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伝える前に振られてしまった私の恋

伝える前に振られてしまった私の恋

作者: 喜楽直人



 輝くばかりに美しい花々が見事に咲き誇っていた。

 ここは王族、それも王妃のために設えられた専用の温室。

 王妃にぞっこんな国王により、国内ではここでしか見られない希少な花々が集められていた。


「これが、今年のレーベン産の紅茶ね」

「雨季が長かったこともあって、いまいちですわね」

「そうね。香りも薄くなってしまっているわね」


 ふたりの淑女は、侍女が配った淹れたての紅茶を覗き込んで眉を寄せた。


 茶葉となる木の育成には水が必要ではある。だが、収穫時期に重なるのは別だ。

 雨が降った日に摘んだ茶葉は、味も香りも薄くなってしまうのだ。3日は開けねば味が戻らぬとされ、雨季がひと月ずれ込んだ上に長引いてしまったレーベン地方での茶葉の等級は、これまでずっと特等を取り続けていたというのに今年一気に下がって二等級にまでなってしまっていた。


「えぇ。けれどマッソ産の茶葉の出来は上々のようですわ」

「ポーティが今日持ってきてくれたそれね? 陶製の器も美しいわね」

「ええ。相談を受けて、新しいデザイナーを紹介しました」

「さすがね。それで今、そちらは味見させて貰えるのかしら。あぁでも侯爵夫人に茶を淹れて貰おうとお願いするなんて、礼を失してしまうかしら」

「もう。そうやっていつまでも揶揄うんだから。あなた様の為ならいつだってお淹れしますわ」

 学生時代からの友人としての親しさで、時折わざとこうやってお互いに揶揄いの言葉を挟むのは、王妃と臣下たる侯爵夫人という立場となってからも続くふたりの慣れ合いだった。

 だが、会話では慣れ合っていたとしても、そこで話し合われていることはこれからの国の方針を決める情報交換だ。

 来年、国内の流行を押さえ新たな流行を生みだす立場となるべく、こうしてお茶会と称して情報を集め、吟味することは重要なことだ。


 つまり、この場は私的な茶会に見せ掛けた、王妃の為の戦略会議の場なのだ。

 高位貴族たちはプライドが高く、そのように来年の流行を見定める場に自分が呼ばれないことに憤る者も多い。できる限りバレないようにカモフラージュすることが必要となる。


「おかあさま、わたし、ちょっとあちらの方のお花を見てきてもいいかしら」

「えぇ、いいわ。でも温室から出てはいけませんよ?」

「はい。わかりました」

 金色をしたふわふわの髪を飾る大きな白いリボンが揺れる。


「アーリーン嬢。帰ってきたら一緒に甘いチョコレートを食べましょうね」

「はい。ありがとうございます、王妃さま」

 ちいさなてのひらをひらひらと振り返し歩いていく姿を、ふたりの淑女は笑顔で見送った。


 ふわふわのフリルが幾重にも重ねられた甘いベビーピンクのドレスを着たアーリーンは、まるで砂糖菓子のようだ。


「アーリーン嬢は、ヤミソンと同じ歳だったわね。もう10歳になるのね」

「えぇ。10歳の誕生日まで、ようやくあとひと月を切りましたわ。けれど、まだまだ幼くて。大人しく席に着いていることも難しいようで、お恥ずかしいです」

「あら。ウチの息子たちもそうよ。上のエルドレットは学園へ入学したお陰か、最近はだいぶ落ち着いてきたようだけれど。アーリーンと同じ年のヤミソンも、まだまだ子供で大変よ」


 勿論、侯爵夫人が美しく着飾った幼い娘を連れてきていることも、会議を普通のお茶会に見せるためのカモフラージュのひとつだ。

 幼い娘を王子のいる王妃へ紹介しに行くのは、ある意味政略ではあるが、傍から見ている者はまったく違う色をのせるようになるからだ。


 幼い娘が席を離れたことで、侯爵夫人は王妃の側近としての顔を隠すことなく会議は進められた。



*****



「『新しいドレスのお披露目に王宮へ一緒にいきましょう』って言ったのに」


 強請って強請って、ようやく作って貰えた念願のレイヤードチュールスカートを抓み上げて唇を尖らせた。


 やわらかなラインを描くフリルが幾重にも重ねられ、花びらのように広がるスカート。

 花びらを作るチュール地は勿論シルク製だ。すこしひんやりしていて陽に当たるときらきらと光る。

 一枚だけだと下が透けるほど薄いチュール地が、重ねることで色味を増す甘いベビーピンクのドレスとなっている。


 着ているだけで自分が妖精になった気分になれる最高のドレスだ。


「全部自分の好みで仕立てて貰えた、初めてのドレスだったのに」 


 いつも優しくて美しい王妃さまは、アーリーンの憧れの女性だ。

 その人からお気に入りのドレスを褒めて貰えると思って、わくわくしながらやってきたのに、憧れのその人と母は、難しい顔をしてお茶を飲んで、難しい事ばかり話し合っていた。


 アーリーンの新しいドレスについて、ひと言もなにも声を掛けて貰えなかった。


「がっかりだわ」


 赤い唇を尖らせ呟く。最近ついた女家庭教師(ガヴァネス)から叱られそうだと思ったけれど、哀しい気持ちに反抗心が湧きあがりアーリーンは温室の奥まで進んでいった。




 奥の奥まで進んでくると咲いている花ばかりではなく、大きく繁った背の高い熱帯性の植物やつる植物が増えてきた。

 中にはまだ青い実をつけている物もある。


 興味深げに辺りを見回していると、そこにちいさな扉を発見した。


「あら。ここにも扉があるのね」


 案内された瀟洒な錬鉄製の入口とはまったく趣の違う扉だった。

 武骨な鉄製だ。

 周囲は貴重なガラス張りの温室には不似合い過ぎるその扉に、アーリーンは吸い寄せられるように近付いていった。


 カチャリ。


 扉の取っ手に触れると、重そうな見た目の割りに軽い音がして、扉はあっさりと開いた。


『温室から出てはいけませんよ?』


 母の諫める声が聞こえた気がしたが、反抗心がむくむくと湧き上がったアーリーンは、そのままその扉から外へと出た。



*****



「もう。なんなのよ、ここ」


 鬱蒼と木が繁る小道をまっすぐに進む。


 扉から出たところにはちいさな木の小屋があって、その奥に道が続いていたのだ。

 最初はちょっとした反抗心に背中を押されていたこともあって、まったく怖いと思わなかったけれど、周囲が木々で囲まれて視界に建物らしきものが一切見えなくなってしまった頃から、アーリーンは小道に入ったことを後悔し始めていた。


 何にも誰にも出くわさないし足も疲れてきたので、そろそろ来た道を戻ろうかと思った時だった。


 小道の先が開けていた。花が咲いているエリアへと入れるのか、視界の先の方に彩りが戻って来た。


 ──あそこまで辿り着けば、なにかあるのかもしれない。


 期待に胸を膨らませ、光のある方へと足を進める。

 そこには見事な庭が広がっていた。


「わぁ。綺麗」

 見事な秋薔薇が咲き誇っている。

 小ぶりながらも色が深く香りが良い秋薔薇がこれほど沢山咲いている場所を、アーリーンは他に知らない。

 先ほどまでの疲れや反抗心を忘れて、美しい薔薇に夢中になる。

 足取りも軽くなり、気分は薔薇の妖精だった。


 楽しそうに談笑する声が聞こえ、辺りを見回せば、薔薇に囲まれたガゼボがあることに気が付いた。


 そうして聴こえてくる声の主は、だいすきな幼馴染みであるエルドレットとヤミソン達のものだ。


 ──いつも優しいふたりならば、きっとアーリーンのこの新しいドレスも褒めてくれるに違いない。


 そう思いついたアーリーンは、ガゼボへと近づいていった。


「そうか、バルロは婚約したんだ」

「はい。父の古い友人の娘さんだそうです」


 知らない声が混ざっていることに気が付いて、アーリーンの足が止まる。

 窺ってみれば、エルドレットたち以外の令息も一緒にお茶をしていた。


 会話もプライベートなもののようだし、さすがに初対面の令息たちがいる席に招待された訳でもないアーリーンが押し掛ける訳にはいきそうにない。


 淑女教育が始まる前なら押し掛けていたかもしれないけれど、マナーの勉強を受けるようになって理想の淑女を目指そうとしている今のアーリーンは、今日は褒めて貰うことを諦めるしかないと思えるようになっていた。


