第三十三話 これは覚めない夢なのです。
五回目の給料日がやってきた。ジークの明細と私の明細、これまでの家計簿を机に並べて、もう一度計算しなおす。給与のほとんどは宰相が直接管理する王城の出納室に預けていて、国が潰れるようなことがなければ安全。国王と王子の鬼畜行為を考えると、そこはかとなく不安があっても部屋に大金を保管するのは怖い。
「目標金額に達したわ!」
家を買って家具をそろえることができる程度の金額にはなった。生活費もあるからもう一、二カ月働く必要があるかと思っていたけれど、ジークの特別手当が大きい。
「そろそろ正式に物件を探しに行くか!」
「早く決めて、家具も注文しないとね!」
立ち上がったジークと二人手を取って、部屋でくるりと踊るように回って抱き合う。
結婚式の時にダンスをしてみたいというとジークが教えてくれた。ワルツに似た優雅なダンス。慣れたエスコートに嫉妬したけれど、情けない顔で謝罪されて許してしまった。
この国の結婚式は赤のドレスを着るのが普通でも、私はやっぱり白が着たいと思う。皆に話すとローゼマリーの家では花嫁が好きな色を着るのが昔からの伝統だと教えてくれて、サリアも自分の好きな色が着たいと目を輝かせた。
◆
昼と夜に魔術師の弟子の一部が顔を見せるようになった。下は十歳、上は十六歳の少年が十人。食事後にグスタフとフォルカーが食器を洗うのを見て、分担して食器洗いをしてくれるようになった。
弟子たちの夕食は少し早めにして、大人たちの夕食は少し後にずらした。人数が多いからというのは建前で、未成年の前ではお酒が飲みにくいというのが理由。
「皆、すっごい食べるわねー」
サリアが苦笑しながら肉の下ごしらえをする。山のように作っても、からあげや肉類は争奪戦になる。
「成長期だしねー。朝も食べてくれたらいいんだけど」
朝は食べなかったり、クッキーやドーナツをかじって済ませることが多いらしい。朝食も用意するとは言っていても、ぎりぎりまで寝ていたいと言われると、どこの世界も同じなのかと苦笑するしかない。
慌ただしくて、楽しい毎日があっという間に過ぎていく。半年も過ぎ、これは夢だと考えることが少なくなった。精霊が手伝ってくれることも、魔法があることも、当たり前の自然な物と思うようになっていた。
◆
それは何の変哲もない午後だった。
突然赤い目をしたジークがマントに包んだエーベルハルトを担いで寮へと駆け込んできた。
「魔法で酷い怪我をしてる、止血はしているが、サタルーシュを呼んできてくれ!」
ジークの叫びに応じたサリアが、王城の医務室へと走った。
ジークの指示で床に敷いた布の上にエーベルハルトが寝かされた。シャツの襟元から胸ににじむ血が酷い。ジークが魔法で時間を止めているからか。血は流れていない。エーベルハルトに触れないようにと、少し離れるように言われたので、お湯やタオルを準備する。
「この前捕まえた魔術師の仕業だ。口止めの呪いが掛けられていたらしい。エーベルハルトが事情を話そうとした途端に呪いが発動した」
ぎりりとジークが歯噛みした。気が付かなかった自分が悔しいのだろう。
「くそっ!」
床を殴りつけたジークは、魔法陣を刻んだ赤い魔法石を口に入れて噛み砕いて飲み込んだ。
『ジーク! 何してるの! 人間がそんなことしたら、おかしくなるわよ!』
ラトリーが顔色を変えて叫んだ。
「……トーコ、すまん。俺はエーベルハルトを助けたい」
「どういうこと?」
ジークの言葉を聞いて複雑な感情が沸き上がる。
「魔力補充に魔法石を直接体に取り込んでる。俺の……」
説明を聞こうとした所で扉が大きく開いた。
「まだ生きてるか!? ……ジーク? お前、何をした!」
部屋に駆け込んできたサタルーシュも、ジークを見て顔色を変えた。それ程に異常事態なのだろうか。
「俺の話は後だ。エーベルハルトは、俺の魔法で時間を止めている。魔術師の口止めの呪いらしい。喉が裂けた瞬間に時間を止めたが、胸も裂けかけてるから続きがあるかもしれない」
