44 彼女の今
2015年1月9日午前8時13分
日本人民共和国・十勝要塞
戦時において、国土に対する軍事的な攻撃に耐えうる『防御』は必然として求められる。北日本各地に建造された要塞は沿岸、山中等に点在するが、その半数以上がことごとく崩壊していた。
「我々は十勝要塞を放棄、旭川防衛線にまで撤退する」
薄暗い室内で、北日本軍の上級将校の制服を着た西墻政信中尉が言った。狭い空間に敷き詰めるように居た男女問わない軍人たちの顔が引き締まる。
人民軍が旭川方面防衛の一端として十勝岳に建設した十勝要塞。北海道中央部にある、敵の盲爆に晒される昨今の戦況で唯一生き残った要塞。
著しく発展した敵の航空機技術・ミサイル技術等の兵器が、北日本の要塞に対する遠隔地からの直接攻撃を行い、北日本軍はその攻撃を防ぐことは事実上不可能だった。
最初の一手により首都札幌の軍事施設はほぼ壊滅し、北日本軍は徐々に北海道の奥地へと追いつめられる形となった。
日米軍の怒涛の進撃に対し、北日本はクーデター等という場合ではなくなっていた。札幌を占領したクーデター政権の首脳部が米軍による真駒内基地爆撃の際にほとんどが死亡した。今や、生き残った閣僚たちが旭川に臨時政府を立て、今回の紛争に対処している。
かつて祖国解放戦争の戦勝都市として輝かしい誇りを有していた札幌は、石狩湾から上陸した日米軍の占領下に60年ぶりに返り咲いている。クーデターで混乱していた北日本はまんまと懐を突かれ、日米軍の圧倒的な戦力差を前に、分断後の領土とほぼ同じ規模にまで戻ってしまっていた。
「現在我が国の臨時首都である旭川には、旭川の第七師団を始め、十勝方面軍の第五旅団、札幌方面軍の第一旅団等、現赤軍・国防軍の主戦力が集結し、富良野・深川両方面の敵軍に対する旭川防衛線を構築している。 我が部隊も防衛線に加わり、敵軍の侵攻に備える」
臨時首都の旭川に敵が攻め込むのも時間の問題だろう。旧首都の旭川まで陥落すれば、解放戦争以前より領土が縮小される羽目になる。
「札幌では不意打ちをうたれたが、今回は札幌のようにはいかないぞ。 調子に乗っている資本主義者共に一泡吹かせてやろう」
眩しい白い歯を見せながら言う西墻に、その男の部下たちも頷きを返す。政情が不安定の所に、容赦ない一突きを浴びせた敵に対する復讐心や憎悪は北日本軍人たちの士気高揚に貢献した。
クーデターという未曽有の混乱に、敵はここぞとばかりに武力を振りかざしてきた。限りなく卑劣。北日本の内では憎き敵は統一し、クーデターが嘘のように団結の意志を固めていた。
「この美しい大地を、侵略者共に穢されるのだけは我慢ならん。 俺たちの庭で好き勝手はさせん」
薄暗い空間が、静かに燃える炎の熱気に支配される。その場にいる男も、女も、軍人という共通の上で誰もが同じ顔をしていた。
「―――しかし、俺たちには同志大尉殿が付いている! 最も南の不届き者を理解している同志大尉が、俺たちと共に闘ってくださる!」
彼らの表情が明るくなり、西墻を含めた数多の視線が、ある方向へと集中する。
そこに現れたのは、一人の女性将校。若く、男たちが見惚れる程の美貌。自らを強く自制しているかのような、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
そして何より―――その蒼い双眸が、一際魅了させていた。
「札幌撤退戦に際し、我が軍の将兵を多く救った偉大なる英雄、八雲夏苗同志大尉に対し敬礼!」
八雲夏苗大尉。人民国防軍第803部隊隊長。追い詰められた北日本の一筋の希望であった。
「同志諸君、今回の十勝要塞放棄と旭川防衛線参加は同志八雲大尉のご提案である。 同志大尉は我々に共に戦う名誉を与えてくださる。 これは極めて誇り高いことである」
彼ら、彼女ら、軍人たちの表情が喜色に変わる。誰もが英雄と共に戦えることを心から喜んでいた。
今の北日本には、破滅の道しか見えない。忠誠を捧げてきた党首は死に、党も政府も旭川で命乞いに必死だ。どこかで隠れ潜んでいるだろう次期党首の行方もわかっていない。そんな上の体たらくを理解している彼らにとって、彼女の存在は新たな忠誠心の象徴であり、そして党への忠誠とはまた異なる、希望の『光』だった。
彼女に命を救われた者、そうでない者までが彼女を崇拝している。何より、かつての南の軍人が、北に寝返ったという事実もまた彼女の信頼に一役買っていた。
「同志大尉、我々にお言葉を。 兵隊の士気は、偉大なる者の言葉によって高まります」
西墻は夏苗の言葉を促す。夏苗は西墻を一瞥し、ただ自分に集まる視線を正面から受け止め、前に進み出た。その動きだけで、空気が緊張感でざわつく。彼女の行動一つ一つが、彼らの意識を向けさせていた。
「……………」
自分の言葉を欲する者たちの視線を浴びながら、夏苗は息を吸い込む。冷たく張り詰めたような表情の内から、小さな口を開いた。
「まず、ここまで私に付いてきてくれた皆に一言礼を言いたい。 ありがとう」
予想だにしなかった夏苗の言葉に、一瞬空気がどよめく。その瞬間、慌てて口を開いたのが夏苗のそばにいた西墻だった。
「……ど、同志大尉。 そんな、身に余るお言葉です……」
「素直に受け取ってくれ」
夏苗はそこで初めて微かに笑う。今、その微笑に心を鷲掴みにされた男は何人いただろう。
だが、以前とはまた違う、どこか寂しそうな微笑だった。
「しかし、まだ戦いは終わらない」
夏苗の毅然とした言葉に、場の空気がぴんと糸を張る。
「最期の瞬間まで、私と共に皆心して戦いに励んでほしい。 無慈悲な敵に、正義の鉄槌を」
夏苗が口を閉ざすや否や、狭い空間に踵を鳴らした音が一斉に響き渡る。覚悟を決めた軍人たちの最敬礼に、夏苗もまた立派な敬礼で応えた。
決して諦めない北日本の軍人たちに敬礼を捧げる夏苗の引き締まった表情の下にある、襟元に煌めく人民軍の階級章と、胸元の北日本製の勲章が、夏苗の『今』を物語っていた。