そして男はテレビの前で拳を握った
俺はどうして涙なんて流してるんだ。
秋山健治は不思議で仕方がなかった。
コンビニ弁当を片手に帰宅してテレビをつけたら偶然やっていたボクシングの試合。
リングの上で戦う二人の男は面識もなければ自分と共通点一つないというのに。
青コーナーの三井大輝は生粋のサラブレット。
外交官の子供として生まれボクシングを初めて1年でアメリカのハイスクールチャンプとなり脚光を浴びる。
先のオリンピックでは銀メダルを獲得し名門コロンビア大学を卒業した去年プロ転向。
プロでの戦績は5戦5勝5KOで日本ランキング1位。
アナウンサーの経歴説明を聞いただけで秋山は三井のことが嫌いになった。
大学時代、親からプレゼントされた高級車を乗り回して女と騒いでいた同級生の記憶が脳裏に浮かぶ。
気に入らねぇ。ぶっ倒されちまえ!!
だが試合は終始三井有利で進んでいった。
1Rから赤コーナーのチャンピオンを圧倒しダウンを奪う。
王者はカウント8で立ち上がったが素人目にも勝敗は明らかに見えた。
赤コーナーの日本チャンピオンの名は鈴木王喜。
35歳のベテランで戦績は22戦12勝10敗4KO。
何というかよくチャンピオンになれたなという成績だ。
まだ5戦しかしていない三井にKO数で負けてしまっている。
王のように喜びに満ちた人生を送れと名付けた父親は祖父から受け継いだ会社を潰して失踪。
程なくして母親も新しく出来た男との生活のため我が子を置き去りにした。
施設へ送られた7歳の少年はその頃から既にボクシングの頂点に立つと心に決めていた。
それは親の願いを叶えるためか、それとも自分を捨てた家族への復讐か。
両方だと鈴木は答えたという。
しかしドラマチックな運命を背負わされた子供がドラマチックに成功するとは限らない。
ライバルたちより早くボクシングを始め練習を重ねてきた鈴木だが
その成績は必ずしも輝きに満ちたものではなかった。
アマチュア時代の最高成績は高校3年時の都大会ベスト4。インターハイにすら出られなかった。
プロ転向後も勝ち負けを繰り返しタイトル挑戦の機会がないまま25歳で大病を患う。
誰もがこれで引退だと思ったが鈴木にそんな気は一切なかった。
「ここで終わったら明日からどんな顔して生きていきゃいいんですか」
手術を終えた鈴木が再びリングに戻るまでには2年の月日が必要となった。
2年間リングに立てなくなった男は必死に考えた。
どうすれば勝てる。どうすればチャンピオンになれる。
カムバックした鈴木はそれまでとスタイルを大きく変えた。
アマチュア出身らしいポイント重視のアウトボクシングから
がむしゃらに前に出て殴り合うインファイターへ。
成績は上がらなかった。しかし戦う相手が変わり始めた。
被弾を覚悟で前に出てくる逃げないボクサーからはKOがとりやすい。
有望な若手を売り出すための格好のかませ犬として鈴木は重宝されたのだ。
周囲は鈴木を憐れみ同情したが彼にとっては望み通りの展開だった。
自分と同格の凡人と戦ってばかりでは劇的なレベルアップは望めない。
惨めに叩きのめされようとも天才と戦い続け牙を磨かなければ頂点には届かない。
20戦目、当時の日本ランキング1位の調整相手に選ばれた鈴木は磨き続けた牙を突き立てた。
そして悲願の日本タイトル挑戦。鈴木は勝った。王のように生きよと名付けられた捨て子はチャンピオンとなったのだ。
5R、4度目のダウン。
地の底から王冠を手にした男は初防衛戦で天に愛された若者に面白いように叩きのめされていた。
スピードが違う。テクニックが違う。そもそもスタート地点が理不尽な程に違いすぎる。
秋山はテレビの前で世間の言う平等について考える。
同じルール、同じ条件で持って生まれたものが違う人間同士を競わせる。
これは本当にフェアな戦いなのか。弱者である秋山には世間の平等は勝ち組が負け組からの搾取を正当化する詭弁にしか聞こえなかった。
