03 近衛の戦士
この国の人間にとっての精神的な拠所とはどこを指すだろうか。かつて主君の名を軍旗に掲げ戦った前大戦当時は、宮城であったことは間違いない。たとえ戦争に勝とうが負けようが、国民はきっと宮城に前を向けたことだろう。日本の中心は、帝都東京の中心と問われれば、彼らは迷うことなく宮城と答える。
しかし今はどうだろう。今や国家的中枢としての意味合いでは、政治家たちのひしめく国会議事堂がこの国の中心だろう。東京の中心は宮城、という答えは現在となっては古びた解答かもしれない。
しかし、少なくとも夏苗にとって、宮城は現代においてもその心を抱く者の一人だった。
「ここにおられましたか」
夏苗はさがしていた少女を見つける。
少女が振り向くと同時に、髪飾りの鈴が、ちりんと鳴った。
宮城の美しき庭を背景に、まるで芸術画として映える少女の姿は、また彼女も野に咲く花のように可憐だ。それだけに収まらない凛とした雰囲気が、彼女の全てを表わし切るには足りない程であった。
皇族の身辺護衛と安全を主任務とする近衛の軍服を身に纏った同性の夏苗であっても、時々彼女の美しさにはどきりとさせられる。
それは、幼馴染と呼べる程の時間を費やしても、変わらなかった。
「中尉?」
「!」
彼女の呼び掛けに、ハッと我に帰る夏苗。
「どうかされましたか? どこか、身体の具合でも……」
「いえ、何でもございません。 失礼致しました、殿―――」
夏苗の口を、少女の細い指が塞いだ。
少女の細い指の触れる感触が唇から伝わる。夏苗は無垢に微笑む少女の笑顔を見た。
「二人だけの時は、そういう堅苦しいのは無しにしようって言いましたでしょう? ね、かなちゃん」
かなちゃん、と愛称で呼ばれた夏苗は、少し困ったような表情になる。
「しかし、殿下……」
ここは宮邸と違って帝国の大城、宮城内である。他の者に見られれば―――と思うと、親愛なる主であり唯一無二の親友である彼女の命であっても戸惑われた。
しかし少女は決して譲らなかった。
「ほら、かなちゃん」
「………」
昔から逆らえない。いや、仕える主人に逆らう気など毛頭ないが、それはまた別の話だ。夏苗は小さく溜息を吐くと、口を開いた。
「わかりました、陽和殿下」
「こら」
「……わかったよ、陽和ちゃん」
「うんうん」
満足そうに頷く少女、陽和を前に、夏苗は今日も敵わないのだった。
主従関係とは別の関係を有する二人。帝国宮家の一つ、伏見宮家の第一皇女である伏見宮陽和は、近衛兵団の八雲夏苗中尉にその身柄を幼少の時より護衛されている。
近衛兵団とは、陸海空軍とは独立した宮内省直属の武装組織である。
帝室の護衛と安全の維持を受け持ち、帝室に身を置く皇族一人一人の護衛と安全を優先する。
八雲夏苗は、伏見宮家第一皇女の陽和の護衛の任を受け持った近衛兵団の兵士である。
「ここには私たち二人しかいませんから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「しかし……いや、でも……こんな所、万が一にも他の宮家の方々に知られたら……」
「心配しすぎですって、かなちゃん。 私たち、そんなに悪いことしてますか?」
「………」
「本来なら、友達に身分なんて関係ないんですよ」
一国の皇族である陽和自身、夏苗には本来果てしなく遠い存在のはずだった。
そもそも、自分は元々この国の人間ではない。あの海峡を境に、決して相容れるはずがなかった二人。
しかし今や自分の命は、自分のものではない。
目の前にいる、彼女のもの。
「さっきまで大勢の人たちの前に出ていたんです。 少しはリフレッシュさせてください」
「それに関しては、本当にお疲れ様」
こうして一連の宮家が宮城に集まることもあるし、これも立派な公務だ。
久しぶりに訪れた宮城の庭園の端で、身分を越えた二人の少女が、友人同士の他愛のない話に花を咲かせていた。
「かなちゃんもお疲れ様ですよ。 本当に感謝してます」
「お礼を言われるようなことはしておりません。 私は……ただ、この命を救ってくださった伏見宮家に恩を報いているだけに過ぎません」
そっと胸に手を添えて、優しく囁くように、陽和は言葉を紡いだ。
夏苗は帝国の帝室―――その宮家、伏見宮家にその命を救われた。
日本を分かつ津軽の海峡で、家族と離れ離れになった夏苗。波は強引に弟から自分を引き離し、南へと連れていった。泳いでも泳いでも、弟のもとへ行けない。逆に引き離され、弟の姿が波間へ消えていく。
今まで守ってきた弟。いつも、私が付いていなければいけないと思っていた。
だから離れてはいけない。無我夢中に泳いでも、意地悪すぎる波は自分を掴んで弟のもとへ行かせようとしなかった。
やがて波間に漂流していた夏苗は、国境付近の警備任務中だった南日本の駆逐艦に発見され救出された。その時、海峡のど真ん中に一人漂っていた夏苗を助け出したのが、帝国海軍国境保安隊指揮官であった伏見宮定優親王海軍少将であった。
