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南北の海峡 -The Split Fate-   作者: 伊東椋
第二部 運命の交叉路
15/63

13 咎の記憶 二

 15の冬、八雲家に引き取られて5年目の冬を迎えた俺は進路というものに直面していた。

 「コウは学校を卒業したらどうするの?」

 雪が積もった寒い帰り道、途中で出会った工場帰りの夏苗姉さんと帰路についていた俺は、隣を歩く夏苗姉さんからそんなことを聞かれていた。

 「うーん、俺は軍人になろうかなって考えてる」

 白い息を燻りながら、俺は当然のように答えた。

 実際、義務教育過程を修了した後この国では18歳になった若者に対し徴兵が義務付けられている。しかし下手に徴兵されるより士官学校を志した方が良いという考えもあった。

 しかし士官学校を受験することは上級道民にしか許されない権利である上に、たとえ受験が許されていても倍率が高く、合格は非常に難儀だと評判だ。

 ちなみに女子は一般的に職業訓練学校に進むのが通例だが、士官学校を志して軍人になる女子も今の共和国では珍しくもない。

 この国は全国民一丸というスローガンを、党が発端となって長らく蔓延しているからか、大戦や祖国解放戦争(北海道戦争)時に似た習慣が未だに根強く残っている。女子供も党のために戦うべし、という意識がこの国の一般社会には当然のように浸透しているのだ。

 夏苗姉さんは卒業後、職業訓練学校に進んで、今は札幌市街の一角にある工場で朝から働いている。夏苗姉さんは頭が良いから士官学校、もしくは大学への道もあり得たが、生計を立てる両親の負担を少しでも減らそうと進学の道を自ら蹴って働くことを選んだ。

 「俺も義父さん義母さんを楽にしてやりたいんだ。 士官になれば、給料の待遇は良いだろうし」

 「コウらしいね。 でも、二人が許してくれるかな……?」

 「……………」

 実を言うと、義父さんも義母さんも俺が軍人になるというのは反対だった。この国の男子として生まれたからには、18歳になれば嫌でも徴兵されるが、その徴兵も二年数ヶ月の任期を終えれば解放される。 その期間さえ乗り越えれば、軍人以外の道を模索することができる。しかし士官学校に入ってしまえば、軍人としての人生が約束されてしまう。

