04 北に吹く風
2014年11月16日
日本人民共和国首都・札幌―――
道内で最大の規模と人口を誇る札幌は、祖国解放戦争の末に勝ち取って以来、北日本の首都として半世紀もの間機能している。三度の市街戦の果てに、多くの血を流した結果手に入れた首都札幌は正に北日本の栄光の象徴だった。
北海道全土が北日本の国土として統一した後、首都とされた札幌は祖国解放戦争後、経済成長の波に乗って急速なインフラ整備を受け、北海道一の都市部として活性化した。
首都に恥じない規模を誇り、札幌の中心部を東西に横切る広場空間は革命大通広場と呼ばれる。無機質なビル群が左右に並び立つ中央で緑に染まる革命大通広場は長さは1.5kmも連なり、札幌の都市計画の基盤として設けられ、現在に至るまで札幌の中心を占める最も重要な広場となっていた。
建国の父とされた初代党首の銅像も建っている革命大通広場は正に札幌の象徴。綺麗に整備されたその空間は党のプロパガンダの下で成り立っていることを強調するように、至る所に党のポスターやスローガンが掲げられている。
札幌市中心部・人民中央議会議事堂―――
かつては北海道の本庁舎として建築され、日本共産党が札幌を首都に定めた頃から、議会議事堂へと生まれ変わった煉瓦造りの西洋館である。党、政府の会議室等にも使用され、日本人民共和国の象徴的存在であり”赤レンガ”とも呼ばれて南北日本関わらず有名な歴史ある施設だった。
そんな赤レンガも、今や白い雪に染まりつつあった。しかし赤いレンガの象徴を止めることはなかった。
議事堂前に植えられた、雪が積もるイチョウ並木のそばに、一台の高級車が停った。その車から現れたのは、日本人民共和国現首相、馬淵博隆であった。
雪が降る凍てつくような寒さもものとせず、馬淵はゆっくりとした足取りで、議事堂内へと移動した。
正面玄関から入った馬淵を迎えたのは、三連アーチの構えをもつホールと大階段だった。アーチには薔薇の花模様の装飾が植え付けられ、西洋風を徹底したデザインが隅々まで行き渡っている。
秘書官を後ろに引き連れ、階段を上がり赤絨毯が敷かれた廊下を進むと、『人民中央会議室』と刻まれた立看板が目に付いた。その横にある扉を開くと、馬淵の入室を知った顔ぶれが表情を引き締め、一斉に席から起立した。
秘書官が扉を閉める音を背中越しに聞きつつ、馬淵は自分の席へ歩み寄った。
「座ってくれ」
馬淵の言葉に、全員が席に着いた。それを見届けると、馬淵も自分の席へと腰を下ろす。
「同志諸君、揃っているな。 それでは始めるとしようか」
馬淵は自分が入った時から緊張した空気に変わっていることは既に察していた。特に、顔ぶれの中でも一部の者に至っては。
「都間同志、昨今の我が国周辺における情勢をご存知かね」
「は、遺憾ながら我が共和国を取り巻く情勢ははっきりと申し上げて、厳しいものであると言わざるを得ません」
「そう、よく言ってくれたよ都間同志」
緊張の汗を光らせた外交大臣の都間の顔色を内心面白そうに眺めた馬淵は、更に他の顔ぶれを見渡した。
皆、二人の会話を聞いてそれぞれの表情を表していた。焦りと困惑、強がった色など、様々だった。
「佐久間同志、ロシアが南の傀儡に対して東シベリアにおける油田の共同開発の提案をあげたのは事実なのかね?」
話を振られた軍需大臣は、ぴくりと瞼を痙攣させた。じとりとした汗を浮かべながら、軍需大臣は口を開いた。
「そうであります、同志閣下」
真に苦渋に満ちたような表情で、軍需大臣は唇を噛み締めた。
「我が国はソ連、イラクやシリアといった友好国から石油を輸入してきました。 しかし、ソ連崩壊から世界情勢が変わるに連れ、憎き資本主義に寝返ったロシアは輸出相手国を我が国から南へと転換する方針を取るようになり、イラクは米帝の侵略戦争により討たれ、シリアは愚かしい国民民主の革命に倒れ、我が国へ石油を寄越してくれるものは現在となってはどこにもおらんようになっております」
石油、資源といったものは国家の栄養源であり、これが無くなれば国は死すだけである。枯渇し、悲惨な末路になることは、日本人ならば歴史から既に嫌というほど学んだはずだった。
