02 塩辛い過去
狭い空間に、何も見えないほどの暗闇。
そこに反響する悲鳴。
自分がどこの世界にいるのかわからなくなってしまうような切迫した状況が、自分を揉みくちゃに塗り固めようとしていた。
悲鳴と交差するように、響き渡る甲高い銃声と、外板を叩くようなエンジン音。
十名分の悲鳴と恐怖を満載にした小さな漁船は、荒れ狂う嵐に翻弄されたかのような状況に陥っていた。
恐怖に身を固められる俺の手を、馴染み深い暖かな感触がぎゅっと包み込む。それが闇に引きずり込まれようとしている俺を唯一繋ぎ止めている存在だった。
恐怖のあまりに周囲と相反して声が出ない弟を安心させるかのように、夏苗姉さんの優しげな声がかけられる。
「大丈夫、大丈夫だよ。 お姉ちゃんがついてるから」
そう言ってくれる夏苗姉さんの声も、若干震えているように聞こえた。周りの大人たちが子供のように泣き叫んでいる中で、本当の子供である俺や夏苗姉さんの方が声をあげていないというのは、何だか不思議な光景である。
「かな……、ねえ……ちゃ……」
渇き切った声は、まともに言葉を紡がせなかった。心の中では夏苗姉さんを叫ぶように呼んでいるのに、口は全然声を出してくれなかった。
周囲を激しく渦巻いていた波が、突然、流れを変え、俺たち姉弟を巻き込むように濁流として襲いかかってくる。その濁流から義父と義母が庇うように守ろうとするが、その濁流は義父と義母さえ巻き込み、俺たちは家族もろとも外へ流された。
今まで暗闇に染まっていた視界が、久しい光の侵入に覆われる。同時に新鮮な空気が肺におくられ、それをじっくりと味わう暇もなく体を甲板に投げ出され、鈍痛が体全体を襲った。
「大丈夫、コウ!? きゃあッ!」
夏苗姉さんが後から流れてきた濁流―――船腹から飛び出す大人たちに押され、俺のように甲板へ叩きつけられる。俺と夏苗姉さんを突き飛ばして外へ飛び出した大人たちは、何かを喚きながら小さな漁船の上で右往左往していた。
「伏せろッ! 伏せろッ!」
悲鳴の合間に聞こえた義父の声。直後、甲板の上にいた数人の大人たちが、血しぶきをあげて次々と倒れていった。
響き渡る機関銃の銃声。撃たれた大人たちが、甲板に倒れ、ある者が海へ落ちる。
「ひっ!?」
倒れていた俺の目の前に、ごろんと転がる死体に小さな悲鳴を漏らす。恐ろしい程に目をカッと見開いたまま、ぴくりとも動かない死体から、俺は目が離せなかった。
「コウ……!」
同じく倒れていた夏苗姉さんが、俺の視界を塞ぐように手で俺の両目を覆う。そして俺はそのまま体を引き寄せられた。
「起きちゃダメ。 起きたら、撃たれる……!」
尚も聞こえる銃声。甲板に密着させたお腹から、暴れるようなエンジン音と船の激しい揺れが伝わる。
「お前たち、これを着なさいッ!」
義父の声。そして同時に光を取り戻す視界。その視界には、姿勢を低くし、服に他人の血痕を浮かばせた義父が二つの救命具を両手に抱えた姿があった。
少し大き目の救命具をただ着せられるままになる俺。その隣で、義父から救命具を受け取ったまま着る様子を見せない夏苗姉さんが叫ぶ。
「お母さんはッ!?」
「……………」
夏苗姉さんの言葉に、俺に救命具を着せる義父は苦虫を噛み潰したような表情のまま何も答えなかった。義父の無言の返答に、夏苗姉さんは絶望の色を表情に染めた。
「そんな……」
「お前も早く着なさい。 間に合わなくなるぞ!」
人形のように動かない俺に救命具を着せた義父は、今度は夏苗姉さんに救命具を着るように促す。しかし夏苗姉さんは泣きそうな顔でふるふると首を横に振った。
