19 津軽海峡波高シ
北日本軍の一発目のミサイルが着弾する2時間前、南北の間に挟まれた海峡では既に怪しいうねりがあった。
2014年11月23日午後16時32分
津軽海峡 北方軍事境界線(41度線)付近―――
軍事境界線付近の海域を警備中だった海上保安隊の巡視船『栗駒』が軍事境界線付近にて領海内に侵犯する漁船らしき不審船を発見。海上保安隊は各漁協に問い合わせたが、報告にあった不審船の船名を持つ船は存在しないことが判明し、直ちに巡視船『栗駒』、後から合流した『出羽』『津軽』の三隻による不審船に対する追尾が行われた。不審船は軍事境界線を越え、領海内を日本海側に向けて南下していた。
その日は午前から昼にかけて帝国海軍による実弾訓練が行われたばかりの経緯から、海上保安隊、帝国海軍は不審船の正体は北日本船であると推測。更に軍事衛星からの情報により、函館港に駆逐艦四隻、フリゲート艦二隻の六隻の艦隊が集結したことを受け、帝国海軍の演習に対する北日本からの何らかの示威行動ではないかと考えられた。
分断した二つの日本の最前線である北方軍事境界線は、日増しに緊迫化する南北関係の表れだった。最近は態度を硬化させる北日本の船舶等による領海侵犯が絶えなかったために、今回の領海侵犯もその内の一つだろうと思わせた。
『……――― ……―――』
不審船を追尾中、巡視船『栗駒』は不審船からの通信電波を傍受した。その内容は終始、追尾する自分たちのことを含めた、現在の軍事境界線付近における南日本側の状況だった。
「奴ら、自分たちの逃亡劇を実況してやがる」
受信機から流れているのは、目の前にケツを見せている不審船から傍受した電波だった。彼らは暗号化することもなく、堂々と南北共通の日本語で、自分たちの置かれている状況等を馬鹿丁寧に報告している。
「どうやら41度線での我々の状況を詳細に報告しているようですね」
「なに考えてるんだか……」
彼らの意図が、隊員たちには理解できなかった。
17時45分、暫く追尾を続け退去を呼び掛ける内に、不審船はあっさりと北日本側へ引き返していった。これにより、現場の者たちはいつも通りだったと一息付いた。しかしそんな彼らを、予想外の展開が現実へと引き戻した。
母港に帰ろうかと転進した直後だった。司令管区から緊急連絡。函館港に集結していた六隻の艦隊が出港し、軍事境界線に向かっていると言う報告が『栗駒』『出羽』『津軽』の三隻に届けられた。更に軍事境界線から最も距離が近い三隻は、現場に急行する旨の命令が伝達された。
北日本のミサイル攻撃より15分前の出来事だった。
17時52分、巡視船『栗駒』『出羽』『津軽』が北方軍事境界線に到達。既に北日本側の領海には人民海軍の六隻の姿があった。
帝国海軍の艦が到着するまでの間の見張りを任された三隻は、六隻の艦艇に対する警戒を余儀なくされた。
しかし圧倒的な戦力比を前に隊員たちは戦慄した。もし何かあれば只では済まない。そもそも一介の沿岸警備隊に過ぎない自分たちが正真正銘の軍隊を前にする等、到底敵うはずがないのだから。
帝国海軍が到着するまでの辛抱と言っても、彼らは今日実弾訓練を終えて港に着いたばかりなのだ。追われるように出港準備に取り掛かっているだろうが、いつ自分たちがこの理不尽な状況から解放されるかわからない。彼らが駆け付けるまで、自分たちが無事でいられる保障などどこにもなかった。
そして―――時計の針が18時を指した時だった。
軍事境界線のラインを目の前に集まったのは、人民海軍太平洋艦隊に所属する三笠級駆逐艦二隻、夕張級駆逐艦二隻、幌別級フリゲート艦二隻の六隻だった。
