海の見える家
幼い梨花は、雨の中で父と母を待っていた。
パラパラと降り続く細かな雨。
「もう少しでやむかな」と何度も思ったが、空は一向に晴れない。
――お父さんとお母さん、傘を持って行っただろうか。
そう思いながら、梨花は縁側から外をのぞいた。
遠くの道に、二つの人影が見える。
父の手には、何か小さなものが抱えられていた。
梨花は扉を開けて迎えに出る。
「傘、持って行かなかったの?」
「夜にはやむと思ったんだよ。それより……何か拭くものはあるかい?」
そう言いながら、父はそっと腕に抱いていたものを下ろした。
そこには、まだ首の座っていない赤ん坊が眠っている。
頬も髪も、少しだけ雨に濡れていた。
「まったく……タオルくらい自分で持ってきなさいよ」
母が呆れたように言いながら、持ってきたタオルで赤ん坊の顔を拭く。
「寒かったね。……ふふっ、可愛いねぇ」
母は柔らかく笑い、梨花の方へ向き直った。
「梨花、あなたは今日からお姉ちゃんよ」
「え?」
言葉を理解する前に、視界がふっと霞んだ。
父の声が遠くで何かを言っている気がする――けれど、もう聞こえない。
昔の記憶のような、ただの夢のような。
「お姉ちゃん。」
――そういえば、リオも最初は“お姉ちゃん”って呼んでたっけ。
今じゃ生意気に“梨花”って呼び捨てだけど。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん。」
遠くで誰かが呼んでいる。
意識が少しずつ浮かび上がってくる。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……おーーーーきーーーーてーーーー!!!」
ぱちり、と目が開いた。
ベッドの横で、そっくりな顔の子どもが二人、ぴょんぴょんと跳ねている。
「起きたーーー! お母さーーーん!!」
元気な声とともに、子どもたちはバタバタと部屋から出ていった。
少しして、二人を連れた女性が入ってくる。
落ち着いた雰囲気の、美しい人だ。
年齢を重ねても整った顔立ちで、髪は丁寧に結い上げられている。
――こういうのを“いい歳の取り方”って言うんだろうな、と梨花は思った。
「ごめんなさいね、起こしてしまって。」
女性は穏やかに微笑む。
「ここは……」
梨花が戸惑いながら言葉を探していると、女性はゆっくりと説明した。
「あなた、道に倒れていたの。息子が見つけて連れてきたのよ。今は出かけているけれど、もうすぐ帰ってくると思うわ。」
梨花の記憶が、少しずつ戻ってくる。
――世界が崩れて、その後は……何も覚えていない。
この人たちは、明らかに村の人ではない。
(もしかして……私は村の外に出たの? それとも、世界そのものが変わったの?)
梨花は頭の中を整理しようと、深く息をついた。
「私は梨花です。助けてくださって、ありがとうございました。」
「梨花さんね。私は橋本美紀。こちらの二人は娘で、背が高い方が夏奈、癖っ毛の方が奈留よ。よろしくね。今起きたばかりで疲れているでしょうし、事情はまた後で聞かせてくださいね。主人に連絡したので、体の具合も診てもらいましょう。」
「お気遣いありがとうございます。」
「お父さんはねー! お医者さんなのー!」
双子が声をそろえて誇らしげに言う。
「お父さん、すごいね。」
梨花が微笑むと、二人はまた嬉しそうに跳ね回った。
美紀は会釈をすると双子も一緒に静かに部屋を出て行った。
残された部屋は、雨上がりのように静かだった。
ふぅ、と息を吐く。
ふと窓の外を見ると、道の向こうに広がる一面の青。
それは本でしか知らなかった光景だった。
「これが……“海”……?」
波が寄せては返し、白く光っている。
「綺麗……海、初めて見るわ。」
梨花はしばらくそのまま、ベッドの上で静かに海を眺めていた。
やがて波の音に包まれながら、再びまぶたを閉じる。
世界の崩れも、記憶の欠片も、いまはただ遠くに霞んでいく。
そして――彼女は、再び眠りへと沈んでいった。