 しょんぼりして、来た道を戻ろうとする。


「実は、僕もそろそろ婚約相手を考えろって父上から言われているんだ」


 戻ろうとしたところで聞こえてきた声に、足が止まる。


「婚約者。……エルドレットにいさまに?」


 最近遊びに来た伯母が、「アーリーンもそろそろ婚約者を用意しないとね」と言ったところ、父が「絶対に嫁になんか出さないし、余所の男となんか結婚させん!」と息まいてアーリーンを抱き上げ全力で頬ずりしてきた。

 どうやら婚約というのは、将来結婚するという約束を交わすことなのだと、その時に知ったのだが。

 結婚をする約束をするだけでも、その人を特別扱いして、他の人と遊んだりできなくなるらしい。


「つまり、だいすきなエルドレットにいさまに、婚約者ができてしまうということは、もう一緒に遊んで貰えなくなるということ?」


 アーリーンは自分で呟いた言葉に絶望した。

 そうして、今更ながら声が聞こえなかったか不安になってしゃがみ込む。

 それでも会話の続きが気になってしまい、その場から離れることはできなかった。


「エルドレット様も立太子がお近いでしょうから当然ですね」

「身上書がたくさん届けられて辟易しているよ」

「いずれ劣らぬ美姫(びき)ばかりなんでしょうね。今度、肖像画見せて下さいよ」

「いや。嵩張るし、まずは能力で選びたいから届けて貰ってないよ」

「へぇ。王太子妃ならそんなもんですかね」


「僕、エルドレット兄様の婚約者には、アーリーンがなるんだと思ってた」


「!?」


 突然の、もうひとりの幼馴染みでエルドレットの弟であるヤミソンの言葉に吃驚し過ぎて、心臓が嫌な音を立てて軋む。


 アーリーンは叫び出しそうになる声を、両手で必死に押さえ込み耐えた。


「アーリーン嬢って、ペイター侯爵家のご令嬢でしたか?」

「まだ学園にも入学前のご令嬢ですよね。あぁ、たしかお母上のペイター侯爵夫人は、王妃陛下とご学友でしたね。その繋がりですか」

「うん。それで、王城へ遊びに来るといっつもエルドレット兄様に貼りついてるの。兄様もまんざらじゃなさそうだし、可愛がってるからさ」

「エルドレット様は令嬢たちには一律で冷たいんだと思ってましたが、そういう方がいらしたんですね」

「なるほどねぇ。そりゃ肖像画なんて必要ないですよね」


 ヤミソンにいさまの説明をうけて周囲が囃し立てる声を聞いている内に、アーリーンの顔が熱くなっていく。


 ヤミソンは実際にはアーリーンと同じ歳だが、「僕の方が誕生日が半年も早いから。僕のことも“にいさま”って呼んでね」と押し切られて以来アーリーンはヤミソンのこともにいさまと呼んでいる。それでも何故かそれが嫌ではない。むしろムズ痒いような嬉しいような不思議な気分で、にいさまと呼ぶ度に口元がムズムズした。


 でもまさか、ヤミソンにいさまからそんな風に思われているとは思いもしなかった。

 エルドレットにいさまにとって、アーリーンが特別だと思っているなんて。

 そして、アーリーンにとっても、エルドレットにいさまが、特別だと思っていると思われていたなんて。


 でも、確かに幼馴染みのふたりともだいすきだけれど、ふたりの内どちらへ駆け寄るかといえば、いつだって自然と、エルドレットにいさまの手を取っていた。


 やさしく笑いかけて貰えると、とても嬉しくなる。


 もしかしたら、これが恋というものなのかしら。


 そうして、もしかしてエルドレットにいさまにとっても?


 そんな風に考えたところだったから、続いて聞こえてきたエルドレットが笑ったように口にした言葉に集中した。

「アーリーンは、……無理だよ」

「え?」

「王太子妃になるということは、未来の王妃になるということだ。無理だよ」


 駄目押しのように告げられた言葉に、弾かれるようにしてアーリーンは元来た道を戻るように走り出す。

 幸い、ガゼボからは木々に隠れて見えない角度だ。

 勿論アーリーンにはそんなことを考える余裕はまったくなかったけれど。


 ひたすら来た道を走って戻る。

 ようやくあの鉄製の扉が見えてきたところで、安心してしまったのか、盛大に転んだ。


「痛い!」


 涙で世界が滲んだ。

 

「痛いわ。痛いの。痛いのよ、おかあさまぁ!」


 うわーんと声を上げて泣きだせば、慌てて遠くからアーリーンの名前を呼んで母が駆けつけてくれた。


「あらあら。私の可愛い娘はやんちゃね。温室から出ないという、かあさまとの約束まで破って」

「ご、ごめんなさい」

「チュールのドレスもやっぱりあなたには早かったわね」

「ごめんなさい」

「怪我はない? 私の可愛いやんちゃな娘に怪我がないかちゃんとよく見せてちょうだい」

「ごめ……ごめ……な、さい」

「怪我がなければいいの。あなたに何かあったら、とうさまもかあさまも心臓が破裂してしまうわ」

「ごめ……」


 抱き上げてくれるかあさまの手は優しくて。いい匂いがする。


 泣いているのは、胸の痛みじゃなくて、転んだせいだ。アーリーンは、それで押し通すことにした。


 背中をさすられて甘やかされて。母の腕の中でいっぱい泣けば、胸の痛みも涙と一緒に流れていく気がした。



 泣き止もうとしないアーリーンに困った母は、王妃に会議の中断を願い出ることにした。


「いいのよ。私も熱中しすぎてアーリーン嬢を構わな過ぎてしまって申し訳なかったわ。素敵なドレスだったのに。こんなことになって残念ね?」


 頭を撫でて貰ったけれど、もうアーリーンには王妃に対して素直に憧れを表すこともできなかった。

 よく似た人の言葉を、思い出してしまうから。


「ふぇっ、ふっ。も、もうしわけ……あり……ヒック」

 手にしたハンカチはすでに涙でぐずぐずだったが、再び溢れていく涙を押さえるものは他にはない。濡れた感触が、自分の不出来さを表しているようで、アーリーンの涙は大きな粒になっていくばかりだ。

「ごめんなさいね。私ったら、嫌なことを思い出させてしまったかしら。また新しいドレスを作ったら、見せに来てちょうだいね」


 もう完全にまた泣き出してしまったアーリーンの代わりに、母が頭を下げる。

 それに王妃は寛大な許しを与えて、今日の会議は終わりとなった。


 侍従に抱き上げられたままアーリーンは、馬車へと乗せられた。


 その時、人混みの中にエルドレットの顔があったような気がした。


 その瞳が、やはりアーリーンは王太子である自分には相応しくないと言っているようで、顔を逸らした。


 思い出すだけで悲しくて、転んでドレスを汚してしまったショックで泣いているのだと思われることを否定する事すらする気になれずに泣き続け、ついには夜になって発熱した。


 翌朝になっても泣けてくるのでそのままベッドで暮らし、ようやく涙と発熱が落ち着いた朝、アーリーンは心に決めたのだ。


「まじめに、勉強しよう。マナーのレッスンも、サボらずにがんばる」



 そうして、王妃のお茶会に呼ばれて転んでしまったあの日が、アーリーンが母に連れられて王宮に遊びに行った最後の日となった。




*****




 貴族の子息令嬢が集まる王立学園へ、13歳となったアーリーンが初登校する日がやって来た。


 飾りの少ないシンプルな上着(ダブレット)は上半身にはぴったりしているのに腰から下へと裾が広がり膝を隠すほど長い。それを細いベルトで止めている。その下にロング丈のワンピースを重ねて着て、襟元に学年ごとに色の違うタイを結ぶのだ。


