56 少女の片鱗
(※)今回は残酷な描写、グロテスクなシーンが含まれています。ご注意ください。
興梠璃乍は害虫を駆除するように見つけた敵を次々と殺していった。敵の特殊部隊が潜入してくることは想定の範囲内だったが、如何なる場所においても発見した敵を即刻処分するのが正しい措置として教え込まれた故の規則的な行動であった。璃乍を見た敵はやはり今までに璃乍に殺されてきた者と同様の顔をして、死んでいった。余りにあっけなさ過ぎる戦闘だった。
秘密警察に拷問を受けた時に、普通の女の子としての璃乍は死んでいた。軍に入った璃乍は殺戮マシンとして生まれ変わり、第803部隊においても最強の殺し屋として生きてきた。
それが自分であり、全てなのだ。璃乍はそんな自分自身を自覚していた。秘密警察の人間に殴られ震えていたあの頃の自分はとっくの昔に死んでいる。
なのに―――母の写真が入ったペンダントを肌身離さず持ち歩いている自分がいた。
任務の前に、必ず一目は見詰める母の写真。何故自分がそうやっているのかもわからない。ただ、それを止めてしまったら、今の自分が崩れてしまいそうで怖かったのかもしれない。
自分の崩壊を恐怖したのはその時が初めてだった。そのことに気付いたのは、南日本に向かう潜水艇の中で。同僚の土屋イリーナが、璃乍が持っていたペンダントに埋め込まれた母の写真を指して、璃乍に母のことを聞いた時。
それをきっかけに、イリーナに母の話をした璃乍は気付いた。何故、自分が母の写真を手放さず持っているのか。
あの頃の自分は死んだはずなのに。
そして考えて、気付いてしまった。
こんなことも気付けなかった自分が、如何に崩れかかっているかも。
母の写真に救われている自分がいることに。
現在の自分は、何なのか。
気付くと、恐怖が沸いた。
とてつもない程に沸き上がる恐怖。そんな感覚は軍人になって初めてのことだった。
これ以上考えてはいけないことにも気付いた。
いけない。
これ以上気付いてしまったら、自分は確実に―――
壊れてしまう、と。
銃弾より速く走れる人間なんて存在するわけがない。牧瀬は他の者と同様にそう考えていた。
しかしその考えを改めなければならなそうな光景が目の前に展開されてしまった。
書類や本が多く残っていた部屋に入った揚羽と佐山の後ろで、見張りをしていた牧瀬は僅かに察知した殺気を取り漏らさなかった。
これが若い警備兵なら気付く前に即死という最期を迎えていただろう。だが経験と才能に満ち溢れていた牧瀬は違った。
直前に感じ取った殺気もまた牧瀬は初めて感じるものだった。これ程までに察しにくい殺気は生まれて初めてだった。
考えるより前に手が動いていた。引き金を引き、敵に目掛けて射撃を開始する。
だが、命中する気配は訪れなかった。敵は恐ろしい程までの身体能力で、牧瀬の射撃を避けた。
狭い施設内にも関わらず、このような芸当が出来るのは牧瀬も驚きを隠せなかった。
しかし牧瀬も負けてはいなかった。敵の射撃に対し、牧瀬は自らに大きな負担を掛けるような無茶な避け方を行い、なんとか心臓ではなく左腕の蜂の巣で済んだ。
左腕に何発もの銃弾が浴びるのを感じる。まるで太い槍を数本同時に貫通されたかのようだ。
左腕が襤褸雑巾になった牧瀬はそのまま引き金を引いた。敵もまた咄嗟に避けた様子を感じさせた。
「(北の特殊部隊は、化け物か……ッ!?)」
基地には散々南日本軍を苦しめた第803部隊という最強の特殊部隊が居ることは知らされていた。
だが、これは予想以上だった。
しかも敵は一人で、明らかに未成年の女子なのだから―――
牧瀬の無茶な躱し方と応戦が功を為したのか、牧瀬は自分を襲ってきた敵をじっくりと観察する機会を得た。
敵は頬の辺りから血を流しつつ、鋭い眼光で牧瀬を見据えた。ぎょろりと動く瞳は、牧瀬の毛の一本の動きすら見ているように鋭かった。
「(こいつは、決して恐ろしい速さで弾を避けたのではない……)」
見られている、どこまでも。牧瀬は思った。
人というのは銃を撃つ時、何らかの兆候を見せるものだ。
