とある奇妙な令嬢の話《ロルフ視点》
――ベルアンナ・フィアトラール。
それは以前からよく耳にする、とある令嬢の名前だ。
己のように幼い時から騎士団に所属し、社交界から遠ざかっている身でさえ知っているほどなのだから、茶会やパーティーに出席するような同年代の貴族の子供であれば、ほぼ全員が知っていると思っていいいだろう。
そもそも彼女は時の権力者であるフィアトラール公爵家の一員であり、それだけで相当目立つ存在である。
アステリア帝国の宰相を歴代最年少で務める大公閣下、かつて聖女として帝国の危機を救った大公夫人、貴族学院で万年首位を維持し続け父親の記録も塗り替えると呼び声高い第一公子、類まれなる美貌を持ち国内に限らず他国の王侯貴族からも求婚が絶えない第二公女。
――そんな華麗なる一家に属する第一公女という立場の彼女が目立たないわけがないのだ。
けれど。
彼のご令嬢はその立派な家名にまつわる話ではなく“変わり者”という意味で話の引き合いに出されることの方が多かった。
今となっては“不作法者”の代名詞で使う者も決して少なくないだろう。
とは言うものの、とある年になるまではベルアンナ公女は社交の中心に咲く華であったらしい。決してその場を支配してるわけではないのに、彼女の声や姿を人々は自然と目で追ってしまうのだという。
けれどいつからか、彼女は社交の場によく現れるのに誰とも交流せず、自ら進んで壁の花に徹するようになっていた。それどころか社交という意義を持つ場で一人読書に耽るという奇妙な行いをし始めたのだ。
そんな彼女に、最初は根気強く話しかけていた者たちも全く相手にされないと分かれば離れていき、次第に話しかける者も少なくなっていった。
場を乱す行いに不満を持つ者も現れだしたが、天下のフィアトラールのご令嬢に表立って物申せる人間などほぼいないに等しく。だけれども家格が高い彼女を招かないという選択はなく。そして何故か、公女は交流を目的としないのに参加を断りもしない。
その後も彼女はあらゆるところでただの傍観者として過ごし続けていたという。
その理由をゴシップ記者のように推測する者は星の数より多い。
高嶺の花気取りで他人を見下してるだの、フィアトラール家に釣り合う人間がいないことを示してるだの、一族の中では平凡以下ゆえの自信のなさの表れだの、だから家族との関係が悪化して捻くれただの――概ね悪い方の噂として現在進行形でまことしやかにささやかれている。
――そう、僕が知ってるベルアンナ・フィアトラールという少女はそれが全てだった。
栄えある一族に生まれながら不名誉な振る舞いを慎まない、貴族としてあるまじき姿を晒しているご令嬢――その認識でしかない、遠い存在の人間であったはずなのに。
「……姉様、眠いならきちんと横になってください。壁に頭をぶつけそうでこちらが冷や冷やするので」
貧民街からの帰りの馬車の中。ベルアンナ嬢が眠気でふらついてはハッと起き上がることを二、三度繰り返したところで、ついに口が出てしまった。何でこの人はこうも危なっかしいのか。
そんな風に呆れた言葉と視線を送ったはずなのに、返ってきたのは彼女の小さな笑い声で。何か馬鹿にされたのかとムッとすれば「気づいてないの?」という問いに、またも意味が分からず首を傾げた。
「もう“姉様”って呼ばなくていいのよヴィンセント卿。苦労をかけたわね」
言われてハッとした。彼女に指摘されるまで全く気付かなかった自分を思いきり殴りたい。あんなに違和感しかなかったはずなのに、何を当たり前のように呼んでいるんだ僕は。
頭の中でこれでもかというほど自分を罵りつつ、そんなことを一切悟られないように「……“今日一日”は弟になれと仰ったので」と苦し紛れの言い訳を述べておくことにした。
「別に呼びたかったら引き続きそう呼んでくれても構わないけど?」
「………遠慮しておきます。あの方に剣を突きつけられそうですし」