 まるで父が、宰相として王宮へ出仕する時に着用している服装そっくりだとアーリーンは鏡の中の自分を見て思った。


 ただし、父が着ているのは、上着(ダブレット)ではなくジュストコールであるし、その下に着ているのはフリルのついたシャツとジレだし、着ているその全てに精巧で緻密な刺繍が施されているのだが。全体のイメージだけなら、ドレスよりずっと似ている。


 初めて手を通した制服はごわごわしていてまだ慣れないが、きっとすぐに身体に馴染むだろう。


「アーリーン様、本当にそのようなお姿で行かれるおつもりですか?」

「えぇ。勿論よ」


 ふわふわで、結ぶだけではいつの間にか解けてしまうアーリーンの髪も、香油を馴染ませきっちりと編み込むことで一筋の乱れもない。

 前髪まで全部編み込んだお陰で、垂れ目でどこか甘えたに見える自分の瞳が今はきりりと見えることに満足する。


「せめてこの髪飾りを」

「私は学園に勉強に行くのよ。宝飾品など不要でなくて?」

「ですが……」

 尚も縋ってくる侍女のアンナへ笑顔で話は終わりだと告げる。


「では、行ってくるわね」

「おじょうさま!」


 侍女のアンナもこの学園の卒業生だ。だから高位貴族であるならばその証として高価なアイテムを必ず見えるところに身に着けておくという生徒内のルールを理解していた。


 地方からやってきた生徒たちには、その人が高位貴族であるかどうかなど分かる訳がない。学園内では身分差はないとされていても、卒業したらそれも終わりだ。無用な衝突など避けるべきで、その為にもひと目見ただけでその人の身分がある程度は分かるようにするべきなのだ。


 勿論、アーリーンに対して、アンナは口が酸っぱくなるほど何度も説明した。だが、敬愛する主たるアーリーンは、「学園は勉強する所なのよ。華美な装いなど不要だわ」と言うばかりで、頑として譲ろうとしなかったのだ。アンナは、その他の細々とした学園での学生のルールや攻略法を教えたが、どこまで覚えていてくれるか不安しかない。

 正直、ここまで来たらもうお手上げするしかなかった。


「あぁ。無駄に問題を起こさないでお帰り下さい、アーリーン様」


 アンナは祈る気持ちで、主たるアーリーンを見送った。



*****



 事前に通知は受けていたが、廊下に張り出されていたクラス分け一覧表でも自分がA組であることを再確認したアーリーンは、D組、C組、B組の前を素通りしてA組の教室の前までやってきた。


 成績順とはいえ、当然ではあるが家柄も基準に入っているという噂通り、A組にいるのはほぼ侯爵家以上の者ばかりだ。


「ヤミソンにいさま……ううん、ヤミソン殿下も、いらっしゃるのね」


 呟いてみると、緊張して足が遅くなった。

 同じクラスにいることは、先ほど名前を確認したので間違いなかった。


 むしろ第二王子であるヤミソン殿下がA組以外に籍を置く筈がないのだが。

 警備上の問題もある。守るべき存在を一か所に集めておく方が守り易いのは当たり前のことだ。


 あの日以来、アーリーンは自分宛てに王宮から届いた招待状すら欠席し続けてしまっていた。

 さすがに3度続けてお断りしてからは、招待状が届くことも減ってしまった。

 それはそれで寂しかったが、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。


 そうして、ついに逃げる訳にはいかなくなった。


「大丈夫。エルドレット……殿下より、ずっとマシよ」


「何をぶつくさ言っているの。ここはあなたのような者が来る場所ではないわ。自分の場所へお帰りなさい!」


 ダン、と激しい足音が響いて、驚きと共に目を瞠る。


 そこには、美しい令嬢が立ち塞がっていた。

 艶やかなブルネットの髪が、白皙の頬と引き結ばれた赤い唇を引き立てる。


「ナディーン・ケイフォード辺境伯令嬢?」


 あの日、エルドレットから王太子妃失格を告げられてからのアーリーンは、それまでとは心を入れ替え真面目に女家庭教師(ガヴァネス)の下で勉強に勤しんできた。

 国内貴族の名前や特徴に関してもきっちりと覚えた。たとえ会ったことは無くとも相手が誰か推測することができるほど。


「あら。私のことが分かるのね。偉いわ」

「ありがとう……ございます?」

「ならば、私の言葉を受け入れることもできるわね?」

「えっ!?」


「あなた、地方の男爵かせいぜい子爵家の方でしょう? だったらこのような場所にいる資格などないでしょうに。どうせ上位貴族の子息に取り入ろうとでもいうのでしょう。不潔な精神で学園に通わないで下さるかしら。ここは勉強をする場所ですわ!」


 誇らしげに胸を張って宣言された。

 アーリーンも、ナディーンの理念には大いに賛成だ。だが、だからこそ教室へ早く入りたかった。


「ですが、その。わたくしの教室は、A組です。あらためて名のり……」


「嘘おっしゃい! 今年度のA組は侯爵家以上の者しかおりません。ご存じでしょうが、辺境伯は侯爵家相当とされておりますわ。ですから私はこの栄えあるA組の末席を汚すことができました。だからこそ、あなたのような下劣な嘘をついてまで押し入ってこようとする者は許せませんのよ!」


「げ、下劣……」


 あまりの謂れように眩暈がした。

 目の前の令嬢は自分の言葉に高揚してしまったのか、アーリーンが自己紹介する隙すら与えようとはしてくれなかった。


 落ち着いて貰うにはどうすればいいのか。アーリーンは途方に暮れた。


「あんまり遅いから探しに来ちゃった。なにこれ、変装なの? 似合ってるけど、でも僕はいつものアーリーン嬢の方が好きだなぁ」


 するりと、編み込んでいた髪を止めているピンを抜かれて髪が一気に解けていく。

 ただでさえふわふわしているアーリーンの髪が、編み込まれていたお陰で癖が大きくついて、よりふわふわのモコモコになって広がった。


「や、ヤミソンにいさまったら!」

「あはは。よかった。僕の知ってるアーリーンだ」


 笑顔で言われて頬が染まる。

 思わず視線を遮るように、頭を下げた。

 何度も練習を重ね、女家庭教師(ガヴァネス)から褒められるまで上達したカッツィーを取る。


「失礼しました、ヤミソン殿下」

「んー? にいさまって呼んでってお願いしたよ」


 腰を下げ、俯けた顔を覗き込まれた。


「同じ歳ではありませんか」

 そのままの姿勢で答える。絶対に、ギブアップなんてしない。

「半年も歳上だ」

「半年は半年。一年ではありませんから。その証拠に、同じ学年、同じクラスとなれて光栄です、ヤミソン第二王子殿下」


「降参だ! でも学園内で、殿下はやめて欲しいな」


 両手を挙げて降参のポーズを取ったヤミソンに、アーリーンは笑顔を見せた。


「一年間、どうぞよろしくお願いいたします。ヤミソン様」

「様もなくていいのに」

「それだけは、ご容赦ください。私は侯爵家の娘です。臣下としての礼を失する訳にもいきませんし、なにより婚約者でもない異性を呼び捨てになどできません」

 キッパリと伝えると、ようやく諦めてくれたらしい。

「昔のアーリーンとは、違うって事ね。了解」

「ヤミソン様。どうか私のことを呼び捨てにするのもお止めください。まだ婚約者募集中なので」

「おぉー! 新生アーリーン嬢はいうことは手厳しい」

「ふふ。王宮へ出入りさせて頂いていた頃より勉強に励んで参りましたから。簡単に負けたりいたしませんわ」


「あのっ!」


 ナディーン嬢から声を掛けられ気が付いた。

 そういえば彼女との間のことは何も解決していなかった。

 なんとなくヤミソンのお陰でうやむやに終わらせそうになってしまった。


「あれ、まだいたんだ?」


 にこやかな笑顔なのに、どこか冷たい声でヤミソンが一歩アーリーンの前へ出る。


「ヤミソン第二王子殿下に、ケイフォード辺境伯が二女ナディーンがご挨拶申し上げます」

「いい。要らない。ここは学園だ。爵位を持ち込むべき場所ではない。それで? アーリーンにまだ文句があるっていうのかな」


「いえ、その……その者……ひえっ。いえ、その御方は、その……」


「はぁ。まだ分からないの? 分かりたくないなら、授業が始まるまで待てばいい。教師がきたら本当の名前と籍が本当にA組にあるのかわかるでしょ」


 言い終わらない内に、ヤミソンがアーリーンの肩に手を掛けると、守るように教室へと誘った。


「あの!」


 そのヤミソンの手をアーリーンはやさしく振りほどくと、廊下で呆然と立ち尽くしていたナディーンの所まで戻り、冷たくなった彼女の手を取った。


「自己紹介が遅れて失礼しました。わたくしは、ペイター侯爵家の一女、アーリーン゠エバンゲリネ・ペイター。家の方針もあり、デビュタント前ということでお茶会の席などには出席せずにおりました。同じクラスになったのですから、これをご縁に、お見知りおきくださいませ」