南北分断から半世紀、北日本は東側陣営が圧倒する東アジアにおいて優勢な立場にあった。ロシアの恩恵を授かった近代兵器、経済大国に成長する中華人民共和国との良好な経済関係、半島の朝鮮国との関係もある。
しかし冷戦が終わり、21世紀に入ってからは情勢が一変した。ソ連が崩壊し、遺産を受け継いだロシアは経済のパートナーを南日本に転換し、それに伴い北日本に対する石油輸出量は大幅に減少した。
友好国だった中東諸国のほとんども、米国との戦争や民主化の波に呑まれ、北日本は石油備蓄量の消費量と輸入量の不釣合の広がりに警戒心を抱いていた。
「ロシアの国営石油最大手ロスネフチが、オホーツク海大陸棚の『マガダン鉱区』と『東シベリア鉱区』の油田開発をめぐり、南日本企業の参画を求めることを決定。 ロスネフチは既に今月初めに南の経済産業省と協議を行い、それらの石油埋蔵量などについて、今年中にも共同調査を開始することを同意しています。 有望な鉱区が見つかれば、探鉱を手掛ける南日本との合弁会社を新設するとも言っており、将来的に石油精製工場や一連の石油化学企業の設立についても合意している話です」
北日本にしてみれば、南日本は恋人を奪った憎き相手である。長年愛の蜜に甘んじてきたものが最も奪われたくない相手に奪われると、その嫉妬心は憎悪を増して恐ろしく変わる。
「我が国の石油備蓄量は、もし石油の輸入が止まった場合、以降の消費量を試算した結果尽きるのもそう遠くはありません。 もって一年、と言ったところです」
今回の南日本とロシアの油田開発について、ロシア経済紙コメルサントは、昨今の北日本とロシアの間で起きたトラブルが絡んでいるとの見解を報じた。
ソ連崩壊後、ロシアは北日本に対して石油輸出量を大幅に減らしたが、完全になくなったわけではない。辛うじて北日本が21世紀に入っても存続を維持できるほどの石油は北日本に輸出されてきた。樺太から通じたパイプラインも新年から稼働したばかりで、完全に見放されたわけではない。
しかしそのパイプラインの運送費用に関して双方の意見が分かれ、ロシア側は北日本が負担すべきだと主張するのに対し、北日本側はロシアの負担だと訴えた。
結局、北日本側がそれなりの負担をすることで解決したが、その前後にあったロシアと南日本の油田開発合意の動きは、北日本に対する牽制であると分析された。
「確かに我が共和国とロシアの間で、石油や天然ガスの価格などをめぐり、大小の対立が絶えないことは認めよう。 しかしその度に我が共和国は譲渡してきたはずだ。 我が共和国に与えるはずだった石油が南の傀儡連中へ渡るなど、けしからんことだッ!」
「落ち着きたまえ、嶺同志」
丸々とした顔をトマトのように赤くする産業大臣を、馬淵が宥めるように制した。
「我が国の石油備蓄量がもって一年と言ったね?」
「はい、あくまで石油の輸入が止まった仮の場合の話ですが」
「それは、どういうことだね?」
その場にいる全員の視線が、軍需大臣に釘付けになる。皆の視線を浴びた軍需大臣は居心地が悪くなるような心境を必死に隠しながら、乾いた口を開いた。
「もう一度言いますが、ロシアはソ連崩壊後、我が国への石油輸出量を大幅に減らしました。 更にイラクは米帝の侵略戦争によって我が国と友好関係にあった政権は既に亡く、シリアやイランなどの他の中東諸国も米帝に敵視され、将来イラクの二の舞になる可能性も捨てきれません。 これらの状況から察するに我が国のエネルギー事情は、少なくとも改善する余地は見られません」
米国の敵である限りことごとく駆逐され、そしてそれはエネルギー不足の加速として影響される。更に民主化の傾向に限っては、また別の問題として影響されるので厄介なものだった。
「(確かに資源は大事だ……だが、それ以上に―――)」
馬淵は人知れず拳を握らせた。馬淵の中には、この場にいる誰よりもある議題を強く懸念していた。
「(我が共和国の存続―――つまり、党首様の後継に関しては絶対に障害を生み出してはならない)」