「お、おとうさんは……」
「お父さんは後から行く! お前たちは早くここから逃げろッ!」
「逃げろって言われても……どこに逃げれば良いのッ?!」
夏苗姉さんの言う通り、ここには逃げる場所なんてどこにもない。何故なら、周りは全て、海なのだから。
義父はいやいやと泣いて拒む夏苗姉さんに、無理矢理救命具を着させた。そして救命具を着た俺たち姉弟を、義父が両腕に抱きかかえた。
船はいつの間にか停まっていた。視界の端に、黒煙が映った。
「エンジンをやられたか……」
俺と夏苗姉さんを抱えた義父の声が聞こえた。
再び響き渡る銃声。視線を向けると、白波を立てて近付いてくる警備艇が見えた。その船上には、機関銃を構えた兵士たちの姿があった。
「嫌だ、嫌だよッ! お父さんやお母さんも一緒じゃなきゃ、嫌だッ!」
泣き叫ぶ夏苗姉さんを、俺は初めて見た。
そんな夏苗姉さんを、義父が宥めるように優しげに声をかけた。
「お父さんもお母さんも、お前たちのそばにずっといるさ。 だから、早く行きなさい」
「だったら……一緒にいこぉ……?」
「約束する。 おとうさんは、お前たちとずっと一緒にいてあげる」
ぐずる夏苗姉さんを、義父が優しげな表情を浮かべたまま、そっと夏苗姉さんの頭を撫でていた。
「浩。 お前が、お姉ちゃんを守るんだよ」
俺はその時、驚いたということさえ気付けなかったと思う。
ただ、義父の優しげな表情だけが覚えていた。
いつも俺が、夏苗姉さんたちに守られてきた。いつかは俺が、守る側になろうと心に決めていた。
でも、俺はここで初めて義父に言われた。
だけど―――俺は、その約束を守れない。
「何があっても、生き延びてくれ」
その言葉を最後に、義父は俺と夏苗姉さんを突き飛ばした。海へ放り出される中、俺は見てしまった。聞こえてきた銃声と共に、血しぶきをあげながら撃たれる義父の姿を―――
辛うじて救命具によって浮かぶ俺は、時々押し寄せる海水を飲まないように必死に波間を漂っていた。海中にある体はまるで宇宙に放り出されたような感覚だった。
視界の端には、さっきまで俺と夏苗姉さんが乗っていた小さな漁船が燃えている。そこに乗っていた他の大人たちの末路を、船から投げ出される前に俺はこの目で見ていた。
「コウ、そこにいて……! 今、お姉ちゃん行くから……」
離れた海面から、同じく救命具を着た夏苗姉さんが、波が高い海面の中を必死に掻き分けるように泳いでくる。しかし波は容赦なく、俺たち姉弟を引き離そうとしていた。
「お姉ちゃん絶対にコウの所へ行くから……そこで待ってて……!」
夏苗姉さんは必死に俺に向かって声をかけてくれる。しかし、夏苗姉さんの姿は一向に俺のもとへ近付いてこなかった。
逆に、夏苗姉さんがどんどん俺から流されるように離れていく。
「夏苗……姉ちゃ……」
俺は引き離れていく夏苗姉さんに向かって、手を伸ばす。
遂に夏苗姉さんの声が聞こえづらくなっていく。そして視界の端に見える、燃える漁船。俺は最後に見た義父の撃たれる姿と言葉を思い出す。
約束した。俺が、夏苗姉さんを守ると―――
しかし、伸ばした手さえ夏苗姉さんに届かない。
夏苗姉さんの姿が、少しずつ波間の奥へ消えていく。
「夏苗姉ちゃん! 夏苗姉ちゃん……!」
俺は必死に叫ぶように、夏苗姉さんを呼ぶ。
しかし海中に放り出された体は、いくらもがいても何も触れることはなかった。
まるで、夢の中にいるかのようだ。
現実ではないみたいな感覚。
そう、これは夢だ。
夢の中であるはずなのに―――
