劣情と葛藤
別に纏めるような荷物なんて持っていない。しいて挙げるなら、このミイラくらいだ。
「ねえ、本当にもう行っちゃうのぉ?」
「車が到着するまで、あとどれくらい掛かるの」
「そんなに掛からないけどぉ……ミイラちゃんも連れていくつもりぃ?」
「うん」
「やめときなよぅ、何の車がわかってるでしょお」
「うん」
準備は一通り済んだので、アクシオとミイラは娼婦の後を着いていく。
受付のカーテンを拝借し、付け焼き刃で作った外套を被ったミイラは、アクシオのコートを掴んで離さない。歩きづらい。
店の表には、一台のトラックが停まっていた。荷台の幕に印されたマークに見覚えがある。
人売り業者。故郷を襲われた日から、何度も目にしたマークだ。
「おや、鏡の君じゃないですか」
店主と話をしていた男、恐らく人売りが、娼婦へ気さくに話し掛けてきた。
鏡の君というのは、この娼婦の愛称である。
「どうもぉ」
娼婦は、にこりと笑う。
「お久し振りですわぁ」
「ははっ!」
何が面白いのか、業者も笑い声を出す。出しながら、上半身を横に曲げた。
ミイラは肩を震わせ、アクシオの背中に隠れる。
人好きのする笑顔で、業者はうんうんと頷いた。そして、娼婦に向き直る。
「こちらさんは?」
「旅人さんよぉ」
「ほほお……〈この国〉に、旅人ねえ」
「ほらぁ、この前空襲があったでしょお。おバカなことに出れなくなっちゃったのよぉ」
「ほおほお」
「ね、助けてあげてぇ?」
「相乗りってことですかねえ……ううん、まあいいか!」
業者の視線がミイラに向く。それを遮るように、娼婦は「ありがとー」と喜声を挙げて業者に抱き着いた。
ミイラの外套から、白い髪が溢れていた。アクシオはそっと掬い上げ、しまってやる。
「ほら、荷台でよろしければ、どうぞ!」
幕を上げると、荷台には数人の少年少女が座っていた。彼らの目に、生気は無い。
アクシオはミイラの手を引き、先に荷台に乗り込む。次いで、ミイラを引っ張り上げようと振り返った。
ふわり、フードが落ち、白と黒の髪が広がる。
幼女の背後には、幼女の腰辺りに手を置き、困ったような笑みを浮かべる業者がいた。
「いや、お手伝いしようと思ったのに、失礼しやした!」
「……取り敢えず、離れてくれます?」
「……ははっ!」
笑った業者が両手を挙げ、半歩退る。それを見計らって、アクシオはミイラを持ち上げ、荷台に座らせた。業者はそれを、ミイラを凝視している。
まず、艶やかな黒髪が流れる。その向こうに隠れた黒い瞳。雪のような肌。
業者は、生唾を飲む。アクシオには業者の心情が容易に想像できる。大金に化ける美貌だろう、ミイラは。
だが、業者の目が変わった。ああ、これは駄目だ。と言いたげな、無礼な視線。
何故なら、ミイラの左顔面には、大きなガーゼが貼られていた。それだけならまだしも、柔らかかった頬にはケロイドが走っている。所謂、キズモノなのだ。
「何かな」
「いえ、何でも?」
にこっと笑い、業者は幕を下げた。荷台の中には電灯の類いは無いので、真っ暗である。
外から洩れてくる会話。娼婦と店主と業者が話しているらしい。
「おにーさん」
「……何かな」
「かお、じゃま」
「我慢して」
「んぅ……」
ミイラの顔面の火傷。もちろん、これは特殊な化粧で作ったものである。生きるために生きていると、こんなことまで学習してしまうのだ。
最初は、本当に焼こうかと思った。ミイラには尋常じゃない回復力がある。だから、焼こうかと。
だが、そんなことは出来なかった。アクシオは既に一度ミイラを焼いたのだから。
会話が止み、車が走り出す。揺れが大きく、ミイラはアクシオの腹に倒れてしまった。
「んぅ、ごめんね」
「いいよ、このままで」
「……んぅ?」
荷台の柵に背中を預け、ミイラが他の子どもにちょっかいをかけ始める前に、抱き締めるように固定する。
当たり前だが、ミイラの体は温かい。落ち着く。
「おにーさん?」
「名前で呼んでいいよ」
「……アクシオ……?」
「うん」
「アクシオ、あまえんぼ?」
「うん、まあ、そんな感じ」
幼女の旋毛に鼻を埋める。汗とミルクが混ざったような、ミイラの体臭がする。