 「許してもらうしかないだろ」

 俺は溜息のような白い息を吐き出し、雪を踏み締めた。

 「説得してみせるさ」

 俺の横で、赤いマフラーに口元を埋めた夏苗姉さんが微笑む。

 「私は応援するよ、コウ」

 「ありがとう、夏苗姉ちゃん」

 夏苗姉さんの優しげに燻る白い吐息。俺は夏苗姉さんの応援すると言った言葉が聞けて嬉しかった。

 「あ、見て。 コウ」

 何かを見つけた夏苗姉さんが道端にあった市の掲示板に指を指す。掲示板を覗いてみると、一枚のポスターが視界に入る。

 「雪祭りか……もうそんな時期なんだな」

 それは市の中心部で毎年開かれる札幌の冬の風物詩だった。大通革命広場を始めとする複数の会場で、雪で作った大小の像が展示される雪と氷の祭典である。

 党に関わる組織や札幌市、市内の企業や団体など一般からも構成される一大イベントであり、党中央委員会が主催となって企画、運営する。

 冬の祭り自体は戦前の帝国時代からあったが、この祭典自体の始まりは、元々は党や国家を讃えるためのイベントに過ぎなかった。

 最初は党の威厳を表した祭典として行われたが、今や道内のみならず海外からも観光客が大勢訪れる程の、共和国で最も規模が大きいイベントと化している。

 八雲家に引き取られた後の頃、皆で行った記憶がある。しかしここ三年ほどご無沙汰だったことを思い出す。

 「ねえ、行ってみない? コウ!」

 「へっ?」

 ポスターを見詰めていた夏苗姉さんが突然振り返って放った言葉に、俺はつい間抜けな声をあげた。

 「だからお祭り! 何か予定はあるの?」

 「いや、この日は特にないと思うけど……」

 「じゃあ行こっか!」

 「……えーと、なんで突然?」

 あまりの夏苗姉さんの魂胆が掴めない提案に、俺は白い息を燻りながら訊ねた。

 「だってコウは軍人になるんでしょう? もし軍隊に入ったらずっと会えなくなるじゃない。 だから出来るだけコウと思い出を作りたいの」

 浩が士官学校に入ろうが、18歳で徴兵されようが、遅かれ早かれ軍に入る道は必ず訪れる。言われて、俺も夏苗姉さんに会えなくなることをここで強く意識した。

 「だから行こう? 駄目……?」

 そんな上目遣いで見られても困る。しかもやっぱり夏苗姉さんの瞳は綺麗だった。こんな瞳で言われては、断れない男はいないだろうと思った。

 「わ、わかったよ……夏苗姉ちゃん……」

 冷たい空気に反して、顔が熱くなるのを自覚した俺にも構わず、夏苗姉さんはぱっと太陽のように輝いた。

 そんな夏苗姉さんの眩しい表情を見て、俺はますます顔の温度の上昇を感じて、目を逸らしてしまう。

 しかし俺の手を夏苗姉さんの暖かい手が握り締めたことで、俺はまた夏苗姉さんの方に視線を戻す羽目になった。

 「楽しみだね、コウ」

 俺はもう熱くなる顔を隠す手段は残されていなかった。



 帰宅した俺と夏苗姉さんを玄関に迎えたのは、静かな違和感だった。いつもなら義母がおかえりと言って迎えてくれるのだが、家は誰もいないかのようにシンとしている。

 「お母さん、いないのかな?」

 夏苗姉さんは不思議そうに言いながら、靴を脱いで家にあがる。俺も後に続き、居間の方へと歩く。その時の俺は、何故か変な胸騒ぎを覚えていた。

 先に居間に入った夏苗姉さんがいきなり立ち止まった。俺は危うく夏苗姉さんの背中にぶつかりそうになる。夏苗姉さんは驚いて居間を見ているようだったので、俺も視線を居間の方に向けた。

 居間には義父と義母が異様な雰囲気の中で、帰ってきた俺たちを迎え出た。

 「二人とも、こっちに座りなさい」

 普段の温和な義父には珍しい、少し固く真剣な表情だった。隣にいる義母はどうしてか不安そうな色を顔に染めている。

 俺は明らかなこの場の異様な雰囲気に戸惑いながらも、二人で義父の言う通りに従った。

 「お前たちに大切な話がある」

 義父の前に座った俺たちを見据えて、義父は言った。初めて見る義父の顔を前にして、俺は緊張してしまう。

 俺と夏苗姉さんは黙って義父の話を待つ。ちらりと夏苗姉さんの方を一瞥してみると、夏苗姉さんも真剣な表情で義父が口を開くのをただ待っていた。

 「……既に母さんにも同じことを話したが、よく聞くんだぞ」

 俺は不安そうにしている義母の方を見た。義母があんな顔をしているのは、その話が原因のようだった。

 そして俺は、義父の言葉の意味がやがて信じられなくなりそうだった。

 まさか、義父の口から『脱北』と言う言葉が出てくるなんて、俺と夏苗姉さんも思いもしなかったのだから―――


 

 この国に自由と言う文字はほとんど存在しない。この北の大地を支配する党は、財産や街、道だけではなく生えている木の一本まで国のものとし、個人の自由や固有を一切認めない。国民は政治総省の目に監視され、迂闊な真似は決して出来ない仕組みに施されている。もし祖国や党の敵と認定されれば、死か死より苦しい収容所送りが待っている。

