みかんの剥き方入門
その部屋は、本来寒いはずだった。
壊れかけのストーブが僅かに部屋に暖気を混ぜ込み、こたつの無い室内の真ん中には大きなちゃぶ台。そこを僕を含む四人が、まるで中国の神話、四方の方角を司る“四神”のように囲んでいる。僕が南の朱雀だとすれば、目の前の老人は北の玄武。横の二人の若者は、青龍、白虎といったところか。
誰もが黙りこくっていた。動くものも無く、窓の外の降りしきる雪に目をやらなければ、この世界は時が止まっているのではないかと錯覚したかもしれない。
明鏡の如き沈黙。止水の如き静寂。それを破る勇気は僕にはなく――ただ、目の前にいる熟練の戦士たちが動き出すのを待っていた。
僕の前に座っている玄武――老人が目を開け、ゆっくりと口を開く。それはこの部屋の凍結した時間を再び動かす合図だった。
「お二方、よろしいですかな?」
僕の横の青龍――若い男は頷き、白虎――若い女は優雅に頭を前に傾けた。
その時、男と女の目が合ったのを感じた。それが帯びている殺気は、目の前でぶつかる電流のように激しく、されど得物を草陰から狙う獣のように静かで――。
「お願いします」
「御願い致しますわ」
二人が挨拶を交わす。
僕はぞくりとし、速まる心臓の鼓動を抑えようと胸に手を当てようとしたが、既に指一本動かせる状態ではなかった。高まる二人の威圧感に、僕の体は屈したのだ。
二人の戦士――“剥師”の間での闘いの前の挨拶。それは熟練した者同士がする場合、“殺し合いの始まり”を意味する。殺るか殺られるか。その勝負が老人審判の宣言によって、今、始まる。
「三本勝負、一本目――始め!」
凍っていた時間は雪解け水のように流れを速め、二人は手早く手元を動かし始める。
そこには、橙色の果皮が電球色の蛍光灯から与えられた落ち着きのある光を反射しているみかんがあった。
“みかん剥き”――。それは戦国時代に生まれた、将軍や身分の高い者の間で始まった娯楽を起源とするスポーツだ。
今ではすっかりマイナーなウィンタースポーツだが、かつてはオリンピックの種目に加えようという動きがあったほど世界中で熱狂的な支持を集めた競技である。誰でもあるだろう、みかんの剥き方について友人と語り合ったことが。誰でもあるだろう、自己流のみかんの剥き方を編み出したことが。誰でもあるだろう、みかんを如何に芸術的に剥くか挑戦したことが。
そう、これは――誰でも手軽に冬のこたつで行える、最高のウィンタースポーツなのだ。
そしてそれに、卓越したセンスを駆使し血の滲むような努力をして臨む者たちを“剥師”と呼ぶ。天才でなければ到達し得ない境地だ。その称号を求めてどれだけの人間が努力し、そして挫折しただろうか。みかん剥きが生まれて数百年。名を残せず無念に散っていった者は最早数えきることはできない。
手元を素早く動かす剥師の男女。呼吸が止まりそうになるほどの威圧感。濃密な時間が僕の中で流れ、それは数時間にも及ぶかに思えた――しかし。
「十二秒」
ほぼ同時に、闘う二人のみかんは剥き終えられた。そして老人審判はかかった時間を宣言した。十二秒。
馬鹿な……。早すぎる。僕の体感したあの長い時間は何だったのだ。二人のあの威圧感が、何時間も早く脳内時計の針を回したというのか……。
二人の男女は正座で背筋を伸ばした姿勢を崩さず、自らが剥いたみかんの皮を見つめて、審判の審査結果が告げられるのを待つ。
美しさと速さが求められるこの競技。速さはほぼ互角だ。
老人審判は二人の剥いた皮を交互に見つめ、息を吐いた。
「一本目、『天道』……。勝者、三千院美優」
“天道”。外国では“ライジング・サン”とも呼ばれる、みかん剥きにおける“型”の一つである。最もオーソドックスとされる型で、一般人は大抵この剥き方でみかんを剥く。ヘタかその反対の下部に指を入れ、そこから花びらのように剥いていくものだ。剥き終わった皮が光り輝く太陽に見えることから“天道”と呼ばれる。まずはこの型のレベルが試される。基本的故に小細工は不可能だ。
僕の横で、三千院美優と呼ばれた女性が口角を僅かに上げる。まず一つ、勝利。その無表情に近い表情からは、少しの余裕が見て取れた。
一方、負けた男の口からは歯が軋る音が漏れる。女を睨み、その瞳からは強い闘争心が感じられる。
