48 降伏勧告
2015年1月21日午前7時35分
日本人民共和国・小樽
日米同盟軍こそ、世界最強の連合軍だろうと彼は確信していた。
現場の指揮を執る立場にあった南日本陸軍の安藤博正大佐は旭川侵攻を最後の決戦と決めていた。後退を続けてきた敵をここで殲滅し、大局の終焉を決定的なものとする。開戦から一ヶ月。日米同盟軍の装備品の損失・損害や人員の死傷者数も十分に膨れ上がっていた。
司令官室の椅子に腰かけた安藤の目の前には、帝国から届いた大手各新聞社の新聞が広がっていた。
「これは事実なのかね、田中少佐。 何時ものマスコミお得意の早とちりではないだろうね」
「安藤大佐、これらの記事にも書かれています通り情報源は政府の公式見解です。間違いないかと」
「ならば、喜ばしい限りだな」
安藤は笑みを浮かべ、新聞の一面を眺めた。
少佐の桜を標した制服に身を包んだ田中も、見慣れた各新聞社の新聞を見渡してみる。どれもほぼ同じことが書かれていた。
後継者、亡命。北日本の崩壊は明らかだった。
「支配し続けた民を捨て、敵を目の前にして自分だけ逃げる。 そうやって国が滅んでいくなんて、なんて憐れな末路だろうか」
「所詮、そういう下衆が居座っていたということです。 あの国……いえ、あれを国とさえ思っていませんでしたよ、私は」
世間は以前より分断した一方を『北日本』と呼んでいるが、政治上は主権国家として認めていないために南日本から見れば正式には『国』ではない。
「しかし日本という国が二つに分裂していたのは事実だ。 これは日本が一つの国に纏まるための聖戦である」
安藤の視線が、壁際に移動する。田中も後に続くように視線を向ける。二人が見詰める壁には帝国君主の御真影が飾られていた。
前大戦の講和を成し遂げた日本帝国は帝室と国体の護持という最大目標を成功させた。憲法改正に絡み、連合国の政治的介入によって民主主義化が戦前と比べ大いに進んだが、君主制国家としての在り様は健在だ。
「我々軍人の使命は、日本の為にこそある。 この戦争は、もう終わりにする」
御真影から礼を下げるようにして視線を外した安藤は、背中を椅子に深く預け、田中を直視した。同じように視線を外した田中は次に安藤の視線を受け止め、深く頷いた。
「はい。 これ以上の戦闘は、日本帝国の為にはなりません」
「一ヶ月前から急激に圧迫し続けた財政から、東京の政治家たちも悲鳴を上げ始めている。事が終わった後の処理も残っているのに、ここで見過ってしまえば日本は結局破滅する。それでは本末転倒だ」
開戦から一ヶ月が経過した今、南日本の財政事情はサイレンを鳴り響かせていた。
この状況を予測し、南日本政府は開戦当初から短期決戦を目標としており、これ以上の戦闘の継続は利とはならない。
「ここでようやく確証も得られた。 遂に乗り出すぞ、準備は出来ているだろうな?」
「勿論です。 攻撃は継続中ですが、戦闘が終わるまでに終わらせられると思います」
田中は持ちこんでいたアタッシュケースから参考用のソレを取り出して安藤に見せた。机の上にある新聞と同じ絵が印刷された紙面を見渡した安藤は、満足そうに頷いた。
「よし、良いだろう。 後は呼びかける内容次第だが……成功するのか?」
「大佐、現代の国家レベルの争いとは、文化、宗教、人種といった双方の異なる違いが原理と言えます。しかし、我々のように単なる政治的な事情で衝突している場合、原理に関してはほとんど差がないため、我々にしか成し遂げられないこともあります。もしあの大戦で、当時の米軍が日本軍に我々と同じようなことをしたら、彼らは相当苦労したことでしょう。価値観がまるで異なる野蛮な欧米人ではなく、敵と同じ日本人である我々だからこそ、効果のある殺し文句を以て行う事が出来るのです」
自信に満ち溢れたような声で、田中は言った。田中の言葉を聞いて、安藤は戦争の終わりを確信したと言う。
2015年1月21日午前8時56分
日本人民共和国・旭川
南日本軍の航空部隊は新聞記事を市内にばら撒いた後、続けて空から拡声器による呼びかけを行った。
『旭川市内に居る全ての勇敢なる人民軍兵士、並びに武器を手に取り戦っている勇敢な市民の皆さん。私達は皆さんの雄姿に敬意を表します」
同じ日本人の声。敵であるが、同じ民族の声が、旭川の人民軍兵士や市民たちに語りかける。それは北日本人が初めて聴く分断した同胞の肉声であり、優しげな言葉だった。
『私達は皆さんのことをよく理解しているつもりです。何故なら、私達も皆さんと同じ日本人だからです』
「聞くな!」
記事と同様、西墻がグラウンド中にいる兵士たちに叫びかける。しかし声が聞こえる空を見上げる兵士たちは、その耳を塞ごうとはしなかった。