 そんな鎖から解放されたいと願う人間は少なからず存在する。党を裏切り、命がけで南に亡命する人間を『脱北者』と呼ばれ、その無謀な行為を『脱北』とされている。

 党は国民の南日本への脱北を厳しく取り締まっている。失敗すれば只では済まない。

 「この国は腐っている。 こんな所にいては、お前たちも幸せにはなれない」

 義父の国に対する批判の言葉に、俺は動揺した。こんな事、もし党や政治総省の人間に聞かれでもすれば家族全員収容所行きだ。

 「自由な国で暮らしたくないか? お前たちの未来も明るくなる国に」

 そう言って、義父は俺たちに対して深く頭を下げた。

 「お願いだ、認めてくれ」

 義父は俺たちに承服を求めた。俺は目の前で頭を下げる義父に対して、何て言えば良いのかわからなかった。

 「でも失敗したら、幸せとか不幸どころじゃ済まないよ」

 夏苗姉さんが口を開く。俺は驚いて夏苗姉さんの方に視線を向けたが、夏苗姉さんは真剣だ。じっと見据える夏苗姉さんの視線を受け止めた義父は、頭を上げて言った。

 「俺がお前たちを守ってみせる。 約束する」

 義父は一度だけ中央で働いたことがある人間だっただけに、中央が如何に腐敗しているのか理解した少ない人間の一人だった。自らの腹を肥やすことしか考えない中央の下で、一向に改善しない国民の生活。

 党の独裁が続く腐敗した政治、真実を国民に隠し続けるくせに自由を認めない国に未来を見いだせなかった義父は遂に耐えられなくなった。

 「俺が命に代えてもお前たちを一生守ると誓う。 どうか許してほしい」

 義父の必死な懇願を見せる姿勢に対して、俺と夏苗姉さんも返す言葉が見つからなかった。



 その日、義父は夕食も食べずに部屋に引きこもった。何をしているかと思えば、脱北の準備を確認しているらしい。

 義父を除く三人の食事は味がわからなくなるような空気だった。ただ腹の中を満たすだけで終わった気がする俺は、台所で食器を洗う義母の背中を見て思った。あの話を聞いて、義母はどう思っているのだろう。義父の脱北に賛成したのだろうか。俺は義母の不安そうな顔を思い出したが、勇気を振り絞って聞いてみた。

 そして、義母は少し寂しそうな微笑を浮かべた。

 「お父さんはいつも正しいと信じて行動している人だから、きっと今回のことも正しいことだと思うわ」

 「それは、脱北に賛成するってこと?」

 「私はお父さんの妻であるけど、あなたたちの母でもあるの。 だから一概には決められない。 あなたたちはどうするの?」

 「俺は……」

 正直俺はどうしたら良いのかまだわからない。この国を出るなんて考えたことなかったし、むしろ軍人になって両親を楽させたいと考えていた。しかし義父は、この国には未来はないと言った。俺が考えていた未来は望めないものだったのだ。

 「まだわからないよ……そもそも、南がどんな国なのかもよく知らないし……」

 学校の授業やラジオでは、南日本の国民は君主の圧政の下で苦しい生活を強いられていると言われている。しかも南日本の人間は、脱北した北日本人を拷問にかける。南日本が義父が言う自由な国とは到底信じられなかった。