僕は二人が剥いた皮を見る。芸術的だった。放射状に広がった“太陽の光”の部分はほぼ同じ幅に揃えられている。何が勝敗を決したのかは、まだ素人に近い僕には分からなかった。
老人審判が口を開く。
「二本目、『自由』――始め!」
“自由”。その名の通り、自由にみかんを剥くことである。数多の剥師を目指す者たちが、この“自由”で挫折している。手先の器用さだけでなく、創造力も試されるスタイルだ。如何に美しくするか。如何に奇抜な形にするか。そして、スピード。熟練した者は数百から数千のパターンを手が覚えていて、日常を過ごす上でみかんを剥いていたらいつの間にか芸術的な形になっていた、ということもザラだ。この三本勝負の中で、最も手先の器用さが試されると言ってもいいだろう。
二人の手さばきは、最早、伝説の域だった。
見えないのだ。みかんを剥く手が見えない。あまりのスピードで消えているように見える。みかんの白い部分が飛び散り、その壮絶さを物語る。
三千院美優はほんの少し口元に笑みを湛えながら。男は歯をくいしばって全身全霊をかけて。二人の動きは人間のレベルを超越しており、僕は深い感動を覚えると同時に恐怖を感じた。圧倒的な強者に対する恐怖。額から汗が垂れる。僕の全身は、冬だというのに汗だくだった。
そして、再び僕の脳内時計の針が高速で回り出し、二人が動きを止めて老人が口を開くのと同時に速さは落ちた。
「三千院美優、十六秒。紺野龍一、十八秒」
老人審判は経過時間を口にした後、剥き終えられたみかんの皮を交互に眺める。
三千院のみかんの皮は、“神雷”と呼ばれる型だ。“天道”の光を表す部分をジグザグの形になるように剥き、剥いた後の中心が小さくなるようにしてある。
紺野龍一と呼ばれた男のみかんの皮は、“塒蛇”と呼ばれる、とぐろを巻いた蛇のような形の型に少し変形を加えたもの。少しのアクセントが、勝敗を左右する場合もある。だが、逆に印象を悪くしかねない、諸刃の剣でもある。このままでは負けるとみて、勝負に出たのだろう。
精巧な出来だ。どちらが勝ってもおかしくない。
緊張の時間が流れる。再び到来する、静寂。僕は時間が止まっていないということを、窓の外で降る雪を見て確認する。
老人が唇を舐め、息をつく。そして告げた。
「二本目。勝者、紺野龍一」
紺野龍一が目を見開いた。喜びの表情だ。僕はちゃぶ台の下で彼が小さくガッツポーズをしたのを見る。
三千院は目を閉じ、ふっ、と少しのため息をついた。あくまで冷静だ。
そして双方の目が再び合った瞬間。
僕は胸に大穴が開いたような感覚に陥った。
何だこの殺気は……尋常じゃない。僕の全細胞が告げた。ここから逃げろ。さもなくば――
「三本目、『自由・道具有り』。始め!」
――殺される!
しかし、二人が立ち上がっても、僕は震えるばかりで動くことができなかった。今、僕の意識に付けられた手枷足枷は、自分の意思では外せない。心臓が骨と肉を突き破って飛び出しそうだ。汗が垂れる。見開いた目が閉じられない。呼吸を、呼吸をしろ。息を吸って、吐いて……そうだ、それでいい。
そして少しだけこの殺気に慣れた僕は改めてちゃぶ台を見て、闘いの最中に雑音を出すのは御法度だと知りながら驚愕の声を上げそうになった。
三千院は、小型の顕微鏡のような物を右目に装着し、チュイーン、と音を出す針でみかんの皮を削っている。
紺野は、けたたましく唸るチェーンソーを取り出してみかんの皮を切っていた。
“自由・道具有り”。“自由”を極めた者が、次に挫折する最後の難所。文字通り、道具を使って自由に皮を剥くものだ。道具の使い方は人それぞれ、使う道具も人それぞれ。より意外性のある道具を使い、その道具がもたらす断面の形などの“表情”を巧みに表して勝利を掴む。最も多様性があり、最もパフォーマンス力があり、最も可能性に満ち溢れた剥き方だ。フランスではギロチンを使ってみかんを剥いた剥師について文献に書かれている。野球選手が空中のみかんにバットで打った野球ボールを当ててみかんを剥いたことは有名な話だ。しかし、数百年のみかん剥きの歴史の中で、この剥き方を極めた者は未だ存在しない。
三千院の繊細な剥き方。紺野の大胆な剥き方。それは僕の心をこれ以上ないほど揺さぶった。
そうか……そうか、これが! これが“みかん剥き”なんだ! 素晴らしい! 最高峰! 芸術の頂点! それを僕は見ているんだ!
