16話 人間のままだったら
青空澄が人魚の泡に閉じ込められて数時間が経過したが、彼女はそれだけ経ったと自覚できない。愛用の懐中時計はとうに時が止まっており、外は暗くて何も手がかりが見えない。彼女を閉じ込めた人魚は海に潜ったきり姿を見せず、彼女を見捨てて人力車で去っていった氷川柩岐と小竹狐行も帰ってこない。
ヒツギは特殊能力者で、人魚のゴーストを出せて、コユキは頭が良くてそのゴーストで人魚を欺き交渉を持ちかけた。途中で偽物とバレて交渉は破綻し撤退を余儀なくされたが、二人が組めば次の作戦を立てられるかもしれない。それに懸けることしか彼女が解放される道はない。だが彼らが助けに来る気配はない。不老不死を得るために他の人魚を食べたばかりに見捨てられたのだと確信した。
青空澄は食べたことが仲間の人魚にバレてしまったことは想定外だが、バレて捕まることは分かっていた。他にも食べた人間がいて同じ目に遭っていたから、想定の範囲内だ。そして捕まったところでそれ以上の目には遭わされない。なぜなら不老不死なのだから。痛めつけることも殺すこともできず、せめて永遠に閉じ込めて心を壊すつもりで人魚は泡に閉じ込めた。
だが彼女の心は死んでいない。不老不死を得た時点で彼女の目的は達成された。彼女は遠い未来に海に橋が架かり、空の向こうに繋がる世界へ行くことを夢見ている。それはこの世界では果てしなく遠い未来。妖怪が当たり前のようにいて、人間と共存しているこの怪世界では、科学の力が発展していないのだ。
だから実現する未来まで生きるために不老不死が必要だった。もう身動き取れないのはつまらないが、科学は少しずつ進歩していく。のんびり待てばいずれ彼女の夢は叶うのだと、やがて訪れるその瞬間を前向きに待つ気になれた。
だが彼女の心は死んだ。仮に橋が完成しても、動けないと渡れないことに気づいた。これでは不老不死の意味がなく、むしろそうでない普通の人間のままだったら、死んで生まれ変わって橋を渡れるかもしれない。その可能性を捨ててしまったことを今になって後悔し、元に戻りたいと泣いた。だがその声は泡に遮断され、外へは届かない。
かつて悲しむ彼女を慰めたパートナーの人魚は、欲望に走った彼女に信頼を裏切られ、不老不死の源となってしまっており、もういない。浮遊する泡の直下に建てられた質素な墓が、その現実を目に焼けつけてくる。その墓を建てたヒツギを恨んだ。
「あいつ、きっとまだ捕まってるだろうな」
人力車に乗って列島の北東を目指すヒツギは、定員オーバーで狐の姿になって膝の上に乗るコユキに語りかける。見捨てたことが彼女の運命を決定づけたとは思っていない。これは彼女と人魚の問題だ。彼が干渉せずともいつか許され解放されるかもしれないし、本当に永遠に泡の中かもしれない。どうなろうと当事者の判断に委ねるつもりだ。
そしてようやくコユキは目的地に着いたことを伝え、ヒツギは彼を信じて人力車から降りる。
「ここで霊媒師が暮らしている。一晩明けたら探そう」
「そうだな。真っ暗だし」
コユキの計画では、まず霊媒師に会って霊山に来てもらう。そこで口寄せで人魚の霊を降ろしてもらい、過去に会ったであろう妖怪王のことを教えてもらう。日没後に移動してまだ夜中だ。すぐ行動開始とはならない。
一泊してからと決め、まずは宿を探す。コユキは狐から人間の姿に変えて、街を歩く。ヒツギは彼についていく。
「あと向こうでも宿を探してたけど、予約はまだだったから大丈夫」
「ああ、そうだったっけ」
そしてコユキはヒツギに伝え忘れていたことに気づく。人魚の街に着いたとき、自由行動の間に宿屋に寄っていた。当初はそこで一泊するつもりだったが、結果的にすぐ出発したのでそこには泊まらない。だがそれが悪いことではなく、心配要らないと告げた。ヒツギも言われるまで忘れており、大丈夫と言うのならと信じ、ゆっくり休んだ。
翌朝、宿を出るとコユキは再び九尾の狐に化けヒツギとともに歩く。伝説の妖怪が街に現れ、しかも見慣れない人が連れ歩いている光景は注目を集めた。
