16 歪な共鳴
実際に目の辺りにしても信じられないと思った。そんな思いを抱いたのは、久方ぶりだ―――
事前に持ち得た情報を元に、目標を移送中だった輸送車を襲撃する所まで順調だった。敵は思った通り抵抗してきたが、制圧するのも時間の問題だと信じて疑わなかった。しかし展開は大きく予想を裏切ってくれた。
足を止めた輸送車から自ら銃弾の雨の中へ飛び出してきた奴らに、我ながら似合わない面喰いを受けてしまった。すぐさま目標を傷つけずに邪魔者の掃討を実施したが、結局逃がしてしまった。最強の特殊部隊が何たる座間だろうか。
奴らの行為は正に無謀の極みだった。あの場を脱したとしても、我々から完全に逃げ切ることなど不可能なのだから。
「………ッ」
第803部隊の政治将校である沙希は、葉にこびり付いた血痕を見据え、これ見よがしな舌打ちを見せた。
「同志上尉、これは貴様の予想の範囲内だったか?」
前を歩く浩の背中に向かって、沙希は言葉を投げかける。周囲には、一定の間隔を空けた陣形で前進する隊員たちの姿があった。
「我々の攻撃を一方的に受けた末に強行突破を実行してくる可能性は多少ながら考慮していた。 だが、作戦の完遂に支障はない範囲だと判断していた」
「実際に捕まえるまでは、その言葉も信用を買うには値段を張る事になるが、その事に気付いているだろうな? 同志上尉」
「作戦に障害は付き物だ。 何から何まで順調に行くとは限らない。 それでも任務を完遂するのが俺たちの仕事だ」
「……同志上尉。 これは限りなく小さい可能性だが、軍人は如何なる最悪の可能性も予測すると言う常識を以て、私も第803部隊の政治将校として考えを述べよう」
沙希は鋭い視線を、何を考えているのか見当が付かない浩の背中に向けながら口を開く。
「まさかと思うが、同志上尉の個人的な感情が招いた不始末ではないだろうな。 南日本の地に思う所がある貴様なら、無きにしもあらずな可能性だと考えるが……?」
「……………」
浩の肯定か否定とも取れない無言の圧力に、沙希は憎悪を僅かに噴き出すように浩の背中を睨んだ。
「それは可能性ではないな、同志中尉。 根拠もない、同志中尉のただの妄想だ」
「根拠のない妄想……か」
―――妄想とはよくも言えたものだ。
ここにいる、いや、祖国にいる誰よりも貴様の内側まで知っている私だからこそ、考えられたことなのに。
それを自身も知っているはずなのに―――この男は、とぼける。
「……………」
この男を、私は可哀想に見えた―――
第803部隊の政治委員として配属され、初めて浩を見た時、沙希は言い様のない感情を沸かせた。
事前に確認された部隊の隊員たちの履歴。その中でも一際注目すべき男、八雲浩の過去を知ったからこそ、沙希はあらゆる意味で浩のことが気になっていた。
その何もかもを冷たく凍らせてしまう瞳は、何を見ているのだろう。その儚く揺れた瞳の奥に、どんな映像を記録しているのだろう。
更に奥深くには、何が仕舞ってあるのだろう。彼の堅く閉じられた内側は、どんな想いが封じられているのだろうか。
過酷な訓練や任務を淡々と遂行する彼らは―――いや、彼の姿はまるで死に急いでいるかのようだ。そしてそんな彼の姿を、彼らも学び、後に付いていっているかのよう。
それはきっと気のせいではないのだろう。彼らの過去を記録として知っていたからこそ、沙希は彼らの意図を察し、そして理解できなかった。いや、理解する必要はなかった。
ただ自分の目的は、彼らを監視し、抑制すること。それが政治将校としての役割だったし、党首の子供足る人民の使命だと考えている。全ては祖国と党のための行動だった。
ある時、沙希にとって劇的な変化となる出来事があった。
祖国最精鋭の特殊部隊の訓練はいつも死と隣り合わせだ。大雪山中での一週間のサバイバル訓練。雪が支配する極寒の山中で、僅かな食糧を持ち、実戦さながらの訓練を行う。彼らの相手をした部隊は一人を残し死亡した。結局、残る一人は行方不明扱いとなったが―――
山を降りた彼らは誰一人脱落せず、その野生の環境で培われた刃を内に潜めたまま、任務の完遂を告げた。
だが、珍しく負傷者が出た。しかも部隊の指揮官様が唯一の負傷者だと言うのだから、沙希も呆れる寸前だった。
わざわざ沙希が医務室まで出向く気になったのは、それ程珍しかったからだった。
「しかし同志中尉にしては珍しいな。 いくら、並みの部隊なら全滅してもおかしくない訓練だったとしても、まさか同志中尉自らが負傷するとは―――」
大した傷ではなかったが、医務室のベッドに背を預ける浩は普段見られない光景だった。それが珍しく、むしろ面白いと言う気さえ齎した。
「負傷の原因は不慮の事故だと報告書には記載されていたが……尚更同志中尉にはありえないな。 本当のことを私には教えてくれんか?」
「……本当だ。 俺の不注意が全てだ」
「………本当、なのか」
浩はそのまま無言になって口を閉ざし、逸らすように月が昇る窓の外に視線を向けた。
沙希は素直に驚いていた。目の前にいる男は、からっきしそんなイメージがないのだから。
その時、沙希の胸が柔らかい感触に満ちた。
「(何だ、この気持ちは……まさか、私は安心しているのか……?)」
沙希はその気持ちの原因が何なのか探った。そして―――ふと気付いた。
初めて奴の人間らしい部分を見たから―――?
