かすかな異変
王都アルテリアを東門から出て、北東へ伸びる街道を馬で進むこと半日。リュートとファーディナは、次の宿場町に向かう前に小さな村で一息つこうとしていた。
まだ王都から遠く離れたわけではないが、すでに人通りはぐっと少なくなる。日中の太陽が照りつける中、土の道にはカラカラに乾いた車輪の轍が刻まれていた。
「ここが……地図に載っている“ブランチの集落”かな? 水と少しの食料が補充できるといいんだけど」
リュートが馬を停めつつ周囲を見回す。村の外れに、年季の入った立て札が立っていた。そこにはかろうじて「ブランチ村」と読める文字が刻まれている。
ファーディナはこくりと頷き、鞄から地図と簡易コンパスを出す。
「うん、方角は合ってる。ここで休憩して、村の人たちに道中の情報が聞けたらありがたいわね」
ほどなくして村の中央へと続く道をゆっくり進むと、少しだけ物寂しい空気が漂っていることに気づいた。家々はそこまで荒れ果ててはいないし、人の往来もゼロではない。だが、どこか活気が乏しく見えるのだ。道端に座り込んでいる老人や子どもも、なんとなく元気がないように感じる。
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「すみません、ここらで水を分けてもらえる場所はありますか?」
リュートが馬から降りて声を掛けると、通りがかりの村人が「井戸なら広場の奥だよ」と指さしてくれた。だが、その村人の表情は曇ったままだ。
「ただ……あんまり美味しくはないかもね。最近少し味がおかしいって皆が言うんだ」
「味がおかしい?」
ファーディナが不思議そうに聞き返す。
「ええ、なんというか……土というか鉄っぽいというか、妙な渋みがあるんですよ。まあ飲めないわけじゃないんですが、なんだか気味が悪いんです」
そう言って村人は困惑を滲ませた様子で去っていく。リュートとファーディナは顔を見合わせる。
「これは……ゴーレムの残骸とか、魔力漏出の影響と関係あるのかな?」
「王都がリモートでゴーレムを飛ばすのは主に北方の戦線だから、場所的にはそれほど近くないけど……風に乗って微細な粉塵が流れてくる可能性はゼロじゃないわね」
二人は念のため井戸の場所を確かめに行くことにした。村の中央広場にぽつんと立つ古い井戸を覗き込むと、水面はそこまで濁ってはいないが、なぜか微かな硫黄のような臭いがする。
「うーん……飲めないほどじゃなさそうだけど、嫌な感じがするね」
リュートが水を汲んで手のひらに滴らせ、鼻を近づけてみる。ほんのり金属のような匂い。ファーディナも少しだけ口にしてみたが、苦い顔をした。
「魔力が直接混ざってる感じではないけど、何らかの“変化”は起きてるかも。村の人たちが嫌な気分になるのも無理ないわね……。ただ、これだけじゃ原因がはっきりしない」
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広場の片隅では、大柄の男が麦わら帽子をかぶっていた。農作業の途中らしいが、どこか覇気がない。ファーディナが声をかけると、男は疲れた様子で口を開いた。
「いやあ、困ったもんでね。最近、畑の作物の育ちが悪くなっちまったんだ。雨不足もあるけど……なんか土がやけに硬くなったような気がして」
「土が硬く? 長引く乾季のせいとは違うんですか?」
「うーん、もちろん雨が少ないのも原因だと思うが、土の色が少し灰っぽくなってる場所があってさ。触るとシャリシャリいう感じ。あれが良くない気がしてるんだよ。どうすりゃいいもんかなあ」
ファーディナは興味深げにその土を見せてもらった。見た目こそ普通の泥に近いが、指で擦ると、うっすらと銀粉のようなものが付着する。
「(ゴーレムの破片……? さすがに王都の戦線からここまで飛んでくるかな?)」
一方、リュートは周囲をきょろきょろ見回しながら、村の子どもたちの姿を探していた。数人が遠巻きにこちらを見つめてはいるが、あまり活気がない。ほんの少し咳をしている子もいて、気になってしまう。
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「リュートさん、ちょっといい?」
ファーディナが小声で話しかける。
「どうした?」
「私、ここで少しだけ“水浄化薬”を試してみようかと思うの。ほら、研究所で作った試作品があるでしょう? 村の人にはまだ“臨床実験”なんて言えないけど、配合を加減して井戸水に混ぜれば、味が改善する可能性はあるかもしれない」
「そうだな……ここなら、いきなり黒幕に勘付かれるリスクも少ないし、村人が少しでも助かるならやってみる価値はあると思う」
リュートは同意を示し、農作業の男や近くにいたおばあさんに声をかける。
「実は、王都で魔導の研究をしていた者でして。もしよろしければ、あなた方の飲み水を少しだけ改善できるか、試させてもらえませんか? もしかしたら味や臭いが和らぐかもしれない」
男は目を丸くしたが、「そんならありがたい」と期待を込めた表情でうなずく。ファーディナがさっそく鞄から小瓶を取り出し、慎重に蓋を開ける。