「様々な力を持った人間が修行に来るとはいえ……初めてだよ、これほどの妖怪を連れている人は」
「……力を?」
街の人にそう話しかけられたとき、ヒツギは気になった。確かに彼もコユキも特殊能力を持っている。それは彼らが元いた世界では、一部の人に目覚める特殊能力と呼ばれるもの。ただ怪世界ではそういう力はなく、人間は妖怪に無力。代わりに超能力があって、だから霊媒師はいる。
そう思っていたが、能力者がいるかのような話が聞こえ、詳しく知りたい。
「その人たちはどこに?」
「あの山を登ってる」
修行は山で行っていると聞いて、霊媒師探しのついでに寄ってみようと思った。ヒツギは街の人にお礼を言い、そこを目指す。
「最初からここに来れば良かったね」
「うん。俺たちと同じで飛ばされてきた人がいるかも」
ヒツギは肝試し中に怪世界に飛ばされた。他の参加者も同じようにその世界のどこかにいる可能性があり、現にコユキは道中で合流した。他にもいないか探していたが、それならもっと早くここに来ていれば、五日も彷徨わず済んだかもしれない。
「見て、滝に打たれてる」
「本当だ。俺もやりたい」
滝に入って水を浴びている三郷楽阿がいた。痛くて冷たい過酷な修行と知っているが、いざ目の当たりにすると体験したい好奇心が疼く。ちょうど待っている人はいないから、今の人が退いたら交代してもらえる。そう期待して眺めていると、そのラクアに声をかけられた。
「俺の修行、挑戦してみるか?」
「うん。やる」
試練に挑むか尋ねられた。コユキはヒツギの反応を窺うも、彼は即答していた。ラクアは滝の中から歩いて抜け出し、彼らに白い道着を差し出す。
「これに着替えて、二分間耐える。これができた人は今までいない、難しい修行だけど」
ヒツギは説明を聞いても勝算が浮かばない。けれども挑戦に応じる。考えるのは苦手で、かといって身体能力に自信があるわけでもない。けれども思いつきで行動し、とりあえず進む。それが確実にプラスにはたらくとは限らない。むしろ安易な決定が裏目に出ることもある。肝試しへの参加をノリで決めた結果こんな目に遭っているのもそのせいだ。
だがこれがヒツギのスタンス。無計画に突き進む、彼らしいやり方だ。
ラクアはヒツギたちが探している、彼らと同じく肝試し中に飛ばされてきた人だ。だがラクアは怪世界の生活に馴染んでおり、素性を語らない。彼らとも六日前に暗い会場で一度会っただけなので、顔を見てもすぐ思い出せない。だがラクアもまた同じ立場の人を探しており、ここに滞在している。
一方ヒツギたちも、自分たちがよそ者とは告げず、ラクアを自分たちと同じだと疑いもしなかった。お互い、相手を完全に現地の人間と思い込んでいる。そのままラクアの修行という名の勝負が始まった。
「二分って長いの?」
「さあ? でも時間感覚が鈍った今なら、余裕だろう」
「……そうだな。目指せ一発クリア」
コユキは水に入って滝に向かいながら、どれだけ難しい修行なのだろうかと呟く。ヒツギも詳しくないが、今の自分たちなら乗り切れると自負している。さっきまでいた人魚の街は、あちこちで時計がおかしくなっていた。原因は潮風で錆びついているのと、不老不死になって時間感覚が狂った人間にある。そんな街に寄ってきた彼らなら、数分なんてあっという間に終わるだろう。
そう前向きに捉えるヒツギに、コユキは疑問が浮かぶものの勇気づけられた。人魚の街にいたときはこんな修行の存在など微塵も考えていなかった。計画にないことを瞬時に過去の経験と絡め、意味のあるものと考えられるのは、彼の良い所だと思った。
過去に達成できた人がいない修行など、何度も挑戦して乗り越えるものだ。けれども最初の挑戦で達成してみせると意気込み、準備はできたとラクアに告げた。
「滝行は心と体を鍛える修行だ。邪念を払い落とし、じっと耐える。冷たいとか痛いとか叫ぶのは控えるように」
「失格ではないのか?」
ラクアから説明を受けるとコユキはどこまでセーフか尋ねる。水に入るだけで冷たいとはしゃいだ彼らは、滝に入れば大声でリアクションをするだろう。むしろしたい。