「大丈夫よ、ヴィードはそれぐらいじゃ剣を向けたりしないわ」
おもしろい冗談だとでも言うように笑いだした彼女に思わず遠い目になる。と同時に一瞬だけ真面目に聞いてみたくなった。逆に何でそう思えるのですか、と。
どう考えたって殿下は迷うことなく剣を抜き僕の首先に当てて薄皮一枚を切るぐらいはするだろう。普段何を考えていらっしゃるか全く分からないお方だが、それだけは自信を持って言える。
ヴィードリッヒ様を主として仕えてまだ一年と少しではあるものの一つだけ学んだ……いや、学習せざるを得ないことがあった。
ことベルアンナ嬢において主は――異常なほど過敏である、と。
色恋のことなど興味はないし具体的にどんなものかも知らない。けれど、主のあの感情がそんな言葉に収まるものではないだろうということだけは分かる。
……目の前にいる彼女はきっと、“それ”から絶対に逃れられないのだろうなということも。
(…………幸せなことではあるはずだ)
貴族の物事に当てはめて考えればこれ以上にないほどの幸福だ。ゆくゆくはこの国の最高権力者となるお方と結ばれるのだから。何も不自由なく絢爛豪華な暮らしが約束されているのだから。
そう思うのに。どうしても余計な考えが頭を過る。
――彼女は本当にそれで幸せだと思えるのだろうか。
「ヴィンセント卿? 急に黙り込んでどうしたの? 何かマズいことでも?」
「……いえ、ふと感慨深くなったんです。まさか貴女とこんな軽口を叩き合う日が訪れるなんて想像もしていなかったので」
気を紛らわせるように放った言葉は別の本音だった。
彼女について知っているのはせいぜい周りの噂程度で。主は彼女の話を滅多に僕には聞かせない。ゆえに遠い存在でしかなかったフィアトラール家のご令嬢だったが――今は違う。
華やかなパーティーで笑わないと言われていた彼女は、あんなに何度も笑っていた。貴族たちの前で人形のように佇むと言われていたご令嬢は、情がある一人の人間であった。
「私の方がそう思ってるわよ。あなたがこんなに優しい人だったなんて知らなかったもの」
今まで一度も評されたことがない内容に苦笑する。自分が属しているのは生温い優しさなんてものを持てば簡単に淘汰されて死んでいく社会だ。自らの生存率を上げるためには他者を切り捨てて己が這い上がるしかない。
だからこそ他人に優しさを施す意義も感じられなかったし、むしろそんな風に思われないように振る舞ってたのに――彼女からそのように思われているのは不思議と不快ではないと思った自分に正直驚いた。
(まさか自分が平民に頭を下げる日が来るとは…夢にも思わなかったけれど)
泣きそうになっていたあの時の彼女が思い起こされる。僕だって由緒ある侯爵家の一員だ、プライドだってそこそこにある。それなのに、普段なら恩を売っておこうと打算まみれになるはずの場面で、何も考えずに言葉を紡いでいた。ただ何となく彼女が泣く姿はあまり見たくないという幼稚な理由だけで。
(――あぁ…そうか)
唐突に自分の中で腑に落ちた。
結局は、目の前で笑っているこの人がこれからも穏やかに笑っていられる世界であれば僕にとっては何でもいいのだ、と。
彼女の本当の幸せがどこにあるかなど出会ったばかりの僕に検討がつくはずもない。ヴィードリッヒ殿下と一緒になることが彼女にとって幸せなのか、はたまた別の道を選んだ方が幸せなのか。それは彼女自身が決めるべきことで僕が決めつけることでは決してない――それでも。
願わくば、この優しい彼女がどんな選択をしたとしても優しいままに受け入れられる世界であってほしい。
ただ真っ直ぐに生きてきた善良な少女が、
誰に陥れられることもなく、
矜持を奪われることもなく、
理不尽にさらされず、
きちんと報われるような、そんな世界に。
それが叶わないのならば、たとえ己の身を危険にさらすことだとしても必ず僕が道を開いてみせよう――――――……?