三笠級駆逐艦一番艦『三笠』に座乗した名倉艦長は、艦橋から双眼鏡を覗き、前方に見える三隻の巡視船の白い船体を眺めた。そして双眼鏡を下げると、憐れみを浮かべるような視線を向けた。
「あまりの貧弱な光景に涙が出そうだ。 向こうは我々を前にして、正にその通りの心境だろう」
名倉は軍事境界線と言う最前線に、軍隊には遠く及ばない程度の力しか持たないものを警備に当たらせる理解し難い南日本の軍事事情に、この時ばかりは同情していた。
先行した工作船からの偵察報告は、全てその通りだった。
―――敵方ノ戦力、巡視船三隻ノミ。 海軍艦艇ノ姿ハ認メラレズ
名倉は目の前に頼りない三隻の巡視船を眺め、思い耽った。
敵は米国との戦争を戦い抜いた程の実力を持つ軍隊を持っているにも関わらず、その真価を充分に発揮できないでいる。
いくら軍隊が強くても、上の人間が良き理解者であり優秀な知能を持っていなければ意味がない。前大戦の過ちを学べなかったのが敵の運の尽きだ。辛うじて米国との講和を成しても、その後に同じ過ちを繰り返すのであれば、そのような偽りの平穏など長くは続かない。
「……同志艦長、時間です」
副長が告げる。時刻は17時55分。名倉は頷くと、マイクを取って艦内放送に繋げた。息を吸い込み、ゆっくりと吐きだすように言葉を紡ぐ。
「艦内にいる同志諸君、これより我らの祖国は南の傀儡に対して正義の鉄槌を下す。 人民が待ち望んでいた日が、とうとうやって来たのである」
名倉艦長の毅然とした声色が、艦内中に広まっていく。乗員たちはただ静かに聞き入っていた。
「だが、今から行われることすら陽動に過ぎん。 しかし我々の行いは、必ずや祖国の願望の貢献に繋がるであろう」
艦内の士気が高揚するのを、名倉は肌身で感じていた。
「―――私は同志諸君の勝利を信じている! 偉大なる党のために! 共和国万歳!!」
名倉艦長の一声が艦内の火を付けた。艦内中の至る所で乗員たちの万歳三唱が響き渡る。名倉はマイクを戻すと、人民海軍の帽子の鍔を掴んだ。
18時3分、南北日本の軍事境界線に指定されている津軽海峡の北緯41度、東経140度の海域で人民海軍艦隊による海上保安隊の巡視船三隻に対して攻撃が行われた。戦闘開始から僅か十分で巡視船『栗駒』『出羽』が大破、『津軽』が大破後に沈没した。一方的な戦闘だった。北日本からのミサイルが降り注ぐ真っただ中に起きた短い海戦だった。
一方、出港直後にミサイル攻撃に見舞われた港を背に向け、帝国海軍の駆逐艦が軍事境界線に舵を切った。
艦艇は全速力で軍事境界線に向かっていた。自分たちの代わりに海上保安隊の巡視船が敵艦の攻撃を受けたことは既に報告されていた。
イージス巡洋艦『金剛』は北日本の艦隊が出港したと聞いて、すぐに出港準備に取り掛かった。
幸い、停泊時とは異なり実弾訓練から帰ってきたばかりだったので全乗員が在艦していた。しかし出港までに想像以上の時間がかかってしまった。用を終えたばかりのタグボートを再び呼び戻し、何とか出港できた時には、港内を含む地上では警報が鳴り響いていた。
さっきまで岸壁に着いていた港が燃えている光景は衝撃的だった。
出港後司令部に連絡を取ったが、繋がらなかった。
敵の攻撃によって向こうも混乱しているか、あるいは―――
「到着予定時刻は1830時。 艦長の命令通り、第一種戦闘配置を完了致しました」
「一分一秒でも早く現場に着くんだ。 彼らの努力を無駄にしてはいけない……」
『金剛』艦長、鳴嶋は心の中で悔しさを吐き捨てた。