だが精神を磨く修行なので、それは良くないとラクアは考える。とはいえそれでアウトにするほど厳しくはしない。
「ああ、ペナルティもない。二分耐えられたらなんでもいい」
修行の難しさは負担にある。まだ頑張れるのに声が出たせいで足切りされるのでは、その難しさが伝わらない。ラクアはそう答えるとコユキは納得した。うっかり失格してしまうから誰も成功しないのではなく、シンプルに難しい修行なのだと。
「ちゃんと進むよな? 時計」
「いや……俺が数える」
コユキは単純に難しい理由が、正しく計測できていないせいではないかと勘繰った。人魚の街のように動かない時計を使われては、どれだけ耐えてもタイムアップを迎えられない。
だがラクアは時計を持ち歩いておらず、計測は彼の体内時計で行うと答える。読み上げても水の音で挑戦者には聞こえないし、見える位置に置けば水圧で壊れてしまう。
「脳内で曲を流しているから……それでだいたい二分。まあ一分耐えてみろ」
「要するにあんたに認められれば合格ってことね」
一曲終わるまでという基準を設けているから信用してほしいとラクアは告げる。肝心の曲が二分ジャストではないのだが、誤差を問われるほど耐えるのがまず無理だろうから、ゴタゴタ言う前に挑むよう促す。
するとヒツギは頷いた。彼は自身の体内時計をあてにせず、ラクアから終了の合図があるのを待てばいいと割り切った。コユキはもう少し粘って自分たちに有利な状況に持っていきたかったが、彼の落ち着きっぷりに感化され、滝に向かった。
そして二人は滝の下に入り、水の勢いによる痛みで初っ端から叫び声を上げた。激しい飛沫で声が掻き消され、目を開けることもできないのでお互いの様子が分からない。
はしゃぐと口から水が入って余計に苦しくなることに気づき、俯き過ぎて前に倒れないよう姿勢の維持を試みる。その根性にラクアは感心しつつ、こっそりと二人の正面に立つ。そして両手を二人の肩に乗せ、力むと二人は潰れるように倒れた。
一瞬で疲れが溜まった違和感に二人は慌てて這い、滝から離れて顔を手で拭き、目を開けて様子を確かめる。
「まだ一分経ってないぜ」
「いや、さっき急に……」
「何かの能力? 変なことが起きた気が」
コユキとヒツギは息を整えながら、思ったことを話す。目を瞑っていたから何が起こったか分からないが、単なる滝行の最中に起こるような現象ではないと察していた。ヒツギは特殊能力者の仕業かと疑うと、そこにラクアは食いついた。
「へえ、妖怪ではなく能力か。……肝試し」
ラクアはヒツギが妖怪の仕業ではなく人の能力での効果かと言及したのを受けて、仮説を立てた。自分と同じで、特殊能力者がいる世界から来た人ではないかと。もしそうなら自分と同じで肝試しの会場にいたので、心当たりがあるか探りを入れる。
「肝試しに来ていた? 俺と同じで」
「……は、はい! 探してたんだっ」
ヒツギは耳を疑ったが、ラクアが出した情報から間違いなく自分たちと同じ境遇だと確信した。そういう人をずっと探していたのだと興奮し、目的を達成して震えた。
ラクアの修行は達成できなかった。霊媒師に会うのもまだで、妖怪王の情報は得られていない。当初の予定は何も前進していないが、怪世界に飛ばされた仲間、それも能力者と合流できたことを、ヒツギは大きな前進と捉えており、何とかしてくれると期待が膨らんだ。
滝行は中断し、濡れた体を拭いて休みつつ、ヒツギたちはラクアに話を聞く。
「俺の能力は触れた相手を疲れさせるもの。急に重く感じたのは、休んでいれば治る」
まずラクアは自身の特殊能力を説明し、害は残らないと告げて不安を取り除く。からくりを知ったコユキはそんな手段出てくる相手を耐えるのは無理難題だと怒りつつ、味方としては頼もしいと思った。
「妖怪に触れって? 嫌だよ気味悪い」
だが心強さは情けなさに反転した。妖怪に触れないと機能しない能力とはいえ、燃えていたり鋭利な部位があったり得体が知れなかったりする相手に近づきたくないから奮いたくないと言われてしまった。