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南北の海峡 -The Split Fate-   作者: 伊東椋
第六部 運命の収束点
54/63

52 戦場歌


 1950年に始まった日本解放戦争(ロシア側の名称)は1953年の停戦まで続き、祖母はその間にソビエト義勇軍の兵士として北日本にやって来た。

 戦争が終わっても、祖母は帰らなかった。北日本に残ることを決意した祖母は国内の復興事業に専念し、北日本人の祖父と出会い結婚。移住道民として北日本の国籍を取得した。

 私が知る祖母の昔の話は、ほとんど両親から聞いた話だ。祖母は自分を語ることをあまりしない人だったので、祖母から直接聞く機会はほとんど無かった。

 私が8歳の頃に亡くなったので、祖母に関する記憶を多くは持っていない。ただ、幼少の頃の僅かな記憶は、今も鮮明に思い出すことができた。

 


 あの頃は、まだ私が6歳だった頃。祖母が亡くなる二年半ほど前だ。

 私たち家族は首都札幌でも山に近い方に住んでいた。階級社会における北日本での首都居住は共産党員や忠誠度が高い定められた高級階級にのみ許されているが、他の都市や地域への移住の自由は無い。しかし自然が大好きな祖母の意向が反映されたかのような場所に、私たち家族は居を据えていた。停戦後の復興事業において多大な貢献を果たした祖母に対する党の配慮だという噂話を母から聞いたことがあったが、真偽は定かではない。

 そんな所に住んでいたこともあって、私と祖母はよく近くの山まで歩いたものである。休日に家族全員でピクニックに行くこともあった。国内一の大都会の中だと信じられない程の豊かな自然は、私や、特に祖母に安息を与えていたと思う。

 そんな祖母と歩いた山道。家から続く山道を暫く歩き、森を抜けると目の前に星のように明るく輝く草原が広がっていた。生い茂る木の葉で暗かった森から出たばかりの目には眩しく、一瞬だけ目を細めた私に、祖母は微笑んで言った。

 「イリーナは目が良いから、ちょっと眩し過ぎたわね」

 絨毯のような緑の草原には、赤や白、黄色の様々な花が咲き乱れていた。

 空から射す陽光が草原の様々な花に光を与え、きらきらと輝く。

 でも目が慣れてしまえば、やっぱり目の前の草原は美しかった。花を束んで、祖母にプレゼントすると、祖母はとても良く喜んでいた。

 ある日、草原を目の前にして、祖母が一度だけ口ずさんでいたのを見つけたことがあった。それはロシア語だった。気になって聞いてみると、祖母は寂しそうに笑いながら答えた。

 「この歌はおばあちゃんが若い頃に、大切な人に教えてもらった曲なのよ」

 それは草原を意味した曲だった。

 後で知ったことだが、その曲は必ずしもただ草原の風景を歌ったものではなく、軍靴が聞こえてくるような曲だった。

 しかし、耳に優しく沁みつくような、心地良い曲でもあった。

 祖母は言った。

 「Полюшко поле」

 広い草原ポーリュシカポーレと―――

 


 目の前に広がるのは草原ではなく雪原だった。見張り塔から見下ろす雪原、その先には基地を取り囲むようにして留まる敵の戦車や装甲車。スコープで覗けば、基地を睨む大勢の兵士たちも視認できた。

 白い息を燻るようにして口ずさむ唇からは、透き通るような歌声が漏れている。祖母から教えてもらった歌を、イリーナは一人歌っていた。

 ポーリュシカポーレは、1934年にヴィクトル・グーセフが作詞し、レフ・クニッペルが作曲。当時ソビエト国防相だったクリメント・ヴォロシーロフに献呈された『交響曲第4番・コムソモール戦士の詩』の第1楽章の第2主題が後に独立して軍歌として歌われるようになったものだ。

 ロシア内戦における赤軍クラースナヤ・アールミヤの活躍を歌い、赤軍合唱団の歌唱によって世界的に知られるようになった。

 イリーナの祖母は義勇軍兵として戦時下の北日本に従軍した折、当時所属していた部隊の上官から教えられたというものだった。

 祖母の言う大切な人と、祖母の関係は知らない。だが、答えた時の祖母が見せた寂しそうな笑顔を、イリーナは忘れたことがなかった。

 祖母は大切だった人にその歌を教えられ、今度は孫のイリーナに教えた。祖母の大切だった人が、そして祖母が好きだった歌を、イリーナは自分の時、誰に教えることになるのだろうと幼少の時から思ったものだった。

