17 狐狩り
2014年11月23日午後18時47分
日本帝国・青森県南東部―――
周囲はすっかり闇に染まりつつあった。森の中を駆け抜ける彼ら、彼女たちの姿さえ闇に乗じるには十分な程だった。
佐山に背負わされた陽和のそばに仕えている夏苗は、たとえ夜闇で自分たちの姿が隠されていると言っても決して油断をしなかった。守るように陽和の身に触れる手とは異なる一方の手には、護衛用のニューナンブM60拳銃が握られていた。
その周囲を更に護るように、二人の兵士が走っている。先に逝った仲間たちの思いと同様に身を呈する覚悟で89式小銃を構えた二人の警備兵。
佐山は陽和を背に抱えながらも、腰に備えた9mm拳銃への意識は欠けていない。
「……手間を掛けます、大尉……」
「それ、三度目ですよ。 殿下の足となる役目を担えるとあらば、身に余る光栄です」
「……………」
いくら皇族軍人として幼少の頃から軍事的な英才教育を受けていたとは言え、骨の髄まで軍人色に染まっている彼らに付いていくには、陽和の体力も長くは持たなかった。
夏苗は陽和の性格や立場を知っていた故に、彼女の心情を痛いほど理解していた。
敵に襲われ、彼女を護るために既に何人もの命を失った―――
その事実を一番心苦しく感じているのは、誰でもない殿下ご自身。
元々、敵に襲撃される最中の輸送車の中で、佐山の提案を一番に反対の意を上げたのは陽和自身なのである。佐山は何としてでも陽和を救おうとあの提案を掲げた。だからこそ陽和は反対したのだ。自分のために誰かが命を落とすことを、ひどく優しい彼女が許すはずがないのだから―――
しかし結局、現実はご覧の通りだ。
今の陽和の心情を思うと、夏苗も堪え切れなくなりそうだった。
だが、夏苗もまた彼女を絶対に護ると決めていた。この命に代えても、彼女だけは護り通そうと。
もう、自分の目の前で大切な人を失うのは嫌だから―――
「殿下、どこか調子が優れない部分などありますか……?」
「……大丈夫です」
小休止―――陽和を下ろし、木の幹に寝かせる。陽和の顔色はまるで風邪をひいたかのように真っ青だった。
それ程、彼女は苦しんでいた。夏苗は、それを和らげてやることができないのが悔しかった。
小休止の間でも、警戒は当然怠らない。
「……くそ、通信機が繋がらない」
警備兵から借りた通信機に対し、佐山は憎々しげに呟く。
「ちょっと貸してください」
佐山から投げられた通信機を受け取り、夏苗も通信機に耳を当ててみる。通信機からは、心地の悪い雑音が伝わってきた。
「向こうも相当混乱していると言うことでしょうか」
警備兵の一人が言う。まだ若い男。二十代後半といったところか。
「司令部以外の各所も敵の攻撃を受けたからかもしれないけど……これはただ混乱して繋がらないのが理由だけじゃないような気がするなぁ」
佐山は苦笑気味に答え、警備兵も不安げな表情になる。
通信機から聞こえる雑音―――それは、あまり長く聞いていられる程良いものではない。正に掻き毟るような、不愉快な音。外部との繋がりを妨害されているような乱暴さを感じる。
「……大尉、私たちに襲撃を掛けてきた敵は、どんな奴らだと思います?」
通信機から耳を離した夏苗が、佐山に言葉を投げかける。佐山はそれを受け止め、束の間、ジッと夏苗の蒼い瞳を見詰める。
「相当この手に手慣れた武装集団……つまり、北日本のご自慢の特殊部隊だろうね」
「……では、やはり敵の狙いは―――」
夏苗は一瞬、意識を木の幹に背を預け落ち着いている陽和の方に向け―――佐山に視線を戻す。
「夏苗ちゃんの考えている通りだ」
佐山は、夏苗の最悪で簡単な想像を肯定した。
「何故奴らが殿下を狙っているのかわからないが……多分、目的は少なくとも暗殺ではないだろうね。 奴らは執拗でありながら、彼女以外の標的を排除してきた……おそらく、生きたままの殿下ただ一人を欲しているんだろうね」
それが事実だとしたら―――いや、これまでの状況から読み取ると、その可能性はほとんど正解に近い。
だとしたら、何が何でも彼女を奴らの手から護らなければならない。
「大尉、本当に敵がそのような目的で、しかも北の特殊部隊だったとしたら……一刻も早くこの状況を脱せねばなりません」