本来なら、この席には首相の自分ではなく党首が座り、共に祖国の行く末を論じ、最良なる決断を下すはずだった。しかし高齢を重ねる党首は病弱し、会議にも出られる程の余力はなかった。近年の人民最高会議で決定された次期党首後継者への後継のための準備もある。
更に党首の病状は、国民が知る以上に重い。
すなわち、現在の日本人民共和国は時代遅れの帝国主義者共にとって、抹殺できる最高の機会である。
万が一にもこの機に乗じて、奴らが我が国に脅威を向けたとしたら―――
「……そんなこと、許されてたまるか」
幸い、米帝はともかくとして、南の現政権は我が陣営の中でも弱腰と評判だ。
他者を犠牲にしてでも自らの私腹を肥やすことしか能のない資本主義者共に、我が共和国は決して負けはしない。
やられる前に、こちらから先手を打つ―――
「間取同志……41度線付近で、南の連中が軍事演習を行おうとしていると聞いたが」
「は。 誠に遺憾ながら、南の帝国海軍が軍事境界線付近での軍事演習を画策している模様。 我が人民軍はこの南の暴挙に対し、親愛なる党首様と共和国のため、毅然とした対応を取る所存です」
「よろしい。 さすがに、よくわかっているな同志よ」
国防大臣のはっきりとした言葉の意志に、馬淵は満足そうに笑みを浮かべて頷いた。
これこそが、共和国を半世紀存続させてきた先軍政治。
目には目を歯には歯を―――だ。
「同志諸君、これは偉大なる党首様のお言葉なのだが―――」
馬淵の言葉に、一同の顔ぶれが一気に引き締まった。まるでその場に崇拝する党首本人がいるかのように。
馬淵は『党首の言葉』を用いて、馬淵自身の言葉を並べた。
「(そう……きっと、これが正しいのだ。 どんな手段を取ろうとも、祖国の勝利は絶対なのだから)」
中東を発祥に民主化などという愚公が蔓延しているようだが、そんなものに祖国や党が脅かされることなどあってはならない。
祖国のため、党のため―――我が国は如何なる手段を用いても、生き残る道を選ぶ。
それが、国家の本来あるべき姿なのだ。
「少し、南の連中に思い知らせてやろう。 なぁ、同志諸君?」
●
同時刻
日本帝国帝都・東京
渋谷―――
今日の東京の朝は少し肌寒かった。外を行く人々は慣れない空気の冷たさに身を焦がし、それぞれの向かう所へと行く。渋谷のスクランブル交差点は大勢の人がごった返し、行き交う人々の吐く白い息が交差点に充満した。
「北日本との北方軍事境界線を接する津軽海峡の41度線付近で、北日本国家北洋海上局所属の漁業監視船の搭載ヘリコプターが、警戒監視中の海上保安隊の巡視船に急接近するという事態が発生していたことを、国土交通省、海上保安本部が明らかにしました。 昨日、我が国との北方軍事境界線を侵犯し、海上保安隊巡視船に急接近したのは、北日本の漁業監視船『幌別』の搭載ヘリコプター『Z9』であり、関係筋によると―――」
交差点を見下ろすような大画面に映されるニュースキャスターは淡々とした表情と声色で、事の内容を読み上げた。画面には青森の竜飛崎から海の向こうに見える北日本―――北海道の大地がズームアップで映され、被害にあった海上保安隊の巡視船が航行する姿などが次々と映し出された。
「―――過去にもこのような事例があり、二週間前の駆逐艦『夕霧』への同艦載ヘリによる異常接近が記憶として新しいです。 このような再三に渡る北日本側の危険を伴う挑発行為に、政府は事態に対する強い抗議と再発防止に向けての要請を―――」
「おはよう。 君がこんな所にいるなんて珍しいな」
喫茶店内のテレビに夢中になっていた夏苗は、声の主の方へと振り向いた。視線を向けた夏苗に対して、穏やかな笑みを絶やさない中年男性がひらひらと手を振っていた。
「あなたが私をここに呼んでおいて、その言い草は意味がわかりません」
「それでもそう言わないわけにはいかなくなってしまうんだよねぇ」
先に注文したコーヒーを口に運ぶ行為で彼への視線を外した夏苗は、暖かなコーヒーの味に舌を染み込ませた。その間、一切彼に見向きせず、苦笑した彼が向かいの席に座ったことを察する。
「でも本来なら、夏苗ちゃんも年頃の女の子としてこういう街へ遊ぶのもおかしくないんだけどね」