舌にまとわりつく海水の塩辛い味、体に纏わりつく不気味な感覚だけが、鮮明に感じられた―――
「―――ッ!」
八雲浩は、汗でシーツに粘りつく嫌な感触と共に目を覚ました。
上半身を起き上がらせた浩の体は、汗で張り付いたシャツから、鍛えられた強靭な肉体を誇張していた。軍人として鍛え抜かれた身体は、昔の自分との離別を毅然として告げている。
まだ海水の塩辛い味が舌に纏わりついている口を潤すため、浩は洗面台へと直行した。蛇口から流れ出る水をコップに満たし、その中身を口元に洗浄するように流し込んだ。
「また、あの夢か……」
今まで数えきれないほどに見てきた夢。あの時の記憶が、悪夢として蘇ってくることは今までも何度もあった。
少し濡れた唇を拳で拭いながら、浩は机の上に佇んだ写真立てに視線を向けた。
そこには、かつての家族―――子供時代の自分と姉、両親との初めての家族写真が収められていた。
そこに映っている自分は、ひどく無愛想。あの人たちに招かれたばかりで、まだ心を開いていない時期だった。
そして自分の隣に写る姉が、ひどく優しい微笑みを浮かべている。
「……夏苗姉さん」
あの海で、離れ離れになった姉。姉に守られてばかりだった自分が、やっと姉を守ろうとした。だが、それを叶うことができなかった。
あの真っ暗で狭い船腹に、姉や両親と一緒に身を潜め、自由を夢見ていた。自分たち家族を含め、同じ夢を抱いていた他の大人たち。そしてそんな夢を打ち砕くように現れた、国境警備隊の警備艇。次々と撃ち殺される大人たち、燃える船、海の波間に揉みくちゃにされる自分、全てが今でもはっきりと思い出せる。
義父の提案で、脱北を決意したあの夏。この国にはない自由と安住の地を求め、党を裏切った自分たちに待っていた結末は、ひどく陰惨なものだった。
あの船の上で義父と義母は死に、海の上で離れ離れになった夏苗姉さんの行方もわからず。
海面に浮かんでいた自分を、国境警備隊の兵士たちが救出し、一人だけ生き残ってしまった。
しかしその後に待っていたのは、苦痛に満ちた尋問だった。脱北の罪を問われ、自分の知っている情報を全て吐き出すまで許されなかった尋問の日々。死ぬより辛い精神的苦痛。自我を失う程の肉体的苦痛。人間の知る『痛み』を総じて味わされたような地獄の一週間。
あの時はまだ子供で、脱北の主犯だった義父が死んでいたことで、強制収容所行きは免れた。
全てを失った浩は、そのまま使い捨てのように軍へ入れられた。
お前のような裏切り者なんていつでも切り捨てられる、と言わんばかりの酷な訓練と任務の数々を乗り越えている内に、浩は年に似合わないキャリアを昇りつめていた。
しかし、いくらキャリアを得ても、自分がいつでも切り捨てられても構わない任務を与えられていることは変わらない。
それは、今回も同じだった。
「この国に生きて帰っても、どうせ何も変わらない……」
机の上に置かれた写真立てのそばには、一通の辞令があった。
ベッドから立ち上がった浩は、その辞令の紙面に視線を落とした。そこにひどく簡潔に書いてある内容は、今までと特に変わらない、正に簡潔明瞭で、ひどく酷なものだった―――
■解説
●脱北
北日本からの亡命、脱出行為を指す。北日本の政治体制、生活環境に耐えられず南日本へ脱出する人々を『脱北者』と呼ばれる。北日本政府はこれを厳しく取り締まっている。
●国境警備隊
41度線付近の警備を管轄する人民国防軍の部隊。主に脱北者の取締を執り行う。
海の上、救命具で浮く恐怖。波が高いと塩辛い味を経験する。