「その通りだね。 奴らが本当に北日本ご自慢の特殊部隊だとしたら相当やばい。 逃げるが勝ち、だ」
最も―――逃げられるかは見当もつかないが。
「とにかく急ごう。 このまま行けば、もうすぐ友軍と合流できるはず―――」
佐山の言葉は、途切れる羽目になった。
夏苗も―――一瞬、何が起こったのか理解が追いつかなかった。
そばにいた警備兵の悲鳴。そして鳴り響いた銃声が、夏苗たちの逃亡劇を強引に終わらせた―――
闇は自分たちの特権だった。闇に乗じ、己の存在を相手から隠せるのは向こうだけとは限らない。
そして相手の常識を遥かに覆すような、特殊な訓練を繰り返してきたからこそ、身に付いたものだった。
どこまで逃げようと、どれほどまで撹乱させようとしても、まるで犬のように必ず匂いを嗅ぎつける。
第803部隊―――北日本最精鋭の特殊部隊と呼ばれた最強の部隊。
それが、彼らだった。
如何なる環境でも、どんな作戦も遂行し、どれ程の厳しい状況でも行動し、死を齎す最強の特殊部隊。
死地の部隊の、登場だった。
「目標を視認。 目標、我に気付かず」
背の高い草の隙間や木々の陰、至る所に配置した第803隊員の兵士たちが彼らを視界に捉えた。休んでいるらしい余裕ある彼らを、闇の奥からはっきりとした視線で見据えていた。
「今度こそ、いけるのだろうな?」
「目標の捕獲に全力を注ぐ。 他の者は好きに処分するよう伝えておいた」
沙希が確認するように問いかけ、浩ははっきりと答える。浩は沙希の言葉に答え終わると、カラシニコフの弾倉を確認する。
旧来のAK-47から遡れば、世界で最も使用されているアサルトライフル。旧ソ連の恩恵の一つであり、人民の武器となる北日本製の改良型はロシア以外の国としては最も利用され、その真価を十二分に発揮されている武器だった。輸出しているものも含めた上の話として。
浩は第803部隊にしか通じない合図を送る。常人なら五感が上手く働かない状況の中で、スムーズに連携が伝わり合う。
「10秒後に制圧を開始しろ」
浩の合図を“視た”彼らは行動を開始した。二人が警備兵が立っている方に走り、三人が廻り込むように向かう。
「十、九、八、七……」
浩は秒読みを始める。
友軍との連絡も取れない敵は既に自分たちの手の内に入りこんでいる。辺り一帯に敷いたECM(電磁妨害手段)は予想通りの効力を発揮してくれた。第二次大戦から変わらない旧式の方法で充分だった。
「六、五、四……」
最もはめやすいのは―――孤独に陥った者だ。彼らの運命は既に浩たちによって決められていたと言っても良かった。
「三、二、一……!」
浩の秒読みに従ったように、一人、仕留めた。一番目標から遠くにいた一人を捕縛し、一瞬の内に息の根を止めた。ナイフで頸動脈を切り裂いたのか、何にせよ余りに一瞬すぎて、一人目の死は彼らさえ気付いていなかった。
彼らが知るのはその次―――もう一人の警備兵を殺害した時。ふと、仲間の姿が見えないことに気付いた一人が振り返る。その直後、短い悲鳴を上げて額を撃ち抜かれ、二人目の処分が終わった。
部下の功績に倣うように、浩も駆け出した。彼が向かう先には、目標となる少女にしか見えない皇女が一人。
そんな浩の前に、立ち塞がる者がいた―――
一人目を殺めたのは璃乍だった。
自分自身も自覚している先行ポジションを持つ璃乍は、自分の数倍の丈を持つ男を捕まえると、悲鳴を上げさせないよう口を封じた上で、その太い首元に鋭利なナイフをさっと引いた。それは木の葉が舞うような軽やかさだったが、相手の兵士の太い首は細い口をぱっくりと開け、昼間であれば赤黒い色が見えただろう血を吐きながら倒れた。
もう一人の兵士が突然仲間の姿が見えなくなったことに気付き、振り返った。一瞬、目が合った。若い男。だが、その男以上に璃乍は若かった。
その手に握られた89式小銃が上がり、銃口が見えた。
89式小銃の銃口が光る。璃乍は地を足で蹴り、銃弾を避けるように転がった。あっと驚く兵士。璃乍は隙を逃さず、構えたスコーピオンから32ACP弾を兵士の顔面に撃ち込んだ。
二人目の処分を見届けた璃乍は、仲間を相手に奮闘する将校の方に振り返った。