オレンジ色に照らされた薄暗い密閉された空間に、十数台ものカラフルなディスプレイの画面が敷き詰められている。CICと言う、水上目標、水中目標を捉え、対空防御システムを統括し、艦の持つ全ての武器の使用をコントロールするためのイージス艦の心臓部に、鳴嶋はいた。
燃える港を目の前にした時、鳴嶋は自身の無力さを思い知らされた。もうあんな思いはしたくない。鳴嶋は津軽海峡を描いた海図から顔を上げた。
「司令部との通信は取れたか?」
「依然、状況は変わりありません……」
まさか地方司令部までが敵のミサイル攻撃を受けたとは、鳴嶋たちも想像していなかった。いや、可能性とは考えていたが、ただ拒絶反応が浮かんで仕方ないのだ。
唯一連絡が取れたのは、むつ湾内に繋留した戦艦『尾張』と、後ろを追う駆逐艦『村雨』と『雷』だった。他の艦は―――まだ、あの燃える港内にいるのだろう。
「―――本艦に近付く飛行物体、捕捉!」
電測士官の声が冷たく響き渡る。鳴嶋が視線を向けた先には、ディスプレイの画面に幾つもの輝点が示されていた。
それらが真っ直ぐに本艦―――『村雨』『雷』を含めた自分たちに向かっている。冬になる凍てつくような冷たい海の底へ沈めようとする悪魔の矢が。
「対空戦闘用意!」
鳴嶋は叫んでいた。CICにいる全員が慌しく動き出し、艦内中に艦長の指示を伝える。艦内は戦闘用意に奔走する乗員たちの奏でる音に包まれた。
「誘導弾多数、急速に接近中!」
「機関最大戦速! 面舵一杯―――!」
艦内中に響き渡るガスタービンの咆哮。イージス巡洋艦『金剛』が白波を立てて疾駆する。
「CIC指示の目標!」
北日本軍の艦から発射された対艦ミサイルが多数押し寄せるように接近する。『金剛』のSPY-1フェイズド・アレイ・レーダーが数値化された目標情報を捕捉し、ディスプレイに一つ一つの輝点として表示していた。それらは敵艦が発射した誘導弾を表しており、膨大かつ凝縮した情報量をコンピュータに入力していた。画面上に映される敵の誘導弾の情報と、それに則したSM-2の照準が完了する。
「発射準備よし!」
「撃ち方、始めッ!」
「撃ち方始め!」
高度を下げ、海上に滑りこむ誘導弾はまるで意志を持った生き物のようだった。
その前方で、海上を走る艦が噴き上げるような白い排煙に包まれた。甲板を覆う排煙が天空に向かってどんどん伸びていく。その先端はオレンジ色の炎に巻かれ、唐突に角度を変えて鉄の鼻先を向けた。防空艦としてのイージス艦がその存在意義を現出した瞬間だった。
イージス巡洋艦『金剛』の放ったスタンダードSM-2中距離対空誘導弾は次々と近付く敵の誘導弾をことごとく撃ち落とし、断続的に海面に水しぶきを上げさせた。それに倣い、『金剛』のCICのディスプレイに映し出される複数の輝点もその数を減らしていく。それは『金剛』の敵誘導弾の攻撃に対する迎撃の成功を語っており、同時にイージス艦としての真価を発揮した事実を証明していた。
「―――SM-2命中! 最後の目標撃墜! 全弾撃破!」
イージス―――それは、ギリシャ神話の最高神ゼウスが、闘いの女神である娘アテナに与えた最強の盾である。
そしてその盾の名を受け継ぐイージス艦は、海上においては南日本の誇る最強の防空システムを搭載した艦だった。
「第二波攻撃に警戒。 敵艦に対する探索を続けろ」
一端は回避された安堵感は確かに少なからずあった。だが、まだ油断はできない状況であることは全く変わっていない。こちらからも直接攻撃を加え、無力化させない限り、敵艦の脅威は拭えない。鳴嶋は緊張の汗を掻きながらも、最低限の艦長の常識を以て冷静に励んだ。