 先ほどヤミソン殿下へ贈ったカッツィーより簡略化したものを、敬意とは別のもの、親愛を込めて笑顔で贈る。


 侍女のアンナから教わった対令嬢向けの秘密兵器だ。

 同じA組にいる令嬢は少ないので、初日ではあるが発動させてしまって問題ないだろう。

 鉄は熱いうちに打てというように、同性の友情は強引にでも引き寄せてしまうべきで、得られると思ったらそのチャンスは逃がすべからずだと、懇々と教え込まれたのだ。


 そうして多分いまこの時が、アンナのいうチャンスなのだと思う。多分だが。


「……ハイ。しちゅれいしました。わ、わたしは、その、大変しちゅれいを」

「いいのです。気になさらないで。ここは王立貴族学園ですもの。礼法も仲良くするのも、ここで一緒に勉強していきましょうね」

「はいぃ」


 ダメ押しに、謝罪を遮ってにっこりと笑い掛けると、ナディーン嬢も笑顔になってくれて、アーリーンはホッとした。なんとか拗れずに済んだようだ。


 にこにこと笑い合っていると、ヤミソンが近付いてきた。

 なにやらわざとらしいほど拗ねた顔と声をしている。


「まったく。一体どこでそういう手管覚えたの? 男にはしてないだろうね」


 じろりと睨まれて、慌てて手を振った。


「あるはずがないです。もうずっと、お茶会へも出席していなかったことは、ヤミソン殿下もご存じではありませんか」


「……」


「えっと、……ヤミソン、様」


 ヤミソンとも勿論エルドレットとも、距離を置こうと思っていたアーリーンとしては不本意そのものだ。だが如何にも不満だという視線を送ってくるヤミソンの機嫌をこれ以上損ねたくなくて、強請られるまま名前を呼んだ。


 その時、少しだけ頬が赤くなったのは許して欲しい。

 幼馴染みとはいえこうして顔を合わせるのは5年振りなのだ。


 アーリーンを守るように前に立ったヤミソンは、アーリーンの知っている幼馴染みのヤミソンとはまるで別人だった。

 ほとんど違いのなかった背の高さもすっかり引き離されて、表情を確かめようとしても視線を上へと向けなくてはいけなくなっていた。肩幅だってすっかり広くなっている。

 ただ『アーリーン』と名前を呼ぶ声だけは変わっていなくて、それだけは安心できた。


 勿論、成長途中ではあるし大人というにはほど遠いけれど、それでも先ほど肩に乗せられた手の大きさも、アーリーンと手を繋いでいた頃とまるで違って大きくて、節くれだっていた。


 思わず思考があらぬ方向へと進んでしまって、アーリーンの頬がどんどん熱くなっていく。


 それを誤魔化したくて、ヤミソンの視線を避けるように顔を俯けた。


「はぁ。参ったな、もう」


 ヤミソンの呟きに、萎れる。

 浮かれている場合などではない。入学初日早々、廊下で騒動を起こし、第二王子の手を煩わせてしまったのだ。

 これがアンナにバレたら叱られること間違いなしだ。

 やってしまった感が酷い。

 自然と肩が落ち、顔色も悪くなっていく。


「はい。朝から、大変ご迷惑をお掛け致しました」

 震えそうな声を必死に抑えて深々と頭を下げて謝罪すると、アーリーンはその後はずっと顔を俯けたまま、教師が来るまで顔を上げようとしなかった。



*****



「やっとお昼休みの時間になったわ。この休憩だけ長いからようやく一息つけるわね」


 授業の合間にも休み時間はあるが、実際には次の移動など授業の準備でほぼ終わってしまう。

 これほど長く椅子に座って居続けたことも無かったので、アーリーンにとって午前中最後の授業はかなりしんどかった。

 最もそう感じていたのはアーリーンだけではないようで、クラスメイトたちも同じように疲れが見えていた。


 よろけたりしないよう慎重に席を立つ。

 昼食は、学内に設けられた学生専用食堂、通称学食で取るらしい。

 自分の好みの食事が選べるようになっていて、ひとり分ずつトレイに乗せられたものが配られるのだと、事前にアンナから図解を用いてレクチャーを受けているので、アーリーンは自分でも簡単にできると思った。


「アーリーン嬢、昼食をご一緒して貰えるだろうか」

 立ち上がった所で、手を差し出された。

「ヤミソンで……さま」

「“でさま”って」

 くくくと楽しそうに笑う顔が憎らしい。

 けれど自分のせいなので、ここで文句を言ってはいけないのだわとアーリーンは自らを窘め口を噤んだ。

 そのまま視線すら合わせず差し伸べられた手を取らないでいると、強引に手を取られた。

 そのまま廊下へ向かって歩き出され、逆らいきれなかったアーリーンは顔をそっぽへと向けながらもついていくことにする。

「わたくし、まだご一緒するなど言ってませんわ」

「学食の戦争を知らないね? 早く行かなくちゃ座るところも見つからないし、食べたくない物を食べることになるんだって。兄上からそう教えて貰ったんだ」

「……エルドレット殿下が」

『アーリーンは、……無理だよ』

 あの日の声が、今もアーリーンの胸の奥に突き刺さったままでいる。

 最後に聞いた声だからかもしれない。けれど、アーリーンはエルドレットにお会いして、声を聴くのも怖かった。

「そういえば、学園にはエルドレット殿下も、いらっしゃるのよ、ね」

「当たり前だろう? 大丈夫、すぐに会えるよ」


「え? ……あ。きゃっ」


「きゃー! ヤミソン様ぁ」

「殿下が廊下に出ていらっしゃったわ!」


 廊下を出たところで令嬢たちに囲まれた。


「なによ、この地味女」

「地味でもA組から一緒に出て来られたってことは侯爵家以上なのね」

「でも何も宝飾品を着けられていらっしゃらないわ。よほどの窮状なのね」

「爵位だけの貧乏家ってことね。なのに殿下に手を取らせるなんて」


 勝手な想像から、どんどんと勝手に興奮して妄想を膨らませていく様に、アーリーンは恐怖した。

 ただ、名指しはしていなくともアーリーンを指しているのだと分かる目の前で交わされる罵りの言葉が、ようやく朝のアンナがあれほど髪飾りを着けて行かせたがっていたことと、頭の中で繋がった。