早口で説明したジークがエーベルハルトの首に巻いていた布を取り去って、シャツを開いた。喉が裂けたような大きな傷と、胸の辺りも不自然に盛り上がっていて裂けようとしている。
熟れて割れたザクロのような傷口に私は衝撃を受けた。あまりにも強い衝撃に、指一本すら動かすこともできずに立ち尽くす。
「くそっ。土と闇属性の魔法か!」
あちこちを触診していたサタルーシュもぎりりと歯噛みした。サタルーシュは水と風の属性で、他の属性の魔法は解析に時間がかかるらしい。
「グスタフとフォルカーはいるか?」
「……ふ、二人とも隣町に行ってるわ!」
今はショックを受けている場合じゃない。辛うじて出た自分の声で、無理矢理に現状へ意識を戻す。グスタフは水と土の属性、フォルカーは水と闇の属性。今日は新しい弟子を迎えに隣町に出かけている。
「王城に魔術師を呼びに行ってくる。ジーク、お前の魔法はどれくらい持つ?」
「戻ってくるまで、持たせる。必ず」
サタルーシュが立ち上がろうとしたとき、扉の外から部屋を覗いていた精霊たちの中から、代表するようにドゥレイクが転がり込んできた。
『待て。わしが呪いを呼び出す』
そう言ったドゥレイクの口から、泥のような闇が吐き出された。闇が子供の形になって、エーベルハルトに手を差し出した。
部屋の床だけが、どくりと音を立てて鳴動した。エーベルハルトの口の中から、黒い煙が湧き出して骨ばった腕を形作る。腕が子供の手を握りしめたと同時に、子供が鎖に変化して腕を拘束した。
『トーコ! こいつに触れ!』
ドゥレイクが私を呼んだ。
駆け寄った私が触れた途端、黒い腕は薄いガラスが割れるような音を立てて勢いよく砕け散った。ぱりんと何かが割れる音がエーベルハルトの中から連続して起きて、そのうち静かになった。
「消えた! よし、治療を開始する!」
サタルーシュが両手をエーベルハルトの喉にかざした。歌うような呪文が始まると、光の糸が喉の組織を縫い合わせていく。
「薬草もらってきたわ!」
駆け込んできたサリアから薬草を貰って、すり鉢ですり潰して汁を絞る。その間もジークの目は赤いままで、サタルーシュは治療を続けている。
一時間程で喉と胸の傷が治療された。闇魔法が関わる傷なので、うっすらと傷が残るのはどうしようもないらしい。ジークが時間停止の魔法を解くとエーベルハルトは普通に呼吸を始めた。サタルーシュが口の中やあちこちを調べたけれど、普通に眠っているように見える。
起きたら薬草の汁を飲ませれば大丈夫だと言った後、サタルーシュが崩れ落ちた。
「サタルーシュ!」
悲鳴のような声を上げ、サリアが駆け寄る。
「あー、ごめん。ごめん。大丈夫、ちょっと深すぎる傷だったから、いつもより魔力を使い過ぎただけだから」
すぐに気が付いたサタルーシュが、泣いているサリアの髪を撫でながら笑う。二人には部屋に戻ってもらって、エーベルハルトはベッドへと移した。ドゥレイクも精霊たちも、何かを恐れるように部屋から出て行ってしまった。
エーベルハルトの状態は安定している。濡れたタオルで血を拭うと、普通に眠っているのと変わらない。
目が赤いままのジークが私の手を取った。
「トーコ……すまん。俺は狂うかもしれない」
「どうしてそんなこというの?」
いつもと違う、真剣な赤い目が綺麗過ぎて怖い。
「エーベルハルトの喉が裂けた時、咄嗟に時間停止の魔法を掛けた。すぐに魔力が切れて、魔法が解けそうになって、魔力がないなら直接補給すればいいんじゃないかって考えた。それで魔法石を口に放り込んだ。もう五個を口にしてる」
ジークが溜息を吐いた。
「一つ目を口にしてから、誰かの声が聞こえるんだ。今は五人の声が聞こえる」
「どんな声が聞こえるの?」
「いろいろだ……」
崩れ落ちるように椅子に座り込んだジークの頭をそっと抱え込む。
魔法石というのは湖や森や山で大量に採取される石。魔力を帯びた石ということで、昔から燃料替わりに使われてきた魔力の電池のようなもの。魔力が消費されると消えてしまう不思議な石。
不思議な石には、魂が宿っているのだろうか。魔力がなくなったら、消えるのではないだろうか。