目や鼻の動き、口でもあるし、銃が僅かに動く時だってある。動作に限らず、気迫も変化する。
それらの僅かな動きを、彼女は見ているのだ。
その遥かに優れた視力と反射神経で、今までの戦闘においても彼女は弾を避け、瞬時に敵の懐まで入り込んで、敵を無力化させてきたのだろう。
こんな兵士が実在するとは、牧瀬も夢には思わなかった。
まさかこんな北の最果てで会えるなんて。
「(女……それも、子供じゃないか……)」
そして、異常だ。
如何なる場合も軍事力を最優先とした北日本の話を聞いたことはあったが、これ程までに異常だったとは想像以上だ。
このような年端もいかない女子供が、これ程までの兵士として育てられているなんて―――
見る限り、姪ッ娘と同じぐらいに見える。
「畜生が……」
激しく罵る。罵倒の言葉を痛い程に噛みしめた。こんな現実は、畜生以下だ。
「俺は少年兵が大嫌いなんだよ……」
銃を持った子供の写真は何度も目にしたことがある。世界には約40カ国、少なくとも30万人以上の少年兵が存在すると言われている。主に政治情勢が不安定な国、貧困と飢餓が著しい国などに多い。少年兵は大人より扱いやすく、生き残れば残忍な兵士に育て上げられることも可能だ。
NGOや国際支援組織などが少年兵の救済に対処しているが、少年兵の根絶は遠い未来にあるのが現実だ。少年兵を必要とする国がある以上、幼い子供たちは戦場に駆り出される。
北日本も少年兵の存在が国際社会から問題視されていたが、世界の問題児足る北日本の問題など有り過ぎてそれもまたたった一つの問題点に過ぎなかった。
この娘は、今までに一体どのような人生を送ってきたのだろう。
当然、学校に通って友達と遊んでいたようには見えない。
あの歳で、どれ程の過酷な経験を積んできたのだろう?
きっと想像が付かないような人生だろう。
世界レベルで見渡せば、少年兵の存在は珍しくない。
しかし、目の前の子は、街で見かける女学生と変わらない。
そんな子が、自分の目の前にいるという現実。
「………………」
躊躇いの吐息を漏らした瞬間、目の前にいた子が消えた。
「え」
気が付くと、その女の子の兵士はすぐにでも抱き付けそうな程に近くにいた。自分の胸に飛び込むように、その娘は懐に潜り込んでいた。
そして、その手に煌めく刃が、あった―――
璃乍は敵の動揺を見抜くと、その隙に飛び込むように足に力を収束させた。
駆け出し、その途上で懐に収めていた軍用ナイフを取り出し、敵が我に帰るまでの間にガラ空きの胸元に着地する。
片方の手で柄を握り、片方の手の甲を底に当て、無抵抗の平たい胸板に刃を刺し込む。皮膚を裂き、肉を抉り、骨に当たる感触が伝わってくる。ぐえっ、と漏れる敵の声を聞きながら、璃乍は更に胸に刺したナイフを押し込む。
その瞬間―――
ぱきんっ。
璃乍はまるで自分の身体の一部が切り離されたかのような違和感を覚えた。
空虚。
璃乍の首元から、何かが欠け落ちていた。
「………………」
一秒が一分の世界に放り出された。璃乍の目の前には、ナイフの刃が敵の胸に血の輪を形成させている光景とはまた別の物があった。敵の手に、握られて璃乍の首元から切り離されたモノ。それは母の写真を入れたペンダントだった。
瞬時に飛び込んできた璃乍に刺された敵が、咄嗟に取った行動が、奇跡的に璃乍の身に触れて起こったことだった。
しかしそれは璃乍を傷つける行為には至らなかった。むしろそのような気も感じない。
ただ、触れようとした。それだけだった。
そして触れたのだ。その結果、璃乍の下からペンダントが切り離された。
「――――――」
何かがブレた。そして目の前が真っ暗になる。
ペンダントが切り離されたことを知覚した瞬間、璃乍の意識が変貌した。
「――――――――」
体重を掛け、ナイフを刺した敵の身体を押し倒す。
「―――――――――――――――――」
抉った肉が刃に凝固する前に抜き取ると、胸の穴から血が顔に飛び散る。
一瞬、目が合う。信じられないといった目が、璃乍の瞳を射抜く。
