前世の私、今の私 (2)
「君、それなのに僕との婚約話を破談にしちゃって良かったの? 噂なんてどうしたって誇張されるんだから今世でも結婚できなくなっちゃうよ」
「そうよねぇ……私の評判も悪いし、いっそ平民に嫁げたらいいのに」
あまりにも公爵令嬢らしからぬことをあっけらかんと言ったせいか、ヴィードの動きが一瞬止まり「……本気で言ってる?」と探るような視線を送られた。
「ええ、もちろん。私のことを誰も知らない土地で二人で小さなお店を開けたら理想ね。……あ、そういえば前世で会った商家出身の騎士見習いの人がいたんだけど、彼がすごく良い条件の店を紹介してくれたことがあって――…」
皇族のヴィードは庶民の店事情なんてきっと知らないことだろうと、やや得意げに話してみせた……のに。その声はすぐさま尻すぼみになって口ごもってしまう。
目の前の彼はとても綺麗な笑顔を浮かべてるのに、目の奥が笑ってないように見えて少しだけ怯んでしまった。
「どうしたの? 話を続けてごらんよ。――もっと価値のあるものを君に贈ってあげるから」
ゆっくりと距離を詰めて近づいてきたヴィードから、不自然にならない程度に離れるよう座る位置をずらす。それを誤魔化すように「冗談にしては重いわよ」と会話を続ければ、彼は人好きのする笑みで「冗談なんか言ってないよ」と即答した。
「君が欲しいものは何でも僕が揃えてあげる。たとえ世界に一つしかない宝石でも、砂漠の果てにある黄金の山でも――どこかの国そのものでも。望むなら全部取ってきてあげるよ、君のためだけにね」
……あぁ、また彼の悪い癖が出てしまった。“私”という、自分の遊び道具を他人に取られるといつも変な癇癪を起こすのだ。
「ねえ、だから早く話の続きを教えてよ――その男は君に何て言ったの」
いよいよソファの隅に追いつめられる。私が逃げ出せないよう手を掴まれ、彼の顔が間近に迫ってきた。……いたずらに戯れてるだけだろうが、彼がたまに見せるこの甘ったるい表情と声はとても苦手だ。
「……殿下、恐れながら申し上げます。皇族の権力をそのように乱用してはなりません。以前にも申し上げたはずですよ、お忘れになったわけではないでしょう?」
「ベル、その話し方は好きじゃないって言ったよね。それに僕と二人でいる時は“ヴィード”って名前で呼ぶ約束でしょ」
「それとこれとは話が別です。家臣としてお諫めする時に馴れ馴れしくなど――」
「ダメだよ、ベル」と、私の言葉を遮るようにヴィードのやわらかい声が響き、彼の右手が私の頬をするりと撫でた。
「君は家臣じゃなくて家族として――妻として僕の隣に立つんだから。ずっと昔からの約束事だろう? 君こそ忘れてしまったのかい――ベルアンナ・グラリエ・フィアトラール」
「――……っ!?」
――どうか、私の聞き間違いであってほしい。
“グラリエ”のミドルネームは私が前世の十六歳の時に皇太子妃の任命式で授かったものだ。皇后様が熟考してくださったその名を、目の前の彼が知ってるはずがないのに。
(うそでしょ。なんで、なんで――)
よく知った顔が脳内にチラつく。ありえない。ありえるはずがない。だってそんな素振りは今まで一度も見せなかったじゃない。
あまりの動揺に無意識に立ち上がって後ずさる――が、突然腕を引っ張られてしまえば後はもうヴィードの方に倒れ込むしかできなかった。
ヴィードに背を向ける形で彼の脚の間に座らされ、肩に顎が乗せられる。掴まれた両腕を振りほどこうとしたが、「皇族が怪我すると面倒だよね」という言葉に思わず固まってしまった。
「君に嫌われてるだろうなぁとは思ったけれど。まさか僕の不在を狙ってこんなに用意周到に婚約破棄にまで持っていかれるとは思ってなかったなぁ」
「ヴィード…リッヒ…様」
「うん、やっと本当の挨拶ができて嬉しいよ、僕の可愛いベルアンナ。でも堅っ苦しいのは嫌だからこれからもヴィードって呼んでね」