 「そうね。 でも本当は北も南もあまり変わらないと思うな、お母さんは……」

 「どういうこと?」

 「だって同じ日本人が暮らしている国なんだから。 どっちも日本なんだから……」

 歴史の狭間で揺れ動いた日本は、南北に分断された。二つの国家に分かれた日本はそれぞれの道を歩み始めた。しかしその根本はどこまでも変わらないものだ。

 「暮らしたいと思う日本、で良いんじゃない?」

 「暮らしたいと思う日本……」

 「浩は、どの日本で暮らしていきたい?」

 「俺は……」

 確かに義父の言う通り、この国は国民を縛り続けている。悪印象しか教えられない南日本が実際にどんな国なのかは知らない。

 どちらの日本を選ぶか。いや、それが問題ではない。俺にとって問題なのは―――

 「……俺が暮らしたいと思う日本は」

 絶望の下で這いつくばるように生きていた俺を救い出してくれた人たち。

 俺を家族と認めてくれた人たちがいる日本に、俺はその人たちと一緒に暮らしたい。

 そう、家族と。

 どの国が問題ではない。俺は家族が行く所に行って、一緒に暮らしていきたいのだ。

 「それが、浩の答えなのね」

 そう言った義母の表情は、不安の色もない優しい微笑みだった。


 翌朝、朝食に現れた義父の前で、俺たちは脱北に付いていくことを告げた。

 夜は夏苗姉さんや義母と話し合い、義父の提案した脱北を承服することを決めた。夏苗姉さんも「大好きなコウやお母さんとお父さんが行くなら、私はどこまでも付いていくよ」と言ってくれた。

 俺たちの決意を聞いて、義父は瞳を潤ませながらお礼の言葉を繰り返した。そして家族四人で抱き合った。義母も泣き出してしまい、それにつられるように夏苗姉さんと俺も泣き出した。朝は朝食を食べる前に、家族でわんわんと泣いていた。



 「コウ~、何してるの?」

 家族一緒に脱北を決意した日の夜、外の風を浴びようと近所の公園まで歩いていた俺に、夏苗姉さんがやって来た。

 「夏苗姉ちゃん……」

 「こんな時間に出歩いて、危ないよ? それに寒いんだから風邪をひいちゃうかもしれないし……」

 どうやら心配をかけてしまったようだった。わざわざ自分を捜しに外に出た夏苗姉さんに申し訳ない気分になる。

 「ごめん。 ちょっと、ふらっと外を歩きたかったんだ」

 今日のこともあって、一人で外を歩きたい気分になった。

 義父が提案した脱北。それはこの国からもう一つの日本に亡命すると言う事だ。家族皆で承諾し、生まれ育った国を捨てる決意を固めた日。

 これから先がどうなるかは、まだわからない。無事に家族全員がこの国から出ることはできるのだろうか。

 「……ねえ、コウ。 覚えてる?」

 夏苗姉さんは、いつもと変わらない声色を掛けてくる。

 「昔は、よくこの公園で遊んだよね。 冬はあの山で、ソリで滑ったり……」

 「うん、覚えてるよ」

 何せ3、4年前の話だ。夏苗姉さんは無愛想だった糞餓鬼の俺を外に連れ出して遊んでくれたものだ。

 「後ろから押してあげたら、勢い余ってソリごとひっくり返って……雪を顔に貼り付けたコウ、面白かったなぁ」

 そう、随分と遊ばれもしたが……

 「あの頃は、楽しかったね」

 「……うん」

 まだ心を開きかけていなかった頃、夏苗姉さんはそんな俺に積極的に接してくれた。俺が今の家族に心を許す最初のきっかけになったのは、夏苗姉さんのおかげかもしれない。

 「ねえ、またあの山に登ろうか。 久しぶりに、ね」

 「あ……」

 公園の中にある小ぶりの山へ駆け出す夏苗姉さん。俺もその後を付いていった。

 「小さい頃は結構高かったのに、今となっては全然そういう風に感じないなぁ」

 「そりゃそうだ。 俺たちも大きくなってるんだから」

 子供からすれば高く感じた山も、大人になった今では本当にただの小さい山だ。ここからソリや何かで滑って降りたとしても、あっけなく感じるだろう。

 「そうだね、時が経つってそういうことなんだって改めて感じさせられるよ」

 この公園も含め、この辺りは色々な思い出がある。八雲家に迎えられる前は、思い出したくもない記憶ばかりだ。でも、自分が生まれ、育ってきた故郷は確かにこの国だ。この国で思い出と言う時間を紡いで暮らしてきた。例えどんなに腐っていようが何だろうが、紛れもないこの国には俺と夏苗姉さんたちとの思い出が詰まっている。