 アンナの言う通りに豪奢な髪飾りを着けてくるだけで、朝のナディーン嬢との諍いも起こらなかったのかもしれないと理解する。


 ──私が、勘違いさせてしまったのね。髪飾りひとつで避けられる諍いがあるなら、絶対にその方がいいのに。


 制服は一緒でも、そこに家格を示す何かがあるだけで、名前や顔を知らなくとも周囲に誤解を与えなくて済む。

 自らの頑なさがこの罵倒に繋がっているのだと思うと、自業自得のような気がして、アーリーンは知らない令嬢たちの陰湿な言葉を黙って聞いていた。


「あの、やっぱりわたくし、食堂へはひとりで行きますわ」

 ヤミソンに掴まれた手を取り戻そうと引き寄せる。

 しかし、しっかりと握り込まれてしまった手はそう簡単に振りほどけなかった。

「駄目。このまま引き下がっても意味はないよ。明日も明後日も、その後も卒業までの5年間。ずーっとこうなんだ。最初が肝心なんだよ、アーリーン嬢」


 ヤミソンが呼んだ名前に、令嬢たちが気付いた。

「アーリーン嬢って……まさかペイター侯爵家の?!」

「宰相様のお家ではありませんか」

「なぜあのような貧そ……質素、いいえ清楚な出で立ちでおいでなのは、宰相様の方針なのかも」


「ヤミソン、さま」

「なに?」

「情報の扱いが、お上手ですね」


 こんな方だったろうかと、笑顔のヤミソンをぼんやりと見上げた。

 けれどアーリーンが知っているヤミソンは、もう5年近くも前のヤミソンだけだ。

 自分と背も変わらない頃の、幼いヤミソン。

 アーリーンだって、あの頃のアーリーンから脱却する為に懸命に勉強してきたつもりだ。


「腐っても王族だからね」


 爽やかに笑って「さぁ」と手を引かれる。

 もしかしたらこの無邪気さも演技なのかもしれない。アーリーンの胸はつきんと痛んだ。

 だから冗談で返した。


「まぁ! ヤミソン様は、腐っていらっしゃるのですか?」

「そりゃもう! 中身はぐっちゃぐちゃのドロッドロさ」


「それは大変ですね……あっ」


 笑い合っていたから、横から出された足を避けきれず、アーリーンはその場でバランスを崩してしまった。


 勿論、ヤミソンに手を取られていた状態であったので、アーリーンは廊下に叩きつけられることもなく、ヤミソンの腕の中へと抱き寄せられることとなった。


 周囲から悲鳴が上がる。


「破廉恥ですわ」

「わざと転んで見せたのでは? いやらしい」


 悲鳴と共に吐き捨てられる暴言に、アーリーンの頬が染まった。

 恥ずかしさと痛みと、陥れられる恐怖。それらを人前で感じているという屈辱で、頭の中が渦巻く。


「大丈夫? ……今、アーリーンの足を引っかけた者、出てこい」

「ヤミソン様、よろしいのです。わたくしはヤミソン様のお陰で転ぶこともなく済みましたから」


 そういって取りなすアーリーンを抱き寄せるように庇って、ヤミソンは笑顔を貼り付けた令嬢たちを睨みつけた。




*****



 ガヤガヤと騒がしいのは、初めての学食だからだろう。


 同じ歳の者を一堂に集めて共に勉強をさせることは、家で家庭教師をつけていた貴族家の子女ならばその延長線上でしかない。教師の教えに従って、粛々と教えに従うのみだからだ。


 しかし、今は休み時間。規律違反を問い質す厳しい教師の目はない。

 お茶会のようにマナーを守り、家名を背負って出席しているものでもなく、ただ普段なら同じ部屋にいることすら叶わないような上位の貴族家の子息令嬢と同席する事だって可能、かもしれない。そう思うだけでどこか浮ついた心持になってしまったとしても仕方のない事だろう。


 なにしろ、まだ新入生、それも本日から学生となり親の手を離れたばかりの集団なのだ。


 上級生たちにとっても、かつて自分が通って来た道だ。

 寛容にならざるを得ない。余程のことがない限り、ではあるのだが。



「ヤミソンさま早くいらっしゃらないかしら」

「わたくし、父から是非ヤミソン殿下にお言葉を賜ってくるように言いつけられておりまして」

「まだ婚約者も親しいご令嬢もいらっしゃらないのよね」

「それをいうなら第一王子のエルドレット様もそうでしょう」

「あの御方は、手が届かなさ過ぎですわ」

「そうね、どちらかといえば観賞用」

「きゃあ! なんてことを」


 笑いがさざめくように学生食堂内を広がっていく。


「おぉー! 今年も争奪戦がすごいな」

「4年前を思い出すねぇ」

「私の時は、これほど酷くなかったんじゃないか」

「エルドは学園に入学する前には令嬢たちに冷たい王子って有名だったからな。声を掛けるのはそれでもいいっていう猛者ばっかりだったじゃない」

「確かに。それに比べてヤミソン殿下は愛想がいい方ですからね。下位貴族であってもお声を掛けてみようと思わせてしまうのでしょう」

「駄目で元々あわよくばって感じ?」

「私達兄弟ふたり揃って、酷い言われようだな」


 兄とその友人たちが、呑気に高みの見物をしている間にヤミソンが近付いてきたのだろう、令嬢たちの歓声が近づいてきた。


「破廉恥ですわ」

「わざと転んで見せたのでは? いやらしい」


 しかし、聞こえてきた内容がおかしい。

 それに気が付いたエルドレットは、秀麗な顔に冷たい微笑を貼り付けて立ち上がった。身体から冷気が漏れているかのように怒っているのが、伝わってくる。


 その様子に、周囲で静かに食事を取っていた者たちが、びくりを身体を震わせる。


 笑顔にもかかわらず、辺り一面に冷気を撒き散らすような表情をして、ヤミソンの兄ことこの国の第一王子エルドレットが騒がしい一帯に向かって歩き出した。


「助けにいくの?」

「仕方がないだろう。令嬢が罵る声は醜い。食事が不味くなる」

「……どっちが酷いんだか」

「ホントホント」


 囁くように未来の主たるエルドレットに対する不敬な口を叩きながら、それでも未来の側近たちは、主の後ろに付き従った。




「ここは午後の教科に備えて静かに昼食をとる場所だ。このように騒ぐなら、出て行きたまえ」


「きゃーっ! エルドレット様よ」

「噂以上にお美しくて。すてきなご尊顔ですこと」

「お声も素敵ですわぁ」

「こんなにお近くでお声を掛けて頂けるなんて。学園生活って、最高ですわね」


 ヤミソン以外に突撃するべきターゲットを見つけたとばかりに、一斉に令嬢たちがエルドレットを振り向いた。


「私の言葉が通じないようだな。この国の第一王子である私の言葉が通じないほどなのだ。きっとこの学園の授業を理解することもできないに違いない。今すぐ領地へ帰り、自宅で基礎から学習をし直して来年度再入学するがいい」


 まるで無造作に大鉈を揮うような弁舌を初めて聞いた新入生たちがどん引く。

 ちなみに在校生たちは皆、あぁ始まったとばかりに首を竦めて嵐に自分が巻き込まれないように祈った。


「!」

「そんなっ」

「ご冗談を。いくら王子殿下であろうとも、そのような笑えない冗談は……」


「私は本気だよ、ジャニー・ワイマン伯爵令嬢」

「!!」

「全員の名前を呼び上げた方がいいかな。我が学園の職員を舐めて貰っては困る。私でなくとも生徒の名前と顔が一致しない者などいない。父兄諸氏には今日の君たちの行動について通告があると覚悟しておくように」


「それと、ジジ・ウェルマ子爵令嬢。先ほどここへ入ってくる途中で、足を引っかけた相手が誰だか分かっていての行動かな。令嬢相手に口汚く罵ることも、怪我をさせるような真似をして恥を掻かせようとすることも、すべて信じがたい行為だ。それを自分より爵位の上の相手にするなど信じられない愚かさだ。あぁ、勿論家格が下の相手ならいいということではないよ、念の為。だが、この国の貴族制度というものを理解することもできないなら君には、学園でどれだけ学ばせようと民を率いる貴族でいる事など無理だ。平民となり、導いて貰う立場になるといい」


「そんな。誤解ですっ!」

「私が嘘を言っているというのか」

「突然そのような疑いを掛けられて。証拠も何もないのに。酷い誤解です」

「証拠はないな」

「でしょう!」

「だが、証人は、いる」

 エルドレットがそういった時だった。

 それまで食堂の隅で控えていた使用人が、音もなくジジ・ウェルマの両側に立ち、その腕を取った。

「え?」


「私共が証言いたします。このご令嬢が、ヤミソン様の連れられていたご学友のご令嬢の足を引っかけ転ばせようとなさいました。ご令嬢自身は体勢を崩されたところを傍にいたヤミソン様に助けられて御無事です。しかし、ジジ・ウェルマ嬢の行為は許されるものではないと存じます」