「……………」
夏苗は彼の発言を無視するように、コーヒーを呑み続けた。
「夏苗ちゃん、あまりこういう所に行かないだろう? どうだい、この後僕と―――」
「佐山大尉、ご用件を先に」
コーヒーを置くと同時に、少し強い語気でぴしゃりと言い放った夏苗に、彼は思わず言葉を詰まらせた。
「悪かったね。 気を悪くしないでくれ」
ばつが悪そうな笑みを浮かべて、彼は言う。夏苗はそれさえ無視するように―――口元をハンカチで拭った。
解いたマフラーから覗いた襟首には、桜の階級章。帝国海軍大尉、佐山寿樹は口の前で手を組むと、研ぎ澄ましたような声で語り始めた。
「それじゃあ本題に入らせてもらうと、貴方方の移動は海軍側で万全の準備を整える方向で進めておくよ。 現場に到着してからのスケジュールも、海軍と殿下の都合に合わせ、調整する方針で異論はないね?」
「ありません。 それと、殿下の身辺護衛に関してですが―――」
「ああ、海軍も勿論身を殿下に捧げる思いで遂行するつもりさ。 君がいるなら、余計な心配はいらなそうだが―――」
「佐山大尉、私がどれだけ貴方に期待を寄せられているかは存じませんが、現場は本物の最前線であることは貴方が一番よく理解しているはずです。 勿論、私は必ず殿下をお守り通す所存ですが、一瞬の隙も外堀に生じさせたくはありません」
凛とした意志の強い声で、夏苗は佐山に対し断言するような口調で言った。そんな夏苗の言葉、その意志の体現に対し、佐山は驚きの感嘆の息を漏らした。昔から―――いや、昔より更に誇り高くなった彼女の変化に、佐山は笑みを綻ばせた。
「君は、実に優秀な近衛の兵士だね」
兵士としての体現を強く表す夏苗の姿――――その反面、先に述べた願望に近い夏苗の年頃の女の子としての姿が一段遠のいていく現実を知って、佐山は綻んだ笑みの裏に複雑な感情を過ぎらせた。
「……そうだ。 あそこは我が国における本物の最前線だ。 今はあそこも帝都とは比べ物にならない程の雪が降る寒い時期だが、同時に帝都とは比べ物にならない程、戦場に近い場所だ」
「……………」
本物の最前線―――分断し、兄弟であり最大の仮想敵国でもある北日本との軍事境界線が引かれた海峡を目の前にしたかの場所は、軍事的緊張が最も高い場所だった。テレビのニュースに報じられていた軍事境界線での揉め事を含めた昨今の南北情勢―――南北の海峡に吹く風当たりは、一層冷たく、強くなっていた。
「昨日、北の艦載ヘリが海上保安隊の巡視船に接近したと聞きましたが……」
「ああ、不愉快だが事実だよ。 こちら側に堂々と侵犯した挙句、警備監視中だった巡視船に急接近……舐められたものだよ」
珍しく不機嫌そうな色を見せる佐山は、口元に組んでいた手を解き、懐から煙草を取り出した。それを見定めた夏苗が、隙を与えない俊敏さで口を開く。
「この席は禁煙です」
「……参ったね」
ちょっとイラつくと煙草を吸いたくなる癖があってね―――と、苦笑しながら説明する佐山に、夏苗は煙草をしまうように無言で鋭い視線をさす。
「あなたも苛立つことがあるのですね」
「そりゃああるさ、僕も人間だもの。 舐められたら怒るのが普通の反応というものさ。 ……例外もあるけどね」
佐山は煙草を元の懐に戻すと、通りかかったウェイトレスを呼び止めてコーヒーのおかわりを注文する。
佐山が注文したのを見定めるように、夏苗は呟くように言う。
「しかし軍は何をやっているのでしょう。 どちらとも―――」
津軽海峡の中心線に定められた北方軍事境界線は、半世紀前の北海道戦争の休戦協定にて、互いの軍が境界線を警備、監視を実施することで合意したはずだ。しかし今となっては帝国海軍は大湊基地から境界線付近の警備を実施しつつも、海上警察組織である海上保安隊が事実上の治安維持を一任されているのが現状。そして向こう側は、脱北に対しての取締は非常に厳しくやっているが、それ以外の侵犯は見て見ぬフリをしている。脱北の見分け方をどうやっているか気になるが、軍事境界線の意味が希薄になっているのは事実だった。