だが、璃乍は返事の視線を返さない。無言を返し、無慈悲にナイフをまた下ろした。その時、敵は蛙の鳴き声に似た声を何度も漏らした。
「―――! ―――!」
何を言っているのかわからない声を漏らし続ける敵の身体を、璃乍は何度もナイフを下ろす。
何度も、何度も。
内臓を抉る。全ての内臓をグチャグチャにするように、璃乍は何度もナイフを下ろす。びくん、と痙攣していた敵の身体が、その指先の端まで遂に動かなくなっても。
「―――――……けふっ」
飛沫が飛び散り過ぎて顔にべったりと血の化粧を施した璃乍の口元から、噎せた咳を一つ漏らす。
璃乍の瞳に、僅かな光が舞い戻った。
「………………」
璃乍は呆然と目の前の光景を見渡した。またぐるように乗った身体は血の池を作り、刺したナイフを抜き取った拍子に出てきた内臓の一部が顔を出している。穴だらけで皮膚の表面がわからない程だ。顔を大きく口を開けて、まるで犬のように舌を出して白目を剥いていた。
悲惨。惨状の極みである。
むごたらしい最期を迎えた男の身体の上に乗った璃乍は、自分が殺ったのだと理解した。
それぐらいの理解力は、知性はまだ残っていた。
やって来た足音に気付いて、璃乍は視線を向けた。その先には、凄惨な光景を目の前にして驚きを隠せないと言った二人の女と男がいた。
呆然とその二人を見詰めていると、女の方が思い出したように携えていた銃を構えた。
自分に向けられた銃口に視線を移した璃乍は―――
銃口から放たれた一瞬の光を見た後に、意識を途絶えさせた。
八雲夏苗の所在を確信した佐山と揚羽は遠くから聞こえた銃声に身を強張らせた。牧瀬の身に何か起こったことを察した二人はすぐさま部屋から飛び出した。
銃声の後に、少しの間の沈黙を置いて、今度は悲鳴が聞こえてきた。その悲鳴は甲高く、大人の男が叫んだものとは思えないような声だった。断続的に発するごとによってその声は人から動物に近い種類になり、聞く者におぞましい光景を想像させ、二人の足は急ぐように回った。
撃たれてのたうち回っているというより、拷問を受けているような叫び声だった。
角を曲がると、視界に飛び込んでくる血の池地獄。そしてその上に倒れ伏す牧瀬と、牧瀬の身体に馬乗りをしている少年兵が一人。
一瞬、足が止まる。身体が凝固した。目の前の光景が信じられなかった。
血は池のように広がり、牧瀬の身体から流れているのだとわかる。その牧瀬の身体は損傷が激しいというレベルではない。よく見ると身体の周辺の赤い池にも千切れた粘土の塊のようなものが散乱し、その本体らしき内臓が一部身体の各所から顔を出している。ナイフを過剰に刺しすぎたせいで胸から下腹部までぐちゃぐちゃだ。下半身の上に乗った少年兵は少女のようで、その小さな顔は返り血を浴び過ぎて赤く染まっている。
呆けた表情で二人をじっと見詰める少女と相対する二人だったが、三人の中で最初に動いたのは揚羽だった。携えていた小銃の銃口を向け、躊躇なく引き金を引いた。
弾を浴びた少女は視線をまたこちらに向けると、そのまま倒れてしまった。その段階で死んだのかは不明だった。
「……何故撃てたか、って聞きたい顔ね」
揚羽は歩み出すと、深い息を吐いた。佐山に振り返り、寂しそうな笑みを浮かべる。
「東欧の派遣先にもいたのよ、こんな可愛い少年兵が。 一瞬でも戸惑うとこうなるわけ」
言いながら、揚羽は憐れな牧瀬の遺体を指した。牧瀬の遺体のそばには少女の身体が横たわっている。
揚羽は国連平和維持活動の一環として、内戦が起こっていた東欧の一国に赴いた経験がある。
冷戦の名残りとして二十数年もの間、政情が不安定だったその国は泥沼の戦闘が続き、東欧の中でも最悪の内戦状態が続いていた。
そんな国を何とかして正そうとするのは国連として当然の義務だった。多くの西側諸国に近隣のロシアも加わって『平和維持活動』が実施され、主に大国の様々な圧力によって内戦の沈静化と政情の安定が推進された。
南日本も国際社会の一員として国連の平和維持軍に参加し、数千人の兵力を現地に派遣した。