「私もそう思う。では文書に纏めて学園長へ報告するように。それを基に学園長が処断してくれるだろう」

「はい。かしこまりました」


「そんな! だって、だってこんなの、ちょっとしたやっかみじゃあありませんか。爵位が上だからって、こんな地味な女が王子さまにエスコートされて守られて。生まれた家で決まるものでしかないのに。そんなの、ずるいです」


「爵位が上の者には責務がある。学生であるならばそれは、勉学に勤しみ知見を広げ知識や伝手を蓄えること。次代を継ぐ者として備えることだ。ペイター侯爵令嬢は、その務めを果たそうと努力している。そこにズルも何もない。それに比べてお前は何をしている? 何をした? 他人をこき下ろすことばかり考え卑劣な罠を掛けようとする者は、私の治世には必要ない」


 ばっさりと切り捨て、睥睨する。

 そこには最上級生とはいえ、まだ学生とは思えぬほどの王者の風格があった。


「自分は関係ないと思っているようだが、ペイター侯爵令嬢に向かって失言したと思う者は真摯に謝罪するように。上位貴族が華美に装うことは校則ではない。自分たちで勝手に作ったルールを当て嵌めて、それに従わない者を罰しようとするのは私刑に当たる。この国では私刑を認めていない」


 ハッとした様に、令嬢たちが一斉にアーリーンへと縋るような視線を投げかける。

 しかし、彼女らの足が動き出す前にエルドレットから更なる言葉が掛けられた。


「謝罪は口頭ではなく、文書を以って正式に行うように。自分の口にした言葉を真摯に考え、反省してから書き送りなさい」


 令嬢たちは顔を見合わせ、しおしおと元の場所へと足を戻す。

 けれど令嬢たちの顔はどれも不満げだ。未だに、そこまでさせることなのかと思っているのが伝わってくる。


「罰せられることが分かったからと、それから逃れる為に告げられる謝罪ほど中身のないものはない。そんな薄っぺらなことに大切な昼休みを費やしている暇はないのだから。なにしろ、あと半刻で午後の授業が始まってしまう。さぁ、ランチを食べ損ねて授業中にお腹が鳴る辱めに遭いたくなければ解散するように」


 前半と打って変わって爽やかな笑顔でそう言い切ると、エルドレットが手を叩いて解散を宣言する。


 それを受けて周囲はどこかほっとした表情を取り戻し自然と頭を下げて、エルドレットの言葉に従った。




「すまない。ヒーロー役を奪ってしまった」


 まるで悪いとなど思っていないとばかりに、にこやかな笑顔でヤミソンへの謝罪を告げながら、エルドレットはヤミソンとアーリーンの傍へとやってきた。


「……いいえ。僕ではあの場を収めることも、アーリーン嬢に酷いことをした令嬢に罪を認めさせることもできませんでしたから。さすがですね、兄上」


「私ももう最終学年だからね。学園のことはかなり把握できているつもりなんだ。済まなかったね、アーリーン・ペイター侯爵令嬢。在学生相手なら、こんなことはさせなかったのに」


 させなかった、という言葉にアーリーンはふるりと寒気を感じた。

 きっとこれまで何度も先ほどのような大鉈を揮うような差配を示したのだろう。


 それでも、見上げたそこにあるのは、大人びてしまってはいてもアーリーンの知っている優しい王子様の笑顔だ。


「エルドレット第一王子殿下へ、ペイター侯爵家一女アーリーンがご挨拶申し上げます。殿下のお陰で、これからは落ち着いた学生生活を送れそうです。ありがとうございました。頂いたお言葉を胸に、これから一層勉学へ励んで参ります」


 朝、ヤミソンへ贈った最上級のカッツィーと同じものを万感の思いを込めて贈る。


 あの日の言葉はずっとアーリーンの胸に刺さったままだった。けれど、ようやくあの時の言葉を、アーリーンは素直に受け取れるようになった気がした。


「綺麗なカッツィーだ。沢山練習をしたのがわかる。頑張ったね、アーリーン嬢」


「ありがとう、ぞんじます」


 あの日から、がむしゃらに練習を繰り返した日々が報われた気がした。


 膝の痛みやドレスを汚してしまったからだと誤魔化して熱が出るほど泣いて。

 『アーリーンは、……無理だよ』そう言って、アーリーンを切り捨てたエルドレットに前言撤回させられるようになりたいと願った。

 本気で重ねた努力が認められたのだと、頑張った自分が誇らしかった。


 だからようやく、エルドレットにも笑顔を返せた。


「さぁ。アーリーン嬢も、ヤミソンも、急いでランチを掻き込んだ方がいい。でないと本当に午後の授業でひもじい思いをすることになる。席は、私たちのところへ来ればいいよ」


 そういって、たくさんのテーブルが並んでいる奥の一角を指差して、エルドレットは友人たちと共に席へと戻っていった。

 まだ自分達も食事中だったのだろうが、わざわざアーリーンたちの窮地を救う為に来てくれたのだと思うと胸が熱くなった。


「私だけの王子様じゃなくても、エルドレット兄様はやっぱり王子様だわ。未来の、国王陛下なのね」


 強く正しい国王となった未来のエルドレットの姿を想像して、アーリーンの胸が熱くなった。


 そうして、あの日の彼の言葉がすとんと胸に収まった気がした。

 彼の想い描く妃には、きっとアーリーンは相応しくない。

 守られる側ではいけないのだ。彼の隣に立ち、共に民を守る者でなければ選ばれない。


 それでも、臣下として彼を信じついていくことくらいは、アーリーンにだってできる。

 できるようになりたいと、心を新たにした。



 去っていくエルドレットの後ろ姿を振り切るように、「さあ、わたくし達もランチにしましょう」とアーリーンは、ランチを配っている列へと並んだ。


 すでに選択肢もかなり減っていた。残っているのは魚介のパスタのセットと、チーズやコールミートが乗せられたパンケーキのセットのみ。


「わたくし、なんだか興奮しすぎてあまり食べられそうにないからパンケーキにするわ。ヤミソン様はどちらに致しますか?」


 はしゃぐアーリーンは、だからヤミソンが呟いた言葉に気が付かない。


「僕が、一番傍にいたのに」


 ぎゅっと拳を握りしめ、続きの言葉を飲みこんだヤミソンは、笑顔をつくってアーリーンの傍へと駆け寄った。


「ねぇ。どちらもっていう選択はアリだと思う?」



*****



 学食事件以来、アーリーンがヤミソンの傍にいても誰からも何も言われることはなくなった。


 それはエルドレットの言葉のお陰だけではなく、ジジ・ウェルマ子爵令嬢が本当に退学になったりジャニー・ワイマン伯爵令嬢が休学することになったりしたということもあるが、なによりもアーリーン゠エバンゲリネ・ペイター侯爵令嬢その人の優秀さが露わになったからと言うことが大きかった。


「僕、第二王子なのに。忖度なしじゃないか。この一年間、一度も君を抜けなかった」

 一学年の総括として、二学年度の組み分けテストもすべて終わり、その成績発表があったのだ。

 

「うふふ。ダンスと美術系は、殿下には敵いませんでしたから。その分、座学は譲りませんわ」

「美術系って。アーリーンは刺繍だって上手じゃないか」

「ジャンルが違うものは比べようがありませんものね」


 アーリーンも運動音痴というほどではないのだが、如何せん令嬢の淑女教育では走り込みや筋力トレーニングをすることはない。勿論姿勢を保つ為に必要な筋力はあるがそれだけだ。切れよく動き続ける為の体力はそれほどではない。