救出後、身寄りのなかった夏苗を憂いた伏見宮定優親王が、自ら夏苗を引き取った。
そして、夏苗は近衛兵団の兵士として定優親王の娘である陽和のそばに仕えられた。
そうして幼い時より一緒にいる二人。彼女たちは、互いに信頼し、強固な絆に結ばれた家族であり親友でもあると、互いの胸の内に強く思っていた。
「ほらほら、堅苦しいのは無しって言いましたでしょう」
「おことばですが……殿下ご自身が私に対して敬語のままというのは、やはり不適切ではないかと存じます」
「私は常にこうですから、仕方ないでしょう。 気にせず、昔のように親身に話せば良いのです」
「そう仰られても……」
「えーい、もうっ!」
「!?」
突然夏苗に飛びかかる陽和。夏苗は突然の事態というよりは、彼女という存在に体が抵抗を示すことができなかった。
「こうして子供のようにじゃれあえば、きっと昔のように……!」
「ひゃ……で、殿下……ッ! やめ……ッ」
「なにを食べたらこんなに大きく育つのでしょう? 人とは不平等のかたまりですね」
「で……殿下、はしたないですよ……ッ! ひゃう……ッ! や、やめて陽和ちゃ……!」
庭園の端で、蝶も踊る穏やかな日の下、二人の少女の声と共に鈴の音がうるさく鳴っていた。
「視察……?」
近衛兵団の司令部にて、団長に呼ばれた夏苗は鸚鵡返しのように聞き返した。
「そうだ。 今月の末頃に、伏見宮陽和殿下が大湊へ行かれる予定だ」
「大湊……」
本州の頂上にある大湊は、北日本との国境線が敷かれる津軽海峡を目の前にした、帝国における最前線であった。下北半島の脇には国境警備と防備を主とする海軍の国境保安隊の基地があり、戦前から続く帝国海軍の古き伝統を受け継いだ軍港が存在する。
以前は陽和の父である伏見宮定優親王が指揮官の座に置いていたことがあるため、陽和第一皇女殿下による軍事視察はその由縁があった。
「……そこで、殿下の護衛の任に就く貴様も当然同伴させてもらう」
「は」
行く先で護衛を務めることは、普段と変わらない。
しかし今回の視察は、夏苗にとって、そして彼女たちにとって特別なものになり得るものだった。
「貴様もよく知っていると思うが、あそこは北の大地に最も近い場所だ。 そんな最前線に殿下が行かれることを、強く肝に銘じておけ」
「はっ!」
「それだけだ。 下がってよろしい」
「は、失礼致します」
団長に敬礼し、部屋を退室しようとする夏苗を、団長の声が呼び止めた。
「待て、中尉」
「は……?」
「何を見、思おうと、貴様は過去も未来も関係ない近衛の誇り高い兵士である」
「………」
「殿下と共に、行ってこい」
自分と陽和の関係を知る数少ない人間の一人―――帝国国民になると同時に近衛の兵士になった自分に、指導を教授してくれた恩人。
その恩人のさりげない気遣いに気付きながら、陽和は無言で一礼すると、今度こそ部屋を退室していった。
長く続く廊下を歩きながら、夏苗は団長の言葉を思い出した。
自分は、近衛の誇り高き兵士。つまり帝室に仕える守護者である。
国家の軍隊ではない組織として、軍とは独立した指揮系統と武力を持つ近衛兵団は、皇族の身と財産を護るためだけに存在する。
夏苗にとって、命の恩人である伏見宮家に対して恩を報いるには、近衛兵団は最適な存在だった。
元いた国が最も嫌った帝室に、自分の命を捧げることを決意した新たな人生。
あの忌まわしい国から一人だけ逃げ延び、生き残ってしまった自分が唯一成せる道。
あの海峡で失った家族を背負い、夏苗はこの国で戦いながら生きることに決めた。
守ろう。弟を守ってきたように、あの娘を守り通そう。
結局、私にはそれしかできない。
最後まで守れなかった。だから、今度こそ守ってみせる。
夏苗の心は、強くその思いで埋め尽くされていた。
■解説
●宮城
日本帝国君主の平常時における宮殿。明治君主の東京行幸により江戸城が名称を変え、現在の宮城に至る。
●宮内省
日本帝国の行政機関。帝室関係の国家事務、君主の国事行為に当たる外国の大使・公使の接受に関する事務、帝室の儀式に係る事務等を司る。帝室の安全、管理を管轄する上で軍とは独立した独自の武力『近衛兵団』を保有している。
●近衛兵団
軍とは独立した宮内省直属の武装組織。最精鋭かつ最古参の部隊組織として帝国君主を始めとした皇族と宮城を警衛する任務を帯びている。
●宮家
帝室で代々皇族の身分を保持する一家を指す。
●伏見宮家
四大宮家の一つ。皇族軍人の宮家としても名高く、常に自ら前線に立つという方針でいるために、軍の士気を高める役目を抱えている。『皇族は国民の模範となるべし』と言う宮家の共通認識を前線において発揮する役。
●国境保安隊
41度線(北方軍事境界線)を警備監視する帝国海軍の部隊。海上保安隊との連携を取ることで境界線付近の警備を実施している。
史実の伏見宮家(皇族)とは一切関係ありません。この物語は何もかもがフィクションです。