「じゃあ……少量をバケツ一杯の水に溶かしてみます。いきなり全部の井戸に入れるのはリスクがあるから、まずは様子見ですね」
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ほんの実験程度の浄化薬を井戸水に混ぜてかき回し、数分待ってから、農夫が少しだけ口に含む。すると、まだ金属のような渋みは残るが、先ほどより僅かにまろやかになった気がすると言う。
「おお、なんかちょっとだけ良くなった気がするな……? 気のせいかな? でも、ありがたいですよ。これなら飲めないこともない」
周囲にいた数人も、代わる代わる味見しては首をひねりながらも、先ほどの怪訝な臭いは薄くなったと口にした。
「ほんの一時的な効果かもしれません。でも、もし飲み続けて害がないようなら……少しはお役に立てるかも」
ファーディナはホッとしたように微笑む。そこへ、先ほどから咳をしていた子どもが両親に連れられて近づいてきた。まだ大事には至っていないが、ここ数日ずっと微熱が下がらず、何を食べても喉がヒリヒリするという。
「私たち、専門の治癒師じゃないんですが……」
ファーディナが困惑しかけると、リュートがそっと剣の柄を手で覆った。
「少しだけ、儀式で唱えている呪文を試してみようか。まあ、おまじないみたいなものだけど……」
村人には「一応、簡単な魔導も勉強していて」と説明し、リュートは子どもから少し離れた位置で静かに目を閉じ、王都で毎回口にしていた祝福の文言を思い出す。
もちろん、「勇者の末裔です」などとは言わないが、彼の中には「もしかすると?」という淡い期待があるのだった。
ゆっくりと呼吸を整え、剣の刻印に沿うようになぞる。その瞬間、僅かに手元が温かくなる。目を開いてみると、布で隠したはずの紋章がかすかに発光しているではないか。
——ほんの一瞬、うっすらと白い光の粒子が、風に乗って子どもの方へ届いたように見えた。子ども本人は首をかしげていたが、「あれ、ちょっとだけ喉が楽になった気がする」と呟く。
「何ですか、今の……」
そばにいた親御さんも驚きつつ、子どもの背をさすっている。子どもは完全に治ったわけではないが、さっきのヒリヒリ感が和らいだのか、少しほっとした表情だ。
「ただの……小さな魔法みたいなものです。大きな効果はないと思いますが、気休めになれば」
リュートはそう言いながら、内心で動揺していた。
(形だけの儀式だと思っていたが、やはり何かしらの力が作用しているのか……?)
ファーディナも横で小さく息をつき、リュートにだけ聞こえるように囁く。
「ねえ、やっぱり“勇者の剣”に何らかの浄化力があるんじゃない? ゴーレム兵器の魔力汚染を微弱に打ち消す力……そんなのが働いているとか」
「……そうだとしても、はっきりした根拠はないし、今のところは軽い症状をちょっと緩和できる程度だろう。それでも、この子にとっては助かる話かもしれない」
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こうして“ブランチ村”の人々は、ほんの少しだがリュートとファーディナに心を開き始めた。もしかしたらこの二人が、村の水や体調不良の原因を突き止めてくれるかもしれない——そんな期待がにわかに広がる。
一方でリュートたちも、「王都の近くでも、まだ軽度とはいえ魔力汚染の可能性が出始めている」という事実を目の当たりにし、複雑な思いを抱いた。こんな状況が続けば、やがてもっと深刻な被害が各地で発生するおそれがあるだろう。
「……一晩だけこの村に泊まって、ファーディナが井戸水の浄化薬をもう少し調整してみよう。明日になったら、僕たちはさらに北方のルートを進むけど、ここで得た情報やサンプルは必ず役に立つはずだ」
リュートがそう提案すると、ファーディナは頷く。
「賛成。今はまだ“空から粉みたいなものが降ってきた”とか“水が妙に鉄っぽい”っていう程度だけど、もしリモート戦争が続けば、将来もっと酷い汚染になる可能性が高いわね……」
二人の脳裏には、同じ疑問が浮かぶ。
> “形だけ”とされる勇者の儀式が、実は何らかの浄化力を秘めていたのではないか?
それが形骸化したまま使われ続け、リュートが抜け出してから力が弱まりはじめているのではないか?
とはいえ、今の段階ではすべて推測にすぎない。はっきり言えるのは、彼らの旅の先にいるであろう“黒幕”や“魔王”の存在を突き止めない限り、この曖昧な被害はどんどん広がっていくかもしれない——ということだけだ。
日が傾きかけた空の下で、リュートは剣の柄を包む布をきつく握りしめる。ささやかな光しか放てない自分が、本当にこの汚染や戦争を止めることなどできるのだろうか。
しかし、ファーディナと共にこの地を訪れ、わずかでも人々の痛みに手を差し伸べられた事実がある以上、逃げ出すわけにはいかない。
次の街道を越え、もっと厳しい現場に踏み込んでいけば、おのずと自分が何を為すべきか、はっきりするだろう。リュートはそう自分に言い聞かせた。