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南北の海峡 -The Split Fate-   作者: 伊東椋
第一部 2つの日本
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05 闇の宣告


 ―――同志諸君、今日は私から皆に伝えておかねばならないことがある。それは我々の未来を、現在いまを形作るのに絶対に必要不可欠なものである。諸君は覚えているだろうか、日本帝国主義に不条理な立場を強いられ、弾圧された日々を。君主による圧政の下、我々の子供たちが侵略者の手先として戦場に送り込まれ、数多のアジア人民を巻き込んだ事実を。我々は決して忘れてはならない。無数のアジア人民を虐殺した日本帝国主義、我が日本人民と欧州の人々を虐殺したアメリカ帝国主義、それらの悪しき資本主義陣営を我々は許してはならない。我々はこの悪しき帝国主義の打倒を決し、世界への社会主義建設の実現を目指すことを誓う。そして全ての日本人民が解放される日が来ることを願い、一刻も早い日本全土の解放を実現させなければならない。そのために、私は日本の解放への第一歩として、ここに日本人民共和国の建国を宣言する!―――


 ―――1949年 日本人民共和国建国宣言・共和国政府日本共産党初代党首



 ―――我が共和国と盟邦ソビエトの多くの勇士たちが血を流した祖国解放戦争は、その血を代価に北海道の解放を成し遂げた我々の勝利として終わったと言うべきだろう。しかし我々は奴らの非道なる所業を忘れてはならない。道内各地で多くの市民を虐殺し、更に函館へ原子爆弾を投下したアメリカ帝国主義と日本帝国主義を。我々はこの永遠に癒えない傷を抱え、その痛みを脳裏に焼き付けるのだ。その痛みを数倍に返してやる時を待ち続けて―――


 ―――1972年 赤き北海道 著者:元日本人民赤軍参謀総長


 


 ―――兎に角、あの国での生活は不自由極まりなかった。建国当初は北の楽園と豪語し、如何に幸運な国であるかを政府は国民にアピールしていたが、私達はそれが全くの嘘であることを思い知らされました。実際は政治総省による監視体制の下、誰が監視員なのかもわからない。迂闊に党や政府への不満を漏らすようなら、すぐさま秘密警察がやって来て逮捕されます。私の友人も、何人か彼らに連れられて二度と帰ってくることはありませんでした。あの国に自由と言う文字は存在しません。経済は潤っても、得をするのは上級道民のみ。ただでさえ軍事が最優先です。そんな国に、人並みの生活ができると思いますか?だから私達はあの冷たい海を渡って脱北してきたのです―――


 ―――1995年 とある脱北者による証言



 ―――日本共産党政府によるネット規制は、北日本においては極めて『正常』である。党や政府、指導者に対する不適切な情報は一切禁じられ、政府の検閲が常に敷かれている。北日本には南日本と同じように憲法があり、言論の自由は認められているはずだが、実際にそんなものは三次元に限らずインターネットにおいても存在しない―――


 ―――2001年 日本共産党政府によるネット規制の闇 著者:田辺信次郎(帝都大学教授)



 ―――南日本の映画を観たが、北日本の特殊部隊の兵士が射撃訓練の際、確実な命中率を上げるために目標の隣に仲間の兵士を立たせて射撃訓練を行う描写が劇中に描かれていたが、実際はもっと過酷な訓練がある。それは訓練生が山奥に捨てられて自分の力で戻らなければならない訓練だ。俺はその訓練に参加した時、パラシュートで降下した時に体が木の枝に刺さって重症を負ったが、誰も俺を助けてはくれなかった。結局、俺は傷の痛みを耐えながら集合地点に戻ったが……もし俺が途中で死んだら、俺の死体は回収されること無くそのまま放置されていただろう。俺の死体は、次の訓練の時、また同じように訓練に参加した兵士たちの、愚かな兵士という見せしめとして使われていたのかもしれない―――


 ―――2004年 脱北した元北日本特殊部隊兵士の証言


 