艦橋に設置された四基のフェイズド・アレイ・レーダーは、全周360度方向のカバーが可能である。更に200以上の目標を瞬間的に探知、捕捉、追尾できる点は、従来のレーダーより飛躍的に進歩した高性能のレーダーとして誇るに充分すぎるものだった。対水上、対空目標いずれも捕捉可能な点は、防空艦と呼ばれる由縁だ。
そして1秒に1発の連続発射が可能なVLS発射機構は、一度に多数のスタンダードSM-2中距離艦対空誘導弾を発射し、12~16の対空目標をほぼ同時に迎撃できる。
―――だが、だからと言ってイージス艦が無敵の艦と言うわけではなかった。
粉々に砕け散った誘導弾の破片がばら撒かれた海面下には、黒く巨大な鯨に似た一隻の潜水艦が潜航していた。
その潜水艦は波間に漂う艦底を、息を潜めるようにジッと見詰めていた。
北海道を国土とする北日本―――日本人民共和国の所有する攻撃型原子力潜水艦『知床』。
静かに、そして北の冷たい海中に同化するように、攻撃型原潜『知床』は疾走する『金剛』の艦底を遠くから見詰めていた。
「我が方の誘導弾は、敵艦により全て迎撃されました」
水上での爆発音、海面に降った誘導弾の破片の音が全てを物語っていた。それらを聴いていた聴音手が、艦橋の真ん中に立つ艦長に報告するように言い立てた。
「お手並み拝見と思ったが、南の艦も決して侮れない相手というわけか……」
彼は腕を組み、己の受け持つ艦の質を確かめるように靴の先を床に擦り付けた。
攻撃型原潜『知床』は北日本が誇る最新鋭の原子力潜水艦であり、南の日本帝国も脅威と認める潜水艦だ。巡航ミサイルをも搭載した攻撃型潜水艦として開発され、日本人民共和国人民海軍太平洋艦隊が誇る潜水艦隊の一隻である。
母港の室蘭港を出航した『知床』は、水上艦隊とは別行動で津軽海峡に出ると、ただ真っ直ぐに海の向こうに見える本州を目指して南下し、ここまで辿り着いた。
「……イージス艦とやらの性能は伊達ではないということだな」
人民海軍の制服を着込んだ髭面の男はぽつりと呟いた。『知床』の艦長、工藤恵万中佐である。三人の娘と妻を持つ五十半ばの彼は、十五の頃に船乗りを志し、士官候補生学校を卒業、人生の大半を潜水艦乗りとして過ごしてきた。元旧帝国海軍の父もまた海軍軍人として対米戦争を戦い抜き、祖国解放戦争の過程で起きた第二次日本海海戦で戦死している。そのため、工藤は同じく元海軍軍人だった父に関する記憶はほとんどない。
だが、幼少の頃から母親から父の武勇伝をよく聞かされ、家に飾られた父の遺影を眺めながら育ったため、父に対する尊敬の念は強かった。父と同じ海軍軍人の道を決め、そうして現在、自分もかつて居た父と同じ場所に立っている。
「さすがは侵略に長けた米帝の産物です。 忌々しい程に戦争の道具としては最高品ですな」
横にいた男―――人民海軍の制帽の下に丸眼鏡がよく似合う、細い顔立ちをした『知床』副長の宮津暉朗少佐の声に、工藤は視線を向ける。
憎らしげに言いながらも、軍人としてその兵器の価値は素直に認めている宮津副長の言葉に、工藤は微笑みを漏らす。
「敵はまだ我々には気付いていないようだな」
「はい。 敵は水上艦隊との戦闘に夢中のようです」
「……だが、我々もいつまでも見学客ではいられないぞ」
「ごもっともですな」
二人の間で交わされる言葉の雰囲気に、緊張感の欠片さえ見つからない。同じ職場に就く同僚が互いに身の上話を咲かせているような雰囲気だった。頭上で戦闘が行われている潜水艦内で、似合わなくも自然な空気が満ちている。
