55 運命の交差点
佐倉と松島は基地司令の部屋に辿り着いた。扉を叩いて呼びかけようとすると、室内から騒がしい物音が聞こえた。佐倉と松島は不審な気を感じ、扉を開けた。
「な、何だ貴様ら!」
部屋に突然入ってきた佐倉と松島に向かって、驚きの表情と共に振り返った基地司令の声には動揺の色が明らかに含まれていた。
「無礼な入室をお許しください、同志閣下。何かあったのかと思い……それより、何をなさっているのですか?」
佐倉は散らかった室内を見渡した。戸棚からは書類が散乱し、大野基地司令の手元にはアタッシュケースが無理矢理押し込まれたように中身の紙幣や書類をはみ出させている。相当慌てていたことが容易に判別できた。
「まさか……基地の司令官ともあろうお方が尻尾を巻いて逃げ出すおつもりで?」
「言葉に気を付けろ、少尉!」
佐倉の言葉に怒号を吐き付ける大野。尚その手が中々収まらないアタッシュケースを押し込んでいる光景は、佐倉と松島の目には憐れな姿に見えた。
「俺はここで無駄死にするわけにはいかんのだ! どいつこいつも無能なおかげで、すぐそこまで米帝と傀儡軍が迫っている! 奴らに殺されることも、捕まることも、そんな侮辱は耐えられない!」
無理矢理アタッシュケースを押し込むと、今度は壁に添えられた額縁を外しに掛かった。今は亡き党首の肖像画を抱えた大野は、扉の前に立つ佐倉と松島を睨み据えた。
「貴様らは反逆者だ! 米帝と南の傀儡に打ち勝てないような奴は恩知らずの屑共だ! 同志党首のために勝利しようという気持ちが無いからこのような有様になるのだッ!」
亡き男の肖像画にしがみつくようにして喚き散らす大野は、佐倉と松島には滑稽に映った。もう死んでいる独裁者を、しかもその後継者は樺太と千島を奪ったロシアに亡命した、その一族を―――崇拝し、忠誠を誓う者がまだ居ることに、二人は信じられなかった。
「あの小娘もやはり逃げ出した! そして信じていた西墻君までがあの小娘に付いていった……どいつもこいつも、恥知らず共が……ッ!」
佐倉の眉がぴくりと動く。この男は―――何を言った?
「やはり一度祖国を裏切った奴は信用できん! 南に渡ったあの女を、連中は何故受け入れたのだ……私には到底理解できん!」
ああ、そうだな。お前には一生理解できないだろう。
佐倉の握り拳が、自然と強くなる。
「……それで、逃げるのか。あなたは」
「ここで終わらせるわけにはいかない! この街も奴らに踏みにじられることになるのは耐え難いが、何時の日か必ず我々の下に光が射す! その時のために、我々は生き延び次の戦いの準備をしなければならない! 親愛なる同志党首が帰ってくる日まで!」
「それでその紙っぺらと一緒に、糞忌々しい肖像画を持ってここから逃げるのか。 その肖像画は、次の戦の準備のためってことかよ」
「貴様……言葉に気を付けろ!」
党首の肖像画を抱え、大野は鬼の形相で佐倉を睨み、その懐から拳銃を取り出した。
「このお方を愚弄することは万死に値する! 取り消せ!」
「……あんたがここから逃げようが、俺は逃げるあんたを批難する権利を本当は持たない。俺も、俺たちもそうだったからな」
国境を突破したロシア軍の侵攻から、命辛々逃げ出した日々を思い出す。攻め入るロシア軍を前にして、豊原市から脱出した軍。あの時の自分たちは逃げるだけで何も出来なかった。
「命令だったとは言え、大勢の市民を見捨てて敵の前から逃げ出したのは事実だ。俺はその罪を受け止める」
樺太から海を越え、戦時下真っ只中の北海道本島に辿り着き、首都から後退した軍の部隊が集う旭川に合流した。そしてそこで出会った人。その人と共に戦うことで、もう逃げないと決意した日。
「ここから逃げ出すくらいなら、ここで最後まで戦って死んだ方がずっとマシだ。 それにもし本当にあの人が俺たちを置いて行ったのなら、一度逃げ出した俺たちにはふさわしい末路だ」
勿論あの人が自分たちを置いて逃げ出したとは思っていない。あの人から預かった物を、懐に感じる以上。
「……反逆者め。 さては貴様、あの日、反逆軍側に付いていたな!?」
