第三話:彼女の傷跡
「エルム様、リーリエ様がお会いになりたいとのことです」
程なくして戻ってきたメイガンに呼ばれ、エルムはリーリエの部屋へと足を向けた。
「リーリエの様子はどう?」
「先ほどお目覚めになられたばかりで、今は落ち着いておられます」
「そう、よかった」
リーリエの部屋の前に着くと、エルムは扉をノックした。中で人が立ち上がる気配がし、内側から扉が開いた。リーリエに付き添って世話をしていたと思われる藍色の髪に茶色い瞳のメイドの娘は、エルムの顔を認めると、
「エルム様、どうぞお入りください」
「ありがとう、ルゼ」
ルゼに招き入れられ、エルムはリーリエの部屋へと足を踏み入れた。
部屋の奥にある天蓋付きの寝台の上で、エルムによく似た顔立ちの白百合のような雰囲気を漂わせる少女が身を起こしていた。腰まであったはずの長い髪はなぜか肩の辺りで切り揃えられてしまっていたが、エルムは今はそれに触れるべきではないと判断した。
少女の体はひどく華奢で、エルムの記憶よりも随分と痩せてしまっていた。顔色も優れず、青白い。少女からは今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。
ルゼがエルムの元へ椅子を運んできた。エルムはルゼへと目で礼を告げると、椅子へと腰を下ろす。
「ただいま、リーリエ」
名を呼んで、エルムが寝台の上の少女の手へとそっと触れると、彼女は大きな緑色の双眸を潤ませて、
「エルムっ……ふぇっ……エルムぅっ……」
「リーリエ、落ち着いて。僕はここにいるから。だから泣かないで。ね?」
嗚咽を漏らし始めたリーリエの細い背中をエルムはゆっくりと撫でる。背骨の浮き出たその背中は暖かく、この生命の熱があともう少しで知らないうちに失われてしまうところだったのかと思うとエルムの胸は締め付けられるように痛んだ。
「エルムっ……あのねっ……あのね、わたしっ……」
「大丈夫。大丈夫だよ、リーリエ。ゆっくりでいいからね」
しゃくりあげながらも何かを話そうとするリーリエの背中をぽんぽんと撫でながら、エルムは大丈夫、と彼女を落ち着かせるように何度も優しく繰り返した。
「あのね、エルム……わたし、オーティス様との婚約……もう嫌っ……もう嫌なのっ……」
「うん」
「オーティス様はっ……いつも、わたしのこと……蔑ろに、してっ……他の女の子のこと、ばかりでっ……」
言葉とともにリーリエの涙と感情がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「オーティス様とっ、一緒に、夜会にっ…出てもっ……いっつも、わたしのことなんてっ、ほったらかしでっ……! これ見よがしに……取り巻きの、女の子たちと、べたべたしてっ……」
そのように婚約者に蔑ろにされるなど、貴族令嬢としてはひどく屈辱的な仕打ちだ。それが度重なっていけば、繊細なリーリエの心が追い詰められていくであろうことは、彼女とは生まれる前からずっと一緒にいるエルムには想像に難くないことだった。大人しくて控えめなリーリエのことだ、オーティスのそのような言動を不快に感じていても注意することができなかったに違いない。
「オーティス様の周りの、女の子たちにもっ……いろいろっ、嫌がらせ、されたりしててっ……オーティス様には不釣り合いだって、言われたり……、ドレスを、汚されたりっ……装飾品をっ、引っ掛けて壊されたり……足を引っ掛けられたり、髪を引っ張られたり……」
「なっ……」
エルムは絶句した。改めて言葉にしてみて、また辛さが込み上げてきてしまったのかリーリエの呼吸が荒くなる。
「いけない! エルム様、どいてください!」
ルゼはフリルのあしらわれたエプロンのポケットから紙袋を取り出すと、エルムの身体を押し除け、浅く荒い呼吸を繰り返すリーリエの口元へとあてがった。エルムと同じ緑色の双眸には苦痛の色がありありと浮かんでいた。
「エルム様。リーリエ様の体調が落ち着かれましたら、またお声がけします。ですから今は……」
「でも……」
苦しむリーリエの側を離れることをエルムは躊躇った。しかし、こういったときに一体どういった対処をしたらいいのかを知らず、今のエルムが彼女にしてやれることなど何一つなかった。
「……わかった。ルゼ、どうかリーリエを頼む」
そう言うと、エルムは立ち上がり、リーリエの部屋を出ていった。