33 理想と信念
地下鉄路線から通じる秘密通路から、浩が率いる第803部隊の中隊は司令部内への潜入に成功した。
大通を中心に連なる地下鉄南北線は南日本の地下鉄に比べて大きめの規格で作られており、これは軍事機密だが、有事の際は真駒内基地営門前の駅から戦車等の戦闘、大型車両がそのまま線路に乗り入れられるようになっている。
それを含め、首都における一部路線として構成された南北線は軍事上の重要な役割も担っていた。
更に路線の一部分は札幌司令部の地下にも繋がっている。これもまた有事の場合を想定されたものの一つだった。
「クリア」
札幌司令部の地下に到達する。浩たちが出た所は牢屋のような場所だった。
牢屋と言っても獄中には人一人いない。鍵が開けられた牢屋を横目に流した浩は、息を殺すように、慎重な物腰で後続に合図しつつ、カラシニコフを手に司令部内の侵入を続けた。
司令部の秘密通路の存在を籠城している秘密警察の面々が知らなかったことが幸いだった。
軍は以前からそういった軍事機密を出来るだけ政治将校にさえ知られないようにしていた。それだけ軍と政治総省の仲は芳しいというわけではなかった。
「俺たちの一手が合図となる。 A班、B班は門の番犬共の相手を。 そして―――」
雪が降り続いていた。門のそばで待ち構える秘密警察側の兵士たちは、車体に積もった雪を払った。
真っ白な雪原の上で、4輌のBMP-1歩兵戦闘車が鎮座していた。札幌司令部に駐留していたBMP-1であった。
砲塔の73mm低圧砲とは他に、対戦車ミサイルも門前に向けられている。
外を包囲している敵が攻め込んでくるのであれば、決死の覚悟で迎撃する覚悟があった。
防寒服に身を包ませた兵士たちは、白い息を燻りながら、不気味に静かな門を見詰めていた。
「やけに静かだな……」
「ヘリを一機撃ち落とされてやっと俺たちの恐ろしさがわかったんでしょう」
自分たちを舐めてかかった叛乱軍のヘリを撃墜することは造作もなかった。敵は対戦車ライフルを使いこなせない程度と思ったのか。伊達に軍とは別に、祖国に忠誠を捧げていた組織ではない。
しかしやはり敵は戦闘のプロである。彼らは確かに善戦と言って良い程の健闘を見せ付けるが、それも永遠とはいかなかった。
彼ら兵士の後方で爆発が起こった。振り返ってみると、砲塔がひっくり返る程に破壊され炎上する1輌のBMP-1の姿があった。
「4号車がやられた!」
3号車の兵からの悲鳴が無線から伝わる。それとほぼ同時に、正門が小規模の爆発と共に破られた。
けたましく響き渡る轟音。破られた門から叛乱軍の戦車や歩兵が猛然と侵入してくる。
「敵襲! 敵襲!」
兵士は叫びながら発砲を始める。その後ろで他の兵士が無線を手に取り、司令部の施設内にいる将校たちへ通告する。
「最初の一撃は後方からだった……奴ら、どうやって侵入したんだ!?」
正門とは反対側にある、宿舎側の門から既に敵が突入してきたのなら、その前に報告が届くはずだ。それどころか、その門からも正門とほぼ同時に敵が突撃を始めたらしい。
「反逆者共を中に入れるな! 撃て!」
BMP-1の砲が火を噴き、歩兵に猛烈な弾幕を浴びせる。更に対戦車ミサイルが発射され、一番乗りを果たしたT72戦車を撃破した。
しかし雪崩れ込む敵の猛撃に、彼らの奮闘も空しく終わりを迎えつつあった。残りのBMP-1が次々と鉄屑となって雪原に沈み、その周囲を兵士の血による赤い絨毯が広がっていった。
番犬役からの通信はそれっきり途絶えた。遠くから聞こえる砲声が、戦況の優劣を教えていた。
「駄目です、門は既に突破……叛乱軍が司令部に雪崩れ込んできます!」
無線を手に取っていた若い将校の言葉に、その場の空気が氷点下の湿原の如く凍りついた。
「……同志中尉。 少し顔を貸してくれ」
籠城の指揮官となっている司令部付政治将校は微かに強張らせた表情で、沙希を呼んで他の将校や兵士たちがいる部屋を出て、別室へと移動した。
後に入室した沙希が背後の扉を閉めた時、カーテンが閉じられた薄暗い部屋の中心で、司令部付政治将校は何も言わず、思案した表情を浮かべていた。
沙希も頭の中にある記録を巡らせる。
司令部に駐屯されていた車両まで利用し、それはほとんどが破壊されたが、個人に必要な武装や弾薬は十分に充足されている。
しかしこのままでは殲滅されるのがオチだ。真っ向からのぶつかり合いで、秘密警察が軍に勝てることは極めて難しい。
「(―――だからと言って私は決して諦めたりなんかしない。 今までもそうやって努力を積み重ねてきたのだから……!)」
津波のように押し寄せる敵軍の進撃に、沙希は焦燥を感じる。北日本の国民なら誰しもが忠誠を捧げてきたはずの祖国や党を裏切る輩がこんなにも大勢いたことに、沙希は怒りを抑えるのに精一杯だった。
「(一体誰のおかげでこの国が繁栄し、南や米帝に取り込まれることなく、国民が平穏に暮らせてきたと思っている。 貴様らが裏切った体制が、国民を育み守ってきたのだぞ……ッッ)」
