42 総理の苦難
葛島は北日本との紛争勃発後初めて自宅に戻っていた。
ソファに腰を沈めた葛島の表情は尚も厳しかった。その原因が数多くある中の一体どれなのか葛島自身もわからない。
今後の政府方針を自ら国民に向けて報告した記者会見の後、官邸内で葛島は側近たちの目の前で倒れてしまった。意識を取り戻した葛島は医務室のベッドにいた。医者は過労とストレスが原因と告げた。
此度の有事以前より度々押し寄せた北日本との問題から蓄積されてきた疲労が遂に限界点を達したのである。
倒れても尚無理に休もうとしない葛島に対し、側近や他の閣僚たちが必死に葛島を説得した。
「貴方が倒れてしまっては元も子もありません。今後のためにも、一度だけでも休んでください」
その経緯を経て、葛島は久しぶりに自宅へ戻っていた。
「おかえりなさい。お疲れ様です」
玄関に佇んでいた妻は、いつもと変わらない様子で葛島の帰宅を出迎えた。前に見た時より明らかに痩せこけている葛島の顔を見ても何も言わない。ただ夫人として葛島の帰りを迎え、疲れ切った夫の身と心を丁寧に癒そうと振舞った。久しぶりに口に入れた妻の料理は葛島の擦り減っていた欲求を食欲として復活させた。沸いた風呂は身だけでなく心も癒した。皺一つない布団は身体が溶けるようだった。就寝する葛島に「おやすみなさい」と掛ける言葉は淵に落ちた葛島を救うようだった。
朝になって目を覚ました葛島は、一瞬自分の置かれている状況を理解できなかった。鼻腔をさす朝食の匂いが、自宅に戻っていることを思い出させた。起きた葛島を出迎えたのは、やはり妻の穏やかな「おはようございます」という言葉だった。
朝食を食べ、テレビを見る。テレビは当然のように今回の北日本との紛争に関連したニュースばかりだ。
「やってはいけないことを政府はしてしまった。戦争以外にも解決する方法はあったはずです。平和的解決より同民族の殺戮を選んだ葛島内閣はこの事態を一刻も早く収束すべきです」
連立与党の平和党代表が、国会議事堂で記者たちのインタビューに答えている映像が映し出されていた。
「直ちに我が国は率先して戦闘を停止し、北日本に対する補償額を提示した上で謝罪する用意を整えるべきだと私は思います」
葛島は嘲るような笑みを漏らした。これが連立与党の政党なのだ。このような国難だからこそ連立与党が結束しなければならない。しかし平時よりガタついていた連立政権は最早瓦解寸前だ。
この期に及んでこのようなことを言えるのが逆に尊敬する。だからこそあの議席の数なのだろうが。
その議席の数を足したいばかりに誘ったのはどこの党か。
そしてこの政権もいよいよ終わりだ。議席が足りず、支持率も落ちる。何にせよ、この有事が片を付いた頃には全てを終わらせるつもりだが―――
「……………」
如何に平時の政治が無茶苦茶だったのか思い知らされる。所詮、この国はまともな政治をしていなかった。ただ太平洋と日本海、東シナ海の狭間で70年浮いていただけだ。
「私達が愚かだったばかりに、全国民が代償を支払われている。私は総理どころか政治家失格だな」
今この瞬間も、あの海峡の向こう側で多くの命が失われている。南北両国の国民が死んでいく。
「そんなことはありませんよ」
思いに耽っていた葛島の手を、そっと包む小さな手があった。視線を傾けると、昔から変わらない妻の表情があった。
「あなたがとても頑張っていることを、私は知っています」
妻はそれだけを言って、手を包んだ。暖かった。昔と比べても、繊細さは全く変わっていない。
普段からあまり言葉を交わさない。今回もそうだ。
だが、それだけの言葉で葛島は救われるのだ。
「総理、お疲れ様です。よく休まれましたか?」
「ああ。おかげ様で」
「それは良かったです」
葛島が出る頃、葛島邸の前には既に迎えの車が待っていた。「行ってくる」と言葉を残す葛島に対し、「行ってらっしゃい」と見送る妻とのやり取りはやはりいつも通り。車に乗り込んだ葛島は妻に見送られる中、自宅をあとにした。
官邸地下に設けられた危機管理室には既にほとんどの内閣閣僚が集まっていた。しかし平和党所属の閣僚はやはりいなかった。
戦況の報告が行われた後、出席しているメンバーのみの閣僚会議で今後の方針を協議すると、休憩時間に入るやすぐに葛島は一人の閣僚に呼ばれ話を持ちかけられた。
中内統一省政務次官。
南北統一と対話、交流や人道支援等の北日本に対する政策や国内への南北統一に関する事務を管掌する統一省。彼はその統一省の政務次官にポストを置いた唯一の平和党議員である。
「お時間を取らせてしまい申し訳ありません、総理」
「別に構わない。 君と二人で話すのも随分と久しぶりだし、閣僚の意見は一人一人真摯に受け止めるつもりだ」
「そんなご崇高な総理に、ぜひとも私から総理にお話があるのです」
「聞こうか」
中内の決意染みた表情を察して、葛島も腹に力を込めた。
葛島の目の前にいる彼は、瓦解寸前の友党に属するだけでなく、南北問題の専門足る統一省の人間。そして、自身内閣の一閣僚である。
「(彼を制することは、今後の紛争に対する内閣のやり様に関わる……)」
一室に二人だけになると、中内は外部を警戒するようにドアを閉じた。葛島はそんな彼の様子に何も言わなかった。
「話の前に、我が平和党の福沢代表が総理のご回復を心よりお喜びになっておりました。 この国難の最中、総理が倒れてとあってはとても不安ですから」