「ミイラのにおいかいでる?」
「うん」
「ミイラね、アクシオのにおいすき」
「……なんで」
「たぶん、おなかのなかのにおいだから、だとおもう」
「は?」
「すきだよ、アクシオ」
ミイラが身動ぎをして、アクシオの肩に手を伸ばす。太ももの上をよじ登り、ミイラの顔がアクシオの頬に迫る。
この荷台は真っ暗だ。何も見えない。
トラックが小さくなっていく。娼婦は最後まで見届けたかったが、諦めて店の中に戻る。
受付のカーテンの消失には、誰も気づいていないらしい。物が無くなる瞬間は、本当にあっさりしているものだ。
「おや、鏡の君」
受付の前に居たのは、昨晩のお得意様。即座に、娼婦は愛想笑いを浮かべた。
「お帰りですかぁ」
「ええ、昨晩はありがとうございました」
「いえいえ、楽しかったですわぁ。まさか、お喋りだけで夜が明けるなんて思わなかったし」
「あはは……どうなんでしょう、やっぱりそれって失礼になるんですかね」
「そんなことないですよう。楽に越したことはないですってばあ!」
「そ、そうですかね。あは」
お得意様は心中複雑そうに、しかし安心したように微笑んだ。
まさに、いい人。先の人売りとは大違いである。
「あの、鏡の君」
「はい?」
「ありがとうございました」
そう言って、お得意様は右手を差し出してくる。
娼婦も右手を出した。
握手。お得意様は、体の線こそ細い。だが、やはり手は、娼婦のそれより大きい。
「本当にありがとう。予定通りです」
「はい?」
「いえ、なんでも。……それじゃ、またいつか」
「あ、はい」
終始笑顔を絶やさなかったお得意様、エリオは、店を後にした。
「アクシオ、どうしたのアクシオ」
「…………何でもないよ」
「ちゅーしたの、おこってる?」
「怒ってないよ」
「でも」
「静かに」
キュッと、ミイラをきつく抱き締める。彼女の小さな頭を自身の胸に押し付け、無理やり黙らせた。
トラックは人気の無い場所に出たらしい。よもや、業者がミイラを狙って自分を襲うことは無いだろうが、早く国境に着きたいものだ。
このトラックは、西に向かっている。東は海、西は荒れ地、車で移動するためには、西へ行くしかない。この国は、けして大きくない。夜中には国を出れるだろう。
国を出てしまえば、どうとでもなる。このまま次の国へ向かって貰い、適当な乗り物を買ってミイラを依頼人のもとへ運べばいい。
アクシオをこの国に寄越した依頼人は、とある大富豪の貴婦人だ。何に使うかはわからないが、オブジェにするのも、美容薬を作る為に木乃伊を粉にするつもりだったのだとしても、今のミイラでは一苦労も二苦労もある。少々奇異ではあるが、ミイラの器量は絶品だ。もしかしたら、小間使いとして買うかもしれない。
仮に、要らないと言われたとしても、……言われたなら?
自分は、ミイラをどうするのだろう。
「ねえ」
「んぅー?」
「外に出たら、何をしようか」
「んぅ、いっしょに、ほしをみる!」
「他には」
「んぅ? んぅー、いっしょにいたい」
「……ふうん」
「ずっといっしょがいい」
「……」
そうなるといいね。
退屈なので、少し睡眠を摂ろうと思う。この幼女は、抱き枕にぴったりだし。 異変があったのは、幕の隙間から光が漏れなくなって久しくなってからだった。
アクシオの腕の中で熱が動く。
「んぅ、おはよー?」
「おはよう」
「あさ?」
「多分、夜」
虫の音が聴こえる。静かだ。静かすぎる。
トラックが、動いていないのだ。
「降りるよ」
「おほしさまみるの?」
「ゆっくりは出来ないけど、見れるんじゃないかな」
「やったー!」
ミイラを抱き上げ、幕を上げて荷台を降りた。
すると、ミイラの頭が無くなった。
「…………?」
はらはらと白黒の髪の毛が散る。髪の毛は、少しだけミイラの舌の上に舞い落ちた。
ガーゼは地面に転がっている。これでは、化粧がバレてしまう。アクシオはミイラの顔を確認した。
まず目に入ったのは、真っ赤で瑞々しい舌だ。ぬらぬらと濡れている。ミイラの口腔内は、唾液で赤い気泡ができていた。
他人の奥歯を、この角度で見るのは、実は初めてである。
なるほど。アクシオは状況を確認する。
ミイラの上顎から上が、無残に吹き飛んでいた。