そんな考えに至った自分に、ふと違和感を抱いた。
僕は何故こんなにも後悔の気持ちに苛まれてるのだろうか、と。
別に彼女の人生が報われてないとまでは思っていない。最高位の貴族令嬢としての悩みは多少あるだろうが、あの家に生まれた身の上で生きるか死ぬかといったようなそんな大層なことが降りかかるはずもないのだから。
そう、頭では分かっているのに――。
「……ねえヴィンセント卿、本当に大丈夫? ものすごい百面相になってるわよ。あなた、無表情が専売特許のはずなのに」
ベルアンナ嬢の声により思考が途切れ、視界が現実を移す――と同時に思わず自分の両手をグッと固く握りしめた。彼女の鮮やかな若草色の瞳がすぐ目の前にあるうえ、やわらかい手のひらが自分の額に当てられていたからだ。
「な、にして――」
「熱でもあるのかと思って。ストレス過多で体調崩したならさすがに看病ぐらいはするわよ」
「……騎士団所属の者がそんなにひ弱なら今頃全員死んでます」
まるで本当の姉と弟のような距離感にむずがゆくなる。……血のつながりのある家族の方では絶対にない距離感だなと少しだけ可笑しくなった。
「早くお座りください。走行中の馬車の中では決して立ち上がらないように。怪我でもされたら僕の首が物理的に飛ばされるので」
「……あなた、もういろいろ隠さなくなったわね。そういうところは普通に綺麗に取り繕ってくれて構わな――――?!」
ほら、言ったことか。急停止した馬車の振動で転びそうになったベルアンナ嬢を急いで抱え、自分が下敷きになるよう床に座り込んでホッと息をつく。
自身の体にいくつかすり傷はできただろうが、命が尽きることに比べれば全然大したものでは……
「へぇ、こんなに堂々と浮気されたの初めてだよ。修羅場ってこういうところから始まるんだね」
――享年九歳か。僕の人生、短かったな。
馬車の扉からニコニコと現れた我が主の姿に、とりあえず両手を挙げて反抗の意思はないことを示すしか僕にはできなかったのであった。
◆
「――だから悪いのは勝手に立ち上がった私であってヴィンセント卿は咄嗟に庇ってくれただけなんだってば」
「でも彼なら咄嗟といえどもっとスマートに助けられるぐらいの身体能力はあるはずだけど。あの体たらくは職務怠慢じゃないかなぁ」
「なんでそんな結論になるのよ!」
かれこれ五分くらいは同じ話をしてるんじゃないだろうかこの二人。
ベルアンナ嬢が僕を庇い続ける限りヴィードリッヒ殿下が適当なこじつけで僕をあげつらうことを止めるはずがない、ということに彼女はきっと気づいていない。
もはや論点の中心にされてる自分の方が飽きてきた。なんせ馬車を下りてすぐの乗り場から一歩も動かずこの話題を続けているのだから。
「――ええ、殿下の仰る通りです。職務に対する私の意識が足りてませんでした」
再び彼らの話がループに入りそうになったところで、もういい加減にしてくれと念じながら割り込めば、思った以上に熱くなっていたらしいベルアンナ嬢が「ロルフ!!」と怒ったように僕の名を呼んだ。
「こんな理不尽なことに屈するべきじゃないわ。どう考えたってヴィードの難癖の方が悪いのに――」
「ねえ名前まで呼び合うほど仲を深めたなんて聞いてないんだけど」
(ああ、断頭台がいよいよ見えてきた)
まさかこんな短時間で二回も死の危機が訪れるなど誰が予知できただろうか。
特大の地雷を華麗に踏み抜いていった令嬢は「そんなことどうでもいいでしょう」と言うが、こっちの話の方がとてつもなく重大だ。下手すると本当に僕の首が飛ぶ。
「さて、いよいよ君と一対一で話し合うべき時が来たかな? ロルフくん」
背中がゾワリと身の毛よだつ。初めて彼に個人名で呼ばれた。もう一生呼ばれなくていい。
(どう答えても絶体納得しないだろこの人……)
主が誤解で暴走しないよう、かつ、ベルアンナ嬢の今日の行動は報告しないという守秘義務に反しないような説明など無理に決まってる。
という答えを0.1秒ではじき出した結果、「特殊な事情があったのです。詳細は姉様にお伺いください」と全てベルアンナ嬢に丸投げすることにした。夫婦喧嘩は犬も食わないのだから僕だって食らいたくない。
「ふーん、“姉様”ねぇ――詳しく教えてくれる? ベルアンナ」
「………」
問われた彼女はあからさまに視線を逸らして口をつぐんだ。何故かは分からないが今日あった出来事をよっぽど主に知られたくないらしい。貧民街に行くことを許可したのは主本人なのだから、内容を伝えたとてそこまで深刻になることはないと思うのだが…。