「―――この艦は、作戦中に無駄話をして良いと言う規則があるのでしょうか」
そんな空気を粉々にするような冷たい声に、艦橋にいる者の視線が後方にいる一人の人物に集められた。
「随分と余裕があるのですね、同志艦長」
「余裕、と言う程まで自信があるわけでもないがね、同志中尉」
同志中尉と呼ばれた彼女は、潜水艦『知床』の政治将校だった。その幼さを残す顔立ちに問い詰めるような鋭い視線は、彼女の気の強さを表していた。
「なら、無駄な私語は慎むべきですね。 小学校でも教わりませんでした? 私語はやめなさい、と」
歳は工藤の娘とほとんど変わらないと言って良いだろう。
有無を言わせない毅然とした態度が、彼女の強さと見て良いかもしれない。
「すまなかった。 以後気を付けるよ、同志中尉」
「ええ、同志艦長。 ぜひお願い致します」
自分の親と同じくらいの相手にも動じない、むしろ己から攻め入る威勢は、艦内の空気を一括に引き締めているようだった。彼女は屈強な姿勢でいることで、周りを制御するタイプのようだ。だが、そればかりでは周りも自分も疲れてしまう。
彼女がそういう人物であることは、短く無い期間、彼女と共にこの潜水艦に乗ってきた自分だからこそよく知っている。それは自分だけではなく、この艦の78名の全乗員も然りだろう。
「同志艦長」
「まだ、何か?」
背後から掛けられた声に、工藤は前方に戻した姿勢の向きを変えずに応えた。
「敵方にはイージス艦というものがいるようですが、同志艦長は最強と呼ばれる所以を持つ艦に対して勝利を得られると思っていますか?」
真摯な視線を向ける彼女に対し、工藤ははっきりと答える。
「当然だ。 米帝の生み出した兵器に我らが負けるとでも?」
工藤はこれまでに色々な政治将校をこの目で見てきた。己に与えられた地位と権力に泥酔した者、己が猿山のボスであると勘違いする者、口だけの臆病者、ロクな政治将校に出会ったことがない工藤にとって、娘と同世代だろう彼女は、色々な意味において初めてのタイプであった。
「そうですか……」
彼女の口元が、柔らかく緩んだ。
「私もそう信じています。 同志艦長の勝利を」
工藤は驚きと言うよりも、身が高揚するような感覚を感じていた。それは、まるで期待感に近い。
「嬉しい言葉に感謝する。 しかし同志中尉、訂正を申し上げたいことが一つある」
「何でしょう」
工藤は彼女の小さな顔を見詰め、父親のような笑みを浮かべた。
「私だけの勝利ではない。 艦内の乗員全員の勝利を、同志中尉に捧げる所存だ」
工藤の言葉に、口を噤んだ彼女は少し驚いたような表情を浮かべた。そして艦橋内をぐるりと見渡した。彼らのそれぞれの感情を浮かべる面々を眺めると、彼女はクスリと笑って「ああ、これは失礼しました」と、年齢相応の微かな笑みを浮かべた。
「私も私語が過ぎたようです。 他人のことが言えませんね」
そう言って、彼女はクスクスと笑う。
時折見せる本来あるべき少女らしさが、乗員たちの間での、彼女に対する密かな人気の秘密だった。政治将校は国によっては嫌われるタイプ、関係が良好なタイプ等様々で、北日本の政治将校は兵に嫌われる節が多かった。しかし彼女は『知床』の中では特別な存在だった。
そもそも地上ならまだしも潜水艦の政治将校としては、女性政治将校は珍し過ぎる存在だ。そういう意味においても、彼女は他の政治将校とは明らかに異色である。
確かに―――これまでの政治将校とは違うな、と工藤は思った。
「同志中尉、今から面白いものをお見せしよう」
工藤は彼女にそう言うと、背を向けて前方の方に身体を向き直した。