「相変わらず仲がいいわね、おふたりさん」

「あら、ナディーン嬢。それほどでもあるわよ」

 アーリーンは、ナディーンの揶揄いをこともなげに笑って答えた。

 揶揄われたままでいると調子に乗ったナディーンに揶揄われ続けるのだ。

 質の悪い冗談はそれより大きな冗談で返すことで断ち切れると知ったのは最近だったが、殊の外使い勝手が良いと知って以来、アーリーンは常用している。


「あらあらご馳走様ですこと。それで、いつご婚約されるのかしら?」

「まだ第一王子殿下も婚約をされていらっしゃらないのに。そのようなデリケートな話題を振るものではありませんわ」

 ほほほ、とこれも常套句で切り捨てた。


 アーリーンがエルドレットの口から婚約者を探し始めたことを聞いてからすでに5年以上、6年近くの月日が経っている。

 けれど未だにエルドレット第一王子の婚約は成立していないし、候補者だという令嬢の名前が噂に上ることはあっても、その噂が続くことすらなかった。


 何故婚約が成立していないのか。その理由はアーリーンには分からない。それをヤミソンに訊ねたことも無い。

 学園でエルドレットに近付いたこともないアーリーンには知る由もないことだ。

 知ろうとも思わなかった。アーリーンには知る必要がないことだからだ。


 ナディーンとの初対面は、お互いに最悪なものであったが、あの後それなりに和解できて、今は数少ないA組の女生徒として仲良くしている。

 一学年が終わろうとしている今は、こうして冗談を交わすことも増えた。


「そうだよ。兄上の婚約者を決める方が先。僕の婚約は、そのずっとずっと、ずーーーーーーーーーーっと後だなぁ」


 息が続くギリギリまで、ずを伸ばして答えるヤミソンに周囲が笑った。

 アーリーンも、勿論一緒に笑う。


「あらあらあらあら。けれどそんなことになったら、アーリーンたら行き遅れになってしまうのではなくて? ご家族だって心配になるでしょう。待てなくなって、他の男性と婚約させられてしまうかもしれませんねぇ」


「貴族令嬢の婚姻は、家同士が決めるものですもの。それも仕方がありません」

「あら? アーリーンは恋と結婚は別派なのね。意外だわ」

「婚姻は義務であると、教えられてきましたから」


 目を伏せ答える。冷静に言葉を返しながら、アーリーンはこの会話を早く終わらせる方法を懸命に考えていた。

 冗談に冗談で返しているつもりだったのに。何故か今日のナディーンの絡み方はしつこかった。


「僕は、婚約相手には特別な存在だと思って欲しい。そう思える相手と結婚はするものだと思っているから」

「ヤミソン様」


「それで、ヤミソン様が考える特別な存在ってどういうものですか? 恋とは、違うものですか」

「……僕には、恋がまだわからないから。でも、その人の為なら、苦手なことでも頑張れたりする。そう思える人の傍にいられたらきっと一生幸せだと思うんだ」



「……すてきです! その考え方、とっても素敵だと思います。ヤミソン様! 私もそんな相手と結婚したいですぅ!」


 がしっとヤミソンが座る席の机へとナディーンが取りすがる。

 普段なら王族であるヤミソンに対する敬意をもって、決して近づいたりしない距離まで迫るその必死な様子に、アーリーンは目を瞬かせた。


「ナディーン様、どうかなされたのですか?」


 宥めるように声を掛けると、ナディーンは恥ずかしげに「あの、えっと。失礼しました」と謝罪して、姿勢を正した。



「実は、二学年へと進級する前の長期休みに、あの……お、お見合いをすることに、なりまして」

「お見合いですか」

「はい。それが十も歳上で、辺境伯領所属の軍で大隊長を勤める方なのです」

「えぇと、わたくし達が今13歳ですから、23歳でしょうか。少し歳上ですが、貴族の婚姻としてはない訳ではありませんね」

「現在は24歳だそうです。私は二学年になってすぐの誕生日ですので」

「あぁなるほど」

「それにしても、その年齢でケイフォード辺境伯領軍の大隊長ですか。優秀な軍人なのですね」

「はい、とてもお強くて。領内の剣術大会で一昨年からずっと優勝されている方です」

「連続優勝。それは凄い!」

 ヤミソンが目を瞠って褒めると、ナディーンは頬を染めて自分が褒められたかのように喜んだ。

「えぇ! それはもう見事な剣技でございました。今年は、学園に入学してしまいましたので観戦できませんでしたが、去年一昨年と、一番傍で応援しておりましたのよ」

 頬を染め語る姿はどう見ても恋する乙女そのものだった。

「ねぇ、ナディーン様、それってもう恋……」

「い、いやですわ。ああああアーリーン様ったら、何を仰るのですか。私ごとき小娘が、マルティス様のような素晴らしい騎士さまに対してそのような大それた想いを抱くなんて」

「恋する気持ちに、資格なんていらないんじゃないかしら」

「アーリーンさま……でも」

「想いは止められないもの」

「アーリーン様も、そんな恋をされたことが?」

 不安げに瞳を揺らしながら、ナディーンが問い掛ける。


 だから、残念ながらと笑って、茶目っ気たっぷりに答えた。


「恋は堕ちるものだって、本にそう書いてありましたもの」

「あぁ、なんだ。さすが本の虫ですね。座学には自信ありのアーリーン様らしいです」

「ふふ。でしょう? でも、多分きっとそれは真実、なのよね」

「そう、かもしれません。私のこの気持ちを、彼に告げてもいいと、思いますか?」


「あら。それを恋愛経験ゼロのわたくしに問おうというの? ナディーン様ったら、チャレンジャーね」

「でもだって。他に相談できそうな方はいないのですもの」

 見る間に肩を落として、ナディーンがしょんぼりとする。

 常にはないその様子がおかしくて、アーリーンはヤミソンと目を合わせて共に笑顔になった。


「あなたの気持ちをきちんと伝えて、その上で大人なお相手に判断して戴けばいいと思うわ。どうせあなたのことだから、領主の娘である自分から見合いの席で告白されたら断れなくなるだろうって心配しているのでしょう」

「なんで分かるんですか」

「その程度には、ナディーン様とのお付き合いも長くなっているからですわ。あぁ、もしかして、仲良くしていると思っているのはわたくしだけだったかしら」

「そんなことないです! アーリーン様は、あれだけ悪態をついた私を優しく受け入れて下さって感謝しています。そ、尊敬も」

「まぁ。べた褒めね。ありがとうございます、ナディーン様。でも、そんなわたくしとより、お相手のマルティス様と知り合ってからの方が長いのでしょう? だったらきっと大丈夫ですわ。きちんとお伝えされることを、お勧めしますわ」


「はい。あの、振られたら、一緒にケーキをやけ食いするのに付き合って頂けますか? 王都のお店で、おいしいって評判のカフェがあるのです」


 ナディーンが王都の中央通りに最近できたばかりのカフェの名前を挙げる。

 名前だけはアーリーンも聞いたことのある店だ。


「振られる覚悟なのか。まぁいいだろう、その時は僕が奢ってあげるよ。好きなだけ食べればいい」


「ヤミソン様は誘ってません!」

「おい!」


 仲が良さそうなふたりの会話に、何故かアーリーンは一瞬声が出せなくなった。


「?」


 首を傾げるが、思い当たる節はない。

 だが、多分きっと今の会話が、お見合いが不成立になること前提で話が続いているからだと納得する。


「えぇ。是非ご一緒しましょうね。けれど、わたくしとしては婚約が決まったお祝いをさせて欲しいわ」


「アーリーンさまぁ!」

 わぁっと抱き着かれた。その背中を優しく撫でる。

「応援していますね、ナディーン様」

「安心して玉砕してくるといいぞ、ケイフォード辺境伯令嬢」


「もう! ヤミソン様とはご一緒しませんからねーっ!」




*****



 その日の放課後。


 アーリーンはヤミソンと共に教員室へ卒業式の送辞の原稿について確認に行くところだった。


 ヤミソンが在校生代表として選ばれ、送辞を読むことになったのだ。


 本来ならば、今年入学したばかりのヤミソンが選ばれることはない。

 しかし卒業生の代表として答辞を第一王子であるエルドレットが読むことに決まったことで、第二王子たるヤミソンが送辞を読むべきだと自動的に決まってしまったのだ。


 そうして当たり前のようにヤミソンはアーリーンに送辞の内容を相談し、ふたりで過去の送辞原稿の貸し出しを受け、ああでもないこうでもないと意見を出し合いつつなんとか締め切り前に仕上げることができたのだ。