などと余計な口を挟むと今回は拗れそうなので何も言わず、ただ二人の動向を見守る。すると意外にもヴィードリッヒ殿下の方が「まあこれ以上ベルを困らせるのはかわいそうかな」と先に折れる兆しを見せた。
やはりベルアンナ嬢にはこの皇子でも譲歩ができるのか――と感心したのも束の間。
「でも僕もカワイソウだよねぇ。愛しい人の事情を何も聞かずに、いつ帰るかも分からず今か今かと健気に待ち続けて、ようやく会えたと思ったらその人は別の男の腕の中にいるんだもん」
三文芝居も斯くやというほど下手くそな泣き真似を披露しながら、我が主は話の流れをとてつもなく面倒な方向に急転直下させた。それを察知したのはベルアンナ嬢も同様らしく、次に何を吹っ掛けてくるのだという潔い諦観の念さえ感じられる。
僕自身も以前やられた身に覚えのある手口だ。諦めるしかないという心構えになるのもよく分かる。不覚にもそこで初めて彼女に親しみというものを覚えたかもしれない。
「ねえ、ベル。実は僕、シェアモンテ家のご令嬢から茶会の招待を受けてるんだ」
「あら羨ましい。あそこの茶会は立食できる料理の種類が豊富でつい目移りしちゃうのよね。楽しんでくるといいわ」
「……パレハの公的なお披露目までにどうしても自分をそこにねじ込みたいっていう魂胆があるみたいでさ」
「そうなの? 確かに新興貴族で台頭してきた中では一番勢力のあるところかしら。フィアトラール家でも昨年の織物産業ではシェアモンテに押されてたもの」
「そうだよ、君と天敵派閥。……パレハにいれたくないよね? 反対だよね?」
「別にどちらでも構わないわ。そもそも私に決定権ないし。あ、でも追加が決まったら早めに通達をお願いね。レッスンの前に顔合わせも必要でしょうから、今度お姉様たちとも――」
「ダメ。やだ。いれない。君を茶会に連れていって何が何でも阻止してやる、絶対にだ!!!」
幼子のように駄々をこねだした自分の主を見てドン引きしなかったと言えば噓になる。ただ、生まれて初めてこの皇子に同情を覚えたということも正直に添えておこう。
いや、普通の貴族の基準で言うならベルアンナ嬢の態度はまさに“度量の広い妻の鑑”ではあるのだが。相手がヴィードリッヒ殿下であるならばそれはただの致命傷でしかない。
「……はいはい、行くわよ。どうせロルフに難癖つけてきたのもそのためでしょう。あなた一人で行くなんて端から欠片も思ってなかったくせに」
ベルアンナ嬢が恨みがましい目を主に向けた途端、主はそれまでの態度をコロリと変えていつものように澄ました顔で微笑んだ。
「今日一日退屈だったから今いっぱい構ってもらおうと思って」と難なく言いのけるその精神性は素直にすごいと思える。見習いたいかは別として。
「じゃあ明日にでも詳細を送るね。今日はさすがにもうフィアトラール邸に君を返さないと。送迎馬車はこっちで用意してあるから」
「……あなたも一緒に家に来る?」
「――!! これは…夢…? あ、痛い…夢じゃないっ……!」
「ほっぺた抓るほどではないでしょ。今日は妹が家にいるから特別よ。あの子、最近あなたと会う機会がなくて元気がないようだったし」
ベルアンナ嬢の最後の言葉に、主は「あー…」と珍しく歯切れが悪い様子を見せた。
「ごめんね。一緒に行きたいけどこの後は予定が入ってるんだ」
「そう…それなら仕方ないわね。また今度会ってあげて」
「うん、君と義妹の都合がつく日にまた伺うよ」
主の返答に少し落ち込んだ様子を見せたものの、彼女はそのまま送迎馬車の方に歩いていき、さっと乗り込んで窓を開けてから僕を手招きした。
「ロル……ヴィンセント卿、今日はありがとう。助かったわ」
「貴女が呼びやすいように呼んでいただいて構いませんよ。お役に立てたなら何よりです――あと、あのマカロンは結構好みの味でした」
それを聞いたベルアンナ嬢は驚いたようにパチリと一度瞬きをしてから、まさに花がほころぶという表現が似合う笑顔で「差し入れで騎士団に送っておくわ。じゃあまたね、ロルフ」と、その場を後にしたのだった。
◆
明かりの少ない宮廷の回廊で、少しだけ前を歩いてる主が「意外だなぁ」と独り言のように呟いた。
「ある程度はと思ってたんだけど、あそこまで友好を築いていたのは正直予想外だったよロルフ」
……どうやら、彼女だけではなく主自身も僕の名を呼ぶことにしたらしい。背筋がざわつかないよう慣れるまでしばらくかかりそうだが、彼女もこれからこういう風に堂々と呼んでくれるのだろうかと思うとそこまで悪い気分ではない。