敵の襲撃は正に不意打ちだった。佐山が気付いた頃には、ここまで共にしていた二人の若き警備兵が既に殺された後だった。佐山は自分に襲いかかってきた敵の兵士に捕まったが、敵の手に見えた白い物が顎の下に飛び込む前に、佐山は肘打ちを打ち込んで難を逃れた。
敵は呻き声を上げ、佐山から離れる。敵にとっては予想外だった。佐山は敵の思う以上に、近接戦に長けた実力の持ち主だった。
「戦場は海だけじゃない。 帝国海軍を舐めるなよ」
しかし敵は再びナイフを握ったまま飛び込んできた。
ナイフの刃先が佐山の腹に到達する直前、佐山は脇に避けた。目の前に飛び込んできた敵の腕を掴み、ナイフを叩き落とす。
そのまま敵を捕縛すると、躊躇なく敵の首をへし折った。ごき、と生々しい音が聞こえた。敵は解放されると、そのまま膝を折って倒れ込んだ。
伊達に陽和殿下の教育役を買っていない。帝国海軍の中でも、あらゆる訓練を受けている佐山は一介の帝国軍人とは格が違うタイプだった。
佐山は視線を巡らせ、そして見つける。闇の向こうから接近する敵の姿を。
璃乍の接近に気付いた背の高い男が、璃乍の姿を視認した。視線が合った二人は、そのままお互いの距離を縮める。一方的な璃乍の接近だったが、男はまるで待ち受けるように構えた。将校らしい男の腰に見えた9mm拳銃が、男の手に握られる。
目の前の男―――佐山が9mm拳銃を握った直後、璃乍は引き金を引いた。だが、一瞬前に佐山は地を蹴り、紙一重で銃撃を避けた。佐山はひやりとした表情で璃乍を見る。璃乍の宝石のように研ぎ澄まされた瞳が佐山の視線を射抜いた。
ただでさえ小柄な体型である璃乍が中年の背の高い男と対峙すれば、その光景は如何にも異様だった。
まるでハムスターがイタチと対峙しているような光景に例えられそうだが―――そのハムスターは鋭い牙を剥き出しにして、今にもイタチの首を噛みちぎろうとしている。
既に精鋭の特殊部隊の一人を仕留めている佐山にとって、簡単にやられることはないはずだった。
しかし、佐山は目の前にいる璃乍が、前の敵とは違うことに気付いた。
そして―――佐山は、目を凝らして、璃乍を見る。
佐山は闇の中からはっきりと見えた璃乍の姿を確認し―――呆気に取られた。
「な……」
璃乍はそのチャンスを逃さず、近距離から佐山の胸に向かって発砲した。
「―――大尉……ッ!!」
陽和の悲鳴が夏苗の背後から聞こえた。彼女の悲鳴が、佐山の状況を教えていた。
しかし、夏苗は目の前に迫った男の前に立ち塞がる。
男は明らかに陽和を狙っていた。
夏苗は彼女を庇うように、男の目の前に立ち塞がると、その手に握ったニューナンブM60を構える。
男の手には、カラシニコフが握られていた。
北日本の特殊部隊―――
夏苗はそれを見て、敵の正体を知った。
「………ッ!」
男と視線が合った時、一瞬体が凝固した。
殺気がこもった、鋭い瞳―――
そして夏苗の蒼い瞳を見た男の指が、引き金に触れる―――
その時、一発の銃声が天空へ響き渡った。
■解説
●ニューナンブM60
ミネベア社製の38口径官用回転式拳銃。夏苗が持っていた拳銃。
近衛兵用拳銃として開発製造され、南日本の警察官にも配備されている。後に麻薬取締官用や海上保安隊員用にも納入された。後継機種による更新が始まっているが、現在でも主力として使用されている。
●9mm拳銃
南日本軍の制式拳銃。佐山が持っていた拳銃。
南日本軍が1982年に採用した自動拳銃で、当時の西ドイツからP220をライセンス生産し、調達された。スライドには『9mm拳銃』の文字とシリアルナンバー、各軍ごとのマークが刻印されており、佐山が持つ9mm拳銃には帝国海軍を表した桜と錨のマークが描かれている。
●カラシニコフ
1974年にソビエト連邦軍が従来のAK-47系列の後継として採用したアサルトライフルのAK-74派生型の一つ。第803部隊が所有するカラシニコフは北日本製の改良型であり、諸外国にも多く輸出されている。派生型として様々なタイプが存在する。
●Vz61スコーピオン
チェコスロバキアで開発された短機関銃。主に北日本の特殊部隊が保有しているもの。璃乍が持っていた短機関銃。
冷戦時代の真っ只中に戦車兵の護身用として開発された銃だが、その利便性故にソ連のKGBや様々な特殊部隊、共産系テロリスト等にも愛用され、西側にも脅威とみなされていた。