 どこまでも続く平野―――皮膚を突き刺すような冷たい風が吹き渡っていた。

 ここがどこなのかも知らされず、彼らは極寒の地に置き去りにされた。彼らに渡されたのは、氷点下に耐えられないような薄い上着だけ。食糧も、水さえなかった。彼らは葉のような薄い上着を着込み、寒さに凍えながら冷たい風が吹く平野をさ迷った。しかし東西南北、どこへ行っても彼らの行きたい所へは辿り着かない気がしてならなかった。

 さ迷うにつれて、彼らは数を減らしていった。四人いた彼らは、一人一人、その数を減らした。1人が減るたびに、彼らは叫び、逃げ惑った。夜闇が彼らを喰らい尽くそうと襲いかかってくるのだ。

 そして遂に―――彼は一人になった。枝や石に抉られ、血だらけになった足を引きずり、彼は静かな闇の中を歩いていた。

 深淵の闇が果てしなく続く林の中、彼は限界に近かった。

 何故、俺がこんな目に―――彼は、何度目かわからない自問を繰り返した。

 しかし闇は何も答えてくれなかった。自問をする彼に、答えを与える優しさはない。世界は残酷で無慈悲に構成されていたから。

 そろそろ、奴らがくる―――毎日この時間に、一人ずつ殺された。今日は絶対に、最後に残った自分の番だ。

 彼はまるで犬のように上下の歯を揃えた口から荒い息を吹き出した。極限足る興奮。体中がまるでヤカンの中のお湯のように沸騰し、指の先まで痺れてくる。毛の一本まで、神経が細かく通っているかのようだ。

 こんなことで殺されてたまるか、死んでたまるか、こんな死に方があってたまるか―――彼はあまりの興奮に、言葉が口に漏れていることを自覚していなかった。彼にはそんな余裕さえ皆無だった。

 

 「―――!」

 

 ガサ、と微かに草の擦れる音がしたならば、彼は即座に剥いた目玉を振り向かせた。しかし何も起こらない。その正体はキタキツネかもしれないと、冷静な彼なら考えていたかもしれない。

 しかし彼はそれが敵の到来だと思った。立ち止まり、彼は周囲に囲む林に耳を研ぎ澄ます。微かな音の一つも聞き洩らさない気だった。

 その耳が―――鼓膜を掠るような空気の切れ目が生じるのを感じた。

 「………ッぁ!?」

 耳に何かが掠った。咄嗟に身を避けたが、即座に火薬の匂いが鼻をついた。音のしない射撃。自分が狙われていたことを瞬時に察知した。

 「―――う、あ、ああああああああああああッッッ!!!」

 眼から涙を溢れ出せ、鼻水とヨダレで顔をぐしゃぐしゃにした彼は走り出した。自分の命が奪われそうになったという事実は、彼のぎりぎりまで保っていた精神を崩壊させた。聞き覚えのない理由で秘密警察に逮捕され、幾度と重なる尋問に耐え、この地に投げ出され極限まで蝕まれた精神は、ここで遂に崩壊の一途を辿った。

 後は自分の命を守ると言う生物の本能に従うだけだった。彼の内に、既に理性は欠片もない。

 爪が剥がれ、ぼろぼろになった指は真っ黒に染まり、無数の傷を刻んだ足を土に何度もめり込ませながら、彼は林の中を駆け抜けた。彼の獣のような悲鳴が闇に響き渡る。その彼を、ぴったりと追う存在が徐々に近付く―――

 鋭い痛みを雪崩れる精神の渦にのみ込みながら、彼は崩れていく脳内で今までの記憶を遡った。この世に産まれ落ち、両親の下で育てられ、学校に行き、就職して家庭を持った―――しかし、そんな平凡だった生活はあっけなく崩れ落ちた。その端で、最愛の妻の顔が浮かんだ。最後に見た妻の顔は、酷く嗤っていた―――

 なんで―――なんで―――

 愛し合っていたと思っていた妻に、何故、自分が密告されなければならなかったのか。

 妻の父親が党員だったと言う小耳に挟んだ情報は、彼の中では些細なものでしかなかったのに―――

 「どぉ゛し゛て゛……どぉ゛し゛て゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛………ッッ」

 包んだ声で、彼は走りながら泣き叫んだ。そんな彼の悲墜の叫びに、それは答えた―――



 「―――知らない。 死んで」



 右の茂みから何かが彼に飛びついた。彼は喉が破けるような悲鳴を上げた。彼は足をくじきながらも、必死に拳を振り回した。それは最早人間ではなく、今正に捕食されようとする哀れな獲物の最期の抵抗だった―――