「今回の事件も、漁業監視船と言うが―――実際、あれは軍艦だ。 退役した軍艦を改装して運用してるのが真実なんだから……対して我が方は、軽武装の巡視船が海軍を差し置いて軍事境界線を警備だなんて笑っちゃうよね」
「そんな体たらくのくせに、海軍は演習をやろうだなんて……余りの極端さは、危険ではないですか?」
「仕方ないよ。 ギャップが極端なのがこの国さ。 その国の軍隊も然り」
「……………」
南北の日本の事実上の国境線となっている41度線に、度々出没する北の漁業監視船。しかし漁船がいるわけでもないのに境界線付近に現れる行為は、警備に携わる海上保安隊や海軍の神経を逆立てた。列島の南北情勢を含め、西方にある中国の動きや朝鮮国の問題もあり、北東アジアは複雑だ。これらの諸外国の脅威に囲まれた南日本や米国の出方を、北日本は観察しているのかもしれない。何を考えているのかわからないが、快くない行動を起こしているのは確かだった。
「演習は予定通り行われる。 これは決定事項だよ。 そもそも、この演習に参加する将兵たちを激励するために、殿下がわざわざお越しになられるのだろう?」
「……………」
夏苗は、向けようのない怒りを抱いた。
自らが置かれた立場を正確に認識できない祖国の在り様。内向きな志向が強まる政治と軍部の体たらく―――その堕落したかの者たちの下らない意志により、蔑ろにされる帝室と国民。
「(殿下はこんな者たちの意向に振り回されていると言うの……)」
果たして愛しき皇女殿下が、その命を賭してまで赴く価値があるのだろうか。文句一つ言わず、決して苦しい様子を見せない健気な少女を、目と鼻の先に火薬の匂いが漂う現場に行かせることは、果たして最善の選択なのだろうか。
「……わかりました。 では、そのような方向でお願い致します」
軍の連絡員である佐山との調整会合を終えた夏苗は、建前の行動で終始した。席を立った夏苗に、佐山も支度をしながら声をかけた。
「ここは僕が奢ろう。 夏苗ちゃんは―――」
「いえ、自分の分は自分で払います。 お気持ちだけ頂いておきます、佐山おじさん」
佐山が何かを言う前に、夏苗はさっさと支払いを済ませて喫茶店を出て行った。
「やれやれ……相変わらず、難しい娘だ」
すっかり冷めてしまったコーヒーを、佐山は一人ごちながら口に含んだ。
喫茶店を出た夏苗を、冷たい外気が迎え出た。
扉の閉まる鈴の音を背後に、夏苗は大勢の人々が行き交う路上に足を踏みしめる。隔離した店内から外の世界へと出た夏苗を待っていたのは、人々の喧騒と冷たい空気、そして降り始めた雪の結晶だった。
「……もう、冬ね」
冷たい東京の空から降り注ぐ雪を、夏苗は白い息を口から靡かせながら仰ぎ見た。雪を降らせる東京の空は、どこまでも暗雲だった。
■解説
●札幌
日本人民共和国の首都。北海道戦争(祖国解放戦争)において最も激しい戦闘が行われた場所。最終的に北日本軍の占領下となり、停戦後、北日本の新首都となる。人口やインフラ等は道内一を誇る大都市。
●人民中央議会議事堂
旧北海道本庁舎。現在は北日本の議会議事堂として使用されている。西洋館としての外観は変わらず、赤い煉瓦の象徴的な造りから、市民の間では赤レンガとも呼ばれている。西洋館らしい内部の内装は文化遺産に値する品格を有している。
●北日本のエネルギー事情
冷戦時、北日本は主にソ連やイラン等の中東諸国から石油を輸入してきたが、現在に至っては深刻なエネルギー不足に悩まされている。エネルギー供給や運送に関わるロシアとの摩擦もあり、国内の燃料事情は国民の生活だけでなく先軍政治の象徴足る軍部にまで影響を及ぼしている。対してエネルギー事情の改善を進行させている南日本の現状と自国の状況を比較し、何らかの行動措置を画策している。
●先軍政治
日本人民共和国の公式イデオロギー。国家の全てにおいて軍事を優先すると言う政治思想。人民軍を社会主義建設の主力とみなしている。1997年に北日本党首が国内メディアを通じて明記して以来、当思想に基づく政治方針が北日本の基盤となっている。
今回を始め、南北日本におけるエネルギー事情が物語に多少関わっていく予定です。