プロローグ
その昔、とある帝国で一組の男女が恋に落ちた。
何不自由なく育てられ完璧な淑女として名高い公爵家の令嬢。
神童と呼ばれ国を統べる皇帝にふさわしいと讃えられていた皇太子。
そんな二人の婚約は、まさに運命の神の導きであると周囲も喜びに溢れるほどの大変めでたい出来事であった。
――――しかし。
数年後、その婚約は破棄され皇子は別の女性と婚姻関係を結び、令嬢は身に覚えのない罪で悪女と呼ばれた挙げ句“大罪人”となってしまう。
婚約者に裏切られ、友に見放され、親や兄妹からは縁を切られ、国民からも侮蔑され――たった一人、土砂降りの雨に打たれながら地面に這いつくばった彼女は、拳を握りしめ復讐を心に……誓うことはなく。
生きることに疲れて、でも死にたくはなかった少女は震える足を無理やり動かし、ただただ必死に逃げ続けて遠い遠い町へとたどり着いた。
そこは慣れ親しんだ帝都とは比較にもならないほどのとても小さな町で。
かつてのように華やかなドレスを着ることは二度となかったけれど。
誰もが敬い頭を下げてくるような栄華を誇ることも二度となかったけれど。
それでも彼女は最期に満足していた。どちらかと言えば悪い人生ではあったが最悪ではなかった――と。
そうして穏やかに眠るように死を迎えた彼女は二度目の人生を歩みだす。一度目と全く同じ名前と姿のままで。時間がただ、巻き戻ったかのように。
一方、婚約者を裏切った皇子は祝福の中にいた。国民は喜びを歌い、皇子の隣にいる聖女が幸せそうに笑う。おめでとう、おめでとう、悪は退き運命の二人は結ばれた。おめでとう、おめでとう、この国の幸せな未来に祝福を。
天上の神さえも祝ってるかのような青空に白い花が舞う。
その美しい光景を見た皇子は緩やかに目を細め、ニコリと――――嗤った。
『こんな国が――僕たちが幸せになるなんて許されるはずないだろ』
とびきり美しい笑顔で吐かれた彼の言葉は、民衆の声にかき消されて誰にも届くことはない。それでも皇子はその微笑みを最後まで崩すことはなかったのだった。
帝国の皇太子という誰よりも恵まれた生まれだったけれど。国の頂点に登り詰めるほどの栄華を極めたけれど。富や名声は腐るほど、誰に屈することもない力だって手に入れたけれど――それでも。
彼は最期に絶望していた。生涯でただ一人、愛した彼女の笑顔をもう一度見たいと渇望しながら。
そうして悶え苦しみながら死を迎えた彼もまた新しい人生を歩みだす。一度目と全く同じ名前と姿のままで。時間がただ、巻き戻ったかのように。
やるべきことは一つだ。
あんな運命に導いた神など――僕が殺してやる。
「――って言うと、僕らの前世の悲劇性がより伝わるよね」
「殿下、無理やりシリアスな雰囲気にするために話を盛るの止めてもらえます?」
またいつもの悪ふざけが始まったと呆れてため息をついたところで、背後から彼の腕が伸びてきた。そのままギュッと抱き寄せられたせいで非常に動きづらい。
果てしなく邪魔だと伝えるために振り返り――殿下の綺麗な顔が目鼻の先にぐっと迫ってくる。
「何も盛ってないよ。運命の神様を殺したいのも本当だし……って、いててて」
「私の前で物騒なこと言わないで」
表情が抜け落ちた彼の頬を思い切りつまめば、すぐに子犬が叱られたような表情に戻る。危ない、危ない。危うく帝王モードの殿下を世に放つとこだった。
「僕と君を引き離したやつが悪いのにぃー……」
隣で歩く殿下がまだブツくさと文句を言っている。このままだと“彼女”に会った時にまたひと悶着おこりそうだ……仕方ない、とりあえず今だけは彼の手を握っておこう。
こうしておけばそのうち機嫌が回復す――るはずと思っていたらもうしていた。
一国の主となる者がこんな単純で本当に大丈夫なのだろうか。
「あー…やっぱり会うの面倒になってきた。……何で僕一人なのさ。婚約者なんだからついてきてよ」
「無理よ、私は彼女に呼ばれてないもの。それより、あからさまにやる気ない態度は控えて。無暗に威圧するのもダメよ、あと――」
側近たちから、あらかじめ殿下に伝えておいてくれと頼まれた諸々の注意事項を義務的に羅列していけば、握られていた手が軽く締め付けられる。あ、マズイかもしれないと思った時には既に手遅れで、彼は「へぇ?」と冷ややかな笑みをこちらに向けてきた。
「僕じゃなくてあの女の方が心配なんだ? ――ちょっと殺る気出てきたよ」
「…………殿下、とりあえず腰に差してる危険物は置いて行きましょうか――いいえ、何が何でも置いて行きなさい。さあ早く、今、すぐに!!」
「大丈夫だよ、本当に殺すわけじゃないんだから。軽ーく釘を刺しておくだけ」
――ダメだこの皇子。もう放っておいていいだろうか。
それはそれは良い笑顔を浮かべる目の前の男を見て、ついに諦めの気持ちが勝ってしまった。本音を言えば私だってこんな面倒ごとに関わりたくない。
皇家と教会の仲が拗れてるのを何とかしてほしいと懇願されたが、当の本人がこれなのにどうしろと。大臣も神官も私を介さず当人たちに直接言ってくれればいいのに。……これでまた私が“運命の二人を引き裂く悪女”などと呼ばれたらとんだお笑い種である。
(本っっ当に恨みますよ、神様)
――何で浮気相手の女に殺意を覚えるのが浮気された私ではなく、浮気したこの男なのか。まるで意味が分からない。
――何で私は浮気した女を、彼の殺意から必死に守ってやらねばならないのか。もっと意味が分からない。
頼むから痴情のもつれにもう巻き込んでくれるな、と内心で悪態をつきながら、“運命の神様が選んだ彼女”が待つ部屋へと向かう彼を見送るのだった。