そして、アクシオは――引いた。
素直に感想を述べるなら、気色悪い。生ゴミに集るハエが口に飛び込んできた時と同じ顔をしている筈だ。
つい、残りの下顎から足先までを、取り落としそうになる。いや、落としたってよかったのだ。この物体は、ぐにぐにしていて気持ち悪い。
いや、ダメだ。アクシオは息を止めて自制する。
これでは、博物館の二の舞じゃないか。
実際、ミイラだった体は落ちなかった。
「ごめんなさい」
と、誰かが言ったと思ったら、腹部に一瞬だけ激痛が走った。そして声の主は、何か大きな刃物を、ミイラだった物の胸を貫いていたからだ。
その切っ先が、アクシオの腹にも刺さっている。
ミイラの体は、しばし静止していたが、己の重さに耐えられなくなりじわじわと降下していく。だがそれも、鎖骨の辺りに刃が当たると止まった。
なんだか、物干し竿みたいだな。
アクシオは笑みを浮かべる。だが、やはりそれは、引き吊っていた。笑顔は、苦手なのだ。
腹から刃が引き抜かれる。生前よりも、更に小さくなった幼女の体は、地に落ちた。それを眺めて、アクシオは荷台に寄り掛かる。刺突の際、死体の肉が刃物に深く食いついていたらしく、アクシオ自身の傷は浅かった。
声の主が、幼女の死体に近付く。見覚えのある姿だった。
金髪の美しい少女。研究員エリオの家人らしき人物。
これがフェイリか。思っていたよりも、物騒窮まる。
フェイリが握っていたのは、軍隊が使うような刀剣だった。一般人が持つような代物じゃない。
刀剣が振り上げられる。これは、殺される覚悟を決めるべきか。
そして、それは、ミイラの死体に降り下ろされた。
びくんと跳ねる体。まるで、生きているみたいに痙攣している。
反射的に、アクシオは思い出す。そうだ、ミイラは、何故だか知らないが死に辛かったじゃないか。
「……」
だから、何だ。あれが生きているというのか。
全身やけどとは訳が違う。ミイラは、頭を飛ばされたんだぞ。
フェイリは、ミイラの死体を、尚も切り刻む。砕く。潰す。
痙攣も無くなって、静かに体液を流していた。
「やめてくれ」
内臓の強烈な生臭さ。顔色を変えないフェイリ。
「もう、やめてくれ」
「……」
フェイリの動きが止まる。それは、アクシオの声に反応した訳じゃない。ただ、刻む部位が無くなってしまったに過ぎない。
血を払い、フェイリは肉塊から離れる。その時、彼女はアクシオを一瞥した。その目は、哀れみを浮かべていて。
「貴方もなんですね」
「……」
「あんなものに、固執して。可哀想です」
「……」
「逃げていいですよ」
興味無いので。
そして、少女は向かう。
飛ばされた、幼女の頭部に。
「ごめんなさい」
再度そう言ったフェイリは、ミイラの頭部を掴んだ。
今度は何をする気だろう。じくじくと痛む傷に手をやり、少女の動向を観察する。
観察じゃない。これは、傍観だ。巻き込まれたくないから、死にたくないから、自ら疎外しているだけなのだ。
しかし、少女は剣を置いた。トラックの側に停めてあった、古いバイクに立て掛けた。
そういえば、運転手はどうなったのだろう。
殺されたのだろうか。
フェイリは、掴んでいた頭部を、肉塊に投げ込んだ。べちゃりと、肉と肉とが音を立てる。
砕き損ねた骨に、白い左目が刺さりそうで心配だ。
バチン。
それは、腱が切れた時のような、大きな音だった。
ミイラの頭部が、肉片の中でぐらりと揺れ動く。まるで、何かの反動のように、ぐらんぐらんと。
動く、動く。砕かれた肉が、筋が、最後の力を振り絞り、蠢き始めた。
アクシオは口を抑える。本当は叫びたくて一杯だった。それでも声を出さないのは、アクシオの存在に気がついた肉片が襲い掛かってくるのでは。と、妄想したからである。
肉は、骨と皮を引き摺りながら頭部に群がった。死して尚も美しかった相貌が、隠れていく。
そこには、肉の球体があった。
「お疲れ様でした」
球体に麻袋が掛かる。
フェイリは、なるべく中身に触れないように袋を持ち上げ、バイクの補助席に乗せた。
「わかりましたよね」
バイクに跨がり、フェイリが振り返る。
その顔色は、最悪だ。
「気持ち悪いでしょう、これ」