの仕事は、昔から抱いていた念願、将来の夢とも言えるのであった。
彼、エリオの才能、『物事を察する』という人物像は、たしかに研究者向きではある。だがむしろ彼は、警吏としての将来を期待されていた。エリオの性能をいかんなく発揮できる職種であるし、少なくとも、並の学者より社会的地位は高い。彼の両親も、友人だって、エリオは警吏になるものだと信じきっていた。彼は察しの良い子どもだったので、自身でもそうなるものだと思い込んでいた。
今のエリオがあるのは、この小さな木乃伊の影響である。
この木乃伊は、14年前に国内の海辺に流れ着いていた。発見したのは、当時10歳の少年。現在は24歳になる、エリオ、この青年考古学者である。
彼の人生の支点が定まったのは、この時のことだ。その事に関して、エリオは後悔なんて無い。自身に巡ってきた、その運命を誇らしくすら思う。
「ご主人」
研究室の扉が叩かれ、その向こうに立っている人物から声をかけられた。
我に帰って、声のしたほうに目を向ける。
「入ってもよろしいですか」
「あ……うん、どうぞ」
エリオは、なるべく柔和に応えた。
「失礼します」と、断りを入れてから扉を開いたのは、エリオより少し年下に見える少女だった。切れ長の目をしていて、とても姿勢が良い。そして、一見無愛想だが、整った顔立ちをしている。
それは、エリオのよく知る少女だ。
フェイリ。彼の幼なじみであり、最近は彼の家で使用人のようなこともしてくれている。
フェイリは、足首まであるスカートを持ち上げ、恭しく頭を垂れた。エリオとしては、もっと砕けた関係を希望しているのだが、フェイリはとにかく慇懃だ。
「で、どうしたの?」
「はい。ご主人」
「君の主人は僕じゃないでしょ。エリオって呼びなさいよ」
「はい。エリオ様宛に小包が届いておりました」
「あー、そう。ありがとうフェイリちゃん」
労いの言葉をかけると、フェイリの形の良い眉の間に皺が寄った。照れているようだ。
フェイリから小包を受けとる。触ってしまえば、それがなんなのか察することが出来た。なに、ただの趣味の道具である。
それを机の上に置き、エリオは席を立つ。
「お疲れ様フェイリちゃん。外でお昼にしようよ、折角だからさ」
「……はい。ご主人」
「エリオだってば。まったく、自分の名前を口にするのって、ちょっとだけ恥ずかしいんだよ?」
フェイリは扉を開いて待っている。
薄く笑みを浮かべたエリオは、出掛け様に振り返り、棺桶に向けて軽く手を振った。
返事は無い。
扉が閉まる。誰もいない研究室は、木乃伊の寝室になった。
14年前、かつて少年だったエリオは、仲の良かった幼なじみたちと一緒に、夜空から落ちていく数多の流れ星を追い掛けていた。
落ちた流れ星が、海にぶつかって死ぬ瞬間が見たいという一心だった。無垢であるがゆえの、残酷な発想である。
今でもその光景を鮮明に思い出せる。海面で弾ける流星群。あまりの眩しさに目を瞑った、一番小さな幼なじみ。海では魚たちが、ばしゃばしゃと音をたてながら星を食べる。夜になれば闇に溶け込むはずの海は、流れ星に照らされて群青色。
綺麗だった。あまりにも綺麗で、少年の足は海に向かって歩き出していた。
昼は太陽の光を跳ね返す砂浜は、今は潮に沈んで静かなもので。靴を履いたままの右足と左足は、浅い海を掻き分け進む。
少年の瞳は、海と星の青に染まっている。彼は星の死に際に、魅せられていたのだ。
背後で泣き叫ぶ幼なじみの声がした。一番小さな幼なじみだろう。それでも、その歩みは止まることを知らず、少年は星とともに、海に沈んでいった。
海水は、ぬるりとしていて、温かだった。魚たちは光る餌に夢中で、少年に見向きもしない。
消え行く星の瞬きは、静かに沈むエリオに、ここは夜空なのだと錯覚させるには充分すぎる程であった。
口から溢れる水泡を追うように、エリオは手を伸ばす。夜空に吸い込まれていく泡。