後ろからギュッとお腹に手を回され、スリ、と肩口に頭を擦りつけられる。……おかしい。本当にあのヴィードリッヒ殿下なのだろうか。前の彼は品行方正で紳士的でとても穏やかな――こんなベタベタくっついて話すようなタイプではなかったのに。
口が悪い彼は、前世と同じ彼ではないのだとある種の安堵があったのに、今やそれらがガラガラと崩れていく。
「本当はね、この秘密を話すのはもう少し後のつもりだったんだ。でもそんな悠長なことしてたら君ってば本当に平民に嫁ぎそうなんだもん」
「…………あなたは誰なのですか」
「おや、もう答えにたどり着いてるのにおかしな質問をするね。今世の君の頭の回転は早くなってるように思えたんだけど」
――それは前世の私は頭が弱かったということか。そこまで分かりやすく喧嘩を売られたのなら買わねば、前世の八百屋のマダムに叱られるというものだ。身一つで放り出され、人生の荒波に揉まれに揉まれた私はもう馬鹿にされて笑ってられるほどお人好しでもない。
「お言葉を返しますがヴィードリッヒ様、前世のあなたは紳士の鑑でしたのに、このような品のない振る舞いはいかがかと思います。――それとも、私にはそのような気遣いを見せるほどの価値すら無いと暗に仰ってます?」
勢いのままに言い切ると、拘束の力が少しだけ弱まる。前世のヴィードリッヒ相手に喧嘩を売るなんて自分でも正気とは思えないが、このままなし崩しで相手に丸め込まれるより数百倍マシだ。
(せめてあと数年は平穏に生きたかったけど…)
不敬罪とはいえ一週間の投獄ぐらいで許してくれないだろうか。なんて馬鹿げたことを考えながら恐る恐る後ろを振り返ると、困ったように眉を下げて笑うヴィードと目が合った。
……昔の彼を思い出し、僅かに懐かしさがこみ上げてきた。前世の生涯の中でこの年の頃が一番楽しかったかもしれないと、目の奥がほんの少しだけツンとする。
「……君は“いい子の僕”の方が好き?」
“はい”とも“いいえ”とも言えない問いかけに「……以前とあまりにも違って戸惑っただけです」と濁した答えしか返せない私を見て、ヴィードは自嘲気味に小さな笑みを口元に浮かべた。
「お利口さんは馬鹿を見るだけだってよく学んだから。形振り構ってたら今世でも君に逃げられるだろうし」
(……何ですって?)
まるで私の方から逃げだしたみたいな言い方ではないか。――本当に腹が立つ。馬鹿にするのも大概にしなさいよ。
「先に婚約破棄をしてきたのはあなたでしょう」
――彼女と、一緒に。
聖なる光に身を包んだ、本物の運命の人と結婚するために、私を捨てたのだ。私は逃げたくなかったのに逃げなければいけない状況に陥らせたのだ。
……悔しくて、認めたくなくて、その言葉は口に出せなかったけれど、ヴィードには十分伝わったのか彼はまた私の肩口に顔をうずめた。
「…うん、そうだね。先に裏切ったのは僕の方で、君を責める資格なんて一欠片も無いって分かってる――たくさん傷つけてごめん」
「……ら、……っ」
「ベル…?」
「今さら、何で謝るんですか…ッ!!」
不意に怒りが爆発して、ありったけの力でヴィードの手を振り払う。それと同時に我慢していた涙がついに零れ落ちてしまったのを慌てて拭った。
「そのたった一つの謝罪であの時のことが全て許されるとお思いですか? 無実の私を追い詰めるほどに私が嫌いだったのでしょう? 誰にも救いを求めることができなかった私の気持ちなんて殿下には一生理解できないでしょうね」
あの時言えなかった言葉の波が濁流のように押し寄せる。愛していた婚約者も信じていた友も心の支えであった家族でさえも一瞬で全て失ったのだ。唯一私の価値を証明してくれる“フィアトラール”という家名すらも取り上げられて、私という存在そのものが消えたのだ。悲しいなんて思う暇などないくらいにいろんなものから死に物狂いで逃げなければいけなかったのだ。
――目の前のこの男のせいで。それなのにッ…!




