第七話:視線
あの夜会の日から五日が過ぎた。やらかした感しかなかったにも関わらず、レンブラント侯爵家からはエルムの振る舞いについて特に苦情が来ることもなく、時間だけが過ぎていた。
(それほどまでに、オーティス様はリーリエに関心がないということか)
オーランド伯爵家の領内の問題もあり、親同士が勝手に決めた婚約者だとはいえ、オーティスはリーリエに対して冷たすぎる。刺激と華を好むように見えるオーティスからしたら、リーリエのように控えめで大人しい少女はつまらないのだろう。
この分では、先日の夜会での一件をオーティスが把握していない可能性すらありうる。
エルムはレンブラント侯爵家から何の反応もないことに拍子抜けしつつも、今夜に迫った夜会が憂鬱だった。
「エルム様、いつまでもそんな顔をしていないでください。リーリエ様はそんな不細工な顔をなさいませんよ」
「だけどセルマ、リーリエはあんな話し方絶対しないよ……僕、今度こそちゃんとリーリエを演じきれるかな……」
頬杖をつきながらそんなふうに愚痴るエルムをセルマはばっさりと容赦なく切って捨てる。
「いつまでも過ぎたことをぐちゃぐちゃと仰っていないでください。それにご自身の言動には責任をもっていただかないと。エルム様がリーリエ様と入れ替わるのをどうして旦那様がお認めになったと思っておられるのですか」
「それはそうだけど……」
エルムが帰国し、リーリエになりすますことを決めた日、執事のメイガンはこの家の当主であるアルバート・オーランドにエルムの意向を伝えた。現在、オーランド伯爵家は昨年、領内で発生した水害に関してリーリエの婚約と引き換えにレンブラント侯爵家に支援をしてもらっている状態だ。そのため、オーランド伯爵家側からはリーリエの婚約を破談にしづらい状態にあった。しかし、アルバートとて、リーリエの立たされている状況を父親として案じてもいれば、憤りを覚えてもいた。領民の生活と愛娘の双方を天秤にかけた結果、領主として正しい選択をせざるを得なかったアルバートはメイガンから聞かされた話に苦悩した。レンブラント侯爵家を欺くことをアルバートは躊躇していたが、それでも大切な娘がこれ以上苦しませないで済むならと、エルムの好きなようにさせていいと最終的には許可をした。あくまでエルム個人が勝手にやったことであり、アルバート自身は関与するつもりはないという意思表示でもあったが、エルムにはそれで充分だった。ブリューテ国の学校へ休学届を書いてくれたのは、アルバートからエルムに対する最大限の支援として彼は受け取った。
「ほら、エルム様。そろそろ今日の夜会の支度を始めますよ。ああもう、そんな姿勢をなさらないでください。顔がむくんでまいます」
「うん……」
煮え切らない返事をするエルムの背をセルマはさあさあと強引に押して、エルムの身支度を始めるべく部屋を移動した。
(やたらと視線を感じる気がする……)
自業自得と言ってしまえばそれまでではあるものの、他の貴族令嬢の視線をやたらと感じる。地味で大人しいと思われていたリーリエ・オーランドが他の貴族令嬢に反発して噛みついたらしいだとかまるで別人のようだったなどと言うことが噂好きな人々の間で囁かれているようだった。
(まあ別人みたいっていうか、遺伝子レベルまで限りなくそっくりな別人なんだけど)
こうして好奇の眼差しに晒されても仕方のないことをした自覚はある。今夜の招待客の中にもあの場にいた人間は多くいる。
(セルマも言っていたけれど、過ぎたことを気にしても仕方ないか。大事なのは今夜も同じ失敗を繰り返さないようにすることだ)
エルムはどうにか気持ちを切り替えると、いかにも気にしていないといったふうを装って涼しげな表情を浮かべる。
それに問題はこれ以外にもある。そもそもエルムがリーリエと入れ替わってこういった場にいるのは、オーティスとリーリエをどうにかして婚約破棄させるためだ。しかし、まだエルムはオーティスとろくに話せてすらいない。今夜こそどうにかオーティスと話す機会を作らねばならない。
(とはいえ、オーティス様はいつも御令嬢方に囲まれてるから近くに行くのすら大変なんだよね)
今日もオーティスは色とりどりのドレスに身を纏った令嬢たちに取り囲まれている。何だか目がチカチカするし、彼女たちの黄色い声がこめかみに突き刺さってずきずきとする。
オーティス・レンブラントは甘く整った顔立ちに色気のある声色の青年だ。身に纏った服も洗練されているし、跡継ぎではないにせよ侯爵家に生まれた彼は身分も高い。見た目も良ければ身分も高く、金もある――オーティスがこういった場でモテるのもわからないでもない。生まれながらにそれだけの要素を兼ね備えていれば、さぞかし女遊びも捗ることだろう。
格上のレンブラント侯爵家がリーリエをオーティスの婚約者にすることを承知したのは、婚約者ができれば放蕩癖のあるオーティスも少しは落ち着くことを期待したがゆえだという。しかし、その目論見は見事に外れ、オーティスの女遊びは激しくなっていくばかりだった。