まさか、と苦笑する。だとしたら、私は目の前にいる男を、ただの兵士として見ているとは言えなくなるぞ―――
「………山では、もう滑らないと思っていたが、油断していたようだ」
「……?」
不意に口を開いた浩の言葉に対し、沙希は意図を掴み損ねた。
「―――!」
そしてその瞬間、窓の外に浮かぶ月を見据える浩の横顔が、一瞬、豊かな感情を初めて垣間見せたように見えた―――
「……自身の未熟さが招いた結果として、同志少尉にも迷惑を掛けてしまったことは謝ろう。 すまなかったな」
「……いや、うむ……」
ハッと我に返った沙希は、曖昧な返答を寄越すしかできなかった。
「……まぁ、これを機にゆっくりと休んだらどうだ。 休息も兵士の仕事、と聞いた気がする……」
沙希は言った後、羞恥に満ち溢れた。自分は何を言っているのだろう―――
目の前の男がらしくない姿を見せるから、自分までらしくない所を見せてしまった。
「―――ッ! わ、私はここで失礼させてもらう! 同志中尉、貴様の不手際を問う気はない! そこで治療にでも専念していろッ!」
捲し立てるように、沙希は赤くなった顔を見られまいとするように足早に医務室から退室していった。
一人残された浩は、嵐のように去っていた沙希が閉じた扉を見詰め、そのままベッドに身を沈めた。
朝。昨日の自分の行いに羞恥心を抱きながらも、沙希は毅然とした態度に努めながら再び医務室の前に立っていた。
「(同志中尉のことだから昨日のことは気にしていないはずだ……それにしても、昨日の私はどうかしていた……)」
もし昨日の自分がここにいたら腰に据えたマカロフで射殺してやりたい。今の自分も殺すことになるが。
「(な、何を気にしているのだ私は……普段通りにすれば問題ない。 うん、そうだ)」
深呼吸し、自身を落ち着かせる。その姿もまた客観的に見て兵士の恐れる政治将校としても滑稽であることは沙希自身気付いていない。
意を決して、医務室の扉を開き、足を踏み入れる。
「起きているか? 同志中尉……―――!」
雪が積もった日は、近所の小さな山がある公園に夏苗姉さんによく連れて行ってもらっていた。
ソリを持って、山の頂上から滑って降りると言う冬ならではの単純な子供の遊びだ。
夏苗姉さんに後ろから押してもらって滑る。そしてよくひっくり返ったものだった。
その度に、夏苗姉さんは笑っていた。
俺も雪の冷たい感覚を味わいながら笑っていたものだった。
そんな幸せだった日常は、永遠に失われた―――
―――祖国を裏切った卑怯者は、さっさと爆弾にでもなって死ね。 それがせめてもの貴様の祖国に対する報いだ―――
どんなに辛い日々も耐え、泥沼の中を這いつくばりながら生きてきた。
―――殺してやる…ッ! テメェなんか真っ先に戦死だッ! 覚悟してろ……ッ!!―――
大勢の他者に恨まれ、憎まれ、一人で生きてきた。
―――この……機械野郎が……ッ!!―――
数え切れない程、何度も手を汚した。
一人で、生き続けた。
とても―――生きることに疲れるほどに。
「―――浩はとても良い子だね。 お姉ちゃん、鼻が高いよ」
いつも優しかった姉の顔が浮かぶ。だが、今の自分には痛く感じるものでしかない笑顔だった。
「……どうして? コウ」
姉の綺麗な蒼い瞳。刃物のように鋭利に細められた姉の双眸が、俺の怯えた表情を映していた。
「ずっと一緒にいるって約束したのに……どうして離れちゃったの? なんで一人だけ戻ったの? ねえ、なんで? どうして私たちを殺した人たちと同じになってるの、コウは?」
俺の顔は、手は、体中の全てが汚く穢れていた。多くの他人の血を浴びた身体は汚物のような色に染まっている。そんな俺の姿を見詰めながら、夏苗姉さんが吐き捨てるように言った。
「―――人殺し」
水に濡れた夏苗姉さん。
その周りから、あの海で死んでいった人間たちの手が水面から出てくるように現れた。虫のように蠢く手の中から、二つの人影が浮かび上がる。それは形を成し、上半身を血で真っ赤にした義父と義母が出来上がった。蜂の巣にされたかのように血で染まった二人は、何も言わずに俺を見詰める。
水に濡れ、端正な顔立ちだった顔の半分をぶくぶくに膨れ上がらせた夏苗姉さんが目の前まで迫り来る。
「返して。 私の大好きなコウを、私たち家族を、返して―――」
「―――同志中尉ッ! 八雲中尉……ッ!!」
女の呼びかける声に、浩は悪夢から目を覚ます。