「ジーク、私にいろんな魔法を見せて。取り込んだ魔力を全部使い切ったら消えるかもしれないわ」
ジークの髪を撫でながら私は提案してみた。
「……何が見たい?」
「何か、花が、見てみたいかな。王城以外で咲く花」
囁くと、ひらりひらりと光の花びらが降ってきた。
「綺麗……」
呟いた瞬間、エーベルハルトの部屋の景色が一変した。
どこまでも広がる緑の草原に大きな一本の桜。夜の空には久しぶりに見る白い満月。風もないのに、ひらひらと花びらが散る。桜の花びらの一枚一枚が発光しているように見えて、少し怖い。
椅子から立ち上がったジークが私の肩を抱いた。
「昔、知人に見せてもらった光景だ。この世界にはない花だから名前がわからない」
「あの花は桜よ。……私が生きていた世界の……日本の花」
はらはらと舞い散る桜が懐かしい。ここ数年は桜を見る余裕もなかった。もっとちゃんと見ておけばよかったと後悔が心に広がる。
「サクラか。綺麗な花だな」
「そう。綺麗で、はかなくて、どこか怖い花よ」
肩を抱くジークの手に手を重ねる。暖かいジークの手を感じながら、隣に並んだジークに寄りかかる。ジークの心臓の音が不自然に早い。
エーベルハルトの裂けた傷を見た瞬間、私はこの世界に来る直前のことを思い出した。
あの日、私は久しぶりに服を買おうと新宿駅を歩いていた。駅にはいろんな人が行き交っていた。目の前を歩いていた女性の大きな旅行鞄を避けて追い抜こうとした瞬間、前から歩いてきた男が何かを叫びながらジャンパーの前を開けるのが見えた。腰に巻かれていたのは茶色の包み。
反射的に後ろを向いて走り出したけど、一歩も進まないうちに白い光に飲み込まれて、自分の体が裂けてちぎれていくのを見た。……おそらくというより、間違いなく私は死んでいる。
ずっと夢だと思っていたけれど、ここは死後の世界の一つなのかもしれない。
不思議と悲しみや驚きはなくて、心は凪いでいる。
今、隣にジークがいてくれて、本当に良かったと思う。
ジークに寄りかかっている間も、桜の花びらはほろほろと舞い落ちる。
「トーコ、元の世界に帰りたいのか?」
「……帰れないわ」
きっと、もう死んでいるし、帰りたいとは思わない。ジークと一緒にいる方がいい。
「この世界に呼んでしまったこと、迷惑じゃなかったか?」
「迷惑なんかじゃないわよ。毎日楽しいもの」
ジークの声が不安に揺れている。ついつい可愛いと思ってしまうけれど、今の私には楽しむ余裕はなかった。
しばらく無言で桜を見上げていると、ジークが安堵の息を吐いた。
ゆっくりと夜空がとろりと溶けていく。
桜の木も月も草原も、火にかけたチョコレートのように溶けていく。
魔法の世界は溶けてなくなって、エーベルハルトの部屋に戻ってきた。
「……本当だ。トーコの言うとおりだ。声が消えた」
そう言って、ジークが強く抱きしめてくる。頬に感じる涙は私の物なのか、ジークの物なのかわからない。
「ジーク……この世界って何なの?」
「ここは女神が作った世界だと言われている。どうした?」
「……元の世界の私、たぶん死んでる。この世界は夢だって、ずっと思ってた。現実味があるけど、いつか覚める夢だって思ってた。……でも、私は死んでる。だとしたら、ここは死後の世界なの?」
「ここは死後の世界なんかじゃない。俺はずっとこの世界で生きてきたし、トーコは生きてる。間違いない」
一際強く抱きしめて、ジークがゆっくりと腕を緩めた。
「覚めない夢でいいじゃないか。俺もトーコに出会えたことは夢じゃないかって思ってた。毎日、夢みたいな生活だ」
向かい合って見つめ合いながら緑の瞳に戻ったジークが笑う。
覚めない夢。そう思っていいんだろうか。
元の世界に戻れないとは思うけれど、この世界が現実だと納得するには時間がかかると思う。
「トーコ? ダメか?」
ジークの眉尻が下がった。かすかに涙目になった情けない顔がどうしようもなく可愛くて、好き。ジークと一緒に居られるなら、夢でも何でもいいのかもしれない。
「そうね。きっとこれは覚めない夢なのよ」
ジークの目を見て微笑むと、強く強く抱きしめられた。