「ありがとう。 こんな情けない総理大臣であるばっかりに、皆に心配をかけたと思う」
葛島が倒れたという報は政府筋を通じて世間にも伝わった。有事の最中に倒れるという失態を演じてしまったことを葛島は恥じていた。国民を守ると言いながら自分自身が倒れては元も子もない。
「さて、話とは?」
葛島が促すと、中内は真剣な表情になった。その口元がゆっくりと開く。
「総理、我が軍は米軍と一緒になって北日本に対して武力を以て侵攻しています。 この有事における現在の戦況をご存じですか?」
北日本の首都札幌は開戦劈頭の時点で陥落し、北日本の臨時政府は旭川へ後退し、北海道の半分近くが日米軍の手に落ちている。
「そう、我が軍の優勢です。 しかしこれでは余りに一方的過ぎだと思いませんか」
「一方的か。 確かに」
元々北日本にとって、近代兵器を多数保有する南日本軍と世界最強の軍事力を誇る米軍を相手にするのは分が悪すぎるのだ。このような結果は予想通りと言える。
「それで、何が言いたい?」
葛島の言葉に、中内は意を決したように息を吸い込む。
「もう止めましょう、こんな馬鹿げた戦争。 これ以上の争いは無益です」
中内が言葉を振り絞っても、葛島は表情を変えない。ひやりとした空気が二人の間に流れていった。
「……それは、平和党の総意かね? それとも福沢さんの伝言か、君個人の意見か」
「我が国は、平和を願う民主主義国家であります」
中内が葛島に付き返すように強く言い放つ。
「我が党は日本における平和的民主主義の理念として『平和・自由・平等・共生』という平和党主義宣言を掲げております。忌わしき大戦以来、平和国家としての道を模索し始めた我が国の理想とも一致している誇り高きものです。日本人なら誰しもが願うかけがえのないものだと信じています」
平和。戦争の根源とする軍隊を縮小し、世界との平和共存を実現させる。
自由。文化や経済、教育、あらゆる方面における個人の自由。その保障。
平等。両性平等社会の実現、労働環境の改善、経済格差の根絶。
共生。自然保護、人種等不問の共存社会。
これが人間の理想足る平和党主義宣言である―――中内は言葉を紡いだ。
「私如き若輩者が国家の総意に異議を唱える行為をお許しください。 しかし私は平和党員であり、平和を願う人間なのです」
「…………」
固く結ばれていた葛島の口が、開く。
「……君は、この戦争に反対か?」
「私にはその質問の意味がわかりません。 まさか総理はこのような殺し合いに賛成と仰るのですか?」
「そんなわけあるか」
葛島の返答に、中内は虚をつかれたような表情を浮かべる。
「馬鹿げた戦争。 ああ、全く以て君の言う通りだ」
「で、では……ッ」
「だがな、こうでもしないと国は成り立たない時もあるんだよ。平和?自由?平等?共生?そんなもの、簡単にできたら苦労しない。綺麗ごとばかりでは国は成り立たんのだ。君の言った平和党主義宣言、素晴らしい理念だと思うよ。しかしそれだけではどんなに小さいものすら守れないのだ」
呆然と黙り込む中内から視線を外し、葛島は席を立つ。だが彼が向かった先は部屋の外に通じる扉ではなく、東京の街並みが見渡せる陽光射す窓際だった。
「だが、我々は理想を求め抗う。簡単にはできない。だからこそ抗うのだ。困難な道を乗り越え、理想に辿り着く」
葛島は振り返り、中内に言う。
「君は統一省の人間でもあったな。我が国は内戦後、君たち統一省の政策を基に南北統一という理想の将来を模索し続けた。その理想が武力による統一という最悪の過程で実現しつつあることに、君は特に悔しい思いだろう。これでは北と変わらない。しかし理想を求めることに変わりない」
「理想を求めることに困難な道が付き物なのは我らも重々承知です。 だからと言って戦争が許容されるわけでは」
「戦争はあくまで手段で、過程に過ぎない。そう割り切れ。その先には平和が、理想がある」
「……そのような平和を、我が党は望んでいません」
「戦わねば、平和は取れないぞ? 座して得る平和こそ偽りであり、長くはもたない」
葛島もかつて苦悩し、戦争宣言書にサインした。あれ程重いペンは今までになかった。戦争を望んでいる者など一人もいない。誰も戦争が好きなはずがない。
しかし怖れ、目を背けることは極限の愚行である。勘違いをしてはいけない。戦わないことが全て正しいということは決してないのだから。
「私は半端な覚悟で開戦の狼煙にサインを書いたわけではない。 勿論、陛下ご自身もだ」
元首足る帝国の主君の名に、中内は一瞬身を硬直させる。彼もまた指の端までこの国の人間だった。
「相応の覚悟がお有りだと?」
「疑うのなら君自身の目で見定めると良い。全てが終わった後、私はこの壇上から降りるつもりだ」
葛島の言葉の意味がわからない中内ではなかった。葛島の強い意志の籠った瞳に、中内は理解の意志を宿す。
「わかりました。あなたが降りるまで、私はずっと見届けます」
「いつまでも馬鹿げたことをするつもりはない。当然、全てを終わらせる」
「一日も早い収束を願っています。私は……くどいようですが、平和党の人間です。平和を愛し、理想を求める人間の一人です。そして、葛島内閣の閣僚です。以後も、内閣の方針に従順します」
「ありがとう。感謝する」
葛島は中内と笑みを以て固い握手を交わした。