 彼の拳を受け流し、その流れで彼の腕を締める。動けなくなった彼の首元に、鋭利な刃物を忍ばせた。一瞬の間に、夜闇に煌めいたナイフは彼の頸動脈を切り付けた。

 闇に噴き出す血の噴水。彼は自身の血に溺れながら地に伏せた。転がった彼の遺体の傍らに、ナイフを手に下げた迷彩服の少女が無表情に見下ろしていた。


 「―――そこまで」


 少女の腰に備え付けられた無線に、男の声が紡がれる。それから間もなくして、それなりに開けた道から二つのライトが照らし出された。その光の根源であるジープを、少女はじっと見据えて待っていた。

 少女の前に停まったジープが、夜闇から少女の存在を光に浮かび上がらせた。光に照らされた少女の肌は眩しい程に真っ白で、一点の染みもない。そこから滑らかに生じた目鼻と、細かに紡がれた桃色の唇が、少女の美醜が如何に天高い格であるかを存分に知らしめていた。しかしそれだけではなかった。

 少女の首から頬にかけて、少女のものではない返り血が浴びせられていた。少女はそれを拭いもせず、ただ獲物の血を顔の半分の皮膚に被ったまま、無機質にジープから降りてきた男に視線を向けた。

 「訓練はこれにて終了だ、同志興梠上級兵士。 これより撤収に移れ」

 周囲の夜闇を溶け込ませたかのような軍服の襟首に見える階級章は、男の年齢に似合わない数だった。

 「了解、同志八雲上尉」

 興梠璃乍上級兵士は敬礼を捧げる。八雲は答礼。その直後、夜闇からぬっと浮き出すように大型の輸送ヘリが上空に現れた。

 璃乍は八雲に背を向けると、輸送ヘリが降下する地点に向かい、夜闇の中へ消えていった。

 一人残された八雲は、足元に転がる男の死体をただ見下ろした。


 北日本が誇る最精鋭の特殊部隊。その訓練の一環が、ここに終了した。部隊のリーダーである八雲浩上尉は、訓練の犠牲となった哀れな死体を冷めた目で見下ろした。彼の目は―――昔からだ。

 訓練に選ばれた囚人。本物の殺人を行わせることで兵士の育成を図る、この段階の訓練で殺される囚人は、政治犯と断定された者を適当に抜擢する。南日本の法律では死刑はおろか裁判にすらかけられないような行為のために、彼らは裁判もかけられず、訓練の犠牲と言うわかりやすい死刑宣告・執行を受ける。

 さすがに同情に値する囚人を、あえて殺すことにより兵士としての残酷さを学ばせることがこの訓練の目的だ。八雲は既にその訓練を幼い頃に経験し、そして何度も見届けてきた。そこに馳せる思いもない。

 

 ガサッ……


 微かに動いた草の茂みに、八雲は視線を向けた。ジープが照らす光の先に、ひょっこりと現れたのはキタキツネだった。

 キタキツネは目の前から漂う死の匂いに気付きながら、じっと八雲の方を見据えていた。キタキツネが見詰めているものは、八雲の足元に転がる死体なのか、八雲自身なのかはわからない。

 やがて、キタキツネは大きな尾を翻して闇の向こうへ消えていった。遠くから聞こえるヘリの音を背後に、八雲はジープの方へと戻る。八雲が乗り込んだジープがその場を去ると、転がった男の死体が闇の中へ溶けて消えた。

■解説



●政治総省

北日本における秘密警察・諜報機関。徹底した監視体制を敷いており、北日本国民の恐怖の的となっている。南日本に対するスパイ・工作員を送り、政治的、思想的な南侵も目的に実行している。これらの活動から、かつての友好国であった東ドイツの国家保安省シュタージを参考にしたと考えられる。

更に軍への監視として、各部隊などに政治職員を派遣し、軍人に対する監視や統制を図っている(軍におくられた職員は政治将校として兵士の監視に当たる)




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