何故この国が東側で最も繁栄した国となり、ソ連や東ドイツが朽ち果てていく中で生き延びることができたのか。それは日本共産党の利巧たる指導による賜物の他はなく、半世紀の存続が叶ったのは一重に社会主義の体制を目指した北日本国民の誇りのおかげだ。
政治将校となり、“党首の子供”足る北日本人としての自覚を持ってこの道に進んだのは、こんな結末が欲しかったからではない。
私の人生は―――私の未来は、ここで潰えるわけにはいかない……
「……潮時か」
沙希の耳に、司令部付政治将校の冷静な声色が触れる。沙希は信じられないと言った表情で視線を向けた。
「まさか、同志少佐……降伏、なさるおつもりですか……」
降伏、からの言葉が沙希自身もわかる程、掠れていた。
司令部付政治将校の無言の返答が、沙希に後悔と怒りの念を交わらせた。
「何を馬鹿な……! 祖国と党を裏切った反逆者共に、白旗を上げると仰るのですか……!」
震える声が止まらず、漏れ出る。目の前にいるのが司令部付の政治将校だろうが、知ったことではない。
「状況は明らかに我々の不利だ。 脱出ルートが見つからなかった時点で、我々の敗けだったのだよ同志中尉……」
司令部付政治将校の表情と声は明らかに全てを諦めた色だった。しかし沙希は更に全く逆の炎を燃え上がらせる。
「裏切り者への天誅を下すことこそ、我々の祖国と党への衰えない忠誠の証ではないですか! 卑劣なあの者共に祖国を明け渡しても良いと言うのですかッ!」
冗談じゃない―――党が築き上げた共和国を、恥も知らない無法者共に渡すなどあってはならないことだ。
「……冷静になれ、同志中尉。 政治将校なら如何なる時も過度な感情を表に出すべきではない」
「……ッ! どの口がほざく! 貴様こそ赤軍司令部の政治将校でありながら、祖国と党への忠誠をあっさりと捨てるなどと―――少佐も奴らと同じように恥を捨てるのかッ!」
「俺の決断で部下の命が救えるのであれば、喜んで恥を捨てよう」
「―――ッッ!!」
咄嗟に荒げてしまった声が突然のように詰まってしまう。しかし怒りは収まり切れない。
「ふざけるなッ! ここに来て部下の命が大事など、偽善にも程がある! 大体、貴様が……司令部付の政治将校が、私たち部隊の政治将校に対して今までどんなことを―――」
「……同志中尉、貴官に問いたい」
「この期に及んで、何を―――」
「同志中尉は、そこにいる叛乱軍部隊が現体制を打倒し我々政治総省に敵対しているか、その理由がわかるか?」
「……ッ!?」
灯りを灯さない電球を見上げながら、司令部付政治将校は口を開いた。
「彼らもかつては共和国と党に我々と同じように忠誠を誓っていたはずだ。 なのに何故、このようなクーデター等という大規模な反逆罪を犯すようになった……? それはな、同志中尉。 今の体制が彼らを抑えきれなくなったからだ。 我々政治総省はそういった分子を排除するのが仕事だったが、こういう状況が生まれたということは、我々の手にも負えない程に、この国は末期的なものになってしまったということさ……」
そう言うと、司令部付政治将校はより一際老けたような顔で苦い笑みを浮かべる。21世紀前後、経済が落ち込み、デモや暴動を防ぐために厳しい制限を掛けてきた政治総省も、高まる国民の不満を抑えることはできても縮小させることはできなかった。国民生活はあくまで党や政府が対策を講じなければ何も改善されず、その辺りは政治総省の管轄ではなかったのだから。
軍も主に燃料不足で政府に対する不満やストレスは確かに日に日に高まっていた。軍を監視する政治将校をいくら派遣しても、国民と同じようにその不満を縮小させることは出来る筈がなかった。
沙希も薄々感じていた。しかし同時に、密かに信じていた。私が視ている彼だけは、私を裏切らないと―――
「今は誰もが生き残るために自分の理想と信念を信じて戦い続けている。 最早、党などは関係ない」
「……それが、貴方の結論か。 少佐」
「……そうだ。 同志中尉も頭を冷やして、もう一度よく考えてみるといい。 どうやって生き残り、この国を救う道に繋がるのか―――」
その瞬間、銃声が木霊し―――額から鮮血を迸らせた司令部付政治将校が倒れ込んだ。
「―――これが私の結論だ、少佐」
マカロフを握り締めた沙希は、強張らせた表情のまま固まった遺体を見捨て、部屋を出た。
通路を歩く足取りが、自然と強くなっていく。
「私は絶対に諦めないぞ。 必ず生き残ってみせる」
バンッ、と音を立てて扉を開く。その時、秘密警察の将校や兵士たちが一斉に沙希の方に視線を向けた。やがて、その視線が火薬の匂いを漂わせるマカロフに向けられる。
「同志少佐は自決なされた。 我々は同志少佐の遺言の命により、これより生き残るための戦いを開始する」
その場にいる将校や兵士たちの目は正気とは程遠いものばかりだった。誰もが恐怖と絶望に打ちひしがれている。見渡す限り、自分に付いていける人間はほとんど居なさそうだった。
「各自、独自の判断で敵と交戦し、勝利を手にせよ。 私に付いていきたい者は来い!」