「罠だ! 敵は我々を動揺させようと……」
西墻の言葉も虚しく、兵士の耳には敵の言葉だけが届いていく。
『私達日本人は南北問わず如何なる災害、災厄に遭おうとも、その度に復興を遂げ、乗り越えてきました。 そんな私達が再び手を取り合うことは難しくないはずです。 『分断国家』となった私達が一つとなり乗り越えられる日が来ることを信じております。 今まで、皆さんは党のため、党首のためにと決死の覚悟で闘っておられましたが、先程市内全域にお配らせ頂いた記事は事実であります』
記事に再び視線を落とす兵士がちらほら。いつの間にか市街地の銃撃も止み、拡声器の声だけが市内に響き渡っている。
『しかし君主のため、大義のために死のうとする姿勢、その意志を私達は共感します。理解できます。武器を手に取った市民の皆さんは私達より立派で勇猛果敢な戦士です。私達は皆さんを心から尊敬します。ですが―――』
次の言葉に、西墻は警戒しただろう。佐倉も次の言葉が来ればお終いだと直感していた。
『―――貴方が銃を手にして、もし死んでしまったら、お母さんはどう思いますでしょうか。お父さんが銃を手にすることに、子供はどう感じるでしょうか』
市内に明らかな、そして大きな動揺が走っただろう。間を置くようにしてから、拡声器の声が続く。
『党のために、国のために、そして偉大なる党首のためによくぞ立派に死んでくれた。そう言って、お母さんは喜んで貴方の遺影に手を合わせることでしょう。貴方が死ぬことでお母さんには敬愛する党首から贈り物が贈られ、裕福で幸せな一時を味わうでしょう。貴方の遺影の横で、お母さんは貴方の死と引きかえに手に入れたお金で美味しいものを食べたり、高級な車に乗ったりするのです』
「う、……うぅ……ッ」
グラウンドにいる兵士たちから、ぽつりぽつりと嗚咽が漏れていく。
それが大した時間も要せずに、啜り泣きから慟哭に膨れ上がることになるのは想像に容易い。
「お父さんが死んで、子供は英雄の父を持って友人たちや先生に褒め称えられることでしょう。父の存在がただの親ではなく国民の英霊となって、子供は自分が英雄の子であることを誇りに思うでしょう。そして子供は死んだ父の背中を見ることで、子供もまた兵士になるのです』
こいつは―――やられた。
佐倉は既に、敵の完勝を認めていた。
『―――皆さんは既にわかっているはずです。我が子の死と引き換えに手に入れた金が本当の幸せではないことを。子供が本当に見たい背中は、国民の英霊となった父の背中ではなく、親としてのお父さんの背中であることを。さぁ、もう一度よく考えてみてください。貴方が死んだら、お母さんはどう思いますか?―――そう、お母さんはとても悲しみます。お父さんが死んだら、子供はどう感じますか?―――そう、辛く苦しく、そして悲しくなります。母、父、子供、兄弟、皆悲しみます。もう、悲しませてはならないのです。戦う理由はどこにもありません。さぁ、銃を捨てて、皆さんで一緒に、私達の前に出てきてください。私達は同胞である皆さんを手厚く歓迎致します。さぁ、皆さん―――』
囁きかけるような声は、重圧がある射撃音によって遮られた。
基地の上空から拡声器の声を流していた南日本軍の航空機を、地上から上がった光の刃が次々と襲いかかった。
弾が掠ったのか、機体の一部を抉られた南日本軍機は急反転し、上空から退却した。東旭川基地の端から、天空に砲口を向けた連装機関砲が火を噴いていた。
西墻と同じ誰かが撃ったのだろう。しかし佐倉は周囲の空気に気付いていた。
雪原に広がる記事の海。その上に佇む、大勢の兵士たちの顔は、最早士気というものが無かった。
ここにいるのは、戦えなくなった人間の方が多いだろうと、佐倉は白い息を吐いた。
東旭川基地の基地司令は憤慨していた。良い戦況報告が一つもないこともそうだが、導火線の火を付けたきっかけは南日本軍機の降伏勧告と、それに伴う自軍兵士の変化だった。
「敵の言葉に耳を貸した奴は私の前に連れてこい。その頭、ぶち抜いてやる」
禿げた頭をピンク色に染めた基地司令の大野少将は、戦闘が始まる以前から自分の処遇が不満だった。
人手不足だからと、最も高い階級の持ち主というだけで得た基地司令の立場。確かにキャリアを求めた時期もあった。しかし得た理由が不満だった。人手不足というのも、ほとんどの軍幹部が逃げ出したからだ。自分は、下劣な卑怯者共の逃げ道のために、この座に置かれている。
「たとえ身が滅ぼうとも祖国の為に信じ、最期の瞬間まで戦う、それこそが軍人の義務だ。 そうは思わかね、西墻君?」