「潜望鏡深度まで浮上せよ」
命令を伝えると同時に、工藤は制帽を掴んで前後逆に向きを変えると、降ろした潜望鏡のスコープを覗き込んだ。
「深度固定、そのまま」
『知床』は工藤が指定した深度の時点で浮上を止めた。工藤の言葉に怪訝な表情を浮かべた彼女は工藤の背中を注視した。
「同志艦長?」
背中から掛けられた声に、工藤は双眼鏡を見詰めたまま返答する。
「まあ、見ててくれ。 潜望鏡、下げろ。 針路そのまま、前進」
工藤の指示通りの深度、方位に従って前に進む『知床』だったが、工藤の背後に立つ彼女は戸惑う表情を見せた。
「……同志艦長、くれぐれも慎重に頼みますよ」
彼女の微かな不安が混じった言葉に、工藤は彼女が敵艦に発見されるのを危惧していることに気付いた。
「心配するな、同志中尉」
前方を見据えていた工藤の視線が、彼女に振り返る。
「我々を信じろ」
工藤のそんな一言が、彼女の不安をあっさりと拭き払っていた。
「決してあの敵が、必ずしも無敵ではないことを証明してやろう。 戦闘用意!」
北の原子力潜水艦『知床』の乗員たちは工藤の令に応えるように、共和国最強の潜水艦乗りとして十分な練度を発揮させた。『知床』は前方で咆哮する『金剛』に気付かれないまま一定の深度まで浮上する。そこは既に魚雷を発射すれば、相手を沈められるのに十分な深度と距離だった。
■解説
●『金剛』
帝国海軍の金剛型巡洋艦の一番艦。南日本が初めて保有したイージス艦。北日本を含む周辺諸国の弾道ミサイルによる脅威が顕在化してくると同時に高いレーダー能力を活かした迎撃ミサイルの運用を可能とするミサイル防衛用の改修に利用された。軍事境界線付近の実弾訓練に参加。人民海軍艦隊と対峙する。
●『村雨』『雷』
帝国海軍の駆逐艦。二隻とも『金剛』と同じ理由で大湊におり、『金剛』と共に津軽海峡へ。
●『三笠』
人民海軍の三笠級駆逐艦の一番艦。北日本としては最新鋭の艦であり、ソヴレメンヌイ級駆逐艦に似た性能を有しているために南日本ではソヴレメンヌイ級駆逐艦かあるいは同艦を元に設計された艦ではないかと推測されている。しかしソヴレメンヌイ級駆逐艦を北日本がロシアから購入した事実は確認されていない。対空、対水上戦闘に優れたミサイル駆逐艦として開発された。
●夕張級駆逐艦
人民海軍が開発した初の現代的な汎用型駆逐艦。三笠級駆逐艦の前級となる。一世代前の人民海軍の主力艦だった。建造された当初は西側諸国との関係が改善しつつあった時期なので搭載された機器や装備等は米国製や仏国製などが含まれているのが特徴。
●幌別級フリゲート艦。
人民海軍が開発した初となるフリゲート艦。
●『知床』
人民海軍の攻撃型原子力潜水艦。従来の原子力潜水艦の改良型として開発、建造された。北日本が冷戦時代にソ連から購入した原子力潜水艦を元に開発し、性能が格段に上昇した最新鋭の原子力潜水艦として配備された。人民海軍太平洋艦隊の潜水艦隊に所属する。
●SM-2
『金剛』が搭載する艦対空ミサイル。米海軍を始め西側諸国の海軍が保有しており、主にイージス艦に使用される。最大で15程度の目標への同時攻撃が可能。
●第二次日本海海戦
北海道戦争(祖国解放戦争)の過程に起こった海戦。南日本や米国を中心とした国連軍艦隊と北日本軍艦隊が北海道近海で衝突、交戦した戦闘。結果は国連軍側の勝利に終わったが、戦闘がほとんど地上戦だった北海道戦争では最初で最後の大規模な海戦となった。
本格的なハイテク兵器を駆使した戦闘シーンは、本作では今回が初めてとなりました。ツッコミ所満載かと思われますが、ご了承ください。