 そこでまだ時間もあることだし、教頭にお願いして読んで貰って大丈夫そうか確認して貰おうということになった。


「いつの間にか、本番の卒業式まであと半月になってしまいましたねぇ」


 あと二週間ほどで、エルドレットたち5年生は卒業していってしまう。


 窓の外には、夕焼け空が広がっていた。

 陽が沈むのは確実に遅くなってきているというのに、赤く染まった空はどこか物悲しい。季節は春に近付いているのに、

 少し肌寒いから余計にそう思うのかもしれない。


「入学してからいろいろあり過ぎて。この一年、あっという間でしたね」


 初日、あれほどきっちりと編み込んで貰っていた髪は、今はアンナに前髪だけを編み込んで貰いハーフアップにしているだけだ。


 そうしてアンナおすすめの、ペイター侯爵家の紋章にアーリーンの名前を組合せた意匠の銀の髪留めを使っている。派手さはないが細工は精巧であり、紋章の意匠と合わせて余程のことが無ければペイター侯爵家の令嬢だと分かって貰えるようにはなった。


 銀の髪留めひとつでは留められきれないふわふわの金色の髪を、アーリーンが耳に掛ける。


 その仕草に目を眩しそうに眇めたヤミソンが、窓の外へと視線を逸らした。

 

「なぁ」

「なんでしょう、ヤミソン様」


 足を止めず、アーリーンが返事をする。


「兄上が、卒業してしまうけど。いいのか」

「いいのかと仰られましても。一体、なんのことでしょう?」


 今度こそ足を止めたアーリーンが、ヤミソンの顔を見上げた。


 入学時点で既に身長差があったふたりだったが、一年経った今、その差はさらに広がっていた。


 幼い頃には同じ目線だった。手の大きさだって同じで、手を繋ぐ事だって当たり前だったのに。


 今は、こんなにもふたりは違う。


『僕もそろそろ婚約相手を考えろって父上から言われているんだ』


 今、そんな風にヤミソンから聞かされたら、アーリーンはどうすればいいのだろう。


 応援するべきだろうか。それとも、反対を、してもいいのだろうか。

 アーリーンにはまったく分からなかった。


 自分のこの揺れる気持ちの、その理由すら。


「僕、今のアーリーンなら、兄上だって、婚約者にしてもいいと思うんじゃないかなって」


「……御冗談を」


 アーリーンは、声が震え出さないようにするのが精一杯だった。


 それ以上その言葉の続きを聴かされたくなくて、話を断ち切るように顔を背ける。


 また、アーリーンは告白もしていないのに振られるのだ。そう感じて、胸がぎゅっとした。


 ──振られる?


 アーリーンは、自分の中に生まれた言葉に、ハッとした。


「……また、振られるのは、いや」


 今度もまた、想いを告げることすらできないまま終わるのは嫌だ。

 アーリーンには興味がないと突きつけられて黙って引き下がるのは、もう嫌だった。

 二度目のこの恋は、せめて言葉にして、振られたかった。


 なのに。


「大丈夫だ。エルドレット兄様だって、今はちゃんとアーリーンが頑張って成長したことを認めている。いっつも褒めているよ、自信を持っていいんだ」


 ヤミソンの口からエルドレットへ嗾ける言葉が掛けられる度に、胸が切り裂かれるような気がした。


「そもそも、あの時だって別に兄様はアーリーンを嫌いでああ言った訳じゃないんだから!」

「あの時?」

「あっ」


 気まずい空気が流れた。


「もしかして、……()()()、わたくしが、あの場にいたことに、お気づきでしたか?」


 ()()()──アーリーンが、母に連れられて行った王妃さまとのお茶の席を抜け出してしまった運命の日。


 エルドレットから、アーリーンは無理だと切り捨てられた日。


 あからさまに動揺するヤミソンを見つめれば、諦めたように頷かれた。

 あの、幼い日の情けない失恋を、見られていたのか。

 ヤミソンは、それをずっと忘れずにいたのだ。


 やっとわかった気がした。だからこそ彼は、久しぶりに会った瞬間からアーリーンに優しかったし、特別扱いしてくれていたのだ。


 憐れまれていただけだった。


 それを勘違いして、また恋をしてしまった自分が哀れで悲しくて。

 恥ずかしさで顔を上げられない。


「幼い頃の、憧れでした。初恋、だったのでしょう。仲良くしていた幼馴染みふたりからいっぺんに振られた気がして。そのことは今でも悲しいです。けれど」


 エルドレットからは直接的に。そうしてヤミソンからは、自分以外と結婚するのだと当たり前のように言われることで、間接的に。


 あの頃のアーリーンには自分の気持ちを自分でもよく分かっていなかったけれど、今のアーリーンならちゃんと説明もできる。


 あれほど自分が泣き続け、苦しかった理由が。


 ──今は、ヤミソン様、貴方が好きなのですと伝えたら、あなたはどう答えてくれるのでしょう。


 一度振られている癖にまたか、と呆れられるのかもしれない。

 少し優しくされたからといってまた恋心を抱いてしまうなんて、惚れっぽい安い女だと嗤われるかもしれない。

 勘違いされても困ると、逃げられるのかも。


 アーリーンの頭の中のヤミソンが想いを拒否する度に、涙が溢れそうになっていく。


「けれど、あの事があったからこそ、わたくしは今こうして努力ができた。今のわたくしを形作ってくれたのも、あの時、無自覚だった初恋を失ったお陰だと、感謝すらしているのです」


「アーリーン」


 呼びかけられて、振り向いて。アーリーンは、精一杯の笑顔を作った。

 もしかしたらこうしてヤミソンの傍にいれるのは、これが最後かもしれないと思ったから。

 アーリーンは、少しでもヤミソンに綺麗だと覚えていて貰えますようにと祈った。


「ヤミソン様。この一年、ヤミソン様がお傍にいてくださったお陰で、とても幸せでした。共に笑い合える友人が出来たのも、ヤミソン様のお陰です。本当に、感謝しております。わたくしは、だから、わたくし、ヤミソン様のことを、やっぱり」


「待って!」


 決死の覚悟の告白だったのに。ヤミソンから、大きな声で遮られてしまった。


 せっかく自覚できたというのに。告白することすら許されず、また終わってしまうのだろうか。

 二度目の恋も、何もできずに終わってしまうのか。


 我慢しきれなくなった涙が、頬を滑り落ちていく。


「待って待って! 今、すっごく僕に都合のいいような、不思議な言葉をアーリーンが言ってた気がするんだけど!」

「え?」

「あのっ、えっと。……『幼馴染みふたりからいっぺんに振られた』って」

「引っ掛かるのは、そこですか?」

「重要でしょ、ここ! むしろなんでって思うよ」

「どういうことでしょうか。初恋の相手はひとりだけだろうと仰りたいのですか?」

「だって。だって僕は、アーリーンを振ってなんかいない!」


「え。ですが、エルドレットにいさまの婚約者だとわたくしを思っていたと」


「だから! エルドレット兄様の婚約者にアーリーンがなるだろうなって思ってたのは本当だけれど。でも、それと僕がアーリーンを好きだっていうのは、全然別だから! ……あっ」


「!!」


 突然の告白に、息が止まった。


 目の前のヤミソンの顔も、真っ赤だ。


 きっと、アーリーンの顔も。


 突然、ヤミソンが「あ゙ーっっ!!!」と呻きながら両手で頭を掻きまわし、動きを止めたと思うと、大きく息を吐き出した。


 表情を引き締めたヤミソンが、アーリーンをまっすぐ見る。



「好きです。幼い頃からずっと、アーリーンだけを見てた。アーリーンは兄上を、兄上だけを好きなんだと思ってたからあんなことを言ってしまったけど。でも、僕が入る隙間があるなら、どうか僕のこの手を取ってくれないだろうか。今でも好きです。いいや、学園でまた会えるようになって、もっとずっと好きになり……うわぁ!」


 我慢できなくて、最後まで言い終わるのを待てなかったアーリーンは、ヤミソンの腕に、飛び込んだ。






こちらに出てくるエルドレット兄様のお見合いのお話

「 ジュディス王女は完璧王子からの求婚を訝しんでいる」も

よろしくお願いしますー♪


 

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