それでも弱者は従うしかない。鈴木は再び立ち上がる。
どれだけ理不尽だろうとそうしなければ敗者となってしまうから。
そして前に出る。一発、二発と当てるがすぐに反撃の集中砲火が顔面に炸裂する。
血飛沫の中それでも鈴木は下がらない。下がれば終わりですからねと語る冷静な解説の声に秋山は無性に腹が立った。
6R、7Rと鈴木は何とかダウンを免れたが体は既に満身創痍だ。
会場からは期待の新星のKOを望むコールが上がるがここから試合が動き始める。
8R。秋山は一方的に試合をしていたはずの三井に焦りの表情が浮かんでいることに気がつく。
そういえば前のラウンドも前半に比べて明らかに手数が減っている。
「これがチャンピオンのスタイルなんですねぇ。
ひたすら前に出て殴り続け、殴られ続けて消耗戦に持ち込んでいく。
破滅的な戦法ですが早いラウンドでKO勝ちを連発してきたようなエリートにはこれが効くんですよ。
長丁場の試合を経験していないからスタミナ配分が分からないし段々と焦ってくる。
特に三井君のような選手にとっては日本タイトルは目標ではなく通過点ですから
ベテラン相手に判定勝ちじゃ今後のステップアップにも影響が出てしまいます」
「なるほどチャンピオンの見事な心理作戦ということですね」
「とはいっても鈴木君が苦しいことには変わりません。
前半だけで相当に殴られてますからね。
このままだと……」
解説の言葉は観衆の驚愕の悲鳴によって遮られた。
鈴木の拳がクリーンヒットし三井をリングへと沈めたのだ。
ざまぁみやがれ。
秋山はまさかのダウンを喫したエリートを嘲笑いながら缶ビールへ手を伸ばし、そこでギクリと手を止めた。
レフェリーのカウントが流れる中、必死に立ち上がりファイティングポーズをとる挑戦者、三井大輝。
その表情はあまりに壮絶だった。
負けられない。絶対に負けられない。生き残りをかけて必死に唸り声を上げ虚勢をはる獣がそこにいた。
試合再開。鈴木が前に出る。負けじと三井も前に出た。
激しい乱打戦。ボディを抜かれた三井が悶絶する。
だが倒れない。がむしゃらに鈴木へ抱きつき時間を稼ぐ。
会場からはブーイングが上がるが二人にはきっと聞こえていないだろう。
男たちの全神経はただ勝利のみに費やされている。
秋山は自分が勘違いしていたことを認めるしかなかった。
親が金持ちだろうが才能があろうがそれだけで成功できるほどこの世界は甘くない。
アメリカで、オリンピックで、そしてプロで三井もまた積み上げてきたのだ。
銀メダルという一番になれなかった傷を背負いながら。
今度こそ一番になってみせると心に誓いながら。
ゴングが鳴る。次がいよいよ最終ラウンドだ。
秋山はテレビを消した。試合の結末は気になったがそれより体が熱くて仕方がなかった。
挑戦者とチャンピオン、二人のファイターと自分に共通点はない。
さっきまで自分はそう思っていた。思い込もうとしていた。
だが違った。共通点ならあった。三井も鈴木も、そして俺も男なんだ。同じ男としてこの世に生まれてきたんだ。
立ち上がるための足も、戦うための拳も同じように授かり生まれてきた。
それなのにどうして俺はこのザマなんだ。
涙を拭い拳を握る。
テレビモニターに反射するファイティングポーズをとった肥満体の自分の姿はあまりに不格好で醜く二人とは似ても似つかなかった。
当然だ。俺とあいつらじゃ積み重ねてきたものが違いすぎる。
それでもやるしかない。ここからやるしか方法はないんだ。
秋山は玄関の扉を開き走り出す。
ランニングで貧乏暮らしが変わるほどこの世界は甘くない。そんなことは分かっている。
それでも走り出した先には何かがあるはずだ。
願わくばその光景が二人のボクサーが今見ているものと同じであって欲しい。
冬空の下、息を荒げた獣が一匹リングへと舞い戻っていく。
どうかその生涯にベルトが巻かれますように。