開いた視界には、昨夜も見た政治将校の女の顔があった。
「……起きたか? かなりうなされていたぞ」
「う……ッ……夢、か……」
整えるまでに荒い呼吸を繰り返し、筋肉質の肌はじとりと汗に濡らした浩の姿を、沙希はさすがに心配を掛けるような表情で見下ろしていた。うなされる浩の上に覆いかぶさって呼びかけていたままの体勢で、沙希は浩の落ち着きが取り戻されるまで見守っていた。
「相当、嫌な夢を見ていたようだな……大丈夫か?」
「……ああ……」
「同志中尉のあのような姿、初めて見たぞ。 さすがに私も驚いた」
「……すまない」
「……どうして謝る?」
「見苦しい姿を見せてしまった……」
予想だにしなかった浩の言葉に、沙希は一瞬呆然となり、そして可笑しそうに噴き出した。
「そんなことで謝られると、こちらも困るな……」
まるで少女のように、沙希はくすくすと笑った。
「……ところで、同志少尉」
「ん、なんだ?」
「いつまで、そうしているつもりだ?」
浩に指摘されて改めて沙希は自覚する。沙希は浩の上に覆いかぶさったままだった。うなされている浩を呼び掛けるからと言って、ここまで浩の領内に侵入する理由にはならない。
「……寂しいのだろう?」
沙希は、ぽつりと言った。
「……俺は、うなされている最中に何を言っていた?」
「それを私に聞くのか。 私の言葉でそこまで聞きたいのか?」
「……………」
浩は黙った。そして、視線を背いた。続け様に見られた浩のらしくない姿に、沙希は昨日感じたような安心感と同じものを感じていた。
「良い。 同志中尉が何を言っていたか等、知らなくとも良いのだ。 同志中尉も本当はわかっているはずなのだから……」
ぎし、と音を立てるベッドの音が敏感に聞こえるほど、朝の静寂した空気が場を支配していた。そしてその空気の恩恵に授かるように、沙希の普段とは違う儚くもはっきりと通った声が、浩の内側にするりと入ってきた。
「うなされるほど、嫌な夢を見たのだろう。 悪夢に成り得るほどの経験を、同志中尉はしてきたのだろう」
部隊の政治将校として全隊員の過去を知っている沙希だからこそ、他人なりのレベルだったとしても、浩の過去を知る唯一の人物というだけで、浩の苦しみを理解できた。
「……一人は、寂しいだろう?」
「……………」
本来なら八雲浩なる者は、一度祖国を裏切ると言う重罪を犯した人間である。
それは正に、沙希を軍に派遣した政治総省の敵である。
政治総省の人間であり、党首の子供を自負する北日本人として、浩は沙希の敵となる存在だった。
部隊の中では最も監視するべき要注意人物であり、忠誠を誓った党のためなら断罪すべき人間だ。
だが―――沙希は、そんな浩をそのように見ることができなかった。
浅くとも知れば知るほど、浩と言う一人の人間が沙希にとって気になる人物となり、その想いは膨れ上がる一方だった。
この気持ちが何であるか―――それは、党に忠誠を誓った政治委員としては決して許されないもの。
そうと知っておきながら―――自身の個人的感情を抑えることは難しかった。
「(私も……求めていたんだ……一人である私と同じく、求めている者を……)」
沙希の脳裏に、自身の過去が次々と投影される。狭く、苦しい所で一人生き続けてきた頃、何人かの兵士の玩具として盥回しにされていた頃、政治委員として訓練に励んでいた頃、いつでも一人だった。
一人じゃないと感じられたのは、顔も覚えていない母の体温を感じた時だけ―――
「……………」
沙希はそっと、動かない浩の顔に自分の顔を近付けた。
そしてそのまま、沙希の唇が浩の唇に触れる。それは当たるだけの接吻だった。
ほのかなシャンプーの香りが、浩の鼻をくすぐる。
それでも特にわかりやすい反応も見せない浩の顔をじっくりと見詰めるように、一度顔を離す。
「誰かの温もりがあれば安心できるぞ……」
そんな沙希の言葉が、初めて浩を反応させた。
その時の大きく見開かれた浩の鋭い瞳は、心なしか潤んでいるようにも見えた。
まるで懐かしんでいるかのような。
その時、それまで『一人』だった男女はお互いの体温を求め合うようになった。その二人の関係はその日に限らず、ずっと続くことになった。
それは、単に恋人同士が求め合うような、純愛の行為とは言えなかった。
浩が悪夢を見た時、そうでない時、二人は求め合った。
それが、お互いの穴を何かで埋めるような、傷を舐め合うような慰め合いだと知りながら。