隠れ里に差す光
翌日、森を抜けたリュートとファーディナは、次の集落へ向かう途中で再び薄い霧に包まれた。あまり大きな街道ではないため人通りもまばらで、耳を澄ますと風に乗って木の葉が擦れる音ばかりが聞こえる。
「ここから先は地図によると、名前がはっきりしない小さな集落があるみたいね。情報もほとんど載っていないわ」
ファーディナが地図を広げながら言うと、リュートは馬の手綱を引きながら辺りを見渡す。
「確か“隠れ里”って呼ばれる場所があるって、ブランチ村の人が言ってたな。昼間でも霧が立ちこめることが多いらしい」
しばらく進むと、段々と道が狭まり、ゆるやかな坂道を下った先に家々が見えた。煙突からはかすかな煙が上がっており、どうやら人が住んでいるらしい。
「本当に隠れ里って感じだね。ずいぶん静かだ」
リュートが声を落としてつぶやく。周囲を警戒している馬も、さっきまでとは違って落ち着かない様子だ。盗賊の襲撃を受けたばかりで警戒心が強まっているのだろう。
ゆっくりと集落へ近づくと、どこか古い看板が立っていた。文字はかすれ、読み取れるのは「○○の里」というわずかな部分だけ。
「こんにちは、旅の者です。宿を探しているのですが」
リュートが声をかけると、ちょうど通りを歩いていた老人が立ち止まる。
「こんな辺鄙なところに何しに来たんだい。まあ、宿なんて大層なものはないけど、納屋で良ければ休めるかもしれないね」
老人の言葉にホッとするファーディナを見て、リュートは馬を進めながら礼を言う。納屋でも今は十分だ。森の中を歩き通した体はくたびれているし、ここで一息つきたいと思う気持ちは互いに同じだった。
小さな家々が密集した通りを進むと、広場のような空き地に行き当たった。そこで老人が納屋と呼んだ建物を示す。木の扉はところどころ朽ちていて心もとないが、屋根はしっかりしているようだ。
「すまないね、もてなしもできんが……最近は人通りがなくてね。戦争だなんだと外が騒がしくても、ここには関係ないって思ってたけど、さすがに物資の流通が滞って困ってるんだよ。よそ者が来るなんて珍しい」
そう言った老人の声には、少し寂しげな響きがあった。
リュートとファーディナは馬を納屋の脇につなぎ、村の様子を見回しに少し歩く。住民の姿はまばらで、若者らしき人影はほとんど見当たらない。子どももちらほら見かけるが、どこか遠慮がちに物陰からこちらを見ていた。
「ずいぶん閑散としてる。近くに大きな街道がないから人が来ないのもあるけど、何かほかに理由があるのかな……」
ファーディナが微かに首をかしげると、リュートは見渡した先にある小さな畑を指さす。
「見て。作物が元気ないね。土が黒ずんでいるし、まるで痩せているみたいだ」
その畑の土は、所々に薄灰色の粉のようなものが浮いている。ブランチ村で目にした銀粉のような残渣とは少し違うが、やはり魔力汚染を疑わせる不気味さを感じた。
「あの……旅人さんですか?」
振り向くと、小柄な青年が声をかけてきた。二十歳前後だろうか、腕には包帯が巻かれていて血の跡がわずかににじんでいる。
「どうしたの、その怪我……? まさか魔物に襲われたの?」
ファーディナが心配そうに尋ねると、青年は苦笑まじりにうなずく。
「この辺り、ちょっと前から魔獣が出るようになったんです。昔は滅多に人里まで来なかったんだけど、最近は霧が多いせいか何なのか……夜にうろつくんですよ」
青年によれば、最近になって夜な夜な森から現れる魔獣らしき影が、畑や家畜を荒らす被害が出始めたという。怪我をしたのも、昨晩に飼っているヤギを守ろうとして襲われかけたかららしい。
「大した怪我じゃないんですけどね……ここには戦える人も少なくて、どうしようかってみんなで頭を抱えているんです」
そこまで言うと、青年は気まずそうに口を噤んだ。リュートの腰にある剣が目に入ったのかもしれない。