 そんな国を捨てる。夏苗姉さんも、何か想う所があるのだろうか。

 「……雪祭り、行けなくなっちゃったね」

 「そうだね……でも、仕方ないよ……」

 夏苗姉さんと一緒に行く約束をした雪祭り。雪祭りが開かれる頃には、既に自分たちは脱北した後だろう。

 「そうね。 残念だけど……うん、仕方ない……」

 「……………」

 「ねえ、コウ。 私たちだけで雪祭りやろうか」

 「え?」

 夏苗姉さんの突拍子もない提案に、俺は思わず間抜けな反応を返す。

 「ソリ以外でも、この公園で雪だるまとかも作ったでしょ?」

 「そうだけど……」

 夏苗姉さんは山を降りると、しゃがんでせっせと手元に雪をこね始めた。俺が山を降りて近付いた時には、既に第一号が完成していた。

 「じゃん、ミニだるまですっ」

 「はえぇ。 そしてちっせぇ」

 「コウも作りなよ」

 そう言って、夏苗姉さんは楽しそうに笑う。こんな笑顔で言われては、一緒に作るしかないではないか。

 やがて二人で夜の公園でせっせと雪の芸術品もどきを大量生産するというシュールな光景が続いた。気が付いた頃には、周囲には色とりどりの雪から作られた何かが並んでいた。

 「コウのうさぎさん、可愛いね。 何気に乙女だねぇ、コウは」

 「う、うるさいよ夏苗姉ちゃん……」

 それより夏苗姉さんが大量に作ったよくわからないものがむしろ気になる。ミニだるまはまともだが、他の動物にしようとしたのはわかるシリーズは、ある意味才能と呼ぶべきものだ。

 「(変な所で不器用なんだよな、夏苗姉ちゃんは……)」

 他は完璧なのに……

 「今、とても失礼なことを思わなかった?」

 「そ、そんなことないよ……」

 二人が作った小さな雪像の数々。何だか、童心に帰ったような気分でもあった。

 雪像たちを眺めていた俺に、ふと夏苗姉さんの声が掛かる。

 「……大丈夫だよ」

 「―――ッ!」

 俺は夏苗姉さんの方に視線を向ける。夏苗姉さんはまた―――優しく、微笑んでいた。

 その微笑みと蒼い瞳に、俺は吸い込まれそうになる。

 「これからも、良い思い出は作れるよ。 だから、大丈夫だよ」

 俺の心は見透かされていた。やっぱり夏苗姉さんには、隠し事はできない。

 やっぱり、敵わないな―――

 「ずっと一緒だから。 ね」

 「………うん」

 そう言って、夏苗姉さんは俺を抱き寄せて、頬にキスをした。

 夏苗姉さんの唇の柔らかい感触が頬に当たる。

 赤くなった俺の顔を、夏苗姉さんは正面から見据えて、また優しく笑った。



 

 荷物をまとめてアパートを出る。怪しく見られないように多い荷物は持たない。街を抜け、豊平川がそばを流れる道に着く。しばらく待っていると、黒塗りの立派な車が俺たち家族の前に停まった。

 出てきたのは黒服を着た男だった。中央の人間が乗りまわすような車だったので、中央の人間かと一瞬動揺したが、義父が言うには脱北を手伝ってくれる団体の人間なのだと言う。

 南日本人と脱北に成功した北日本人による脱北支援団体が南日本国内にあるらしく、その団体の人間の一部が秘密裏に北日本国内に潜伏している。彼らは脱北エージェントとして脱北を試みる人間を支援し、脱北の手はずを整えてくれる。

 「八雲さんですね。 どうぞお乗りください」

 黒服の男に言われるままに車に乗り込む。初めて触れる総牛皮の肌触り。こんな上等の車に乗るのは生まれて初めてだった。

 「ここから函館まで行きます。 あなたたちには船に乗って海峡を渡ってもらいますので」

 それを聞いて、俺は改めて脱北するのだと思い知った。車に乗っている間、義父が脱北エージェントの男と何か話しているのを前にしながら、後部座席に座った俺は隣にいた夏苗姉さんに手を握られる。