ああ、これが命か。
そこに死の実感は無かった。良いものを見たという感慨深さと、生きていて良かったという歓喜に満ちていた。
快楽が背骨を貪っていく。手足の爪先が切なく痺れ、鼻の奥と眼球の裏がクラクラする。けれど、不思議と心は穏やかで。全て投げ出して、委ねて。
少年はその時、目を閉じたのだ。
今、エリオは目を開けている。
どこまでも澄み渡る蒼穹。今日は、とても良い天気だ。
研究室のある博物館から出てすぐの繁華街。その大通り。一番小さかった幼なじみは、すっかり背が伸びて、エリオの隣を歩いている。
あんなに泣き虫だったのに、今じゃこんなに凛々しくなってしまって。体も熟れ、女らしい肉感がある。
「なんですか」
「いや、なんでも」
「……」
観察されていたことに目敏く気づいたフェイリが、鋭い眼光でエリオを睨み付ける。物凄く照れているようだ。
こういった所が昔から変わらなくて、とても可愛いと思う。のだが、もしそれを口に出したりしてみよう。彼女の鍛え抜かれた剛拳を、この特に鍛えていない怠けた腹にお見舞いされるのが、目に見えている。ので、言わない。まったく、照れ隠しも程々にしてほしいものだ。
「……やはり、不穏です」
「だから、なんでもないって」
「嘘です」
「もー、どうしてそんなに突っ掛かるのさ」
「何かよからぬことを考えている顔でした」
「ふーん」
フェイリちゃん、お年頃だねえ。少しだけ意地悪い気持ちになってしまった。
「もし、もしもだよ。僕がフェイリちゃんの思うところの、よからぬことを考えていたとする。で、フェイリちゃんはさ、そんなによからぬ内容が気になるの? 説明して欲しいの?」
「……っ」
「もしそうなら、僕、恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもじゃないけど言えないなあ」
「……ハァ?」
途端に口が悪くなった。赤く染まった顔を、憤怒の表情で誤魔化している。どうやら恥ずかしさの限界らしい。
まったく、この娘は何を想像したのやら。まあ、あながち間違いでもないが。
「悪口なんて考えていないから、安心しなさい」なんて、わざと的外れなフォローを入れてやった。これから食事を摂るのに、不貞腐れて貰っては困ってしまう。
「別に、本気で疑っていた訳じゃ……ていうか、言って欲しいなんて、それこそ言っていませんよヘンタイ」とか、言い訳がましい愚痴は受け流す。
「ほら、お腹が空いただろう。フェイリちゃん、何が食べたいのか言ってみなさい」
「……」
「奢るから」
「……じゃあ、お言葉に甘えて、氷菓子を」
「それはご飯じゃありません」
「…………」
「不満そうな顔をしない。味のついた水を冷やして固めたものを、ご飯とは呼ばない。少なくとも、僕は絶対に認めないよ。というか、菓子って言っちゃってるよね」
「あんまりです」
「あんまりなのは、フェイリちゃんの感覚じゃない。氷菓子だよ、氷のお菓子だよ」
「素敵ですね」
「素敵かもしれないけど、そんなお昼ご飯は嫌だよ」
面倒くさいので、エリオはフェイリの腕を引いて、通りかかった食堂に入った。
いまだに氷菓子のことを考えているようで、腕から冷気のイメージが伝わってきて寒い。
もう秋になるのだから、よして欲しいものだ。
氷菓子が、いかに素晴らしいか尊いか、フェイリが思考する限りエリオは冷たい思いをしなければならない。まこと理不尽である。
椅子を引き、フェイリを無理やり座らせて、店員を呼んで向かいの席に腰掛けた。
「日替わり定食二つ」
「……エリオ様」
「ん?」
「……」
「不満そうだね」
「……」
「食後にデザートを頼んであげるから」
「…………」
下唇を噛んでご機嫌に喜ぶフェイリを確認して満足したエリオは、店の窓から空を見上げた。
早く研究室に戻りたいな。あの子に会いたいな。
本当に、いい天気だ。