第五話:変身と苦痛
締め上げられた腹が苦しくて上手く息ができない。幾重にも重なったスカートは見た目よりも遥かに重いし、空気に触れてすうすうとする足が何だか心許ない。細いヒールは何だか足元がぐらぐらするし、一体どうやって歩けというのだろう。こんな不安定な足元でワルツなんて到底無理だ。
社交界の花々はこうした不快感を水面を泳ぐ白鳥のようにおくびにも出さず、日々美しく咲き誇っているのかと思うと、その苦労が偲ばれる。
セルマは今にも倒れそうな青い顔でふらふらとしている赤毛の少年へ気遣わしげに声をかける。
「あの……エルム様、少しコルセットを緩めましょうか? よろしければ靴ももう少しヒールが低いものに変えることもできますし……」
「うん、そうしてもらえると……。セルマ、世の女性たちは皆いつもこんなのを耐えていたんだね……僕、知らなかったよ……」
「おしゃれとは即ち我慢と同義ですから」
虚ろな目でそんなふうにこぼすエルムへとセルマはさらりと恐ろしいことを言ってのける。中性的な容貌をしているとはいえ男として十六年間生きてきたエルムには、美のためならば快適さなどゴミか何かのように簡単に投げ捨ててしまえる世の女性たちの心理が理解できない。
セルマは一度エルムのドレスを脱がせると、体をきつく締め上げているコルセットの背中の紐を解いていく。圧迫されていた肺にようやく空気が入ってきて、エルムが安堵していると、間髪を開けずに再びセルマによって背後から締め上げられた。
「うぐっ」
ぎりりと肋骨が悲鳴を上げ、思わずエルムの口から情けない声が漏れた。痛いし苦しいし、緩めると言っていた割に先程と何が違うのかまったくわからない。そもそもセルマのあの細腕のどこからこんな怪力が発揮されているのかも理解できないし理解したくもない。
「申し訳ありません、エルム様。ですが、これ以上緩めるわけにもいかなくてですね……」
彼女は謝罪を述べながら、てきぱきとエルムにドレスを着せ直していく。もう好きにしてくれという半ば投げやりな気分でエルムはされるがままにしていた。
「さて、もうあまり時間もありませんし、お化粧をしていきますね。早くしないと、オーティス様がお迎えにくる時間となってしまいます」
「ああ、うん……」
エルムは鏡台の前に連れて行かれ、椅子へと座らされる。セルマはぺたぺたと複数種類にわたる謎の液体をエルムの顔面に手際よく塗りたくっていく。
そのまま、セルマはエルムの顔へ粉をはたき、紅を差していく。
エルムは肌の上に乗せられた化粧品に煩わしさを覚えながら、
「女の人って本当に大変だね……」
「これでもドレスも化粧もリーリエ様は控えめなほうですよ。リーリエ様は清楚な装いを好まれますから」
世のお嬢様方はもっとパニエを重ねてスカートを大きく膨らませますし化粧ももっと濃いですよとセルマは言う。エルムはげんなりとしながら、
「これで控えめなほうなんだ……」
「ええ、もう少し華やかになさっても、リーリエ様ならお可愛らしいと思いますけどね」
そう言いながら、セルマは身支度の仕上げにエルムの頭に長い黒髪のウィッグを被せ、ピンで固定していく。鏡の向こうではエルムによく似た姿の双子の姉が驚いたように目を丸くしていた。
「すごい、リーリエだ……」
鏡に映る自分の姿が、エルムにはもうリーリエにしか見えなかった。元々髪色以外はよく似た一卵性双生児だとはいえ、身支度をしてくれたセルマの力量に感心してしまう。
「セルマ、ありがとう」
エルムが礼を告げると、セルマは微笑んだ。
今の自分はエルムではなく、リーリエだ。リーリエとして振る舞いつつ、どうにか婚約を解消してもらえるようにオーティスに接さねばならない。
これから向かう夜会は、エルムにとっては戦いの場も同然だった。エルムの一挙一動はリーリエのこの先の未来を決めうるものだ。
エルムは自分の双肩にかかるものの重みに、そのことを改めて自覚する。エルムは覚悟を決めると、セルマの手を借りながら立ち上がった。