「……少しだけでも力になれないかな。形だけの勇者なんて言ってる場合じゃないか」
リュートは小声でファーディナに囁く。彼女も真剣な面持ちでうなずく。
「ええ。そうね。どうせここで一晩泊まるんだし、夜に出る魔獣を一度確かめてみるのは悪くないと思う。もし何か手がかりがあるなら、ゴーレム汚染や戦争の波及の実態がわかるかもしれないし……」
そこで二人は青年に向き直り、「今晩、もし魔獣が来そうなら私たちも手伝うよ」と申し出る。青年は驚いたように目を丸くし、すぐに安堵の笑みを浮かべた。
「でも危ないですよ。僕たちは何度か追い払おうとしたけど、ほとんど歯が立たなくて……」
「大丈夫。少なくとも剣の腕は多少あるし、ファーディナも魔法の道具で援護できる。あなたたちの被害が減ればいいんだ」
こうしてリュートとファーディナは、隠れ里に泊まるだけでなく、夜の警戒にも加わることになった。森に潜む魔獣の正体がわからない以上、勝てる保証などないが、それでも彼らには前へ進むために知るべきことが多すぎる。
もし魔獣の原因が“リモート戦争”の負の影響や魔力汚染と繋がっているのだとしたら、なおさら見過ごせない。
夕暮れが迫る頃、集落の広場では、老婆や青年らが集まり「今夜こそ魔獣を追い払いたい」と話し合いをしていた。リュートとファーディナもそこに同席し、攻めてくる方向や時間帯の推測を聞く。どうやら決まって深夜、東の森のほうから唸り声を上げて姿を現すらしい。
「今度こそ逃がさないようにできるならいいけど……もし倒せるもんなら倒してほしいよ。家畜が減ったら、私ら暮らせない」
苦しげな住民の声に、リュートは剣の柄をそっと握りしめる。人々の不安と苦労が痛いほど伝わってきた。
「任せて……とは軽々しく言えないけど、できる限り協力するよ。戦いになっても、俺は剣を振れる。ファーディナは魔法の補助をしてくれるから」
そう告げるリュートを、住民たちは半信半疑ながらも少しだけ明るい目で見つめていた。
やがて日が沈み、里を包む霧がさらに濃くなる。月も雲に隠れ、足元さえおぼつかないほど薄暗い。武器を持った数人の若者が家畜小屋の周囲に待機し、リュートとファーディナは里の入口近くで様子をうかがう。
刻一刻と深夜の静寂が増す中、不気味な風があたりを撫でた。その瞬間、遠くから低い唸り声が聞こえる。まるで地の底から響いてくるような濁った音。
「来た……!」
ファーディナが急ぎ、手に魔導の触媒を握りしめる。リュートも剣を抜き、身構えた。
視界の奥、濃い霧の切れ目に、巨大な獣影が揺らめいている。四足だろうか、狼にしては異常に大きいシルエットに見える。唸り声がさらに低く鳴り響き、家畜のヤギが怯えたように鳴き叫んだ。
「このままじゃ家畜がやられる……!」
リュートが駆け出そうとした、そのとき。獣影が首をもたげるように動き、目の部分がぎらりと光を放った。それは生き物の光彩とは違う、まるで魔力に似た不自然な輝きだった。
「まさか……これも幻影兵装やゴーレムの残骸と関係してるの……?」
わずかに息を飲むファーディナ。リュートは剣を構え直し、霧の向こうに立ちはだかる獣影へ一歩ずつ距離を詰めていく。すでに里の若者たちは恐れをなして後退している。
「俺が前に出る。ファーディナ、サポート頼む!」
そう言葉を投げた瞬間、霧を裂くように魔獣が襲いかかってきた。鋭い爪が空を切り、夜の静寂を砕く叫び声がこだまする。遠くで誰かが悲鳴を上げた。
濁流のように迫る魔獣の圧力に、リュートは“本当に俺に止められるのか”という不安を一瞬抱く。だが、その重圧を振り払うかのように剣を振り上げた。
夜霧に溶けるように、勇者の紋章がかすかに青白い光を帯び始める。いつもの儀式とは違う、むき出しの剣閃が闇を切り裂いていく。
「形だけじゃない。ここで守らなきゃ、意味がない……!」
リュートの瞳に宿る決意が、隠れ里の夜をかすかに照らす。その一瞬の光が、次なる運命の扉を開く鍵になるとも知らずに。