あの日とは札幌クーデターの時か。しかし同時期に日米両国との開戦もあって佐倉たちがいた樺太まで正確な情報が行き渡っていなかったのが実情だったからどちらに付いていたという話もない。
「ま、知っていたら……こんなクソッタレな肖像画の野郎に付こうとは思わないな」
「き、きさ……ッ!」
大野の顔は既に真っ赤に染まり、錯覚か膨れ上がっているようにも見えた。少なくとも血管は浮き出ており、拳銃を握る手元もぷるぷると震えていた。
「―――し、死ねぇ……ッ!」
そして室内に発砲の音が鳴り響いた。
引き金に触れていた指が動いた時、目の前に見覚えのある背中が飛び込んできた。
そして一発の発砲の後、佐倉は目の前の光景を理解した。佐倉の目の前に身を盾にした松島が、胸部に銃弾を浴びていた。その一瞬の間が、佐倉の世界ではスローモーションのように感じられた。松島が撃たれた直後、佐倉は携えていたAKS-74Uを構えると、躊躇無く大野の身体に向かって引き金を引いた。
「がは……ッ!?」
何発もの弾が大野の身に飛び込み、その脂肪、肉を抉り、内臓を食い破った。肖像画も幾つもの穴を開け、その顔が大野の血を浴びた。大野は短い断末魔を漏らすと、血に濡れた肖像画と共に床に倒れた。
ぴくりとも動かなくなった大野から視線を外した佐倉は、すぐに胸から血を噴出させた松島の方に向かった。胸部は完全に血で濡れ、口からはひゅーひゅーと乱れた呼吸を鳴らせていた。
「松島……ッ!」
抱き抱えるが、驚く程その身体は軽くなっていた。松島はかっと見開いた目を佐倉に向けるが、口元からは乱れた呼吸を鳴らすばかりで声を出すことすらままならない。松島は何かを言いたげに口元を動かしていたが、佐倉がいくら訊ねても言葉らしい言葉は全く紡がれなかった。
「………………」
やがて、そのうるさい程に鳴っていた呼吸の音も止まり、血で溢れた口は動かなくなった。見開いたままの目は瞼を閉じることもなく、ただ虚空を眺めていた。
佐倉は目の前で逝った友に向かって、溢れてきた嗚咽に身と心を委ねた。獣のように唸る嗚咽を漏らしても、動かなくなった松島は何も言わなかった。
「なんで……俺を庇ったんだ、馬鹿野郎……ッ」
普段から助平な大馬鹿野郎だったけど、最期までこいつは馬鹿だった。そして庇われた自分はもっと馬鹿だ。煽って、庇ってもらって、死なせて。最低の馬鹿ではないか。こいつは確かに馬鹿だったけど、どんな時もいつもの調子で居てくれて、救われていた。樺太から逃げ出してからも、いつも馬鹿らしいことを言って励ましてくれた。こいつも辛かったはずなのに―――
「……………ッ」
ここまで共にいた戦友を失い、佐倉は一人、戦友の遺体を置いて立ち上がる。
遠くから聞こえ始めた銃声。
しかしそれ程離れていない。とうとう基地に敵が入ってきたのだろう。
佐倉はもう一度松島の遺体に寄ると、開かれたままの瞼をそっと下ろした。眠った表情になった松島の身体を部屋に置いて、佐倉は一人戦場へと足を踏み入れた。
―――ちりん。
懐の鈴が、小さく鳴った。
北日本には数多の地下壕や地下に設けられた秘密基地があることは、開戦前から日米政府の知る所だった。
海岸から山中、あるいは人口密集地である都市部にまで。再び南北日本の間で戦争が始まれば、北日本軍の戦闘機は地上の航空基地から離陸し、南日本の目標を爆撃すると元の基地に戻らず、別の秘密基地に帰投するとまで言われる程、地下滑走路の存在が確認されたものまである。
更に道東に集中する砲兵部隊には、敵爆撃機の攻撃から身を守るために地下に潜み、行動を開始する時は地下壕から出て弾道ミサイルを発射するとも。
何故これ程までに、北日本内に多くの地下空間が存在するかと言えば、日米軍の優秀な航空攻撃能力への脅威を意識してのことである。
レーダーにも映らないステルス機を保有する敵に対抗する手段として、地下に身を隠す戦略は求められるに必然なものだった。
都市部の地下空間は札幌司令部地下が代表的だが、建国当時の首都だった第二の都市である旭川にも、地下空間が存在する―――