「その通りであります、同志閣下……」
「我々は義務を果たすことで、同志党首一族に恩義を返す。 同志党首がどこにいようと、な」
西墻は南日本軍機の降伏勧告と、動揺する兵士たちの様子を大野に報告した。東旭川基地に付属した第803部隊隊長の夏苗ではなく、その側近の西墻がメッセンジャーの役割を果たしているのは以前からである。何故なら、大野が夏苗を一切信用していないからだった。
「そう、一度祖国を裏切った輩や南の傀儡共には到底理解できないだろうが、たとえどんな状況においても我々人民軍人は最後の一兵まで戦うのだ!」
大野の怒号を浴びて、西墻は表情を強張らせた。
北日本の英雄として兵士たちの間で讃えられている夏苗。彼女は密出国―――所謂、脱北―――を犯し、南日本に渡ったことがある人間だった。その過去を知る者は少ないが確かに居た。一度南日本に渡り、戻ってきた彼女はこの紛争を機に英雄となった。しかし大野が言うように、彼女のことを祖国の裏切り者と言う者も同様に存在した。
「西墻君、私は君に期待しているし、この基地で信用が出来るのは君しかいない。 兵をまとめ、敵の襲撃に備えてくれ」
「了解しました」
「そして、あの小娘の監視も怠らないようにな」
「…………」
西墻は他の軍幹部と違い、戦場に留まり戦い続けているために大野から絶大な信頼を寄せられていた。更に札幌の撤退戦で殿を務め生き抜いた事も買っていた。
そんな大野の自分に対する信頼を西墻は光栄に感じているが、夏苗に関して西墻は特別な感情を抱いていた。命の恩人として、祖国の英雄として、西墻は夏苗を崇拝していた。
「……同志閣下。 私は、同志大尉がまた我々を裏切るとは思いません」
「どういう事だね、西墻君?」
束の間の静寂。その間に聞こえるのは、外から、遠くから聞こえる轟音だけだった。
「私の知る同志大尉は大きな敵を前に、尻尾を巻いて逃げ出すようなお人ではありません。 札幌から同志大尉と御供をさせて頂いた私だからこそ断言できます」
西墻の表情は、はっきりと引き締まっていた。
西墻の実家は代々続く軍人の家系で、西墻自身も若くして国防軍大学(士官学校)を卒業したエリート軍人だった。参謀将校として札幌の国防軍総司令部に務めていたが、先のクーデター騒動でクーデターに反し身柄を一時的にクーデター軍に拘束された後、日米同盟軍の札幌侵攻の際に作戦指導に当たった。
実家が代々続く軍人の家系からか、他の軍幹部と同様かそれ以上に愛国心が強く、兵の指導も厳しい節が見られるが、撤退戦の際に殿を志願する等、自らが前に出て戦うという他の軍幹部とは異なる性格もある。これもまた、人民の模範として教育された家系の影響だった。
日米同盟軍が圧倒的な物量で攻め入る札幌からの撤退は正に地獄の退却だった。臨時政府が発した撤退命令も遅かったために撤退戦の様相はますます厳しいものとなった。西墻は撤退する軍の殿に加わり、押し寄せる日米同盟軍を相手に奮闘した。
そして遂に命運尽きたかと思われた瞬間、同じく殿の只中に居た八雲夏苗に救われた。彼女は目の前に迫る敵の戦車を相手にしても臆することはなく、見事に撹乱させて見せた。隙を突き、倍の身長差である西墻を背負い、夏苗は彼を窮地から救った。
夏苗はそうやって同じように多くの兵士を救った。西墻はその中の一人であり、他の兵士と同様に夏苗に大きな支持を捧げていた。
「君が優秀であることは、私はよく理解している。 そんな君が彼女を庇うということは、きっと間違いではないのだろう」
大野の言葉に、西墻は驚いた。夏苗を信用していなかった大野の口から出る言葉としては予想外だったからだ。
「君は他の卑怯者共とは絶対的に違う。作戦参謀を任せる君の判断は正しいだろう。俺は個人的にあの小娘を一切信用しない。だが、君は信じる」
そう言いながら、大野は窓際に歩み寄った。大野の背中を、西墻は見据える。
「君の判断に任せる。 私が言いたいのはそれだけだ」
「同志閣下……ありがとうございます」
振り向かない大野の背中に、西墻は頭を下げる。
「立場を弁えない無礼をお許しください。 私は必ずや、祖国の為に義務を果たそうと思います」
「ああ、期待している」
二人の身に、ずずんと伝わる振動。施設内に何かが着弾したようだった。
「祖国の為、偉大なる党の為に、敵に立ち向かえ! 我々は決して降伏はしない!」
大野は告げた。東旭川基地は、司令部は降伏をしないと言う意向を。
あの降伏勧告でどれだけの市民や兵士が独断で白旗を掲げに行っただろう。西墻はそれすらも関係がないと決めた。我々だけでも戦う。大野の意志を、西墻は同意を示すように敬礼した。