僕が足を踏み入れたのはとんでもない世界だった。奥が深いどころじゃない。底なしだ。底なしの可能性を秘めたスポーツの世界。
そこに情熱があった。溢れんばかりの情熱があった。この空間はそれに満たされ、雪の降りしきる冬であるにもかかわらず熱気に包まれたかのようだった。
みかん剥き――そのスポーツに魅入られた二人の芸術家が今、目の前で闘いを繰り広げている。
「三千院美優、七十六秒。紺野龍一、五十九秒」
終わった。老人が経過時間を告げ、審判が始まった。
三千院のみかんの皮は、世界遺産のナスカの地上絵のハチドリの形をしている。細かいところまで気を使っていて、ミリ単位のズレも許さない。
紺野のみかんの皮は、“斬”という漢字の形だ。断面がぐちゃぐちゃで、荒削りな雰囲気が作品に鋭さを与えている。
どちらも違ったおもむきがある。僕なら、引き分けにするところだ。
老人審判は二つの作品を、見比べて、唸り、目を瞑り、唸る。迷う老人の姿が、かなり実力が拮抗していることを示している。
待った。ただ、待った。その空間に詰まった気体が固体になったかのようだ。それによる息苦しさ。しかし僕は音を立てずに老人の言葉を、ただ、待った。
乾いた唇が動く。
「三本目。勝者、三千院美優」
それがジャッジだった。
三千院は、ほぉっと大きくため息をつき、老人と男に一礼した。その顔には一つの闘いを終えた戦士の歓喜の色が見え隠れし、それでも兜の緒を締めて冷静に振舞っている。
紺野は、仰向けに倒れていた。声には出さないものの、その体勢と表情から醸し出される絶望の雰囲気がじんわりと周囲の空気を侵食していて、僕は思わず目をそむけた。
“剥師の闘いは殺し合い”――。その意味が今、やっとわかった。精神の全てをかけて挑んだ敗者は、その精神が、人間性が否定されたことを意味する。精神的に抹殺されるのだ。引退した剥師はほとんどが寝たきりになっているという事実を思い出した。紺野は、もう、二度と立つことはできないだろう。
三千院が立ち上がり、紺野に歩み寄る。彼の顔を見つめた後、少しだけ腰を折り、手を差し出した。
僕はその勝者の行動の意味が、少しの間分からなかった。恐らく敗者もそうだろう。だが、彼は朦朧としているであろう頭でその意味を理解したのか、震える手を伸ばす。
剥師と剥師の手が触れた。勝者が敗者の手を強く掴む。握手だった。一人の戦士に花束を。散りゆく者に賞賛を。
「俺……は……」
紺野の震える口が開く。中から今にも消え入りそうな声が漏れ、僕は耳をすます。
「俺は……必ず……あんたと……もう一度……」
「分かっていますわ。再び相見えるのを楽しみにしています。貴方なら立ち上がることができると、信じていますわ」
男は、ふっ、と一瞬笑い――がくりと力を失った。彼の闘いは、今やっと、終わったのだ。
空間の冷気を僕はやっと認識した。しかし体と心に残る熱さの残滓はまだ渦巻いていて、消える気配が無い。体を動かせることに気づき、タオルで顔や首の汗を拭き取る。
ため息をつき、ちゃぶ台の上を見た。六つのみかんの皮が置かれている。
みかんの皮が、芸術作品に変わる瞬間。それを僕は確かにこの目で見たのだ。超現実。奇想天外。僕は再び深い感動を覚え、身を震わせた。
僕は窓の外を見る。
降りしきる雪、老人の審判、二人の偉大な戦士。
僕はこの日のことを、生涯忘れることは、ないだろう。