「この街がこの国の首都だった頃は1953年の停戦で札幌が新たな首都になるまで、僅か十年もなかった。 札幌に首都機能が移転する前後、旭川は戦争後の復興事業の中心となり、共和国の都市として繁栄を続けた」
主戦場となった北海道各地は荒廃の限りだった。戦略上の重要拠点として幾度の市街戦が展開された札幌、原爆が投下された函館は特に酷かったが、各都市の中でも旭川は影響が最も少ない街だっただけに復興事業の中枢となった。
「この街の地下に第一の秘密基地が作られることになったのはそのためでもある。言わば、ここはあの戦争を乗り越えた、この国の全ての始まりの場所とも言える」
東西冷戦期はいつ核戦争が起こってもおかしくない緊張感のある時勢だった。各国が地下に核シェルターを作る中、北日本も同様に地下に隠す秘密基地の建設をこの街から始めた。
「この場所で、再び、新たな時代が始まる」
男の口元は愉悦を得たような歪み。楽しみで仕方がないと言うような表情だった。地上から伝わる地響きの音が地下施設を揺らす。
建国宣言の場となった街。
復興の中枢となった街。
そして―――三度目の新生。北海道の中心で、この国は再び生まれ変わる。
「ねえ、楽しみでしょう?」
振り返った男の先には、二人の軍人が立っていた。男は彼女の顔を見詰め、にやりと歪みを更に吊り上げる。
「……………」
夏苗は無言を貫いた。肯定も否定の意も示さなかったが、少なくとも楽しそうではなかった。
それの何が面白かったのか、男はますます嗤いを濃くする。
ずずん、と最早日常茶飯事と呼べそうな音が響き渡る。敵が旭川市に侵攻を始め、まだ一日も経っていないのだが、その間に嫌と言う程旭川の地は砲弾や爆弾の炸裂を浴びて揺れ動いている。
地獄の地上を見上げ、男は嗤う。
「今、彼らが私達の舞台のために大掃除をしてくれています。 いやあ、何て優しい人たちなのでしょう」
男の口調は表が歪んでも驚く程に整っている。その内側は更に歪んでいるのに。
「私は常に日本のために行動してきました。 それは子が母に恩を報いるように」
日本。
二つの日本は、自国が真の日本であると言いながら、帝国と共和国という後付けに縛られてきた。
日本帝国、日本人民共和国。
二つの日本は、どちらとも真の日本ではない。
「この地で、本当の日本が誕生するのです。 あの御方の下で」
男は変わってしまった。内も外も歪み切った。しかしその想いは純粋で、深く、有りのままだった。
「日本のために―――」
火傷で歪んだ皮膚が顔の半分を覆った間取の瞳は、純粋に過ぎる程の輝きで未来を見詰めていた。
緑色の電光が灯る空間。最も古い構造だからか、彩る装飾はアナログ機器が大半。
施設に通じる廊下は、東旭川基地に繋がっており、その距離はおよそ180メートル程しかない。のっぺりとした壁とコンクリートの床が続く廊下の先を歩けば、各施設の発電状況を示す掲示板が出迎える。
基地内には様々な部屋がある。ある部屋はアナログ系が多い電子機器が数多く備えられた指令室のような部屋。それが最も広い部屋。そして『映写室』『通信室』『医務室』などの文字が刻まれた扉の中に、『個室』と言う最も短い名の部屋があった。
その部屋の前に、夏苗は立っていた。その背後には西墻が居る。
夏苗の瞳は、まるで扉の奥に向けられているようだった。扉を見ておらず、別のものを見詰めている瞳だった。
無言を抱えた夏苗は部屋の住人に声を掛けることもなく扉を開けた。室内に夏苗だけが足を踏み入れ、西墻は扉が閉じられるまでその場に立ち続け、夏苗の後に続くことはなかった。
部屋に入った夏苗の視界に飛び込んだものは、絨毯が敷かれたベッドのある個室だった。部屋にあるのはベッドと箪笥、そして洗面所。壁に窓はなく、レトロな時計だけが己の存在を針の音で語っている。夏苗は三、四歩だけで到達したベッドの前に立ち、そばにあった椅子を手で引き寄せる。
椅子に腰を落とし、目の前のベッドに眠る人物に視線を向ける。氷結していた表情が、湯に触れたようにじんわりと溶けた。
「………………殿下」
ベッドに身を深く沈ませた伏見宮陽和は、夏苗の呼びかけに応えることはなかった。