両家の思惑に巻き込まれた結果、リーリエがこんなことになってしまったのかと思うと、むかむかと何かが腹の底から込み上げてくる。取り巻きの令嬢たちを薙ぎ払ってでも一言彼に物申してやろうとエルムは決める。
「オーティス様」
エルムは令嬢たちに群がられている茶色の髪に紫の双眸の甘やかな顔立ちの青年――オーティスへと歩み寄り、声をかける。今日のエルムはライトグリーンに淡いクリームイエローのドレスという例によって控えめな出立ちだが、発情期の猫のように騒がしい少女たちに負けるつもりはなかった。
オーティスはしなだれかかる一人の少女の頬に指を這わせながら、鬱陶しそうにこちらにちらりと一瞥をくれる。婚約者を適当に放り出して、他の令嬢たちといちゃついていたにも関わらず、悪びれる様子はまったく見られない。
エルムは内心で苛立ちを覚えながらも、にっこりと嫋やかな笑みを浮かべてみせる。エルムは腹の底に力を込め、通る声で言葉を重ねる。
「その子たちはどちら様なのかしらあ? アタクシに紹介していただけないかしらぁ? アナタのお友達ともなれば、婚約者のアタクシも仲良くしたいものお」
エルムの口をついて出たのは、なよなよとした先日同様のオネエ口調だった。またやってしまったとエルムはこめかみを引き攣らせる。唐突なエルムの奇矯な言動にオーティスもぽかんとしている。
しかし、これはチャンスかもしれないとエルムは思い直す。オーティスもエルムのこの振る舞いを目にしたことで、婚約破棄を考えてくれるかもしれない。いくら興味がなくとも、普通は婚約者がこんな変な娘だったら嫌だろう。リーリエには悪いが、もう後には引けない。覆水盆に返らずというやつだ。エルムはオーティスから取り巻きの少女たちに視線を移すと、
「アナタたちはあのヒトが呼んだ娼婦の方たちでよろしかったかしらあ? こんなところでまで、お仕事熱心で本当感心するわあ」
含み笑いをしながらエルムがそう言い放つと、途端にオーティスに群がっていた少女たちは気色ばむ。
「娼婦とは何ですの、馬鹿にしないでいただけるかしら!」
「あなたなんかがよくもそんな口が利けたものね!」
「あらあ、そのけばけばしい化粧に露出の激しいドレス、それに恥を知らないその下品な立居振る舞いはどう見ても娼婦以外の何物にも見えないわあ。それにアタクシはこのヒトの婚約者なのよお? アナタたちこそよくそんな口が利けるものねえ。アタクシ感心しちゃうわぁ」
「……ッ!」
言い返す言葉がないのか、少女たちの怒りを孕んだきつい視線がエルムを刺す。その中には先日、難癖をつけて折檻しようとした令嬢のものも含まれていて、エルムは内心で舌を出す。
(まあ、因果応報ってやつだよね。この間は人のことをメイド呼ばわりして痛めつけようとしてきたわけだし、このくらいの意趣返しはあって当然)
怒りで顔を赤くする令嬢たちに、エルムは平素の穏やかさの消えた緑の目で冷たく一瞥をくれる。そして、エルムは呆気にとられているオーティスへと向き直ると、
「古来より浮気は男の甲斐性なんて言葉があるけれど、限度っていうものがあるわよねぇ? 婚約者のアタクシを蔑ろにして、他の女との火遊びばかり……その歪んだ性根をちょぉっと叩き直してあげましょうか?」
エルムは銀細工で可憐な花模様があしらわれた扇を取り出すと、
「恥を知りなさいな」
それを振り翳し、思いっきりオーティスの頬を打った。パァァァンという音が鳴り響き、その場にしんと静寂が降りた。
「何だあれは……」
オーティスは赤くなった頬を押さえながら呆然としてそう呟いた。カツカツと靴音を響かせて、周りの物言いたげな視線をものともせずに、颯爽とその場を立ち去っていく黒髪の少女の背中を見送りながら、自分の婚約者はこんな娘だっただろうかとオーティスは考える。
リーリエ・オーランドはオーティスからしてみれば、地味で大人しくて、何の主張もしないつまらない少女だった。親同士が勝手に決めた婚約者ということもあり、何の興味も持てなかったため、婚約が決まった後も刺激を求めて数多くの令嬢たちを相手に恋愛の一番美味しいところだけをつまみ食いする生活を続けていた。
しかし、どうやら自分はリーリエのことを見誤っていたようだとオーティスは思った。あの少女があんな烈しさを秘めているとは思ってもいなかった。オーティスの周りにいる少女たちは、彼に好かれようとするあまり、媚びと色気を振りまこうとする者ばかりで、間違っても彼に手を上げる者などいなかった。
オーティスの心臓がどくりと鳴る。あんなふうに諌められ、ましてや叩かれるのは彼にとってひどく新鮮な体験だった。
「……面白い女だ」
婚約してから今までずっとぞんざいにしか扱っていなかったリーリエのことをオーティスは初めて知りたいと思った。