「私も殿下を意外に思っていますよ。てっきり彼女と二度と口を利くなと物理的に釘を刺すぐらいはされるかと考えてたのですが」
「あはは、そんな程度で君に罰は与えないさ。それぐらい弁えてるよ」
人としての正論を含んだその返答に思わず押し黙ってしまった。一般的な人間からそう言われても当たり前だとしか思わないが、目の前にいるこの方に言われるとそれは途端に違和感となる。
ベルアンナ嬢に関しては固執に近い感情を常に見せてたはずなのだが……。まあ今回に関しては単純に己の読みの精度が低く外れてしまったのだと反省せざるを得ないか。
奇しくも彼女が言った通りだな、と何の気なしに主へその出来事に関することのみを伝えれば、彼は静かに笑った。
「その辺りは君よりベルの方が上手だろうね。どこが僕の沸点なのか、ギリギリのラインを正確に読めるのは彼女ぐらいじゃないかな」
今まで聞いた中で一番意外な答えだ。先ほどの主と彼女のやり取りを一通り見ていたが、ベルアンナ嬢が主のあの泥のように重たい感情に気づいてるようには見えなかったのに。
「何となく君の失礼な感想が透けて見えるんだけど、まあいいや。それも合ってるよ。彼女は僕の根底にある気持ちには気づいてない。……きっと未だに、あと数年で婚約が解消されるはずだと思ってるだろうしね」
「……それは別の未来――運命のお話ですか」
主は時折、幼児の空想世界のような不思議なことを言い出す。無数の未来のうち、今後起こり得るかもしれない“いくつかの可能性を経験した”という話だ。単純な未来予知とも異なるそれを、彼は“運命”と称していた。
「うん、その話。君は誰よりも忠実な僕の部下で重宝したものさ」
「はぁ…それは大変光栄ですね。きっとその私も殿下の手足のごとく振り回されていたのでしょう」
「今の君と比べ物にならないくらい従順でお利口だった、ってことは伝えといてあげる」
半分聞き流しながら「そうですか」と適当に相槌を打っておく。“皇太子”という立場の者が話しているからこそ相手にはしているが、夢物語に近いそれを完全に信じるはずもない。
「君は従順すぎたし利口すぎたんだ――ロルフ・ヴィンセント」
前を歩いていた主の足が不意に止まる。
振り返った彼は感情が読めない微笑みを携えて、こちらを真っ直ぐ射貫くような視線を向けてきた。
「――従順であることと利口であることは、貴方から見れば罪だと仰るのですか」
「いいや、罪とは言わない。従者の君にとってそれは本分だから。君は完璧だったよ、文句なんて何一つないほどに」
暗闇に浮かんだ殿下の輪郭に、誰かの姿が脳内で重なる。
“完璧な従者”という言葉が鉛のようにひどく重たく感じるのは何故だろうか――それが僕の目指すべき姿であるはずなのに。
「君はベルのことが好きかい?」
「――――……貴方と共に幸せな道を歩んでほしいと思うほどには」
「はは、うまく逃げたね。まあでも、そうか。君はそう思うのか」
思案するように目を伏せたヴィードリッヒ殿下が何を言いたいかまるで分からない。けれど今この瞬間、この先の人生を分岐させるほどの重大な話をされてるのではないかと己の本能が告げた。
「ねえ、ロルフ――」と区切ったように呼びかけられたその続きは、きっと僕が聞くべきではないものだ。激しく嫌な予感しかせず、心臓がうるさいほどに鳴っている。
「いつか君が僕を殺す日が来るかもしれない。その時は僕の代わりにベルアンナを世界で一番幸せにしてあげてね」
風の音だけが響く廊下で月明かりに照らされる。緩く微笑んでいる殿下の青い瞳がはっきりと見えたのに、そこに映る感情はやはり何も読めなくて。
「さあ、明日も朝から忙しいし今日は休もうか。おやすみ、ロルフ――せいぜい悩むがいいさ。それで今日のあれこれは許してあげる」
殿下はいつものような無邪気な笑顔を貼り付けて「じゃあまた明日」と言い残し颯爽と去っていく。己の体は硬直したように動かず、彼の足取りをただ無言でじっと眺めていることしかできない。
“いつか君が僕を殺す”、その言葉の音だけが頭の中で反響していた。
「……ハッ、何が“せいぜい悩め”だ」
殿下の背中が完全に見えなくなってからしばらくして、ようやく呼吸というものを思い出し、ため息をつくように深く息を吐きだす。
「そんな厄介な未来を僕に押しつけるな――……絶対に貴方だけは殺してなんてやりませんから」
誰に聞かれずとも誓ったその言葉を自分の心に刻み込んで、ようやく自身の部屋へと僕は歩きだしたのだった。