平和維持活動の期限が満了した頃には政情も安定し、南日本軍の少なからずの損失は報われる結果にはなった。
その国に北日本が他の反米国などと武器供与に関わっていた疑いがあったのはまた別の話だが―――
兎も角として東欧の某国への派遣は揚羽にとっても軍人として人生最大の経験であった。
戦場とは何たるかを知ることになったのだから。
揚羽は常にその想いを忘れず、任務に励んできた。北日本への潜入に関しても同様だった。
自分の戦いはまだ終わっていない。任務はまだ達成されていない。
それまで死ぬことも、帰ることも許されない。
「それに少年兵なんて珍しいものでもない」
佐山は引き寄せられるように、牧瀬の遺体に横たわった少女の方を見る。
「我が帝国でも最近になって北海道戦争中は14歳から17歳までの少年少女を徴兵した記録が認められたし、ベトナム戦争ではベトナムの子供たちが対アメリカ用として訓練された。ありふれた話よ」
南日本国内でも北海道戦争の際に14~17歳の一万人以上の少年少女が兵士になったと言う記録が半世紀経ってようやく認められた。
少年兵の存在は隠されてきた闇の中も含めれば、その数や例は膨大なのだ。
世界の何処かで紛争や内戦が生じた場合、その手の報告は必ず出てくるものだ。爆弾として、盾として、戦闘員不足を補うため、理由は様々。
ただ一国の最強と言われた特殊部隊に、というのはまた別の特殊な話になるが。
「……牧瀬中尉」
揚羽は見下ろした牧瀬の遺体に向かって、静かに敬礼を捧げた。旭川に向かう前、乗り合わせたトラックの上で初めて顔を合わせた頃を思い出す。不吉な噂が纏わり付いていた揚羽のことも構わず、牧瀬は関係ないと断言してくれた。若々しい程の笑顔を見せた牧瀬の顔は、血と涙で酷い有様になっている。
ふと、揚羽は佐山の異変に気が付いた。少女の顔を覗いていた佐山に、揚羽は声を投げかける。
「どうしたのよ、佐山」
「……この娘」
「?」
血に濡れた少女の顔をじっと眺めていた佐山は、どこかで見たことがあった顔を掘り起こした記憶として思い出した。傷が疼く。この傷を刻み込んでくれた人が、そこにいた。
「あの時の兵士か……」
「知っているの?」
陽和たちを守りながら森の中を逃げ、追いついてきた敵とやり合った時。随伴した警備兵たちを殺害し、佐山とも対峙した幼い兵士。佐山はその兵士の顔を覚えていた。地に倒れ伏すことしか出来ず、佐山も敵わなかった強い女の子の兵士。
佐山はそっと少女の首筋に触れる。まだ生きている。口元も呼吸をしており、微かに動いていた。
「この娘、どうする気だい?」
牧瀬の敵討ちでも?とは言わなかったが、そのような意思を感じ取ったのか、揚羽は細めた目つきで佐山に視線を返した。
「戦闘が不可能になった敵をわざわざ殺すとでも? 悪いけどそこまで落ちぶれていないわよ」
「だよねぇ」
二人はとりあえず抵抗が出来ないように武器らしいものは全て押収し、縛り付けておいた。撃った箇所も命に別条は無く、当分目覚めないだろうが、後で基地に突入してくる部隊に回収してもらうよう手筈を整える。
「……ん?」
ふと、佐山は少女の近くに落ちている物の存在に気付いた。血が飛び散った床にきらりと光ったそれは写真入りのペンダントだった。中身の写真は、清楚な雰囲気を纏った女性が写っていた。
「(もしかして、この娘の―――)」
佐山は拾ったペンダントを手に、少女の方を見詰める。
そしてその手に、そっとペンダントを忍ばせた。返すよ、と小さく呟くと、忍ばせた少女の手をぎゅっと握らせた。
「さて、それじゃあ―――」
眠るように意識を失った少女の兵士のそばから佐山が立ち上がった瞬間、佐山は再び自分が姿勢を崩す感覚を感じた。しかも誰かに押されて。その一瞬の間に、佐山は耳元で銃声を聞き、顔に温かい飛沫が触れたのを感じた。誰かの体重に押され、佐山は一緒になって倒れた相手に視線を向けた。
「揚羽ちゃん……!?」
佐山に覆いかぶさるように倒れた揚羽の右肩には血の染みがじっとりと浮かんでいた。顔を上げてみると、銃口をこちらに向けた一人の男が―――佐倉が、立っていた。