 「大丈夫だよ、コウ」

 俺は緊張していた。そんな俺を見透かして、夏苗姉さんは俺を安心付けようと手を優しく握ってくれた。

 やがて俺は安心してしまったのか、夏苗姉さんの肩に寄り添って寝てしまった。

 四時間ほど車に揺られながら寝ていると、夏苗姉さんに起こされた時には既に函館の漁港に着いていた。

 「随分とぐっすりだったね。 コウの可愛い寝顔が見られたから嬉しいけど」

 夏苗姉さんは普段と変わらない様子で接してくれる。これも俺を不安がらせないためだろうか。

 漁港に着くと、一隻の漁船が用意されていた。漁船には漁師らしき二人の男がいて、俺たちと同じような家族連れも別にいた。

 「この船に乗って国境を越えます。 国境線付近には国境警備隊がいるので十分に注意してください」

 脱北エージェントの男は脱北の支援はしても、一緒に逃げてくれるわけではなかった。

 「私は今後もこの国で仕事を続ける義務がありますので、あなたたちとはここまでです。 無事に南へ渡ってください」

 「野田さん、本当にお世話になりました」

 「幸運を祈っています」

 そして脱北エージェントの男は車に乗って去っていった。後に残された俺たち家族は、他の家族の一団と共に、漁師らしき男の指示で漁船に乗り込んだ。

 船腹の入口を開け、男は中に入るように指示した。その中は電球の明かり一つない真っ暗闇だった。

 言われた通りに中に入ると、案外広かった。家族で身を寄せ合い、それぞれのスペースを得る。しかし俺たちの後に、今度は箱が俺たちを覆い隠すようにどんどん詰め込まれてきた。

 「ほれ、もっと奥に詰めれ。 これで隠すんだかんな」

 こっそりと箱の中を覗いてみると、中にはうねうねと動くものがあった。暗闇でよくわからなかったが、水っぽい柔らかそうな何かが動いている。そしてぎらりと輝いている。横で夏苗姉さんも覗いてきたが、中身を見るや小さく悲鳴を漏らすと頭を引っ込めてしまった。

 夏苗姉さんには気持ち悪いものとして映ったのかもしれない。俺は闇に慣れた目をこらして見詰めてみると、それが箱の中にぎっしりと詰め込まれたイカであることがわかった。暗闇の下で、大量のイカが目を輝かせながら動く姿は何とも不気味だ。

 「いいか、本船は二〇分後に出航する。 ここから十キロ程度しか離れてねえ国境にゃすぐに着く。 だが、その前に監査があるから声を出すんじゃねぇ。 でねぇと見つかって全員強制収容所行きだ」

 そこで俺は再び緊張し出した。心臓が痛いくらいに鼓動が高鳴る。握り締める夏苗姉さんの手に力がこもる。夏苗姉さんもさすがに緊張しているようだった。

 船内を検査されてもバレないように、俺たちを隠すように積まれたイカの箱の山。閉められると、周囲は真っ暗闇に包まれた。隣にいる夏苗姉さんの顔が見えない程だ。だが、夏苗姉さんの存在が握り合う手を通じて伝わってくる。

 やがてエンジンの音と振動が伝わり、船は動き出した。船腹の奥に身を潜める俺たちは、声も出さず船の揺れに身を委ねていた。

 函館と南側の対岸は、晴れた日は見える程の距離だ。海峡は約20km程度しか離れていないため、船で渡れば半日で到着する。しかしその間は北緯41度線に沿って国境線が引かれ、国境警備隊が管轄している。近いようで遠い。海峡を渡ることは簡単ではなかった。