 大切な人―――と考えて、ふと思い浮かぶのは一人の少女。

 もし、この戦いが終わってまた話せたら、彼女に教えてあげよう。

 祖母が好きだった歌を。

 自分が好きだった歌を。

 必ずもう一度会うと決めて。イリーナは指の第一関節付近を引き金に触れた。

 脇を引き締め、抑えるように支えた銃を手に、十字の先に敵の頭をいつでも捉えられるように。

 切り替えろ。脳内の回路を、一箇所に集中させて。冷静に、呼吸を合わせ、慎重に。

 砲火が、何らかの合図があった時。

 その時が、引き金を引く号令だ。

 それまで、祖母の歌と共に、彼女はじっと待ち続けるのだった。




 乃木は上の見張り塔から聴こえる歌声に気付いた。

 敵の突入に備え基地前の陣地にいた乃木琢磨大尉は見張り塔を仰いだ。

 乃木の立場からは見えないが、見張り塔には部隊一の狙撃手スナイパーが配置に着いているはずだった。

 彼女が歌っているのか。乃木は旋律の良いロシア語の歌を聴いて、どこかで聴いたような記憶をゆっくりと掘り起こしていた。

 「浅間中尉、なんて言っているかわかるか?」

 乃木は見張り塔を仰いだまま、そばにいた黒髪が美しい女性将校に聞いた。

 「まぁ、わかりますが……」

 そう答える浅間の両手の指先には、ソ連のPK機関銃をコピー生産した82式機関銃の引き金があった。

 浅間未由中尉はロシア語を専攻していたこともあり、聴こえてくるロシア語の歌詞を理解していた。

 「この曲はポーリュシカポーレという曲です。 大体、日本語では広い草原だとか愛しき草原などと訳されることが多いです」

 「ロシアの曲か」

 「正確にはソビエトですね。 赤軍の偉大なる聖歌の一つですよ」

 見張り塔でもその手には引き金が触れているはずだ。

 しかし、そんな姿を想像させないような美しい歌声が、冷たい空気を伝って聴こえてくる。

 「良い歌だ」

 乃木や浅間が所属する中隊―――と言っても、今や十名未満となっている第803部隊において、既に中隊で生き残っているのは乃木と浅間の二人だけだった。他の兵士は寄せ集めの兵士たちである。彼らは基地前の陣地に居座り、敵の侵攻に対する第一の迎撃を任されていた。

 他の兵士たちも雪の代わりに降ってきた歌声に聞き惚れていた。何を言っているのかわからない異国の歌だったが、極度の緊張感を抱く彼らの心には雪のように沁みついていった。

 「歌……というものを、まさかここで聴くことになるとは思いもしませんでした」

 「我が部隊にも、こんな歌手がいるとは知らなかったからな」

 「昔はよく家族と札幌の竪琴キタラ大劇場に行っていましたが、あの頃を思い出します」

 首都札幌の中島公園に建てられた竪琴大劇場は、北日本を代表する有名な音楽施設であり、国立交響楽団や人民軍国家合唱団、協奏団など様々な音楽集団が披露しており、北日本国民に馴染み深いものの一つだった。

 浅間も学生の頃は何度も公演に足を運び、慣れしたんだものだった。

 「竪琴か。 実は俺、そういう所に行ったことがないんだよな」

 「それは共和国人民として由々しき事態ですね、大尉」

 「そうかもな」

 淡々としながらもどこか優しげな含みがある浅間の言葉に、乃木は小さく吹き出して答えた。

 「死ぬまでに一度は行ってみたいとは思っていたのだが、中々な……」

 「それでは、何時か私が案内をさせて頂きます。 どうでしょうか?」

 「ああ、それなら頼むよ。 この戦争が終わってからになるが、一緒に行ってくれないだろうか」

 「喜んで、大尉」

 乃木が向けた視線の先には、柔らかく口元を微笑ませた恋人の表情があった。

 想いを寄せ合う男と女は、戦場に居ることにも関わらず、戦争が終わった後のことも話し合っていた。

 それは不思議な光景だった。

 自分たちが、目の前の好きな人が何時死ぬかわからないのに、この二人は戦争が終わった後の話をしているのだ。

 まるで、自分たちは絶対に死なないと確信しているのかのように。

 しかし、むしろ二人には、生死すら関係が無かった。

 何時か一緒に行こう。それは生き残ろうが、死のうが、関係ない。それ程まで、二人の抱く互いの想いは、強かった。

 あの日、日の出を見た時も、同じだった。

 数分後―――歩を刻み、近付く敵の姿が。

 「基地に入れるな。 全ては祖国のために」

 「全ては祖国のために」

 「第803部隊万歳」

 「第803部隊万歳」

 陣地にじっと佇んだ彼らは、出来るだけ敵を引き付けてから、引き金を引いた。

 

■解説



●堅琴大劇場

北日本国内で有名なコンサートホール。ギリシャ神話の音楽神アポローンが奏でた竪琴キタラーに由来している。

国内の音楽施設としては、国立交響団や人民軍国家合唱団、札幌青少年合唱団などの様々な北日本国内の音楽集団からロシアなどの海外の音楽集団も公演する程に規模が大きい。

札幌市中央区の中島公園内にある。

史実のキタラホール。



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