 船が動き出してしばらくすると、船が止まった。南側に着いたには早過ぎる。皆は一様に闇の中で顔を上げ、耳を澄ませた。人の話し声が微かに聞こえる。国境警備隊の監査だ。

 闇の中で顔が見えなくても、場の雰囲気が不安と緊張に揺れるのがわかる。皆、身を縮こませて外の様子を伺う。船腹が開き、箱を取り出し、イカが入った箱や酒瓶を渡している姿が見えた。国境の警備より賄賂を求めるばかりに監査を行おうとする兵士の姿を見て、俺は軍人に対する失望感が沸いてきたような気がした。

 脱北を取り締まるのではなく、私欲を貪る。この国は腐っていると言った義父の言葉に納得した。

 しかしこれなら難を逃れそうだ。取締より賄賂を目的としているのなら、こちらとしても助かると言える。賄賂を渡してしまえば見逃してくれると言うことなのだから。


 俺がそう安堵しかけた時―――ぞっとしたものを感じた。


 賄賂を受け取る兵士のそばに、一人だけ異様な雰囲気を持つ男がいた。格好からして兵士ではない。その男が、脱北の取締を主導する政治総省の将校であることは一目でわかった。

 男の瞳は鋭く、それに捕まれば逃げられないような錯覚を覚えた。まるで獣のような目。自然と身体が震え出した。絶対に見つかってはいけないと思った。

 賄賂の品しか見ていない兵士とは違い、その政治将校は鋭く船の各所を観察していた。そしてその視線がこちらに向けられそうになった所で、俺は慌てて隠れた。

 「どうかされたんかい?」

 「今、船腹から物音がしなかったか」

 「さぁ、聞こえなかったなぁ。 海猫の声でも聞いたんだべ」

 「そんな音には聞こえなかったが……そこに何か居るのか」

 「たった今お前さんたちにやったモンしかねぇよ。 そこまで言うなら調べてみっか?」

 「そうさせてもらおう」

 一連の会話を聞き、俺たちは全員息を殺した。船腹の入口が開けられ、光が射し込む。しかしそれ以上光が入ってくることはなかった。やがて光は何も見つけられずに引っ込んだ。

 「気のせいか……」

 「言ったでねえか。 ほれ、閉めれ閉めれ」

 緊張の糸が張り詰められたまま、入口が閉められる。

 「海には色んな音が意外とするもんだからなぁ。 これ、余市極上のワインだ。 持って行ってくれよ」

 「……ふん」

 政治将校の無粋な鼻息が聞こえた側らで、兵士の喜ぶ声が聞こえる。おそらく差し出されたワインを受け取ったのは将校ではなく兵士の方のようだった。

 「漁は規則に従って行うように。 決して国境を越えるような真似はするなよ」

 やがて何人かが船から立ち去る音が聞こえると、再びエンジンのけたましい音が響き渡って、船は動き出した。やり過ごした、と言うほっとした安堵の雰囲気が船内に広がった。

 俺のすぐそばから、夏苗姉さんの安堵の吐息が触れた。俺は夏苗姉さんの手を改めて握り締める。暗闇の中、夏苗姉さんが俺に笑いかけてくれる気配が伝わった。

 「もうすぐ国境だ」

 船を操舵する男の声が船腹に伝えられる。船腹は初めて喜びに沸く。国境を越えれば、南日本の地までもう少しだ。国境さえ越えることができれば、北にはなかった自由と安住の地が待っている。そう信じて疑わない人間たちが、喜びと安心感に浸るのは当然のことだった。

 俺も夏苗姉さんに声を掛けようとした、その瞬間―――

 「見つかった!!」

 突然、悲鳴に近い声が聞こえたかと思うと、それを掻き消すような甲高い音が響き渡った。それは俺のもとから全てを奪う所業の幕開けだった―――

 

■解説



●雪祭り

札幌市内の大通革命広場を中心にして催される雪と氷の祭典。主に大通革命広場内で制作された雪像等が展示される。元々は党の宣伝目的によって開かれ、党中央委員会が主催となり企画、運営をしているが、今や国内に限らず海外からの観光客が訪れる程の一大人気イベントと化している。


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